第三話「穏やかな午後」
ケナテラ大陸中央部に位置する文明国家、海明遼。
「精霊王の一族」たる皇帝が支配するこの国は、他国に類を見ない厳格な法律と、絶対的な階級制度によって統治されていた。騒乱はおろか、重犯罪と呼べるものすら存在せぬ平穏の国。歴史書に一点の墨痕すら残さぬ潔癖の御世は、民草に「国家四百年の安寧」と称された。
新暦九百八十九年、春。
高級街に足を踏み入れたメラスは、両手を広げて深呼吸をした。体いっぱいに取り入れた空気はどこか甘い。広大な敷地のあちこちに植えられた桜や、春の草花が、大気にあたためられて、優しい香りを放っているのだ。
「もうすっかり春だな」
メラスは後ろから歩いてついてくるフォレスを振りかえる。
「二か月前にここを出たときには、まだ雪が残ってたのに。なんだか、時間を飛び越えたみたいな変な感じだ」
「なにい? 俺なんかこの二か月、退屈すぎて、百年も二百年もすごした気分だってのに……」
不満げな顔に、メラスは小首を傾げる。
「へえ。なんで退屈だったんだ?」
「なんでって……春季休暇の間、メラスがずーっと”あっち”に行きっぱなしだったからでしょーっ」
「私がいないから退屈って……お前、ほかに友達はいないのか?」
「わあ、なにその哀れみの顔!?」
フォレスは額に手を押し当て、わざとらしく溜め息をついた。
「はあ。メラスは男心ってやつをちっとも分かってないんだから、ぶつぶつ……」
「ぶつぶつって声に出てるぞ。……仕方ないだろ、私は女だ。男心なんか分かるわけない。だいたい何なんだ、その男心っていうのは?」
「聞く!? 聞いちゃうの、そこ!?」
きゃあっと女の子みたいな悲鳴を上げて恥らうフォレスを白けた目で見つめ、メラスはしかし堪えきれずに顔を綻ばせた。
フォレスとの馬鹿げたやり取り、それを「しっくり来る」と言えるほど慣れきった、メラスの日常だ。
――帰ってきたのだ。
メラスは道脇に広がる草むらに視線を転じた。そこにはひときわ優艶な桜が立っていた。黒い幹に、綿菓子のような桜花が風にふわふわと揺れている。
「あー……あのさ、フォレス」
気まずげに声をかけると、フォレスは拾った棒切れをくるくると回しながら眉を持ちあげた。
「ん?」
「その、“朱燬媛士”……のこと、ガーサは」
「知らないし、気づいてないし、宮廷でも噂にはなってない。天下人は相変わらず、下々の世界には関心がないご様子」
先回りで答え、フォレスはにいっと笑って、棒切れの先端でメラスの鼻頭を突いた。
「ガーサには内緒にしといてやるから、貸しひとつな」
「な。……というか、お前が“朱燬媛士”のことを知ってるって時点で、同じ穴の貉だと思うんだけど。どうなんだ、その辺は。え、”放浪皇子”様?」
放浪皇子と呼ばれたフォレスは飄々と肩をすくめた。
「俺の放浪癖は有名だし、今さら宮廷の外でぶらぶらしてたって誰も咎めません」
「居直るなよ。……まったく」
気が抜けてほっと息を吐くメラスに、フォレスは棒切れをくるりと手の内で回した。
「分かってるだろうけど、あんま目立ちすぎるなよ」
メラスは目を細め、空を舞う花びらを見つめた。
「分かってる」
「ただいま」
「おかえりなさいませ、メラス」
玄関から声をかけると、マイサが彼女には珍しく微笑みを浮かべて出迎えてくれた。
「ご無事のお帰り、何よりにございます。お疲れではありませんか?」
「疲れたよ。なにしろ道中ずっと、フォレスの相手をしてたからな」
「わー、聞いた? おたくの娘、教育がなってないんじゃねぇ?」
叱ってやってよと言わんばかりのフォレスに、マイサは冷ややかに目を細めた。
「あら、フォレス様。今日は窓からお越しではないのですね。私はてっきり、窓から入るのが皇族流の教育とばかり思っておりましたが」
「い、いやあ……あれ、どこからか菓子を焼くいい匂いが! 見に行かなくちゃ!」
鬼の面容を前に、脱兎のごとく厨房に逃げるフォレスである。
「……メラス」
マイサは表情ひとつ変えずにそれを見送り、ついっとメラスに視線を移した。
「ガーサは寝室です。まだ寝ていますよ」
「! そ、そうか。じゃあ、邪魔しちゃ悪いか」
二階にちらちらと視線を送っていたメラスは、慌てて目を逸らした。しかし無意識に、深緑色の瞳は階段の方に向けられる。マイサは軽く息をついた。
「ですが、もう昼を回りますから、昼食をお召しになっていただかなければ。メラス、起こしてきてくださいますか?」
メラスは破顔し、返事をするより先に階段を二段またぎで上っていた。
