小説(長編小説)王宮の自動人形|第二章 2



 歯車なのだと、老いた辻占い師は言った。
 総師も、天議会も、皇帝すらもが、国というカラクリを動かす歯車にすぎないのだ、と。
「だとしたら、海明遼がこんなにめちゃくちゃなのは、どっかの馬鹿な歯車がめちゃくちゃに動きまわってるせいだな」
 いとけない口調に、辻占い師は目垢で塞がった目を笑わせた。
「あなたさまは、いずれかの歯車が”めちゃくちゃ”に動いているとお思いか」
「そりゃ……まあ。あんたはそうは思わないのか?」
「さて。この塞がった眼では、歯車の複雑怪奇な動きを読み解くことは難しく……」
「なんだ。とんだ占い師がいたもんだな」
 呆れた口調に、辻占い師はさもおかしげに肩を震わせた。
「歯車とは、まこと面白きものにございます。互いが互いの動きに干渉し、どれかひとつが”めちゃくちゃ”に動こうとしたところで、他の歯車が揃って正しい動きをしたならば、それは決して叶わぬのです」
「ふうん。良く分からないけど……」
 首を傾ける子供に、辻占い師は微笑む。
「では、こう覚えておおきください。カラクリが動きを止めるとしたら、その理由はただひとつ」
 目垢に糊づけされた眼の奥で、仄暗い光が点った。
 そして辻占い師は、感情の失せた声で、その唯一無二の「理由」を呟いた。

第二話「許されぬ正義」



 海明遼かいめいりょうの城下町は、祝日の喧騒で賑わっていた。
 丘の頂きに宮廷を据え、波紋を描くように、高級街、中級街、城下町が続く「彪旋ひょうせん」の都。もっとも低地に位置する城下町から見上げれば、風に吹きあげられたように天へと昇る瓦屋根の群れに圧倒される。そして春も真っ盛りの今は、無骨な瓦街を薄紅の花霞が包みこんでいた。
「さあさあ! 桜の花弁を炊きこんだ、竹筒飯はいかがかね!」
「お嬢さん、簪を見ていかないかい? 笛辰横丁の職人が丹精こめて仕上げた品だよ!」
 祝日にあやかって集まった露天商が、小川にかかった橋の上で賑やかに声を上げている。
 少年は橋を中途まで渡ったところで、川の両岸の桜並木に気づいて目を輝かせた。
「うわ、すっげぇ!」
 欄干に駆け寄り、嬉々として身を乗り出す。と、竹筒飯売りの露天商が呼びこみの声を止めて、にやにやと笑った。
「なんだ、坊主。迷子か?」
 少年はむっとして、露天商を振りかえった。
「違ぇよ。親父とおふくろが迷子なの。おれは探してるほう!」
 負けん気の強い返答にクツクツと笑って、露天商は竹筒飯を放ってよこした。
「この人ごみだ。元いた場所に戻るのが一番だと思うがな。ほれ、持ってきな。みんな弁当持参でちっとも売れやしねぇ」
「え、くれんの? ありがと。でも元いた場所なんて無理だよ。道順、覚えてねぇもん。……ねえ、あれ何してんのかな?」
 それを迷子と言うんだ、と笑う露天商に、少年は受け取った竹筒飯の先で河岸の桜を示した。
「人が集まってる。見世物でもやってんの?」
「さあな。あそこは毎年、お役人たちが陣取って、川辺の桜を楽しむ席だが」
 ということは、中級民ということだ。
 中級民は大人しく中級街で花見をすればいいのに。そう思うが、祝日の城下町の賑わいは特別なものがある。桜のこの時期は、中級民どころか高級民まで顔を出すことだってあるのだ。今日ばかりは、庶民が中級民にでかい顔をできる……というわけでは決してないが、庶民の景色を中級民までが堪能していると思うと、少しばかり、自分の身分が誇らしく思えた。
「ふぅん。んじゃ、行ってみよっかな」
 お祭騒ぎに心が浮き立ち、少年は欄干を蹴って橋に下り立った。
「おい、気をつけろよ。下手に騒ぎたてるんじゃないぞ」
「そんな忠告、生まれた時から魂に刻まれてら!」
「おい、母ちゃんと父ちゃん見つけたら、また買いに来いよ」
 ちゃっかりと商売根性を出す露天商に背を向け、少年は橋を渡りきったそのたもとから、小川に沿って伸びる道に下った。
 川の岸辺には見事な桜が植わり、どの木の根元にも人が座りこんでいた。歩きながら花を楽しみたい人たちは歩き方も不規則で、少年はちょっと苦労しながら、先ほど見えた人だかりへと駆けていった。
