小説(長編小説)王宮の自動人形|第二章 12



第十二話「獄舎」

 遺体は宮廷の門前に捨てられていただとか、側に襲撃者からのものと思われる声明文が置かれていただとか――兵士がそんなことを言っている。それを意識の外に聞きながら、メラスはのろのろと屋敷の門をくぐった。
 足が棒になったみたいだ。屋敷までの道がひどく長く感じられる。
 鉛のように重たい玄関の扉を、体当たりするように押し開く。
 背後で、兵士たちがひそひそと囁き合っているのを無視し、後ろ手に扉を閉ざす。


 玄関に立つ。メラスは靴を脱ぎ、板間に上がった。
 影の落ちた床が、素足にひんやりと冷たい。
「……ただいま」
 メラスはいつも通りに、帰宅を告げる。
 あれ、と思う。声が思ったよりも大きく出なかった。これでは誰も気づかない。予定を変えて帰ってきたのだ、ガーサにちゃんと帰ってきたことを伝えなければ。
 もう一度、声を出してみる。今度は少しだけ大きな声が出た。
 だが、やはり返事はなかった。慌てて階段を駆けおりてくる足音も、「おかえりなさい、メラス」という嬉しげな声も。聞こえるのは、ただ、広々とした玄関に響きわたる己の声の反響だけ。
「ガーサ……?」
 メラスは足枷でも嵌めたように重い足を引きずり、玄関から一番近い部屋へと向かった。
 取っ手を回して、ゆっくりと扉を開く。
 そこは、客人を招くための客間。品の良い設えの、よそ行きの部屋。
 誰もいない。
 メラスは扉を開け放したまま、その隣の扉へと向かい、開けた。
 誰もいない。
 また隣の扉へ向かう。いない。
 次の扉を開け、その次の扉を開ける。だが、やはりそこには誰もいない。
 メラスは空っぽの部屋の前で立ち竦み、ふと、二階の存在を忘れていたことに気づく。
 ああ、なんて馬鹿なんだ。二階を忘れるなんて。メラスはよろめくように階段へと足を進めた。足音もなく、微風が地面を撫でるように力なく、十五段の階段を上っていく。
 二階に着いて、メラスはまた廊下の端から、ひとつ、またひとつと扉を開けていった。そして、廊下に並ぶ扉の半分を開けたところで――強烈な焦燥感に駆られる。
 ──どうして誰もいないんだ。
 メラスは残された扉を乱暴に押し開く。誰もいない。手が震え、うまく扉を開くことができない。苛々しながら扉を開け、呆然と立ち尽くす。誰もいない。メラスはそれを扉の数だけ繰りかえした。何度も、何度も、何度も。
 だが、やはりそこには誰もいなかった。
 ――誰もいない。ガーサはいない。
 ガーサが、いない。
 メラスは肩で息をしながら、最後に残った、ガーサの私室の扉を見つめた。
 閉ざされた扉に、そっと額を押しつける。懇願するように、固く目を閉じる。
 取っ手に手をかける。ゆっくり、ゆっくりと扉を開いていく。
 徐々に広がっていく隙間から、朝の白光が零れだし、そして――。
(ああ、本当に……ガーサは趣味がいい)
 メラスは部屋に入り、後ろ手に扉を閉めて、ぼんやりと、穏やかな光に満たされた室内を見つめた。正面の大きな窓から射しこむ、初夏の柔らかな日差し。窓は開け放たれ、涼しい風が吹きこんでいた。
 知っている。あの窓はもともと小さかった。メラスを養女に迎えたとき、ガーサが屋敷中の窓をわざわざ大きく作りなおしたのだ。
 春には、温かな光をたくさん取りこめるように。
 夏には、涼やかな風が部屋を駆け抜けるように。
 だが、その部屋にも、ガーサはいなかった。
 いない。いないのだ。どこにも、いない。
(ガーサが、死んだ……?)
 メラスは愕然と立ち尽くした。
 ――本当は、知っていた気がする。最初から。
 屋敷中の扉を開けてみるまでもなく、自分は分かっていた気がする。
 そこにガーサがいないことなど。兵士たちの言葉が、確かに嘘でないことなど。
 胸の奥に空虚な闇が広がっていく。闇を孕んだ、正体不明の衝動が、体を浸食していく。
 メラスは両腕で己の体を抱きしめた。強く、強く。そうでもしないと、自分がなにをしでかすか分からなかった。
 両足が痙攣を起こしたように震え、立っていることができずに床に跪く。そのまま身を折り曲げ、床に額を擦りつける。体を抱いていた腕を離し、虚空で拳を固めた。体内で渦を巻くものが溢れ出さないように、強く、強く握りしめる。爪が食いこみ、手のひらの皮膚が裂けても、なお。
 メラスは歯を食いしばって呻き声を殺した。声を出さないよう、悲鳴を上げてしまわないよう。
 ガーサが死んだことを、認めてしまわないよう。
「……っ」
 拳を床に叩きつける。何度も、何度も。何度も。


