第十一話「狂の宴」
「本日は面談の機会を与えていただき、感謝申し上げます。オヴジェウル=ミウリ天議長」
青い井草の匂いが香る、まだ新しい畳。ガーサはその上に座して、天議長オヴジェウルに向かって、深々と頭を下げた。
優しげといってもいい茶色の眼、痩せた面相に深々と刻まれた皺、上品に整えられた砂色の髭、典雅な宮廷人にはふさわしからぬ簡素な着物――天議長というより、僧か、茶人の風情を漂わせたオヴジェウルは、穏やかに微笑した。
「いいえ。海明遼の民に愛されてやまないと評判の「人情男」殿とお話しができ、光栄でした。ガーサ魔仲師」
「……情けない評判がお耳に入っているとはお恥ずかしい限りです」
恐縮するガーサに、オヴジェウルはあくまでも柔らかな笑みを返した。
議会開催を一時間後に控えた刻限。
高級街の西方に居を構える、天議長オヴジェウル・ミウリの邸宅。
今日の議会において、下級民救済に関する重要法案を通すための根回しで、単独ミウリ廷を訪ねたガーサを、オヴジェウルは思いのほかにこやかに迎え入れた。
半刻という短い密談を終え、ガーサは改めて、オヴジェウルという人物に、雲をつかむような手ごたえのなさを感じていた。
温和。公平。天議会の人間でありながら、総師であるガーサの話に真摯に耳を傾ける度量。どれをとっても、ほかの私利私欲に走る天議長たちとは格が違う。
だが――いったいなんなのだろうか。この掴みどころのなさは。
オヴジェウルの眼は、冬の湖面のように静かだ。ほかの天議長たちがガーサに向けるような敵愾心や憎悪、嫉妬といった感情は、欠片も見当たらない。
ただただ穏やかに澄み渡るばかりの眼は、まるで神かなにか、人外の者を相手にしているような、そんな気さえ……。
「さて、そろそろ出仕の支度をせねば」
オヴジェウルが立ちあがるのを見て、ガーサははっと我に返り、困惑しながら立ち上がった。
「天議会と総師の間に横たわる溝は、決して浅いとは言えませんな、ガーサ魔仲師」
客間を出て、長い廊下を歩きながら、オヴジェウルが背後に従うガーサに語りかける。
「ええ。残念なことです。天議会と総師とが手を結べば、海明遼はよりよく発展していきましょうに」
答えると、オブジェウルは背を向けたまま、ふっと笑った。
「個人的な観点から言えばガーサ殿、私は貴殿の人柄を好く思っている。天議長という身分でさえなければ、貴殿と旨い茶でも飲み交わしてみたかった」
思いがけない言葉に、ガーサは驚きに目を見開いた。
「それは……ありがたいお言葉です。私もできることならば、複雑なしがらみなど忘れ、碗を交わしながら、この国の未来を共に語り明かせられたらと思っています」
「しかし現状、天議会は総師を憎み、総師は天議会を疎んでいる。残念ですな……ガーサ殿とならば、天議長の面々とよりもよほど良い国づくりができそうだったのですが」
ガーサは足を止めた。
掴みどころのない人物。だが、背を向けて発せられた言葉に、偽りは感じられなかった。
(オヴジェウル氏は、天議会派だ。けれど、総師を憎く思っているわけではない……)
表向きは、議会派。だが、実質的には「中立」と見ても良いのかもしれない。
ガーサは、オヴジェウルの真意を見極めんと目を細めながら――しかし同時に考える。天議長と総師という枠組みを超え、ともに手を携え、良い国を築いていけたら、どれほど良いだろうか、と。
もしかしたら、オヴジェウル天議長とであれば、天議会と総師との間に、新たな関係性を作ることもできるかもしれない。
「――できますとも」
言葉に力を籠め、ガーサは答える。
「いつか必ず、天議会、総師が同じ席につき、国の行く末を穏やかに語り合える日が来ましょう。今、この廊下での我々の語らいのように」
オヴジェウルもまた足を止め、肩越しにガーサを振りかえった。
その目は、やはり鏡のごとく澄み切っている。
「本気でそう思っておられるか」
ガーサはうなずく。
「はい」
迷いのない返答を聞き、オヴジェウルは不意に笑みを深めた。
その微笑はこれまでのものと異なっていた。宿っていたのは、紛れもない「敬意」だ。
「……ご立派な精神だ」
顔を曇らせるガーサに、オヴジェウルは笑う。
「いえ、皮肉ではありません。本心からそう思っているのです。貴殿は、きっと私に似ている」
オヴジェウルは視線を落とし、床板に横たわる己の影を見つめた。
「たとえこの先なにが起ころうとも、私は貴殿を……貴殿の志を、貶めるような真似だけは、決してしますまい」
ガーサは目を見開いた。
「それは……どういう――」
オヴジェウルはふたたび能面のように張りついた笑みを浮かべると、身を翻した。
+++
メラスは目深にかぶった外套の陰で、緑色の目線を持ち上げた。