自分の部屋を通り過ぎ、奥にあるガーサの部屋の扉をそっと開けると、薄暗い室内、大きな寝台で眠るガーサがいた。
傍らにひざまずき、枕元で頬杖をつく。メラスが帰ってきたことにも気づかず、ガーサは口を薄く開けて、静かな寝息を立てている。その穏やかな寝顔をこっそりと覗きこみ、メラスは小さく笑った。
大型の犬みたいだ。そう思う。
以前にも、ガーサ本人に向かって「孤児院の周りをうろつく野良犬に似ている」と言ったことがある。茶色の毛並みは汚れていてもなお柔らかく、優しい目がなんとなくガーサを彷彿とさせた。
そっと手を伸ばして、ガーサの口髭に触れてみる。見た目を裏切らず、柔らかな髭。顔を覆う茶色の髪も癖っ毛で、触るとやはり柔らかい。それはガーサの人柄を表すようで、自然と心があたたかくなる。
布団にもぐりこみたい衝動に駆られ、メラスはうずうずとした。幼いころなら迷わず飛びこんでいたところだが、十七にもなってそれをやったら、マイサだけでなくガーサ本人にも大目玉を食らいそうだった。こういうとき、血の繋がりがないことが少し悔しい。
仕方なく髭だけを指でいじりながら、ガーサのこけた頬に目を落とす。
「痩せたかな……」
忙しいのだ。ずっと、もうずっと、この人は死に物狂いで走りつづけている。
「もっと力になりたい。もっと、もっと……」
祈るように、願うように、メラスは小さく呟いた。
「……んん」
髭に違和感を覚えたのか、ガーサがくすぐったそうに眉をひそめた。薄茶色の瞳が薄っすらと開く。
はっと目を見開くメラスをぼんやりと見つめ、ガーサは「やあ」とへらりと笑った。
「なあんだ、君か。お風呂でちゃんと百を数えたかい? できない子は布団には入れません……」
メラスは目を真ん丸にし、堪えきれない笑いを口端でかみ殺した。
「百、数えた。だから一緒に寝ていい?」
「んー、……!?」
起きた。ガーサは盛大に跳ね起き、メラスをまじまじと見つめた。
「あ、あれ? メラ、いつから……起こしてくれればいいのに! いびきをかいてなかったかい!? よだれとか……っいやそれよりも君もいい加減年頃の娘なんだから、独身男の寝所に気軽に入るのはっ」
「さっき来たばかりだ。起こそうとしたら、起きたんだよ。いびきは耳がつぶれそうなぐらいだったし、よだれもだらだらで、死にかけの犬みたいだったけどな」
悲鳴を上げるガーサがおかしくて、メラスは笑いを口に含んだまま、嘘をたっぷり交えた説明をする。そして、満面に微笑んだ。
「ただいま、ガーサ」
ガーサは目を瞬かせ、とびきり優しい笑顔を浮かべた。
「おかえり、メラス」
「”あちら”の様子はどうだった?」
遅めの食卓についたガーサは、向かいの席についたメラスに問いかけた。メラスは、マイサが並べる途中の皿にひょい手を伸ばし、答える。
「手土産に持って行った薬、役立ったよ。自分たちで育ててる薬草だけじゃ、やっぱり限度があるからな。あと、飯もちょっとはマシなもんになってた。腐敗防止の香辛料をうまく生かせてるみたいだ」
「飯とは何ですか。せめてご飯とおっしゃいませ。意地汚いですよ」
すかさずマイサにぴしゃりと手を弾かれ、メラスはぺろりと舌を出した。
「悪い。”あっち”の癖が出た」
「ごめんなさい、です。メラス」
「二ヶ月も里帰りしてたんだ、今日ぐらい許してくれ」
ガーサが言う”あちら”も、フォレスとメラスが言う”あっち”も、両方とも同じものを指す言葉だ。他でもない、メラスがかつて暮らしていた「下町」のことである。
一年に数回、メラスは下町を訪れる。学院の長期休暇を利用して、最長で二ヶ月に渡り、様々な調査を行うのだ。
非公式の調査だ。そのため、表立って「下町」という名を口にしないようにしている。
メラスが魔総師ガーサの養子となってから、すでに五年の月日が流れていた。十二歳と幼かったメラスは、ガーサの差し出した手を握れば、世界が一瞬で変わるような気がしていた。
だがそれは誤りだった。五年が経過した今も、下町の扉は堅く閉ざされたまま、進展もなければ後退もしていない。ただメラスの調査結果を元に、ガーサが極秘で準備した薬品や食材といったわずかな支援物資が、メラスによって届けられる以外には何ひとつ。
下町を救うには大変な時間がかかるだろうことは、最初に聞いて分かっていたことだ。だがこの五年間、天議会では「下町」という単語すら出てこなかった。唯一議論されたのは、下級民への支援の是非に関してだが、それすら一年前にようやく救護寮建設の許可が下りた以外の進展は見られなかった。
