第八話「冷たい手」
(間に合ってよかった……)
春季休暇を終えて学舎に戻ったメラスは、課題を提出し終えた安堵からどっと文机に突っ伏した。
(今日はこれから学舎長の始業の挨拶があって、それで終わりだ……)
終わったら、速攻で家に帰って寝よう。ここ最近、万力で頭を締めあげるように寝ずに課題を仕上げてきたメラスは、疲労困憊の頭でそう決意し目を閉じた。
その耳に、背後に立つ同級生たちの会話が飛びこんできた。
「いろいろあった休暇だったな。天議長が三人も交代したし……」
「ああ、総師は就任式への出席を拒否されたって噂だが……」
中級民の学舎に通う学生のほとんどは、宮廷勤めの親を持つ者たちだ。他愛のない噂話も、宮廷内の様子を知る手がかりとなる。メラスは眠気をこらえながら、ひそかに同級生たちの貴重な噂話に耳を傾けた。
「皇帝陛下もご病気だとか……」
だが話が皇帝陛下のことに及ぶと、メラスの心は自然と物思いに沈んだ。
――この重たい荷物、半分でいいから持っていて。
皇帝陛下の病が公表されたのは、フォレスがメラスにそう言ってから三日後のことだった。
宮廷も市井も騒然となった。海明遼に磐石の安寧をもたらしてきた賢帝の病。しかもそれは不知の病で、おそらくあとひと月ももたないだろうという。
皇帝陛下の病が判明してから、ガーサもほとんど屋敷に帰らなくなった。ガーサだけではない、カイ補佐、イスティーノ、ファイファンダたち総師、それに天議長や天議会の議員は皆、朝から晩まで宮廷に詰めて、皇帝陛下の容態を見守り、且つ今後の対応について検討会議を開いている。
今後の対応。つまり、陛下が身罷ったのちのための話し合いだ。
悲しむ間などない。検討会議には、世継ぎであるオールアーザ皇太子も参席しているという。すでに宮廷では、次の世が始まっているのだ。
(フォレスはあれから来ない)
メラスは軽く握った自分の右手を見つめる。
弱々しくメラスの右手を握ったフォレスの指はとても冷たく、少し、震えていた。
あの寂しい皇子は、父親に会いに行けたのだろうか。
(フォレスも、ガーサの子どもになれたら良かったのにな)
フォレスこそそうなれたら良かった、とメラスは思う。自分はガーサの足枷になるばかりだが、フォレスならガーサを脇からしっかり支える存在になれただろう。
見た目こそちゃらんぽらんだが、実のところフォレスは宮廷では恐れられる存在だと聞いたことがある。詳しくは知らないが、ひとつだけ伝説めいた話を聞いた。普段は宮廷にはまったく顔を出さないのに、一度だけ、彼は天議会に顔を出したことがあったという。以前にも皇帝陛下は大病を患ったことがあるのだが、その折のことだ。
第一皇位継承者であるオールアーザ皇子が、皇帝代理として天議会に出席していた。だがオールアーザ皇太子はまだ経験が浅かった。老獪な議員たちはそこにつけこみ、若い皇太子を巧みな話術と親切ぶった笑顔で操り、皇帝陛下が席についていたときには通らなかった私欲まみれの政策を次々と再提出しては、承認印を押させ、ひそかに私腹を肥やすようになっていた。
そんなある日、天議会の円形会議場に突然フォレスが現れたのだ。
彼の来訪を告げる先触れが告示され、フォレスが場内に入ってくると、天議会は騒然となった。「なぜ放浪王子が」「どうして議場に」。ざわつく議員たちの間を通って、フォレスはオールアーザが座る席の後ろに回り、兄を背後から補佐するように立ったという。
――続けてください。
感情の見られぬ眼差しで円形会議場を見つめ、発せられたのは、たったの一言。
だが、フォレスが大きくもない声でそう言っただけで、天議会はまるで気を飲まれたように沈黙し、議場は水を打ったように静まりかえった。そして次々と再提出されていた議案も、あっという間に取り下げられていったという。
恐ろしいほどの存在感だった、と以前顔見知りになった総師の従者に教えられた。
誰もオールアーザを見ていなかった。フォレスがただ天議会に来て、一言発しただけで、彼は天議会を掌握してしまったのだ、と。
(フォレスがいまだに「放浪皇子」のままでいるのは、宮廷内にオールアーザを廃嫡して、フォレスを擁立しようという派閥があるからだと聞いたこともある)
世継ぎであるオールアーザを失脚させ、フォレスを玉座につけようという者たちが、少なからずいるということだ。
だからフォレスは、「自分はオールアーザを支持する」という意思を表すために、天議会に現れて、オールアーザの背後に彼を守るようにして立ったのだとか、オールアーザが皇帝の座につき、その地位を確固たるものにするまでは、兄に遠慮して宮廷に戻る気はないのだ、とか、さまざまな憶測がたっていた。