視界の右手に立ちはだかるのは、都のぐるりを囲う、堅牢な石の外壁だ。
背にしてきた繁華街の喧噪が、遠い。壁のそばには人気はなく、ここにいるのは痩せて肋骨の浮き出た犬や、物言わぬ下級民の死骸ぐらいなものだった。
――これが、下町へと続く、道とも呼べぬ道。
右手には壁、左手には通りに並ぶ店々の裏壁。窓も扉もなく、路地に踏み入るメラスに注意を向ける者は誰もいない。
「占いはどうですか。お嬢さん」
はずだった。
メラスは顔をあげ、道の先にひとり、老人が座っているのを見つけた。
打ち捨てられた腐乱死体の脇で、ちょこんと背を丸めて座る姿は、まるで死神のようだ。
が、良く見ればそれは、先日、フォレスとともに夜の都をそぞろ歩いたときに見かけた、あの辻占い師だった。
なぜ、こんなところに。
眉を寄せる。こんな人通りのまるきりない場所で、辻占いもないだろうに。
「あなたさまがここを通ると、分かっていたのです」
辻占い師の言葉に、メラスは警戒を強めた。
それを感じ取ってか、辻占い師は枯れ枝のように細い手をふらふらと振った。
「いえいえ、占いでです。ここを通るお嬢さんに警告をしてやるようにと、そうお告げがあったものですから」
「……そう。けど、占いには興味がないんだ」
メラスはつっけんどんに答え、老人の前を行き過ぎようとする。だが。
「ええ、ええ、分かっていますとも。あなたさまは、運命を自分で切り開いてきた方。己の行く先を、人に訊ねるようなことはしないでしょうとも。けれど、どうしてもおせっかいを焼きたくなってしまいましてね――」
メラスは通りすぎざまに辻占い師を見おろし、ぎょっとして、思わず足を止めた。
辻占い師は泣いていた。潰れた両目から、はらはらと涙が零れ落ちている。
「ど、どうしたんだ? どこか痛むのか?」
慌てて間抜けなことを問うと、辻占い師は泣きながら笑った。
小刻みに震えた皺だらけの手をメラスに伸ばしてくる。掴み返さねば、今にも死んでしまいそうに見えて、メラスはその場に膝をつき、辻占い師の手を取った。
「ああ、優しい子だ。……おかわいそうに。なんと不憫な宿命を背負ってしまったのだろうか。なにか役に立つ助言をしてやれればよかったのに」
「いや……助言はいい。それよりもあんた、家は――」
「あなたさまは、なぜ下町などというものあるのか、お分かりか?」
突然の問いに、メラスはとっさに手を引きかける。だが、辻占い師は思いのほか強い力でメラスの手を掴み、離そうとしない。
「あの壁は、中の者たちを閉じこめているのか。それとも守っているのか――あなたさまは、考えたことはおありか」
「……なにを言って」
「見えるのです」
不意に、老人が声を低めた。
「ああ……見えるのです。あなたさまはやがて下町の壁を打ち壊すことでしょう。それと同時に、この世界の均衡までも壊しておしまいになる。なんと恐ろしいことを……!」
老人は潰れた両目をカッと見開き、眼球のない虚ろな眼窩で、メラスを見据えた。
「あなたさまは愛しき者のすべてを失う。王の宮はあなたさまを傀儡に変え、糸を切られた人形はすべてを大火で焼きつくす。そしてあなたさまは、あなたさまの魂は、焔にて死に、炎より生まれ出で、やがて青い海原の果てに世界の崩壊を見るのです……!」
「――やめろ!」
突然の狂気に戦き、メラスは辻占い師から強引に手を引きはがした。
老人の指の痕が赤く残った自らの手首を見下ろし、メラスは逃げるように立ち上がった。
「今宵、カラクリが停止します」
無言で踵を返したメラスの背を、不気味に平坦な声が追ってくる。
「……なに?」
「〈皇帝〉の歯車が、崩れ落ちた。新たな歯車が嵌めこまれたが、あれでは到底〈皇帝〉とは呼べぬ。……もはや、すべての歯車は、〈天議会〉の歯車の動きに従うほかない。〈総師〉の歯車は……もはや限界に」
老人は泣き伏し、丸めた背を震わせた。
「新たな時代が幕を開ける。だが、それを思うとあなたさまを哀れまずにはいられない。おかわいそうに……おかわいそうに」
もうそれ以上、その場にいることができなかった。
外套の裾を翻し、辻占い師に背を向けて足早に歩きだす。
不愉快さよりも、なによりも、恐ろしかった。
ひどく胸騒ぎがし、メラスはどこからか吹きこんだ薄紅の花弁を蹴散らし、先を急ぐ。
(気にするな。ただの占いだ。占い師はいつも思わせぶりなことばかり言う)
そういうものなのだ、と言い聞かせ、メラスはようやく立ち止まった。
肩越しに背後を振りかえるが、すでに辻占い師の姿は見えない。
唇を噛みしめ、頭に中に残る声を記憶から葬り去ってから、メラスは右手の壁を見上げた。
この壁の向こうに、下町がある。
――あなたさまは、なぜ下町などというものあるのか、お分かりか?