五年もかけて、これっぽっちの成果だ。だとすれば、下町の扉が開かれるのは、いったいいつの日になるのか。あの絶望的にぶ厚い壁が崩されるのは、いったい――。
「私がいない二ヶ月間、宮廷に何か変わりはあった?」
小さく嘆息し、メラスは気の逸れる話題をガーサに振った。
焼き魚の白身を箸でほぐして、ほくほくの身を食む。下町では魚なんて食べられない。抑えきれない喜びに突き動かされ、夢中になって骨を取るが、ガーサの返事がないことに気づき、眉を持ち上げた。
「ガーサ、どうかした?」
「……ああ、いや」
ガーサは彼には珍しく厳しい表情を浮かべていたが、あいまいに微笑んだ。
「まだ少し眠くてね。なにしろ久々の休暇だから、すっかり眠り呆けてしまった」
「ああ……新しい天議長が就任するんだよな」
今日、任期満了によって退任した天議長にかわり、新たな天議長が就任する。新しい天議長が起つと、就任式の前後が「祝日」に定められる。それゆえ、就任式の前日である昨日と、式当日の今日、そして明日とで国中がめでたい祝日の喧騒に沸いているのだ。
宮廷も主だった部署を除き、皆、休暇を楽しんでいる。総師はその「主だった部署」のひとつで、警護を兼ねて就任式には出席することが義務づけられていたのだが、議会の「特別な計らい」によって、ありえない休暇を得ることとなった。簡単に言えば、「総師などに就任を祝われたくないわ」と露骨に出席を拒絶されたのだ。まあメラスとしては、裏事情は何であれ、疲れ切っているガーサが少しでも休めるのなら、どうぞいくらでも無駄な意固地をお通しください、と言ってやりたいところだが。
「今日の午後、三名の天議長が就任する。リード=バイアー氏、アールズ=フォワマム氏、それからオヴジェウル=ミウリ氏だ。いずれもケナテラ大陸に名高い名家の輩出だ」
「あいつは、退任したんだな」
かつて下町に不法侵入し、下町の民に対して残虐な行為を繰りかえした天議長。あれから結局、一度も罪に問われることはなかったが、その分、総師にとっては実に都合の良い手駒となってくれた。
「ああ。惜しい男を失ったね」
ガーサの皮肉に、メラスも物騒な微笑を浮かべた。
「そうだな。役立つ男だった」
「十五人の天議長のうち、三人も交代するとなると、一気に国の機運は変わる。彼らが総師派か中立派であれば、海明遼も少しはまともな方向に舵を切ることができるかもしれない」
「三人が総師派か、中立派である可能性は?」
ガーサは溜め息をついた。
「こちらで調べた限り、リード氏は中立、アールズ氏は完全な議会派らしい。オヴジェウル氏については良く分からない。彼次第では、あるいは」
「そうか。……中立だったらいいな」
「そう思うのかい? 総師派ではなく?」
「総師派だとか議会派っていうのは、結局、どっちにとって都合がいいかってことが最優先事項なわけだろ。ガーサがやろうとしている下級民や下町の救済にしたって、総師全員に賛同を得ていることじゃない。だとしたら、ガーサ本人にとっては、むしろ中立の存在のほうがありがたいだろうと思って。もちろん、中立が必ずしもいいってわけじゃないけど……あれ、違った?」
ガーサは箸を止め、何故だか目を潤ませてメラスを見つめた。
「大きくなったなあ……」
いきなりの台詞に、メラスはぽかんとして、そして頬を赤らめた。
「な、なんだよ急に。そういうこと言うのはな、年食った証拠だぞ」
ガーサはぽりぽりと寝癖のついた髪を掻いた。
「いや、そうだね。最近、いつかメラスが結婚して、どこか遠くへ行ってしまうことを考えるだけで涙が……うう!」
「な、なんでいきなり結婚の話になんかなるんだ?」
メラスは困り果てて、泣き伏すガーサのふわふわの頭を宥めるのように撫でた。高級街にいる間は日常茶飯事のやり取りが、今日は妙にむずがゆい。
「なあ、ガーサの休暇は何日まで?」
照れ隠しがてらの問いに、目を赤くしたガーサは反射で顔を上げる。
「完全な休暇は今日だけで、明日と明後日は午前休み……」
「じゃあ、花見でもしない?」
不思議そうにするガーサに、メラスは笑いかける。
「さっきフォレスと歩いてくるときに気づいたんだけど、そこの野原、桜が満開なんだ。マイサに弁当作ってもらって、イスティーノやファイファンダの爺さんとか、カイ補佐も誘ってさ。ついでに、フォレスの奴も巻きこんで」
ガーサは目をぱちくりとさせ、涙目を微笑ませた。
「それは名案だ」