第七話「過去の事件」
今から十五年前、現皇帝と二人目の側室との間に、男児が誕生した。
燦然季子レイシャリアン=サルト・シール――レイシャ皇子である。
正妃との間にはすでにオールアーザとフォレス、二人の皇子がおり、「世継ぎ」という重責とは無関係に生まれた三番目の息子を、皇帝は目に入れても痛くないほど溺愛した。
レイシャは、いわゆる「神童」だった。一歳にして流麗に言葉を操り、二歳にして世の理を理解した。だが、神はレイシャに二物は与えなかった。レイシャは生まれながらに体が弱く、少し外気に晒されただけで、一週間、二週間と床につかなければならないほど虚弱な体質だったのである。
そんな病弱な弟を、当時七歳だったフォレスは、こよなく愛した。
「フォレス様。そこにお座りなさい」
東宮の西院「鷹翔殿」にある自室に足を踏み入れるなり、待ち構えていた教育係ル=レイ老師が、そう命じてきた。
皇族に「座れ」と命令することができるのなんて、国土広しといえど、このルレイぐらいのものである。フォレスは表面上は「なんだよ」と渋面をつくり、内心では「またなにかしでかしちゃったっけ」と老師の顔色をびくびくと伺いながら、彼の正面に正座をした。
ルレイは、フォレスを注意深く観察し、苦々しげに溜め息をついた。
「瑠璃殿の女官から、また苦情が来ておりましたぞ。フォレス様におかれましては、足繁く瑠璃殿においでくださいまして、真に光栄なことでございます、と」
「光栄? そうか。じゃあ、もっとたくさん通うことにす――」
「側室付きの女官が、正妻の子に「迷惑だから来るな」と言えますか! 女官たちは、フォレス様に「瑠璃殿に来るな。レイシャ様にちょっかいをかけるな」と苦情を申し立てているのです!」
おっとりした気性のオールアーザに比べて、フォレスは元気のありあまったやんちゃ小僧だった。フォレスの教育を任されるようになってから、ルレイはすっかり叫び癖がついてしまった、と女官に揶揄されることもしばしば、ルレイも最後まで言い切ったところでそれを自覚したらしい、ごほん、ととってつけたような咳払いをした。
「レイシャ様は、生まれながらにお体が心許なくいらっしゃる。弟君を慈しみ、たびたび瑠璃殿まで足を運ばれるのは大変結構なことですが……フォレス様のお顔を見ると、レイシャ様はとても興奮なされる。その興奮は、レイシャ様のお体にとって、決して良薬にはならぬのです。フォレス様」
フォレスは不安げにルレイの顔を見つめ、慌てて身を乗り出した。
「まさか、もう行くなと言うのか? ちょっと話をするだけだ!」
「フォレス様」
「話をするだけだ! 本当だよ。襖も開けないし、レイシャを床から起きあがらせたりもしない。本当に、話をするだけで……」
「先日は、襖を開けて、庭の梅の木をレイシャ様に見せた、と女官が」
「もう二度としない!」
ルレイは眉をひそめ、長い長い吐息をつく。
「フォレス様……」
「レイシャはずっと部屋の中にいなくてはいけない。襖を開けてはだめだと、庭も見てはいけないと、女官が言うからだ。私が行くまでずっと、暗い部屋のなかでひとりぼっちなんだ。私にはそれが、とても……」
かわいそうに思えて、という言葉を、フォレスは呑みこむ。レイシャのことを「かわいそうだ」なんて言いたくなかったのだ。
フォレスは老師をおそるおそると見上げた。ルレイは難しい顔をしていたが、「フォレス様」と名を呼ぶかわりに、厳格な顔をわずかに和らげた。
「このル=レイとお約束くださいますか。話をするだけと。それも、決して小半時は超さぬと。医務官も、小半時程度ならばと言っておりましたので、それならば」
「わかった!」
フォレスは目を輝かせて、立ちあがった。「分かりました、です」と面倒くさく注意してくるルレイに、「わかりました」と元気よく答え、フォレスはルレイの気が変わらないうちにと駆け出した。
内廷の北端にある御殿は、初夏になると、鏡のように澄んだ池が、庭の木々を映して瑠璃色に染まることから、「瑠璃殿」と呼ばれている。元々は、歴代の皇帝が初夏を楽しむための離宮として使われていたのだが、現皇帝が「この宮は、騒々しい内廷の中心からは離れている。きっとレイシャの体にも良いはずだ」と側室に下賜したことで、側室とその子どものための居宮として使われるようになったのである。