先ほどの辻占い師の言葉が耳に蘇る。
(なぜあの老人が下町のことを知っていたのかは分からない。けど……答えは「否」だ)
メラスは壁に手を触れ、冷たい壁面に額を押し当てた。
(下町とはなんなのか。いつからここにあって、いったいなんのために築かれたのか。なにひとつ分かっていない)
メラスを養子に迎えて以降、ガーサたちはありとあらゆる手段を使って、「下町」について調べを進めてくれている。
だが、成果は芳しくない。宮廷内にある文献に「下町」という記述は一切なく、いまだに成立の歴史ひとつ分かっていなかった。
フォレスに至っては、皇族のみが閲覧を許された禁書まで紐解いてくれた。だが、そこにも記載ひとつ見つけられなかった。
(この世界の誰も、下町がいったいなんなのかを知らない)
物理的に言えば、壁を壊すことはさほど難しくはない。
所詮はただの壁だ、鍵はかかっているものの、扉だってある。
だが――壁を壊して、それでなにが変わるのだろうか。下町の民には身分がない。法律上は、海明遼国の民ではないのだ。
外に出られたとして、海明遼国に居場所があるとは到底思えない。身分制度の中にいるはずの下級民ですら、あんな扱いだと言うのに。
(海明遼国に受け入れてもらうには、下町がいったいなんなのかを調べる必要がある。でも、謎ばかりだ)
一部の民は、下町を「奴隷の町」と呼ぶ。身分制度にも組み込めない、下賤の者たちを閉じこめた牢獄だ、と。
けれど、もしもそうなら、なぜ下町の大地はあんなにも豊かなのだろう。
昔、壁に登り、下町を覗き見たことがあるというフォレスは、下町を「楽園のようだった」と讃えた。
その通りだ。メラスの目から見ても、下町はすべてが揃った楽園に見える。
だが、だとしたらなぜこれほどまでに実り豊かな楽園を、下卑た民などに与えた?
――下町の民は、来る日も来る日も肥沃な大地を耕し、植物を育てる。
育てた稲や野菜、果物、薬草は、自分たちでは食さず、すべて下町の内部にある倉庫に納められる。
倉庫には鍵がかけられ、一週間後、新たな食糧を運び入れるために扉を開く頃には、前に運び入れたものはすべて、跡形もなく消えてなくなっているのだ。
メラスはそれをずっと当たり前のことと思っていた。だが、外の世界を知った今、それがいかに奇妙なことであるかが理解できる。
誰かが、あの倉庫から、食糧を運びだしているのだろうか?