 その悲しい響きだけが、誰もいない屋敷を静かに満たしていった……。

+++

 主のいないその屋敷は、ひっそりとしていた。
 葬儀の準備のために、侍女のマイサは宮殿へと駆りだされ、帰ることもままならぬほど忙殺されている。
 ――魔仲師ガーサ・シュティッバーが死んで、既に三日が過ぎていた。
 あまりに突然の悲報は、瞬く間に海明遼国中に伝わり、三日三晩、世界はガーサの死を悼む泣き声に包まれていた。普段は賑やかな首都の人々も、皇帝に次ぐ魔仲師の死に、果てもなく泣き崩れた。太陽ばかりが燦々と輝き、対照的に首都は闇に呑まれた。店という店が商いをやめ、日常生活が破たんしようとも、なお嘆きは収まらなかった。それほど、ガーサは海明遼の民に愛されていたのだ。
 誰もが悲しみに暮れ、誰もが己自身を立て直すことに必死だった。
 誰もが、他人に気を配る余裕を持ちえていなかった。
 誰もが、ガーサの愛娘メラスの存在を忘れた。
 三日間、メラスの姿を見かけた者はいない。だが、誰もそのことに気づいてすらいない。
 だから、この青年が今日この日ガーサの屋敷を訪れたのは、まったく奇跡に近いことだった。
(この家、こんな静かだったっけ……)
 静寂に包まれた屋敷の門前に立ち尽くし、フォレスは柔らかな草花で溢れた前庭から、屋敷の屋根までを、なんとはなしに見上げていく。
 視線が辿りついた先は、青い空。雲ひとつない、清々しいほどの蒼穹。
 それが、みるみるうちに滲んでいく。
「あー……いい天気……」
 フォレスは顔を空に向けたまま、震える腕で両目を覆い隠した。


 玄関の扉を開くと、板間は窓から差しこむ午前の光に白く輝いていた。三日間、外界から隔離され、埃が悲しいぐらいに美しくきらきらと舞っている。
 静かだった。まるで誰もいないようだ。
 けれどここには、メラスがいるはずだ。
 フォレスは三和土から上がり、玄関広間にのろのろと足を進めた。
 だが、その足はすぐに止まる。壁沿いに並ぶ部屋の扉が、すべて開かれていることに気づいたのだ。
 どうして、と思うこともなかった。フォレスは一番近くの扉に足を進め、室内を覗きこむ。だが、そこには誰もいない。誰もいないことに、途方もなく胸が締めつけられる。
 フォレスは力なく扉を閉め、そして、三日前にメラスが開けていった扉を、まったく同じ順序でひとつひとつ閉めていった。