メラスは、フォレスのその顔を知らない。彼がどういった力を持っているのか、フォレス自身は決して見せようとしないし、ガーサたちも話そうとはしない。
けれど、もしもフォレスがガーサの養子だったなら、どんなにかガーサの役に立てたことだろう。仮にフォレスがメラスのような立場や身分だったとしても、きっとメラスよりよほどうまく立ち回れていたはずだ。
(でも、私はフォレスにはなれない。私は私で私だけの力を手に入れなくては……)
だが、答えはまだ見つかっていない。
自分は果たしてどんな道を進むべきなのか。
「新しく就任した天議長のリード=バイアー氏の娘は、以前、他国で総師の座についたらしいな」
同級生たちの噂話は、いつの間にか新しく就任した天議長の話になっていた。
「ああ、聞いたことがある。けど、女だてらに総師の座についたことで周囲に妬まれ、侮辱され、精神を病んでしまったとかいう話じゃなかったか?」
「そうそう。就任して、半年ももたなかったとか。なんでも、よりにもよって神聖な宮廷内で、下級の宮廷士たちに凌辱されたって話だ」
口調が下世話な色を帯びはじめたのを聞き取り、メラスは情報収集はそこまでにして、両耳に指を突っこんだ。中級民の噂話は役立つものが多いが、高級民へのひがみ意識が強く、時どき聞くに耐えないような話に至ることがあるのだ。
(海明遼国では、まだ女が総師に就任したことがない。カイ補佐ですら、ひどい陰口を叩かれてるっていうから、女が総師になんかなった日にゃどんなひどい目に遭うか……)
やれやれと溜め息をついたところで、肩をぽんと叩かれた。
鬱陶しげに耳から指を離し、背後を振りかえると、同級生たちが興味深そうな顔で周りに集まってきていた。
「メラスは、ジャスク=エミラってひとの話を、ガーサ殿から聞いたことがあるか?」
「……なんの話だ?」
途中から聞いていなかったので、なんの話かさっぱり分からない。
「だから、天議長のリード=バイアー氏の孫だよ。なんでもジャスク氏は、次期総師の座を狙ってるらしいぞ」
「へえ……?」
メラスは答えながら、首をひねった。そういう話をガーサはあまりしないので聞いたことがない。
曖昧な反応に、同級生たちは「だよなー」と肩を落とした。
「鵬雛舎を飛び級で、しかも首席で卒業した神童様だって話だ。いずれ総師の座につく方なら、今のうちに交誼を結んでおきたかったんだが……」
「悪いな。役に立てそうにない」
メラスの答えに、ふたたび同級生たちは「だよなー」とため息をついた。
総師は任期制ではない。病や怪我、死、老い、あるいは不祥事などの要因で、ようやく次世代へと交代になるのだ。ひとりの総師が辞任すると、そのひとり分の総師の座を懸けた「総師選」と呼ばれる武・学術試験が開かれる。試験には誰でも参加することができ、その試験で「軍師の才覚あり」と見なされれば、ただの農民がいきなり総師に抜擢されることすらあるほどの実力重視試験だ。海明遼国では唯一の、身分制度に影響を受けない登用試験と言えるだろう。
もっとも、試験の効率化をはかるため、一定の従軍歴がない者は書類審査で落とされるなど、ある程度の足きりが行われるため、農夫が総師に登用される確率は万に一つもないのだが。
(結果的に、総師になるための英才教育を受けられる高級民が総師になるんだよな)
ジャスク=エミラとやらも、総師になるための英才教育を幼いころから受けているということなのだろう。次期総師選の予定は今のところないが、老年の総師もいるので、その控えをしているわけだ。
(けど、天議長の孫が、総師の座を、か……)
総師と対立している天議会の親類縁者が、天議会議員ではなく、総師の座を狙っている。そこになにかしらの意図を感じて、メラスは眉をひそめた。
「そういやお前も、もしかして総師を目指しているのか?」
考えに耽っていたメラスは、いきなり自分に話を振られて、きょとんとした。
「総師? いや、別に。なんでだ?」
同級生たちは顔を見合わせた。
「お前って、課題も僕たちのとは全然違うやつやってるし、たまに軍舎の訓練に参加してるって言ってただろ? もしかして、総師選に参加するための準備をしてるのかなって思ってさ。なんだ、俺はメラスがてっきり女総師になりたいのかと思ってたよ」
からかうような口調で一気に言われて、メラスは目を瞬かせる。わっと投げられた話題の中に、なにか引っかかる話が混じっていた気がする。
「……課題が、なに?」
「課題? ああ、僕たちの課題とは違うって話? だって魔石工学って、総師選の必須科目だろ? 普通はそんなもん、やらない」
メラスは目を丸くした。
