終話「絳英の娘」
そして―― 一年後。
「ほら、マリア! 気を付けて。そこに足を引っ掛ける場所があるから、力こめて、踏ん張って!」
「ま、待って、アレク……こ、怖いわ」
マリアは、壁の上に頭を低くして腰かけているアレクが準備した縄を握りしめ、壁に穿たれた穴に震える爪先を押しこみ、慎重に、臆病に、上へ上へと移動していった。
壁。
下町を、外の世界から隔絶した、威容の壁だ。
(メラスが下町を救うため、少しずつ穿った穴……)
マリアは心の中で自分に言い聞かせる。
(メラスに壁を登らせたのは、私。なのに、その私が怯んでいてどうするの)
この高さから落下したら骨折では済まない。それを思うだけで、涙が出そうになる。
けれど――登らなくては。
今日はマリアが心から待ちつづけた、大切な大切な日なのだから。
途方もなく長い時間をかけ、ついに壁の頂点に手をかけたマリアは、アレクに腕を引っ張られながら、壁のてっぺんにへっぴり腰で腰かけた。
そして、言葉を失った。
それは初めて目にする、外の世界。
真っ青な空の下、信じがたい数の瓦屋根が、地の果てまで続いている。
「ア、アレク……こんな大きな世界に、メラスは……」
感動や興奮よりも、背筋が震えるほどの恐ろしさがこみあげてくる。
大切な親友は、命よりも大事な幼馴染は、こんな広大な世界でひとり戦っているのか。
緊張に冷たくなった手に、アレクの小さな手が触れる。
「ほら、見て、マリア」
アレクが感極まった様子で呟く。
振りかえると、幼い横顔は瞳をきらきら輝かせ、城下街の一点を見つめていた。
黒い甍の群れの先、五色の旗が立ち昇っている。
人の姿は見えないが、そちらから怒涛のような歓声が聞こえてくる。
あそこで、総師御名戴式が開かれている。
半年に渡る過酷な総師選を勝ち抜き、ついに総師の一員となることが認められた者たちが、皇帝陛下より総師としての名を戴く式典。
公式の式典の多くは宮廷内で執り行われるが、総師御名戴式だけは、城下町の中心にある広場で行われる。ここからでは家々が邪魔をして、広場の様子を見ることはできないが、海明遼国中の民が式典を一目見ようと集まってきているという。
(ああ、一目でも式典の様子を見ることができたら……)
マリアは歓声を聞きながら、小さく息を吸い、目を閉じた。
壁の内側にいては、決して広場の様子を見ることはできない。
だから――想像をする。
広場の中央には、総師選参加者たちが集まっている。
千人を超える武人たちが、何重もの列を作って整列している。
その先頭には、わずか六人きりの選ばれし武人たちが、背筋を誇らしげに伸ばして立っていた。
「ああ、アレク……見えるわ……」
マリアは喜びに呻いた。
六人の武人のひとり、赤い髪の娘が一歩、前へと進み出る。
広場はにわかにざわつき、そして静まり返った。
娘は、若き皇帝の前に両膝をつくと、深く叩頭をした。
皇帝が娘の頭上に掌をかざし、その高貴なる口を開く。
貴公を魔総師仲師として認める。
その証として、炎の魔石とともに貴公に名を授ける。
面を上げよ。
応じて、娘は顔を上げる。
静けさをたたえた深緑色の瞳が、怯むことなく真っ直ぐに皇帝を見つめる。
絳英のメラス。
絳は貴色の赤を指し、英は優れた者の意である。
今日この日より、この名を己が半身と思い、誇りを持ってその任を果たすべし。
隙のない動きで、娘――絳英のメラスは立ち上がり、今一度、深く頭を下げた。
(ああ、メラス)
マリアは、閉ざした両目から涙を零した。
なんて立派な姿だろう。なんて美しい姿だろう。
ああ、朱燬媛士様、絳英のメラス様。
あなたならきっと、私たちを救ってくださる。
マリアは目を見開いた。涙でぼやけた広い世界の片隅で、わっと歓声が上がった。
マリアは壁の頂きに座り、いつまでも、いつまでも見つめていた。
焔の髪を持つ娘が、今、この国の中枢に立った、その瞬間を。