 二階に上がり、やはり同じように廊下の扉を閉じていき――ふと、フォレスは足を止めた。端から六番目の扉の取っ手が外れかけていたのだ。まるで無理やり開けたような、そんな印象を持たせる。フォレスは竦む足を引きずり、重苦しい空気に呑まれた廊下を歩き、ひとつだけ閉ざされた、最後の扉に足を進めた。
 取っ手に手をかけ、扉を開いた瞬間、眩いほどの白光が目をくらませる。
 フォレスは息を止めた。
 大きな窓から射しこむ光を受け、板張りの床が白く光っている。なんて美しい部屋だろう、ふと思う。光も影も、調度品も、すべてが調和されつくしていて、見慣れた風景のはずなのにひどく美しく思えた。
 だから最初、床に横たわっているそれも、装飾のひとつかと思ってしまった。
 うつ伏せに倒れている赤い髪の娘。
 不謹慎にも、フォレスはその姿をたいそう美しいと思った。
 ――ふと、窓から射しこむ日差しが翳った。部屋から白い光が消え、幻想的な光景が遠のき、現実の光景が姿を現す。
「……メラス」
 フォレスは動かないメラスに近寄った。
 床に膝をつき、そっと顔を覗きこむ。目は閉じられている。
 不安を覚えて首筋に指を宛がうと、そこには確かに生の鼓動を感じた。ほっとする。死んでいるかもしれないと思ったのだ。
 フォレスは早鐘を打つ心臓を宥め、側に腰を下ろし、改めてメラスの様子を見つめる。
 閉じられた瞼は震えている。きつく結ばれた唇には、赤黒く固まった血の痕があった。
 この娘は、三日間どうしていたのだろう。
 食料や水分はちゃんと摂っていたのだろうか。
 フォレスは痛々しい親友の姿に重苦しい息をつき、そっと肩に手をかけた。
「メラス」
 小声で呼びかける。だが、反応がない。今度はぞっとするほど痩せこけた頬を軽く叩く。そうしてもう一度名を呼んでやると、メラスは唇を薄く開き、ゆっくりと瞼を押しあげた。
 深緑色の濁った瞳が、ぼんやりとフォレスをとらえる。
「……いよ、久しぶり」
 フォレス、と、メラスが擦れた声で応える。
 フォレスは無理やり笑んで、顔の前に手を伸べた。
「おう。起きれるか?」
 だが、メラスは掌を呆けたように見つめるだけだ。
 軽く息をついてから、メラスの腰の下に手を差し入れ、素早く上体を起こしてやる。メラスは力なく座り、定まらない視線で影の落ちた床を見つめた。
「お前、怪我してるのか?」
 だらりと垂れた腕を取り、手を上に向かせる。青白い掌には爪を食いこませたような三日月の傷がいくつもできていて、血の塊がこびりついていた。
 答えたくないのか、分からないのか、メラスは沈黙する。
「……あとで手当てしないとな」
 フォレスはそれだけ言って、手をメラスの膝に戻してやった。
「三日間、ちゃんと飯食ってたか?」
「……三日?」
 そこでようやくメラスが言葉らしいものを発した。
「ああ、もう……そんなに……」
 そう言って、言葉にならないことを口の中で呟く。
 フォレスは立ち上がった。
「なにか作ってくるよ。ちょっと待ってろ」


 厨房のかまどは火が落とされていたが、皇族とは思えない手際の良さで火を熾し、勝手知ったるで米櫃から掬い取った米を鍋に入れ、たっぷりの水と一緒に火にかける。粥だ。
 侍女のマイサは当分戻ってはこられないだろう。
 宮廷は、この屋敷の静寂が嘘のように混乱している。議会開催期間中だが、宮廷はすでに政の場としての機能を失い、狂気が渦巻く修羅の場と化していた。
 なぜならば――ガーサの遺体の側に、犯行声明と思われる文書が置かれていたのだが、その文書の末尾に、三人の天議長の名が署名されていたのだ。
 声明文の中に書かれていたのは、身勝手な私怨。「皇帝の寵愛を一身に受け」だの、「天議会から出て行け」だの、子どものような愚痴の連なり。
 総師軍は、特に魔仲師軍は凄まじい怒りを露わにした。すぐさま、三人の天議長を捕え、宮廷中を漁って、徹底した調査を進めている。天議長が、国家の誉れたる仲師を抹殺したことに、皇帝オールアーザもまた憤怒した。それに対し、天議会は戦くばかりだ。いったいなぜこんな暴挙をと、突然の仲間の凶行に愕然とした様子だった。三人の天議長のほかに共犯者はいないかと、調査の手は遠方にいる天議長らの親類縁者にまで及んでいる。
 フォレスは今も耳に残る騒乱の名残を記憶の外に追いやり、火にかけた鍋がたてる、ぐつぐつという音に耳を傾けた。――しばらくは目を離しても大丈夫だろう。フォレスは厨房を後にし、マイサの部屋に寄ってから、ふたたび二階のガーサの部屋に戻った。
 メラスは部屋を出たときとまったく変わらぬ体勢で、ぼんやりと床を見つめていた。
「今、粥をつくってるから、とりあえず先に手当しちまおう」
 なるべく明るい表情を装って、フォレスはメラスの前に腰をおろした。マイサの部屋から持ってきた小箱を開け、薬草と包帯と布を取り出し、布に薬液をつける。
「少し染みるけど……」
 メラスの傷ついた手を取り、布を当てて固まった血を拭う。塗り薬を取り出し、丁寧に傷口に塗ってから包帯を巻いた。
「ほい、と。これでよし。んじゃ、次は、飯、飯」
「……いらない」
 ぽつり、とメラスが呟く。
「食べたくない……」
 立ち上がりかけた腰を床に落とし、フォレスは改めてメラスに向き直った。
「腹減ってないか?」
「食べる気が、しない……」
 フォレスは唇を引き結び、首を横に振った。
「餓死でもする気か、お前は。人間はね、食べなきゃ死ぬんです」
「……ガーサは、食べたのに死んだぞ」
 二人の間に、重たい沈黙が下りる。
 窓から吹くこむ柔らかな初夏の風が、今は鬱陶しく感じられた。
「――ガーサを殺したのは、天議長だったそうだ。あいつらが、ガーサを……」
 フォレスは言葉を詰まらせる。それに気づいてか、メラスがゆっくりと顔を上げた。ぼやけた深緑色の双眸がフォレスを見つめ、不意に、驚きに目を見開かれる。
「フォレス……?」
 フォレスは口許に震える拳を押し当て、歯を食いしばって涙を堪える。
「――ごめん。飯、持って来るわ」
「フォレス……!」
 立ち上がりかけたフォレスの着物の袖を、包帯を巻いた手で掴んでくる。
「フォレス、お前……っ」
 三日ぶりに発したのだろう、声が痛々しく擦れている。フォレスを引き止めた手にはちっとも力が籠もっておらず、袖を軽く振るうだけで簡単に振りほどけそうだった。
 フォレスは我を取り戻したようなメラスの顔から視線をそらし、床を見据えた。
「……本当は、この家に来たくなかった。ガーサのいないこの家に、来る必要なんてないと思ってたんだ」
 フォレスは呟き、そのまま力なく床にへたりこんだ。


