第五話「放浪皇子」
海明遼国の安寧を、丘の高みより見下ろす政の宮「宮廷」。
政務を取り仕切る外廷の、さらにその奥。魔を払うための神鈴によって結界が施された広大な敷地に、神の末裔である皇族が暮らす「内廷」がある。
そこは、総師、天議長であろうとも立ち入りを禁じられた神の地。皇族直属の官吏たちが、ほんの一握りの皇族のために立ち働いている。
春は、内廷にも訪れていた。
しかし下界とは異なり、内廷の春はまさに神域と呼ぶにふさわしい光景だ。
風は甘く薫り、空気は桜色に霞む。朱色に塗られた柱は、大木の影を心地よく映し出し、黒い瓦屋根は桜色に染まっていた。遠く、近くから、琵琶を爪弾く、雅な音が聞こえる。高く空を射抜くのは、竹笛の声。各殿で、競うように宴が催されているのだ。
皇帝の居室を辞したオールアーザは、庭園の中を九十九折りに横切る廊下を、足音なく歩いた。廊下は花びらが散るままに、春だけの美しい彩を添えている。背後には、まるで影のように三人の侍従が従い、オールアーザの一挙一動を注意深く見守っていた。
侍従の鋭い視界の中で、オールアーザがふと顔を持ち上げた。
「フォレス様! フォレス様、どこにおいでか……!」
銅鑼を打つような大声が轟いたのは、東宮殿にほど近い庭園の一角であった。
「フォレス様、隠れて出てこぬおつもりなら、今日こそこのルレイ、忠義を示して腹を切りますぞぉ!」
物騒な言い回しで騒ぎたてているのは、長い白髭が見事な老人だ。ル=レイ老師。ゆくゆくは国の中枢を担う皇子の教育を任された、東宮専任の教育係である。
現皇帝をも育てあげたルレイだったが、今は庭園の木々の間を、着物の裾をさばきながら猛然と歩いている。鋭い視線をめぐらせ、茂みの中、灯篭の陰、果ては池に架かった橋の下まで覗きこんだ。
探す相手は、言うまでもない。蒼煌仲子フォレシルアス=ラグト・イズトリー。
今年で二十二歳になる、現皇帝の第二子、皇位継承第二位のフォレス皇子である。
「おお、またルレイが放浪皇子を探しておる」
庭園を横切る高床の廊下の先で、女官たちがひそひそと囁いていた。
「ルレイも老齢であるというのに、かわいそうなこと」
「オールアーザ様は立派にお育ちですもの。二子などいっそ捨て置いてしまえば良いものを」
東宮殿の女官たちだ。ルレイよりも上の階級にいるため、口さがない軽口を注意することも出来ない。ルレイは反論を喉の奥に潜め、足早に立ち去ろうとした。
「ああ、まったくおぞましい……」
その老師の耳に、残酷な言葉が飛びこんでくる。
「弟殺しのフォレス様」
ルレイは目を見開いた。振りかえると、女官たちは袖の内で笑って、音もなく九十九の先へと去っていった。
「……酷いことを。宮廷を嫌い放浪する理由が、お前たちの毒の舌にあると、何故分からぬ」
ルレイは立ち尽くし、不意に視界の隅をよぎった黒い影にはっと顔を上げた。見上げた先には、フォレスとよく似た顔立ちの男が立っていた。
「これは、オールアーザ様」
黄煉伯子オールアーザ=ファスカ・トリシュ。現皇帝と正室の間に生まれた、第一男子である。
その場で平伏しかけたルレイを、オールアーザは手で押し留め、柔らかく微笑んだ。フォレスによく似ているが、その顔立ちは明朗というよりは、柔和に近い。
「老師を敬し、平伏すべきは私。にもかかわらず、このような高い場所より貴方を見下ろす私を叱ってくれ。ルレイ」
皇帝と、三人の后の間には、五人の子がいる。男子はオールアーザと、彼の実弟であるフォレス以外にはいない。他はすべて女で、女皇をたてる習慣のない海明遼国において、実子の中で皇位継承権のあるのはオールアーザと、フォレスだけである。
オールアーザは今年で二十八になる。十八歳で成人の儀を迎えて以来、皇帝の政務を積極的に助けた。
聡明で、博識、慈愛に満ち――返せば、頼りなくも見える。
「ご立派になられました。このルレイ、誇りに思いますぞ」