 しかし近づくにつれて、少年はそれが想像とは違う種類の喧騒であることに気づいた。
 集まった人々はみな顔をしかめていた。袖で口を隠し、こそこそと囁きあっている。少年はひときわ立派な桜の木を囲うように、ぐるりと輪になった人々の後ろで、ぴょんぴょんと跳びはねた。
 そして、ぎくりとした。上下に揺れる視界の端に映ったのは、薄汚い少女を、役人と思しき男たちが、よってたかって蹴とばしている光景だった。
 少女は痩せた両腕で頭をかばい、無言で身を縮めている。その手にぎゅっと握られているのは、形がすっかり崩れてしまった桜餅だ。
「……盗み?」
 傍らに立つ老婆に問いかけると、老婆は首を恐ろしげに振った。
「下級民さ。お役人の宴にしのびこんで、菓子を盗んだんだよ」
「そう……」
「馬鹿な娘だよ。よりにもよって、お役人から盗むなんてねぇ。残飯じゃ飽き足らず、きれいなおまんまが食いたかったんだろうよ」
 老婆は皺くちゃな唇を真一文字に引いて、舌打ちした。
「小さいのに、なんて卑しい娘だ」
 少年は目を泳がせ、「ん」と曖昧に答えた。
 もっと明確な同意を期待していたのだろう、老婆は奇妙なものを見る目つきで少年を見下ろした。
「……どうかしたのかい」
 その底抜けに暗い目。皺に埋没した眼球。情の感じられぬ瞳。
「な、なにが」
 何気なさを装って首を傾ける。老婆はしばらく少年を観察していたが、やがて目を細め、暗い視線を騒ぎの方へと向けなおした。
 少年は安堵し、慎重に人の輪から抜けだす。老婆の目が届かないところまで逃がれてから、一気に走りだした。
 そして手近な路地に足を踏み入れた途端、真正面から誰かにぶつかった。
「う、ぷ……っ」
 勢いあまった少年は、とっさにその人の腰に抱きつき、
「ぅわ!?」
 柔らかな感触に驚いて、大慌てで飛びのいた。
「ご、ごめんなさい、ちょ、急いでて――」
 言いかけて、目を丸くする。
 目の前に立っていたのは、頭から渋柿色の外套をかぶった長身の女だった。
「朱……」
「エクルジット、どうした」
 だしぬけに名前を呼ばれ、少年、エクルジットはあっと背伸びをした。
「あんたを探しに行こうと思ってたんだ! えっと、女の子。下級民だと思う。役人の飯を盗んだらしくて、それであの」
 口早に状況を伝えると、女は皆まで聞かずに少年の脇を通りすぎた。あっという間に路地から飛び出し、騒ぎの方へと駆けてゆく女を、少年は慌てて追いかける。ようやく追いついたときには、女はすでに人波を掻き分け、役人たちの前に立ちはだかっていた。
「なんだ、貴様――!」
 女は、少女を蹴っていた男の顔にいきなり拳を叩きこんだ。
 わっと悲鳴を上げる周囲には目もくれず、さらに男の傍らにいた役人を荒っぽく殴りとばす。
「ふざけた真似を……っ」
 ようやく我に返った別の役人が、懐の短刀に手をかけた。しかし女は振りあげられたそれを易々とよけ、役人の隙だらけの腹に容赦のない膝蹴りをぶちこんだ。
 役人の手から零れた短刀が、芝草の上を跳ねる。地面で呻いていた最初の男がとっさに手を伸ばすが、女は男の甲をかかとで踏みつぶし、短刀を川面へと蹴飛ばした。
 なんて乱暴で、なんて血なまぐさい。エクルジットは思わず歓声を上げかけ、はっと凍りついた。首筋に凍てつくような視線を感じる。目だけで振りかえると、先ほどの老婆が目を剥いて少年を見つめていた。
「あんた……」
 エクルジットはとっさに愛想笑いを浮かべ、老婆から逃げるように一歩一歩と後ずさる。
 一方の女は、地面で呻く男たちを無視し、少女の体をひょいと肩に担ぎあげた。人の輪が自然と割れて道が作られる。女は悠然と人の間を抜け、そのまま先ほどの路地へと消えていった。
「……っ」
 エクルジットもまた、老婆の気が逸れた一瞬の隙をついて人の中に紛れこんだ。女を追うことはせず、別の路地に全力で駆けこむ。老婆がどうしたかは分からなかったが、少なくとも役人たちが罵声を上げたのは、それからしばらくしてのことだった。


 複雑に入り組む路地を走りまわっていると、道というより、家屋と家屋の隙間のような狭い場所で、あの女がしゃがんでいる姿を見つけた。