もしそうなら、誰がどうやって運び出し、誰の口に入っているというのだろう。
――下町の問題は少し質が違うような気がする。
いつかフォレスが言った言葉を思い出し、メラスは息苦しい思いで目を閉じた。
(下町の問題と、下級民の問題は、そう、きっとなにかが根本的に違う。けれど、それがなんなのかが分からない)
だが、いつか下町の正体を明かしてみせる。
そして、この壁を取り払り、下町の民に自由を与えてみせる。
あなたさまはやがて下町の壁を打ち壊すことでしょう。
それと同時に、この世界の均衡までも壊しておしまいになる。
「…………」
メラスは幽鬼のように力なく壁から身を離し、担いできた革袋から鉤のついた縄を取りだした。
周囲に人気がないことを確認してから、くるりと鉤を回転させて宙に放る。壁の上部に鉤がしっかりと絡んだ。綱を引いてそれを確認してから、メラスは縄に体重を預け、素早く壁を這い登った。
途方もなく高い壁をよじ登るのは、慣れたメラスでも難作業だった。身体は擦り傷や打ち身だらけになり、爪と肉の間に煉瓦屑が詰まる。
壁のてっぺんに到着すると、鉤をかけなおして、逆側の壁を素早く下りていく。ずいぶん下りたところで縄から身を離すと、とっ、と両足が草の上に乗っかった。
メラスはほっと息をつき、縄を手早く丸めて外套の下に仕舞う。ようやく下町を振りかえって胸いっぱいにその空気を吸いこむと、
「メラスー!」
馴染んだ声が耳に届き、メラスは顔を輝かせた。
振りかえると、緑の草原の向こうに建つ孤児院から、小さな影が駆けてくるのが見えた。
「おかえりなさい、メラス!」
幼馴染のマリアは、愛らしい顔を満面に綻ばせ、子どもたちといっしょにメラスを迎えてくれた。
+++
「一緒に寝てもいい? メラス!」
夜半、今日の報告書をまとめ終え、寝台を整えていると、部屋の出入り口から可愛らしい二つの声が飛んできた。
三歳の男の子アレクと、八歳の女の子シーアが、マリアと並んで部屋の入り口に立っていた。
大きな枕を両手に抱えたアレクは、メラスの横に駆け寄って、もう一度「いい?」と首を傾げる。
「いいよ。どーぞ」
メラスは人形でも担ぐように軽々と抱え上げ、寝台に乗せてやった。一瞬、空を飛んだアレクは大はしゃぎだ。
「シーアもどうぞ」
羨ましげに唇を尖らせていたシーアは、促がされるとぱっと顔を輝かせ、寝台に飛び乗る。
メラスは笑い声をあげ、微笑ましげに二人の子どもを見つめているマリアにも手を振った。
「マリアもどーぞ。ご遠慮なく」
マリアはくすくすと笑うと、「じゃあ、ご遠慮しません」と嬉しそうに駆けだした。
窓の外から、じじじ……と虫の声が聞こえてくる。
メラスは暗闇の中に横たわり、窓の外で揺れる大木の影が、天井を静かに踊るさまを見つめる。
どうしてだろうか、眠れない。やけに目が冴え、疲れているのに、少しも眠気が襲ってこない。
傍らで身を丸めて眠るアレクとシーアの体温が温かかった。メラスは寝息をたてるふたりの頭を撫でながら、虫の声に耳を傾ける。
「……起きてるの?」
ふと、右隣に眠っていたマリアが身じろぎをした。
もぞもぞとメラスの方に向きなおって、大きな黒い瞳をぱちぱちと瞬かせる。
肩口で切り揃えられた黒髪、年齢以上にあどけなく見える顔立ち、メラスよりもずっと小さな体。
生まれたときから一緒に生きてきた、年の近い親友。
「久しぶりね、こうやってみんなで一緒に眠るの」
マリアははにかんで微笑み、こそっと囁きかけてくる。
メラスは笑って、うなずいた。
「本当。すごく久しぶりだ。前はよくこうやって、みんなで眠ったな」
「うん」
「それで、朝になると、シーアがおねしょをしてるんだ」
ほんの数年前まで日常だった過去。シーアが毎回おねしょをするから、朝起きて、まず寝具を洗うことが、メラスとマリアの日課だったのだ。
「今回は大丈夫だな。シーアも大きくなったし」
「シーアは平気。でも、アレクがきっとおねしょをするわ」
「……うえ」
マリアは鈴を転がすように、可愛らしく笑った。
幼い頃から男勝りだったメラスは、女の子らしいマリアを密かに羨ましく思っていたものだった。
懐かしく思っていると、マリアがふいに笑みを消し、躊躇いがちに唇を開いた。
「あのね、メラス……私、ずっと後悔していたの。“メラスなら朱燬媛士様のように世界を救ってくれるよね”なんて、あんなこと言わなければ良かった、って……」