その言葉を飲みこみ、ルレイはそれでも紛れもない本音を伝える。オールアーザは微笑みを深め、背後に従う侍従たちに扇を払った。侍従は一礼し、オールアーザの視界から消えるか消えないかぎりぎりまで下がった。
「久方ぶりだ。弟ばかりがルレイを独占し、私は師を失った」
「フォレス様には、私ひとりではとても敵わぬようですが」
「では、研究所にルレイを送り、何人か、培養せねばならないね」
珍しい冗談を口にして、オールアーザは風になびく黒髪を手で押える。
「フォレスは見つかったか」
「いえ、いまだ見つかりません。朝方には部屋にいらっしゃったようですが」
「フォレスは昔から隠れ鬼が得意だった。私はついぞ見つけたことがない」
昔を思い出すように微笑んで、オールアーザは溜め息をついた。
「だが」
オールアーザは言葉を区切り、足元の花びらを取るふりをして、ルレイの耳に口を寄せた。
「――もう長くはあるまい」
痛みとともに告げられた言葉に、ルレイは目を伏せる。
「ルレイ。フォレスを連れて戻ってくれ」
「かしこまりました」
オールアーザは花びらを拾って、それをルレイの皺だらけの手に握らせる。
「まだ、散る花のあるうちに」
侍従を従え、九十九折の廊下を去ってゆくオールアーザの背を見つめ、ルレイは小さく溜め息をつき、薄紅色に染まる大空を見上げた。
その視界の隅に、ふたたび黒い影が横切った。オールアーザに良く似た影に、一瞬、皇太子が戻ってきたのかと思い――対応が遅れた。
「あ!」
反射的に声を上げたルレイに、遠く、庭の灯篭の影に隠れていたフォレスはびくっと肩を震わせた。しかしそのまま、ひらひらとルレイに手を振ると、猛烈な速さで庭を駆け去った。
「お、お待ちください、フォレス様! このルレイ、腹を切りますぞぉ……!」
ルレイの必死の追尾を逃れ、内廷奥深くまで駆けてきたフォレスは、膝に手をつき、荒い呼吸を鎮めようとした。
「ルレイ、絶対、年齢詐称してるって」
春の暖かな陽気に、額に汗が浮かぶ。荒い呼吸を繰りかえしながら、宮廷にあるまじき簡素な服の袖で汗を拭い、どうにかこうにか背を伸ばす。
真っ直ぐに上を向くと、ひらひらと桜の雨が体の脇を流れ落ちていった。
フォレスは「きれいだなあ」と呟いて、桜の雨に手を伸ばした。
掌に、一枚、薄紅色の小弁が舞い降りた。
その瞬間、古い記憶が、閃光のようにきらめいた。
『お前が殺したのか!』
どくりと心臓が高鳴り、掌の花びらが真っ赤に染まる。
『お前が……! お前がレイシャを殺したのか……!』
無意識に握りつぶしていた桜の花びらを、フォレスは震える指でそっと整えた。それでも白い筋は消えず、フォレスは泣きそうに微笑んだ。
「……東宮殿の女官は、ほんっと容赦ねぇなあ」
短く溜め息をつき、フォレスは潰れた花びらを地面にそっと置いて、ふたたび地面を力強く蹴った。
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メラスは山と積み上げた書籍に囲われて頭を抱えていた。
間もなく、学院の春季休暇が終わるのだが、出された課題の大半が手つかずのままだった。長期休暇のたびに「下町」に調査に行くことの弊害である。
加えて、暇さえあればファイファンダがやってきて、「訓練してくれよう!」とにわか訓練に引きずり出されるのだ。海明遼国の最高軍師が相手してくれるというのだから、大いに喜ぶべきところだが、午前も午後も脳みそを絞って勉強に明け暮れ、合間の休憩には肉体をいじめ、さらに夜は遅くまで課題となると、さすがに身に堪える。
「暇をもてあました爺さんめ……」
叩きのめされて出来た無数の青あざを呪いながら、メラスは書きかけの論文に必要な書籍を取り上げた。
魔石工学に関する専門書だ。
高級民になってから、中級街にある学院に通いはじめた。勉強を始めてから知ったことだが、ガーサが所属する魔総師軍は、全世界でもきわめて珍しい軍隊組織らしい。