「兄上。昇陽楼の軒下に巣をつくったという燕の子らは、どうなりましたか?」
瑠璃殿の奥座敷を訪ねると、まもなく三歳になろうという幼い弟が、待ちかねたとばかりに寝床から這い出て、背筋をぴんと伸ばして正座をした。
小動物のようにつぶらな瞳が、期待で、きらきらに輝いている。そのさまが可愛くて、愛しくて、フォレスは兄姉はもちろん母にだって見せない満面の笑顔を、腹の違う弟に向けた。
「レイシャ。寝てないとだめだ」
「でも……兄上のお話を聞きたいのです」
「ばっかだなあ、レイシャは! 話を聞くのなんて、寝転がってたってできるだろう?」
言ってレイシャの隣に寝転がると、レイシャは目をぱちくりさせ、「そうですね」と楽しげに笑って、ころんと布団に戻った。
猫のように身を丸めて、フォレスを嬉しそうに見つめるレイシャに薄掛けをかけてやってから、フォレスは弟が聞きたがっている「昇陽楼の燕」の話を語って聞かせはじめた。
「昇陽楼の兵士たちは、磨きあげた鎧に、燕たちがばっちばっち糞を落としてくもんだからすっかり腹を立てて、ついには巣の撤去に乗りだしたんだ! でも、燕は賢いから、兵士が手を伸ばしても、梯子を持ってきても、絶対に届かない場所に巣を作っていた……」
宮廷の外からやって来る噺家たちを真似て、芝居がかって語るフォレス。レイシャはくすくすと笑い、時どき、我慢しきれなくなって、三歳の子どもらしいきゃっきゃという歓声をあげた。
――こうして声をあげて笑うことも、頬がぽかぽかになるほど興奮することも、レイシャの体には障りになる。それは、ルレイや女官に言われなくても十分に分かっていることだった。
兄弟睦まじく話をするその向こう、ぴたりと閉ざした襖のあちら側で、女官たちがレイシャを心配し、右往左往していることに気づいていたから。いざというとき、すぐに宮廷付き医務官を呼んでこられるよう、靴を履いたままで待機している伝令がいることにも気づいていたから。
けれど女官たちは、レイシャの体が弱いことは知っていても、時々、とても哀しげな眼差しで、閉ざされた襖越しに庭を見つめていることは知らないだろう。
だからフォレスは、誰が止めても、毎日瑠璃殿を訪ねるのだ。内廷、外廷を歩きまわって、瑠璃殿の外で起きる出来事をレイシャにかわって観察し、可愛い弟に話して聞かせるために。
(そう、話をするだけ)
この間は、「庭を見たい」とレイシャが言うので、つい襖を開けてしまった。
でももう二度としない。約束通り、話をするだけにする。
兄弟で話をすることが、体の毒になるなんて、そんな悲しいことあるわけがなかった。
そう思っていた。
「離宮の外に出てはだめでしょうか」
ある日のことだった。レイシャのぽつりと零した言葉を聞いたフォレスは、言葉に詰まった。
「小半時、話をするだけ」。それはレイシャを囲う者たちが、唯一フォレスに許したことだった。それ以上のことは決して許されない。もしレイシャを離宮の外に連れ出したりなんてしたら、フォレスはレイシャから遠ざけられ、レイシャはひとり喋る相手もなく、瑠璃殿の襖を閉ざした薄暗い奥座敷の中で、長いときを過ごさねばならなくなる。
フォレスが答えられずにいると、姿は見えないが、廊下の外に絶えず控えている女官が、「なりません」とレイシャを咎めた。
レイシャは顔のない相手からの忠言を聞き、途方に暮れた顔をした。
いつもならば、レイシャはそれで「分かりました」とあきらめるはずだった。けれどこのときは違った。唇をきゅっと引き結び、長いこと押し黙ってから、また顔をあげた。
「ほんの少し、外に出ることもだめですか? 兄上も側にいます。行きたいところがあるのです」
行きたいところ。それはどこだろう。燕の巣がある昇陽楼だろうか。けれど燕の子は数ヶ月も前に巣立ってしまった。生まれてからずっと瑠璃殿の中で生きてきたレイシャは、どこに行きたいと願うのだろう。
フォレスは訊きたかった。連れて行くことはできないかもしれないけれど、フォレスがかわりに行ってみることはできる。そうだ、絵師を連れて行こう。レイシャが見たい景色を絵師に描かせよう。それだけならきっと、女官たちも許してくれる。
「レイシャ様」
だが、女官は「どこへ」とは聞かなかった。ただ「言わずとも分かるでしょう」とばかりにレイシャの名を呼び、レイシャの言葉を封じた。