メラスは目を見開き、首を傾げてマリアの顔を見つめる。
マリアは顔を曇らせた。毛布の下に入れていた手に、マリアの小さく冷え切った手が触れる。
「あんなことを願ったから、メラスは壁の外に出て行ったのよね。恐ろしい目に遭って……今も、恐ろしい外の世界で、恐ろしい人たちと戦っている。私、メラスをひどい目に遭わせているわ。自分ばっかり安全な場所にいて。……ずっと、後悔しているの」
メラスは枕に頬を押しつけ、マリアの悲しげに伏せられた睫毛を見つめた。
「マリアには、私が不幸せそうに見えるのか?」
問うと、マリアはぱっと顔をあげ、大きな瞳に涙を浮かべた。
じっと、真実を見極めようとするようにメラスを見つめ、やがて毛布の下でメラスの手をぎゅっと握りしめる。
「じゃあ、今、メラスは幸せなのね? 辛いこと、ないのね……?」
メラスは顔を綻ばせ、大切な幼馴染の冷たい指を握りかえした。
「辛いことなんてないよ、マリア。すごく幸せだ」
「本当?」
「うん」
「お父さん……いい人?」
「いい人だよ。親馬鹿すぎるのが玉に瑕だけど」
本当に、自分は幸せだ。
下町の皆に申し訳ないぐらいに。
ガーサという大好きな父親を得て、フォレスというかけがえのない友人を得て、イスティーノやファイファンダ、カイ補佐……大切な仲間たちを得て。
マリアは、下町の民は今なお、壁の内側に閉じこめられていると言うのに。
けれどその罪悪感は口にはしない。マリアは本心からメラスが幸せであることを望んでくれている。だから今だけは、自分ひとり、とてつもない幸せを得てしまったことを許してやれる。
「毎日、幸せ?」
「ああ。毎日、幸せだ。マリアは?」
ほっとした様子のマリアは、問いを返され、ふっと笑顔の花を咲かせた。
「幸せよ。だってメラスが、朱燬媛士様が、怖い人たちをみんなやっつけてくれたから」
二人は顔を見合わせると、年頃の娘らしく、くすくすと笑いあった。
そしてその晩、メラスは夢を見た。
カラカラカラカラ……。
歯車が、大きさも形も様々な歯車が、乾いた音をたてて回転している。
カラカラカラカラ……。
メラスは暗闇にひとり立ち尽くし、歯車が回るさまを眺めていた。
歯車という機械的な形が織り成す、奇妙に美しい造形。そっと手を伸ばす。その美しさに魅せられて。けれど触れる寸前、手をひっこめた。
いけない、これは大切なもの。
壊れでもしたら大変だ。いけない、いけない。
この葉車は、世界を動かす、大切な、大切な――。
カラカラカラカラ……。
+++
「えー、それではガーサ仲師に、新人歓迎会開催にあたって一言いただきたいと思います!」
中級街を流れる仙膳川の畔にある、高級民も御用達の小料理屋。
「本日貸切」の札がかけられた小料理屋の奥座敷で、やんややんやの拍手喝さいが巻き起こった。
集まったのは、主に師武官庁仲師軍政務寮所属の文官たちである。訓練や警護に明け暮れる武官とは対照的に、日夜、文机にかじりつき、総師が天議会に参議する際に必要とされる書類作成などを一手に引き受けている。今宵は、その政務寮に就任した四人の新人文官を歓迎するための酒宴だ。
「ガーサ仲師、どうぞ前へ!」
政務寮の寮長マシスが、「ええ?」と狼狽えるガーサの腕を引っ張り、宴席に集まった総勢四十六人の配下の前に引きずりだした。
「ささ、仲師、ありがたいお言葉を! 新人たちが一生の糧にできるような、ものすっごくありがたいお言葉を!」
「や、やめてくれ、そんなたいそうなことは言えないから……っ私が挨拶苦手なのは知っているだろう、マシス!」
「やだなあ、なんで逃げるんですか、仲師……おい、ソウジョ、ハラン、仲師を羽交い絞めにしろ! 無理やりにでも口を押し開け、ありがたい訓戒を吐きださせてやれ!」
「承知しました、マシス寮長!」
「ちょ――!」
ソウジョとハランが仲師を羽交い絞めにすると、配下たちが一斉に「いいぞいいぞ!」と声をあげた。上官相手とは到底思えぬ態度だが、これもすべてガーサに対する深い信頼あってゆえのことである。
「えー……えーと……、そ、そうだな。ごほん」
素直に羽交い絞めにされながら、ガーサは照れくさい気分で咳払いをした。
「小難しい話は、就任式で言ったから……今日は簡単に」
そう言ってガーサは、にやにやしている先輩面々とは対照的に、すっかり恐縮しきって身を縮めている新人四人の顔を、ひとりひとり見つめた。