精霊術を駆使する、軍。
生まれついての能力を駆使し、国家防衛のために力を尽くす、魔術師の軍隊だ。
メラスは掌を持ち上げ、そこにほんの微かな炎を浮かべてみた。
ガーサは風の精霊の力を操る、風術師だ。メラスはそうした系統に当てはめるならば、炎術師ということになるらしい。
人によって能力の差があるが、メラスの精霊術師としての素質は、あまり高くないようだ。強力な術者ともなると、都を焼き尽くすほどの火炎を軽々と駆使するが、メラスの力ではせいぜい握った鉄をとろりと熔かす程度だ。
だがそれは恥じることではない。そもそも、火炎を巻き起こせるほどの術師の出現は、百年に一度と言われるほど稀なのだ。
そんな中、海明遼国が世界でも珍しい魔総師軍を築けたのは、ひとえに「魔石工学」のおかげである。
魔石は、精霊術師の能力を高める。つむじ風しか起こせない風術師に、竜巻を巻き起こせるほどの力を与える。鉄を熔かすぐらいしか能のない炎術師に、屋敷を炎上させるほどの力を与える。魔総師たちは、就任と同時に魔石を受け取るという。支総師が刀を受け取るのと同じように、魔総師は魔石を武器として身に帯びるのだ。
面白い学門だと思う。魔石の所持は、軍人にしか認められていないが、魔石を知ることで、自分の力に関わりのある知識が増えるのは、純粋に楽しかった。昨年の夏季休暇は、魔石工学に関する論文を書いて高い評価をもらい、魔石工学研究所の見学も許された。
――学院で得たこうした知識を、どうやって生かしてゆくべきだろうか。
メラスは炎の揺らめきを見つめながら、物思いに耽る。
来年、十八になる。成人の年齢だ。ガーサが高級民になったメラスに、真っ先に受けさせてくれた義務教育も、残り一年で終了する。
卒業後は、どうするべきだろうか。
ガーサの力になりたい。メラスも、下町を、下級民を救うために、動きたい。
五年前のように、浅知恵から宮廷に侵入するのではなく、確かな知識と知恵を駆使してこの国の改革に尽力したい。
だが、そんなことが自分に可能だろうか。
元々、「幼くして罪を犯した娘の更生のため」にガーサの養子となることが許された。成人すればそれは「更生した」と見なされるのではないか。そうすれば、成人と同時に、ガーサの養子から外される可能性もある。
前科ありの下級民。残されるのは、その地位。
相談をしたい。どうすべきか、ガーサに指導を仰ぎたかった。だがその前に、自分自身でも心を決めておきたい。
いったい、自分は何者になりたいのか。
「暴力行為に走るしかない、朱燬媛士様じゃなくてな」
自嘲し、メラスは掌の炎を消した。
文机をくっつけた壁の窓から夜風が入りこむ。炎の消えた掌に、ひらりと入りこんだ桜の花びらが乗っかった。メラスは優しく淡い薄紅色を指にとり、微笑む。
昨日の花見は、楽しかった。
たとえガーサの娘でなくなっても、あの思い出はきっとメラスの心を明るく照らしつづける。桜の花のように儚い、涙が出るほど優しい思い出だ。
メラスは首を振り、ふたたび課題に没頭しようと書籍に視線を落とす。
そしていきなり、頭に衝撃を喰らって、「う」と背後にのけぞった。
「な、なんだ? 石!?」
痛む額をさすりながら、足元に転がり落ちた小石を見下ろす。はっと立ち上がり、窓から下を見下ろすと、根元に人影があることに気が付いた。
「フォレスの奴……」
フォレスは二階にあるこの部屋へと真っ直ぐに伸びる大木に足をかけ、軽々と登ってきた。わずか数秒後、窓から漏れる光の中に、メラスははっきりとその人影の顔を確認していた。
「いよっ」
「ふざけるな、おい」
開口一番に文句を垂れて、木の上の皇子の頭に拳を叩きつける。
「いって。何だよ、ご挨拶ね、メラぷったら!」
「ご挨拶はこっちの台詞だ。窓が閉まってるときならまだしも、開いてるときに石を投げるな」
「え、当たった? 壁に当てるつもりで投げたんだけど、あらら、入っちゃったの。素晴らしい投球技術、さすが宮廷仕込み」