 足取りを緩めて近づくと、「おなかすいたの」とか細い声が聞こえてきた。
「今、何も持ってないんだ。これから飯を食べられるとこに連れてくから、少し我慢してくれ」
 女はぶっきらぼうに答え、広げた外套の内側に少女を包んで、すっと立ちあがった。
「あ、朱燬媛士しゅきえんし……」
 エクルジットはようやく女に声をかけた。女はさっと周囲に警戒の目を向け、誰もいないことを確認してから、顎で路地の外を示した。
「戻れ。見られたらまずい」
「あ、うん。分かってる。あんたの迷惑になることはしないよ」
 慌ててうなずくと、女は少し困ったような仕草を見せた。
「じゃなくて……エクルジット。お前、何かと私に協力するけど、それがまずいって意味だ。それからその、朱燬媛士って名前もやめてくれ」
 外套が落とす影の下、緑色の瞳が気まずげに揺れている。
 先ほどの乱暴な印象とは、ずいぶんと様子の異なるたどたどしさに、エクルジットは少し笑った。
 ――半年ほど前だろうか。エクルジットが、この“朱燬媛士”と出会ったのは。


 あの時の状況も今日と大差なかった。どういった理由でかは分からないが、商人風の男たちに虐められていた下級民の子供を、女は拳に物を言わせて救い出したのだ。
 たまたまその場面に行き合ったエクルジットはたいそう驚いた。この城下町に、下級民を助けるような人間が、”あの人”以外にまだいたなんて……。
 好奇心が先に立ち、とっさに女の後を追った。女は足が速く、あっという間に見失ってしまったが、散々探しまわると、奥深い路地の片隅で座りこんでいる姿を見つけた。
『死んでるの?』
 腕に抱いた子供はぐったりとしていた。腕はだらりと地面に落ち、一目で死んでいると分かった。
 はっと顔を上げた女の顔は青ざめ、どこか呆然としているようだった。
 ガーサ仲師みたいだ。エクルジットはまるで似つかない女の顔を見て、そう思った。
 海明遼の安寧と秩序を守る総師軍、その六総師のうちの一人ガーサ・シュティッバー魔仲師を、エクルジットは五年前に一度だけ見たことがある。
 盗みを働こうとして失敗した下級民が、親戚の経営する宿場の前で自害した。そこに駆けつけたのが、城下町でも名の通った人情男ガーサ魔仲師だった。
 彼は誰もが顔をしかめる中、下級民の泥で汚れた顔を、服の袖で拭ってやっていた。たまたま用事があって宿に来ていたエクルジットは、吸い寄せられるように魔仲師の姿に魅入った。
 魔仲師の表情は、まるで下級民の死を悼んでいるようだった。
 エクルジット自身は、胸を痛めるどころか、宿の前で死ぬなんて迷惑だとすら思っていた。それなのに何故だろうか、死にゆく下級民の顔をそっと拭う魔仲師の行動を、とても尊いと感じた。
 あの感覚が一体なんだったのか、今でも良く分からない。幼心に、その疑問は誰かにぶつけていいものではないと悟っていた。だから誰にも言えず、その感情は心の奥にしまってきたが、それから五年、死んだ子供を抱いてうなだれている女を見たとき、脳裏にあの時のガーサ仲師の姿が自然と甦った。
 そうしたらもう、いてもたってもいられなくなった。
 それ以来、エクルジットは下級民が痛めつけられているのを見ると、つい周囲に女の姿を探すようになった。そしてそういう時、たいてい女は近くまで来ているのだ。
 朱燬媛士という呼び名は、エクルジットがつけた名ではない。見知らぬ人たちが小声でそう呼んでいるのを、たまたま聞いただけだ。
 かつてケナテラ大陸が崩壊の危機に陥ったとき、人々を救ったとされる伝説の英雄「朱燬媛士」。外套に隠された女の髪は、確かにかの英雄を彷彿とさせる紅蓮色だ。
「あ」
 エクルジットは思いついて、手にしていた竹筒飯を女に差し伸べた。
「これ。その子にあげてよ。もらいもんだけど」
 女はじっと竹筒飯を見つめ、ふと表情を和らげた。
「自分であげたらいい」
「ぅえ」
 少年は肩をびびらせて、竹筒飯と、女に抱えられた少女とを見比べた。
「う。えっと……そら。やるよ」
 つっけんどんに押しつけると、少女は切り傷と青あざだらけの細い腕を伸ばし、竹筒飯を受け取った。重さに耐えられないのか、その手が哀れなほどに震える。見ているだけで痛々しくて、顔を強張らせていると、少女は赤く腫れあがった顔をにっこりと笑わせた。