「三日前、ガーサが死んだって聞いた時は信じられなくて、冗談だろって笑ったよ。けど、誰も一緒に笑ってくれねぇんだよな。それからどれだけ経っても、誰も笑ってくれなくって……そっから先はずっと泣きまくって――それで気付いたら三日経ってた」
 メラスは丁寧に包帯の巻かれた己の手を見つめ、フォレスの話に静かに聞き入った。
「涙が出なくなって、そしたら暇になって……メラスのことを思い出した。なんでか急に、メラスを思い出したんだ」
 メラスは視線をあげ、顔を手で覆い隠したうつむくフォレスを見つめる。
「あいつを三日のうちに見た覚えがない。だからここに来た」
 なんて強い人だろうと、メラスは思った。
 自分は三日間、自分のことしか頭になかった。フォレスのことを一度も思い出しはしなかった。ほかの皆もそうだったろう、マイサも、イスティーノも、ファイファンダも、カイ補佐も、誰ひとりメラスのもとに来た者はいない。皆、この三日の間、自分のことで、もっと大事なことで手一杯だったはずだ。
 なのに、この人は、メラスを思い出してくれた。
 フォレスは実の父親を亡くしたばかりだ。そしてガーサまでを失った。
 その悲しみがどれほどに深いことか――メラスには十分すぎるほどに分かる。
「だから……その……飯、食ってください」
 フォレスが嗚咽を堪えたような声で呟く。
 ――ああ、自分は三日間、本当になにをしていたのだ。
 情けない気持ちと、自分のことを思い出してくれたフォレスに対する感謝とで、メラスは、ただ、ただ、幾度もうなずいた。フォレスが泣きやむまで、うなずきつづけた。


 粥を二人で食べた後、一緒に宮廷に赴き、ガーサの遺体を確認した。
 冷えきった地下の安置所に横たわっていたのは、確かにガーサだった。
 その口元に、いつもの笑みはなく――それを目の当たりにした瞬間、三日間、懸命にこらえてきた涙が、ようやく頬を伝い落ちた。

+++

 それから、一週間後。
 襲撃を企てた三人の天議長には極刑が言い渡された。
 獄舎の中で、彼らは泣きながら叫んだ。なにも知らない、こんなことはおかしい、と。
 しかし、有罪になるだけの証拠はすべて揃い、狂ったように泣き叫ぶ天議長の証言を信じる者はなかった。
 処刑は公には行われなかった。しかし、民は扉の閉ざされた処刑場の前を訪れ、見えるはずもない天議長たちの死に様を想像し、処刑執行の時間までその場を離れようとはしなかった。
 やがて重い扉が開き、処刑責任者が出てくる。
 刑を執行したことを告げられると、民は言葉もなく、うなずくこともなく、その場を去っていった。
 処刑を見届けるために、海明遼国中から集まった民は、数万にも達したと言われる。