「エレイア、リーザ、セレンディ、カーダル。君たちのように優秀な若者が仲師軍に加わってくれたこと、この上なく嬉しく思っている。……今日、君たちが身を粉にして準備してくれた法案が、無事、天議会の第一審議を通過した。就任してすぐの大仕事、まだ慣れない環境で疲れもあったろうが、よく頑張ってくれた」
途端、宴席に割れんばかりの拍手が轟いた。
散々根回しに奔走した重要法案は、本日、無事に天議会の承認を受けたのだ。
現在、首都の南東に流れる黄鈴大河で、大規模な治水工事が行われている。だが、慢性的に人手が不足していることから、その労働力に下級民を宛がってはどうか、と提議をしたのだ。
首都における下級民の犯罪は、年々増加している。主に、飢えから来る食糧品の盗難だが、そのことで人々の下級民に対する感情は悪化の一途をたどっていた。石を投げ、暴力を振るい、死んだ下級民は軒下に置き去りにされる――治安も衛生環境も悪化し、天議会はそのことで苛立ちを募らせていた。
仲師軍の今回の提案は、その苛立ちにつけこんだものだった。つまり、首都にとって邪魔な存在でしかない下級民を、すべて黄鈴大河に追いだしてしまえばどうか、と進言してやったのだ。
下級民の尊厳を無視した提案ではあるが、こうでも言わなければ、天議会は法案は可決しない。実際のところ、下級民にとっても願ってもない法案になるはずだ。工事現場の近くに労働村を築き、働ける下級民はすべてそこに送りこむ。男たちには労働の技を教え、女たちには賄い食を作る術を教える。衣食住を保証するだけでなく、最低限の労働技術を教えこむこと――それは治水現場での仕事を終えたのち、彼らに安定した仕事を与えるための基盤となるだろう。
天議会の反応は、「首都で、下級民どもを働かせるのは冗談ではないが、顔が見えぬほど遠い地で、自分たちの役に立ってくれるというなら、まあ使ってやってもよい」だった。馬鹿げた話だが、この考えが当たり前のようにはびこっているのが、海明遼という国なのである。
最大の問題は、下級民を働かせることで生じる費用をどう工面するかだが、それをどうにかひねり出す策をまとめたものが、今回の法案である。
「まだ実感はないかもしれない。もしかしたら、不服に思うところもあったかもしれない。だが、君たちのその手が、多くの民を救ったこと、誇りに思ってほしい」
下級民の救済に力を入れていることについて、仲師軍の内部でも不満は根強くはびこっている。
だが四人は、食い入るようにガーサを見つめ、その一言一句に神経を凝らしていた。
ガーサは微笑んだ。
「いや、たとえ君たち自身がそう思えなかったとしても、誰よりも私が、君たちのことを誇らしく思っている。……良く、仲師軍に来てくれた。これから共に歩んでいこう」
話を切り上げ、ガーサは面映ゆい思いで笑った。
「……と、これでいいかな、マシス?」
マシスがちらりと新人たちに目をやると、四人は目にぶわっと涙を浮かべ、卓上の酒器を取りあげ、天井高くに掲げた。
「誇りだなんて……嬉しいです、ガーサ仲師……っ」
「仲師を尊敬しています、お仕えできて光栄です……!」
「仲師、愛してますぅう……っ」
途端、先輩諸賢が「図々しいぞお前ら!」「調子に乗るな馬鹿野郎!」「俺たちも新人のときはあーだこーだ」と叫びながら、一斉に「仲師に乾杯!」と叫んだ。
ガーサはおずおずと座席に戻り、前菜を箸で突いている隣の席のカイ補佐に「緊張しすぎて、もうなに喋ったか忘れちゃったよ」と零した。
「そう難しくお考えにならなくたって、仲師軍はみんなガーサにでれでれですよ。私のことは怖がるくせに……失礼しちゃうわ」
カイは唇を尖らせ、徳利を取って、ガーサの酒器に酒を注いだ。
「でも、まあ、なかなかだったんじゃないでしょうか? メラスちゃんなら、六十点ぐらいはくれると思うわ」
「ええっ、そ、そんなに高い点を!? 嬉しいなあ!」
「……あらいやだわ、低く言ったつもりだったんですけど」
「いや高いよ。高い高い。メラスにしたら高い」
ガーサはクツクツと笑って、酒器を口に運びながら、窓の外に月を見つめた。
メラスはもう眠ったころだろうか。
「あの、仲師。下級民の娘を養女にしたっていう話は本当なんですか?」