同級生たちは「女総師になったら、暗がりに引きずりこまれて、犯されないよう気をつけろよ」などと庶民が口にするような粗野な冗談を耳打ちし、くすくす笑いながら去っていった。だがそれもメラスの耳には入らなかった。
メラスは文机を食い入るように見つめたまま、ずいぶん経ってから、呟いた。
「総師……?」
中級街にある学舎を飛び出し、メラスは走った。屋敷に戻ると、玄関にガーサの靴があるのを見つけ、「あ」と思った。マイサに帰宅を告げる前に階段を駆け上り、自分の部屋の前を走りぬけ、ガーサの部屋の扉を叩音もなしに押し開ける。
「ガーサ、さっき聞いたんだけど……っあ――」
部屋にはガーサのほかに、もうひとり女性がいた。
ガーサが何故か慌てて机の上に広げていた紙をくしゃくしゃに丸めて隠した。それを側に立っていた女性が忍び笑う。
メラスは顔を赤くすると、おずおずと頭を下げた。
「わ、悪い……いや、も、申し訳ありません。仕事中とは思わずに……カイ補佐」
「お邪魔しています、メラスちゃん」
穏やかに言って微笑んだその女性はカイ=コワルチューン、仲師の仕事を補佐するのを仕事とした魔仲師補佐である。メラスがひそかに憧れているひとだ。
「ガーサ、なにをそんなに慌ててるんだ?」
怪しさ満点で、ガーサは紙を抱きしめたまま机に突っ伏していた。紙を隠しています、というのがばればれなその怪しげな光景に、メラスは不審いっぱいの顔で首を傾げる。
答えたのは、ガーサではなく、カイの方だった。
「ごめんなさいね。とても大切な仕事なの。メラスちゃんの用事が急ぎでないなら、もう少し、お父様をお借りしていてもいいかしら」
「も、もちろん。失礼しました!」
メラスは大慌てで頭を下げると、急いで回れ右をした。
「あら、おかえりなさいませ」
一階に下りると、掃除中のマイサが不審げに首を傾げた。
「いつお戻りになったのですか? 庭に出ていたので気づきませんでした」
「うん、ついさっき……今、カイ補佐来てるだろ? なにか重要な話?」
「ええ。重要な話をしているから、部屋には入るな、と」
「……あー……ふーん」
「……入りましたね?」
「…………」
メラスは一歩遅かった忠告に顔を引きつらせつつ、マイサの叱責が飛んでくる前に、そそくさとその場を後にした。
「あああ、びっくりした。あの子のおてんばには本当にまいる…」
ほっと息をついて、ガーサはようやく机から身をはがした。ガイはくすくすと細やかに笑う。
「今度から、扉に「仕事中。入るな」と紙でも貼っておいたらどうです?」
「あの子はそれを見る前に、扉を開けているよ」
ガーサは苦笑しながら、慌ててくしゃくしゃに丸めてしまった紙を、綺麗に掌で広げなおした。
「……リュマーラメラス。やっと君を見つけたよ」
紙には、幾人かの名前が書かれた。
それらを見つめて、ガーサは哀しげな表情を浮かべた。
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寝室の中央に、薄布で囲われた寝台がひっそりと置かれている。
寝室には、むっとするような強い香の匂いに紛れて、明らかな死臭が漂っていた。
寝台に横たわるのは、一人の老人。彼は紫色の変色した唇から、言葉とも呻きともつかぬ声を絞り出した。
「今ごろ……来たのか……」
老人の顔色は土気色。肌には病的な皺が刻まれ、頬も骨の浮くほどに痩せこけ、かつての威厳ある姿はもうどこにもない。海明遼国の現天皇は、節くれだった手を、震えを隠すことも出来ぬままに、必死の思いで暗闇へと伸ばした。
「憎んでいるのだな、わしを……許せないのだろう。我が子を人殺しなどと罵った父を……」
枯れ木のように細い腕が、力なく虚空を掻く。
その手が、支えるものもなく床に落ちようとしたとき、ふっと横から現れた手がそれを支えた。
老人の落ち窪んだ瞳に、みるみると涙が溢れた。
「放浪皇子などと呼ばれおって……いつになったら、わしの傍らに帰ってきてくれるのだ、フォレス」
フォレスは一歩、寝台に近づき、枕元に膝をついて座った。手のひらに載せた老人の手に、もう片方の手を重ねて、額を押し当てる。
「許してくれ。厭わしく思っていたわけではない。ただお前にどう接していいかわからなかった。どう許しを乞えばいいのかわからなかった。臆病で卑怯な父を、許してくれ――我が子よ」
フォレスは歯を食いしばり、こらえてもこらえてもこぼれ落ちる涙を頬に伝わせる。深く頭を垂れ、父皇の手に頭を擦りつけた。フォレスこそが許しを乞うように。
「……父上……っ」
老人の節くれだった指が、しっかりとフォレスの手を握りしめた。
強く、強く――いつまでも。