けれどレイシャはめげなかった。床から身を乗りだし、太ももの上で拳を握りしめ、必死に言い募る。
「今日だけ。一日だけ。数時間でも、ほんの数秒でも……っ」
沈黙が落ちた。
しばらくしてから、見えない声が短く溜め息をついた。
「レイシャ様、わがままをおっしゃいますな」
レイシャはまるで頬を張飛ばされたように目を見開き、力なく口を閉ざすと、静かにうなだれた。
横で成り行きを見守っていたフォレスは、胸の奥でどろりとした黒い澱が渦を巻くのを感じた。これまで覚えたことのないその感覚は、激しく深い、憤りだった。
レイシャは確かに体が弱い。医者の見立てでは、恐らく十五になるまで生きられないだろうということだった。
だが、数秒の外出すら許さないというのは、いったいどういうことなのだろうか。昇陽楼までだって、瑠璃殿から歩いて五分もかからない。たったそれしきの外出すら許されないのは、いったいどれほどの体の不調なのだろうか。
以前、フォレス付きの女官たちがしていた噂話を、ふと思い出す。
(瑠璃殿の女官たちが、レイシャ様の外出を頑なに許さないのは、皇帝陛下がレイシャ様を溺愛しているからだとか。万が一にも、レイシャ様の身に障りがあれば、女官たちは陛下の怒りを買い、内廷を追い出されることになる。それを恐れて、本当はある程度ならば外出に耐えられるお体のレイシャ様を、瑠璃殿の奥座敷に閉じこめているのですよ)
「……っおまえ――」
怒りの中でそれを思い出したフォレスは、思わず口を開いた。だがその手を、ふとレイシャが頼りなく握った。はっと振りかえると、レイシャは静かに首を横に振った。
(ああ、そうか。レイシャはとっくに知っていたんだ)
レイシャは、「神童」の名に相応しく、怖ろしいほどに聡い子だった。女官たちの過保護が、レイシャを守るためのものではなく、女官自身を守るためのものであることも、きっととっくに気づいていたに違いない。
知っていて、レイシャは離宮の奥深くで耐えてきたのだ。女官たちの恐れを慮って。
それなのに、彼らはレイシャがほんの少し外に出たいと言っただけで「わがまま」と言う。
「わがままじゃ、ない」
フォレスは知らず、小声で呟いていた。
弟は瞬きをして、ふっと嬉しそうに泣き笑うと、フォレスの人差し指を、ぎゅっと、まるで感謝でもするように握りしめた。
レイシャが死んだのは、それからわずかひと月後の、薄紅の花雪が舞う春のことだった。
開け放たれた襖の前、庭と座敷を隔てる濡れ縁に倒れているレイシャを最初に見つけたのは、こっそりと瑠璃殿を訪ねたフォレスだった。
こっそりだったのは、レイシャの一度きりの「わがまま」を聞いた女官たちが、フォレスの瑠璃殿来訪をついに禁じてしまったからだった。女官たちは、フォレスの「話」がレイシャに外への憧れを植えつけた、そしてあの「わがまま」につながったと、そう判断したのである。
だがそんなフォレスの元に、ある日、ひそかに文が届けられた。
レイシャからの文だった。
『兄上がいらっしゃるときだけ、私の閉ざされた世界は光に溢れるのです』
どうしてだか胸騒ぎがした。
フォレスはいてもたってもいられず、離宮へと駆けつけた。側室付きの私兵が塀を囲っていたが、彼らの目を盗んで瑠璃殿の壁を越え、庭を回って奥座敷へと侵入し――そしてレイシャの亡骸を見つけた。
胸元が、真っ赤な血で濡れていた。
レイシャの握った短刀が、心臓を一突きにしていた。
どうしてだかレイシャの顔は、ひどく誇らしげに見えた。
フォレスは混乱した。混乱して、悲鳴をあげた。その悲鳴を聞きつけ、異変を察知した女官や兵士たちが部屋になだれこんできた。
女官たちは愕然と瑠璃殿にいるはずのないフォレスが、レイシャの死体にしがみついて悲鳴を上げているのを見つめ、膝から崩れ落ちた。
レイシャ皇子の死は、速やかに皇帝のもとまで伝えられた。皇帝はレイシャの離宮に駆けつけるやいなや、自失状態のフォレスを床に突き飛ばし、殴りつけた。
『お前が殺したのか……!』
フォレスは真っ白になった頭で、父皇の吐いた言葉の意味を懸命に考えた。
『お前が……お前がレイシャを殺したのか!』
父皇は半狂乱になって、呆然とするフォレスに拳を振るった。