 ずきり、と胸が痛んだ。
 胸の奥でふくれあがる正体不明の衝動に、エクルジットはうろたえる。
 ――今も、分からない。自分が下級民をどう思っているのか。どう思いたいのか。
 けれど老婆のついた舌打ちが、とてつもなく気持ち悪い。
 中級民たちの優越感に、庶民の蔑みの目に、困惑するほどの違和感を覚える。
 女を「朱燬媛士」になぞらえた人たちは、女の行動を尊いものと感じたのだろうか。エクルジットがガーサ仲師の行動をそう感じたように。
 それは一体何を意味するのか。自分の、彼らの感情は正しいものなのか。
 そしてそれは、果たして許される感情なのだろうか。
「お、俺……あの」
 助けを求めて女を見上げると、女は表情を改めた。
「……もう行け。さっきの老人に会わないようにしろよ」
 見ていたのか。少年は老婆の気色の悪い目を思い出し、唇を噛む。
 そうだ。役人に狼藉を働いた下級民を助けるなど、決してやってはならないことだ。見つかれば、少女は公開処刑にかけられ、女も首を刎ねられるだろう。いや、あの老婆がエクルジットのことを警邏に訴えれば、少年の命だって危うくなるのだ。
 一歩後ずさる。深くうつむいたのは、動揺に引きつる顔を見られたくないからだ。
「……いつもありがとう。心強く思ってる」
 不意に女がうなだれた頭をぽんと叩いた。
 エクルジットはほとんど反射で口を開いた。
「で、でも、俺は、本当は……もっと!」
「分かってる。けど駄目だ。今はまだ」
「まだ……?」
「今は胸の奥に、仕舞っておいてくれ。いつか必ず、お前の正義が認められる日が来るから」
 エクルジットは爪先を見つめ、女の言葉を反芻する。しかし少年には、やはり言葉の意味を理解することができなかった。
 次に顔を上げたとき、女の姿は路地の闇から消えていた。


 メラスは物陰にひそみ、エクルジットの様子を見守った。少年はしばらく立ち尽くしていたが、やがてとぼとぼと路地を去っていった。
 ほっと息を吐き、メラスは少女を抱えなおす。役人が追ってきていないのを三度確認してから、ふたたび歩きだした。
 人通りを避け、足早に歩く。慎重に慎重を重ねて、三時間も歩きつづけたころ、メラスは彪旋の最北端にある、下級民の救護寮にたどりついた。
 一年前に建てられた、国営の施設だ。
 殺風景な野原にぽつんと建てられた寮の門鈴を鳴らすと、現れた院女が心得た様子で少女を受け取った。メラスは眠っている少女の頭を撫で、その姿が戸の向こうに消えるのを見送ってから、静かに寮を後にした。
 ――以前に比べれば、状況は格段に良くなった。
 ほんの一年前まで、海明遼には下級民のための救護寮など存在しなかった。下級民を保護しても、賄賂や違法な手段を使って、庶民のための孤児院に入れる以外に方法がなかった。それだって子供だけに通じる力技で、大人には一切の逃げ場が存在しなかった。
 それを思えば、わずか五年で下級民のための施設を築けたことは、大きな大きな一歩だった。
(分かってるのに……)
 メラスは立ち止まり、外套を深くかぶりなおした。
(私がこんなことをしてると知られれば、ガーサに迷惑がかかる。そんなこと、分かってるのに……)
 メラスは外套が落とす影の下で、ぐっと目を閉じる。
「ようやく見つけたぞ、“朱燬媛士”」
 不意に、首根にちりっとした感触がした。
 メラスはハッと目を見開いた。
 そして緊張に強張らせていた顔を、ほっと安堵させた。
「……こらこら。この緊迫した状況で、何でほっとするかな?」
 あっさりと引き上げられた木の棒を目で追い、その先に見つけた男の顔を、メラスはむすっとねめつけた。
「声を聞けばすぐにお前だって分かる。それと……ほっとなんかしていない! なんでお前にほっとしなくちゃならないんだよ!」
「んまー、天邪鬼なんだから、メラぷっぷは。ま、そこが可愛いんだけど!?」
 底抜けの陽気さで棒をくるくる回転させながら、フォレスは人好きのする顔を嬉しそうに笑わせた。
「いよ! おかえり、メラス」