「何の自慢だ。……珍しいな、こんな真夜中に。夜は警備が厳しいんだろ。良く抜け出せたな、と言うと褒めてるみたいに聞こえるか? ま、どうぞお上がんなさいな、フォレス」
「なんか偉そうだなぁ、お前」
苦笑しつつメラスの手を借りて、フォレスは明かりの灯った部屋の中にお邪魔した。
「本当に、ろくに玄関から入ってこい奴だな」
「玄関から入ったら、マイサがうるさいだろ。あらあらようこそ、放浪皇子さま。ようやっと玄関を玄関と認識できたのでございますね、ご成長おめでとうございます。――これ課題?」
フォレスは背丈ほども積まれた分厚い書籍を見て、首を傾けた。
「そう、春季休暇の課題。手伝う?」
「あ、俺、中退だから無理。……しかし量が半端ないな」
適当な書籍をぱらぱら捲りながら難しい顔をするフォレス。メラスは目を瞬かせた。
「そうか? 普通じゃないのか?」
「メラスが通ってるのって、中級民向けの学院だろ。これじゃあ、高級民の学舎並だ。鵬雛舎にも匹敵する」
鵬雛舎は、首都の南方、騎州にある国家最高学舎だ。皇族がわざわざ長い旅程を経てまで入学を希望するほどの権威がある。フォレスは中退をしたようだが。
「論文、魔石工学? 魔石工学なんて、大学でやる課目だ。しかも必須じゃない」
中退のわりには詳しいフォレスに、メラスは肩をすくめた。
「普通に、老師にやれと言われた分だ。最近は、中級民の学院でも教育に力を入れてるんじゃないのか? フォレスのころとは時代が違うんだろ」
「失敬な子ね! 年寄り扱いしないでちょーだい!」
勝手に書きかけの論文を手に取り、内容を斜め読みしてフォレスは眉をしかめる。それがあまりに微妙な表情で、メラスは不安になった。
「まずいかな、第三項の論がどうにも突飛すぎる気がして……いや、間違ってるとは思わないんだけど……」
「いやいや、立派立派。大したものです、すごいすごい」
「何だよ、中退皇子!」
「嘘です、中退の俺に聞かないでください。正直、ちんぷんかんぷんです。……あ」
フォレスは空白のままの最終項目を見つめ、何故か閃いたような顔をした。
「……もしかして、そういうことか。花見の時の、ガーサとイスタのあの変な反応」
変な反応。独り言を拾って、メラスは眉根を寄せる。何か二人は変な反応をしたろうか。
「メラス、確か武闘塾も通ってたよな、東寺院地区の」
「え? ああ、フォレスも見学に来たことあったよな。見学というか、邪魔というか」
「週末休暇ごとに、軍舎で訓練にも参加してるって言ってた?」
メラスは「よく覚えてるな」とうなずく。
「ファイファンダの爺さんに引きずりこまれて、定期的にな。あの訓練は面白いから好きだ。爺さんは私を置いてさっさと姿を消すから、最初の頃は気まずかったけど。新学期が始まったら、また顔を出すように言われてる」
「……それに加えて、ファイファンダの手ずからの指導か」
「指導? なんなんだよ、さっきから」
フォレスは不可解な呟きを漏らして、しばらく考えこんだ後、メラスに真正面から向き直った。
「メラスは成人したら、どうするつもりだ?」
まさに先ほど考えていたことに触れられ、メラスは思いきり慌てた。
「いや、えっと、考え中だ。その……」
メラスは痒くもない頬を指で掻いて、視線を落ち着かなげに泳がせた。躊躇とともにフォレスを見上げると、彼は平素と変わらず、いまだに少年っぽい明朗な顔つきで、メラスを不思議そうに見つめていた。
それに勇気づけられ、メラスは世間話の延長戦のつもりで打ち明けることにした。
「政治に参加できたら、とは思ってる」
「ってことは、天議会の議員?」
「具体的に決めてるわけじゃないんだ。でも、議員も考えてはいる。下町のことは、元々は私が持ちこんだ問題だ。ガーサに任せっぱなしではいられない。……ただ、私の立場は微妙だから。政治に参加することが可能かどうかも含めて、悩み中」
「ふぅん。“朱燬媛士”はやめるんだ?」