フォレスが瑠璃殿を日参していたことは公然の秘密だった。レイシャを溺愛する皇帝の耳には、誰も敢えては教えようとしなかったのだ。皇帝は、レイシャの死と同時に、その事実を初めて知らされた。混乱する皇帝に、混乱した女官は、混乱した情報を伝えた。なにが起きたのか分からない、遠ざけたはずのフォレス皇子がレイシャ皇子の亡骸の側にいる、あれほど開けるなと言っておいた襖が開けられていた……順序もなにも滅茶苦茶な「死の報せ」を聞いた皇帝は、フォレスがレイシャを外に連れ出した結果、レイシャが病死した、と解釈をしてしまった。
皇帝が、泣きながら仲裁に入った皇妃の言によってその誤解を解いたのは、フォレスを散々に殴り、人殺しと幾十度も罵り、幼い心を粉々に砕いた後のことだった。
レイシャは、自害だった。彼がどこから短刀を手に入れたのかは、一年にも渡った調査を経ても分からなかったが、瑠璃殿付きの女官たちは責任を逃れられず、宮廷から追放された。レイシャの母は、側室の中でももっとも地位の高い「傍妃」の座を与えられたが、それからまもなく病死した。
フォレスには、なんの罰も下らなかった。結局、レイシャの死とは無関係だったのだから当然だ。
だが、フォレス自身はそうは思わなかった。
レイシャは襖を開け放ち、庭を臨む縁側で、心臓に短刀を突き刺し、死んでいた。
とても満足そうに。
フォレスにはまるでそれが、外の世界を見ながら死にたい、というレイシャの心の表れのように思えてならなかった。
女官の言う通りだ。もしも自分が、外への憧れをレイシャに植えつけたりしなければ、レイシャは希望を抱くことも、また絶望することもなかったのではないだろうか。
――お前が殺したのか……! お前が……お前がレイシャを殺したのか!
喪が明けるまで、フォレスはひとり襖を閉ざした暗い部屋に閉じこもり、耳を塞ぎ、口を閉ざし、床を見つめつづけた。
それを境に、フォレスと父皇の間には、深い溝ができてしまった。レイシャの自害に、短刀の入手経路などの謎が残ってしまったために、口さがない宮廷士たちはひそやかに「やはりフォレス様が殺したのだ」「側室の子の方が、父皇に寵愛されていることを妬み、ついには刃にかけてしまったのだ」「短刀をレイシャ様に渡したのは、フォレス様」と無責任に噂した。
レイシャが死んでからのフォレスは、なにかに憑かれたように、黙々と勉学に励み、武芸の鍛錬に勤しんだ。宮仕えたちはそれすら「落ちた評判を取り戻そうと必死だ」と嘲笑った。
しかしその嘲笑も、レイシャ皇子の死から一年が経つころには、正反対の賞賛へと変わっていった。フォレスは急速に皇子としての才覚を見せはじめ、その文武両道ぶりに対する賛美は、時にオールアーザに対する声を凌ぐほどになった。
そして、皇帝と三人目の側室との間に、三女となる姫が生まれると、人々は彼ら五兄妹のことを「二剣三華」と謳った。それは特に、立派な皇子に成長したオールアーザと、フォレスを称えるための言葉だった。
だが――フォレスにとってその数年は、ぴんと張った絹糸のように危ういものだった。皇帝はフォレスを徹底的に遠ざけ、フォレスは己を責めつづけた。そして、散々フォレスを嘲りつづけた者たちが、フォレスを含めた五兄妹を「二剣三華」と謳ったとき、フォレスの心の糸はぷつりと音をたてて切れてしまった。
「三剣とは呼ばないのだな……」
フォレスはある日、ルレイにそう零すと、誰にも行き先を明かさずに宮廷を出奔した。夜明けになって、寝床にフォレスがいないことに気づいた側仕えたちは、必死の探索のすえ、一週間後、薄汚い身なりで市井に交わっていたフォレスを見つけ出した。
フォレスは宮廷に連れ戻されたが、もはや「二剣の一」と言われた皇太子はどこにもいなかった。宮廷人とは思えない簡素な衣服を好んで身に着け、口汚い言葉づかいで側仕えたちをからかう。そしてたびたび宮廷を脱け出しては、平民たちの間で遊びまわる――そんな第二皇子を、側仕えたちは厄介者と見なし、いつしか「放浪皇子」と呼ぶようになった。
皇帝は、フォレスが「放浪皇子」と呼ばれていることを知ってもなにも言わなかった。それを良いことに、女官や宮廷士たちの悪口は次第に度を越していった。
そしてついには、「弟殺しのフォレス様」という呼称が生まれた。
それでも、皇帝はやはりなにも言おうとはしなかった。