上官に酒を注ぎに来た新人文官が、怖い物知らずで問うてくる。ガーサが苦笑してうなずくと、「どんな娘なんです?」と重ねて問う。
ガーサは酒をこくりと呷り、もじもじと視線を泳がせ、どんっと酒杯を卓に叩きつけた。
「ものすっっっっごく可愛い! でも、絶対にお前にはやらん!」
「……えー……」
どん引きする文官に、ガーサは自慢げに笑った。
「自慢の娘だよ。言葉にならないほどに」
「じゃあ、私はそろそろ帰るよ。ほどほどにね」
「え、もう帰っちゃうんですか? ほとんど飲んでないじゃないですか」
「やあ、あんまり飲み過ぎると……世も末もなく泣きだしちゃうからねえ……」
「……あ、ああ」
部下の呼び止めを情けなくかわして、ガーサは小料理屋を出た。
外に出ると、涼しい夜風が上気していた頬を心地よく撫でて行った。ガーサは連日の仕事で凝り固まった体をうんと伸ばし、川辺を歩きはじめた。
「待ってください、ガーサ仲師」
振り返ると、小料理屋の暖簾をくぐって、カイ補佐が疲れた顔で出てくるのが見えた。
「これ以上飲むと、悪いお酒になってしまいそうで。猛仕事のあとの歓迎会は、さすがに疲れますね……ご一緒しても、かまいませんか?」
ガーサは「かまわないよ」と笑み、二人並んで歩き出した。
「まったく、彼らは喋り通しでよく体がもつものだな」
深夜の時間帯、川沿いの繁華街を外れると、中級街の通りもしんと静まる。高級街に向かって伸びる、街路樹が連なる坂道をゆっくりとのぼりながら、ガーサは欠伸を零した。
仲師軍はみな酒が強い。尊敬すべきは、あれだけ酒を呷っておきながら、翌日の仕事には疲れた様子もなくしっかりと出てくるところだ。酒がべらぼうに弱いガーサは、尊敬を通り越して畏怖すら覚えている。
「ガーサ仲師ったら、なにを爺くさいことを……」
カイが苦笑する。ガーサは手をひらひらと振った。
「じじいだよ。もう良い年だ」
「爺のファイファンダ初師はあんなに若々しいじゃありませんか」
「あの方と一緒にしないように」
高級街へと開かれた門をくぐり、ふたりは歩きながら他愛もない会話を楽しむ。やがて左右に別れる辻道にぶつかり、カイが頭を下げた。
「じゃあ、私はこれで。おやすみなさい、仲師」
カイの住む屋敷は、ガーサの屋敷とは真逆に位置する。
「ああ、気をつけて」
ガーサは微笑み、道の奥に消えてしまうまでカイを見送る。
「カイ」
不意に、ガーサはカイのすらりとした背を呼び止めた。
カイは肩越しに振りかえり、月光を浴びて美しく白んだ顔を微笑ませた。
「はい?」
ガーサは眩しげに目を細め、なにかを言いかけ、結局首を横に振った。
「いや……また明日」
カイは不思議そうにしながらうなずき、ふたたびガーサに背を向ける。
ガーサは彼女の姿が闇に溶けこみ消えるのを見送ってから、踵を返し、ゆっくり、残りの家路を歩きはじめた。
+++
――カラカラカラ、カラ……ン……。
夢の中の闇に立ち尽くし、歯車が動くさまを眺めていたメラスは、ふと眉を寄せた。
一瞬前まで、迷うことなく回転していた歯車が、どこか鈍い動きを見せている。
メラスは困惑して、歯車のあちこちに目をやり、驚きに目を見開いた。原因はすぐに分かった。カラクリを構成していた一番大きな歯車が、木端微塵に砕けて、地面に散らばっていたのだ。
どうして。いったいいつの間に。
メラスは青ざめ、跪いて、砕けた歯車の破片を集める。
いけない。このままでは、全ての歯車が止まってしまう。早く砕けた歯車を繋ぎ合わせて、元の場所に嵌めこまなくては。
ガーサは屋敷まで続くこの道が、とても好きだった。
道の両脇を飾る無数の灯火は、精霊術を応用して造られた人工物だ。家まで導いてくれる無数の光は、地上に降ってきた星の瞬きのようで、とても美しい。
――きれいだな、ガーサ。すっごくきれいだ!
不意に、メラスと初めて夜道を散歩したときのことが頭に思い浮かぶ。
メラスを養女に迎えて、ひと月ほど経った頃のことだ。メラスはなかなか高級民としての生活に馴染むことができず、夜になると沈んだ顔をして、窓の外ばかりを眺めていた。心配したガーサは、高級街を少しでも好きになってもらえれば、とこのお気にいりの道にメラスを連れだしたのだ。
メラスはガーサと繋いだ手に力を籠め、緑色の瞳をきらきらと輝かせた。
――下町の夜道もな、夜になると月光草が星のように輝いて、すごくすごくきれいなんだ。あの景色にとても似ているよ、ガーサ!