にんまり笑うフォレスを、メラスはじっとりと睨みつけた。
「からかうな。あれは……私の自己満足なんだ。何かしないとってずっと焦ってて……それで高級民を蹴飛ばして、自分だけスカッとしてる。それだけだ」
「けど、それで救われた下級民もいる。意識を変えた民もいる」
「――フォレスも、目立ちすぎるな、って言ったじゃないか」
フォレスはきょとんとした。
「そりゃ、目立ちすぎたらまずいだろ。下手を打って、メラスが捕まるのはごめんだ。つまらなくなる。だから目立たず、影でこそこそと、痛快な英雄伝を繰り広げたらいい」
メラスはフォレスをまじまじと見つめた。
「私は……もし“朱燬媛士”が私だとばれたら、ガーサに迷惑がかかると思ってて。それを警告されたんだと思ったんだけど」
フォレスは目を丸くして、ぷっと噴きだした。
「そりゃ、自分の養女が高級民をぼっこぼこにしてました、なんて世の中に知れたら、面倒な目には遭うだろうけど……そんなの今更だし、ガーサは優秀だ、うまくやるさ。むしろ良い風を吹かせることができるかもしれない。ガーサは民間の人気が高いからな、そのガーサが下級民を救おうとしていて、さらに慈悲をもって迎えた下級民の養女が、ガーサとともに下級民救済に乗り出した……下級民への嫌悪感が根強い民も、ガーサがそこまで下級民を哀れむならば、ってなことで意識を変えるかもしれないぞ。ガーサならどうとでもする」
「……そう、かな?」
フォレスは傾けた首をふと、優しく微笑ませた。
「知恵がついたら、臆病になったんじゃないか、メラス?」
「――え?」
「誰だよ、宮廷の倉庫を爆破してまで皇帝を殴り飛ばそうとしたのは。最後には、高級民の座まで掴みとった勇ましい下町の娘は」
メラスは苦い顔をする。
「利口になったと言ってくれ。無鉄砲だった自分を反省してるんだ。もう、あんな周りに迷惑しかかけないやり方はしたくない」
「そ? 俺は、ああいうメラスだから、ひと肌脱いでやろうって思ったんだけど?」
フォレスはどこか楽しげに笑った。
「俺を動かしたのは、あの日、壁を越えてやってきた下町の娘だ。今だって、その娘は壁を越えつづけている。下町に生まれ、下級民の身分を得たうえ、さらに高級民の地位まで手に入れた。そして中級民の学院に通い、城下町では朱燬媛士として、一部の庶民を味方につけた。メラスを前に、壁なんかあってないも同然。私の立場は微妙、だって? よく言う。議員になるのなんか、下町の娘が高級民になるよりも、はるかに簡単だろ?」
メラスは唖然とする。言われてみればそうだが、恐ろしくなるほどの過大評価である。
「な、なんでだろう……励まされてるのに怖くなるばっかりだ」
メラスの率直な感想に、フォレスは手を叩いて爆笑した。遊ばれている。
メラスは溜め息をついて、それでもフォレスの言葉を内心で反芻した。
――メラスを前に、壁なんかあってないも同然。
嬉しかった。まったく、フォレスにはいつも勇気づけられる。五年前からそうだ。
少しだけほっとして、メラスはまだ腹を抱えているフォレスに向き直った。
「そういうフォレスはどうするつもりなんだ?」
フォレスは目尻の涙を拭いながら、おどけて首を傾けた。
「なにが? 俺とメラスの結婚の話? どうしよっか」
「あほ」
放浪皇子と揶揄され、宮廷から逃げ続けている彼は政治には参加していない。本来、皇族には成人になると同時に政権が与えられるが、フォレスは固辞しつづけているという。
フォレスはまた冗談でも言おうとしたのかにっと笑って――ふとそこに迷いを浮かべた。
そのまま押し黙る。
「……フォレス?」
うなだれた顔を覗きこむといきなり、メラスの手を掴んできた。
「っなんだ!? びっくりした!」
「来て」
「へ? どこに?」
フォレスはメラスの手を引き、窓辺に立つ。いったん手を離し、窓枠の上によじ上ってから、フォレスは無邪気な笑顔でまたメラスに手を差しのべた。
「さーんぽ!」