そしてメラスは幼い顔を綻ばせ、照れくさそうに言った。
――連れてきてくれて、ありがとう。ガーサとおんなじものが好きで、嬉しい。
ガーサは愛しい娘の笑顔を思い出して、微笑んだ。
今晩、屋敷に戻ってもメラスがいないというのは、なんとも寂しかった。
マイサを相手に、慣れない晩酌でもするかと苦笑し、家路を急ごうと足を速めて――、
不意に、ガーサは立ち止まった。
「…………」
顔から笑みを消し、本能的に、首から紐で吊るした魔石を取りだす。
冷ややかな質感の石を掌に転がし、そっと握りしめる。
背後に、気配を感じた。
気配は、複数。
常人の気配ではない。
足音をひそめ、それでいて己の存在を知らしめるように、濃厚な殺気を放っている。
ガーサは魔石を強く、強く握りしめた。
魔石から溢れだした冷たい熱が、ガーサの手のひらを介して体内に流れこむ。
普段は眠っている「風術師」としての力が、魔石の呼びかけに応じて目を覚まし、足元に微かな風の渦を巻き起こした。
ガーサは唇を引き結び、魔仲師としての容赦ない殺気を全身に宿らせ、背後の闇を振り返る。
直後、道の脇にわだかまる闇の向こうで、鋭利な光が走った。
懸命に歯車を拾い集めていたメラスは、嫌な予感に駆られて顔をあげた。
ああ、なんてことだ。どうして。どうして。
砕け落ちた歯車があった場所に、いつの間にか別の歯車が嵌めこまれていた。
歯車と、その隣にあった歯車とが、これまでとは逆の方向に回転を始めようとする。
その動きを、一番右端にある錆びついた歯車が必死に留めていた。
メラスはとっさに、錆びた歯車に駆け寄る。
いけない。守らなくては。落としてはいけない。この歯車だけは、絶対に。
「……っ」
銀色に煌めく刃が、ガーサの眼球目がけて突きだされる。
身を屈めてそれを避けながら、ガーサは覆面をした襲撃者の懐に入りこみ、魔石を握りしめた拳をその腹部に叩きこんだ。刹那、拳から巻き起こった爆風によって、襲撃者の体は後方へと吹き飛び、背中から街路樹に叩きつけられた。
襲撃者の生死を確認する間もなく、左方の闇から二人目の襲撃者が襲い掛かって来た。恐るべき速さで振り下ろされた長剣。避けきれずに右肩が鮮血を吹くが、返す刃で脇腹を狙ってくる襲撃者より早く、ガーサは魔石で虚空をなぎ払った。空間が裂け、カマイタチが走り、襲撃者の胴体を真っ二つに引き裂く。
だが、その無残な死にざますら、ガーサは見ることができなかった。
三人目の襲撃者が、空から降ってきた。
メラスは悲鳴をあげる。
錆びた歯車が、ほかの歯車の動きに負け、弾かれるように吹き飛び、メラスの眼前で粉々に砕け散った。
星屑のようにきらきらと舞う歯車。
最後の抵抗を失ったカラクリは、猛然と逆回転を始めた。
ガーサは、短刀を逆手に持って襲いかかる襲撃者に向けて、渦巻く風をまとわせた拳を繰り出した。
だが、そのとき、ガーサは驚きに目を見開いた。
魔石を操るために、極限まで研ぎ澄ませていた意識の隅に、ほんのわずかな綻びが生じる。
それが、致命的な隙となった。
白い月光に照らされて、鋭利に輝く短刀。
一人目、二人目の襲撃者とは異なり、その人物は覆面をしていなかった。
その顔を見て、ガーサは、ただ、ただ、純粋に驚いてしまった。
(ああ、なぜ驚いたりなどしてしまったのか……)
迫り来る刃は、避けきれるものではなかった。
だからガーサは、襲撃者の――見知った人物のその顔を、幾筋も涙が零れ落ちていくのを静かに見つめた。
(ずっと前から、分かっていたことだった……驚くようなことではなかったというのに――)
短剣が深々と、自分の胸を貫いた。
ずぶり、という気味の悪い音が鼓膜の奥にまで聞こえてきた。
襲撃者が、食いしばった歯の奥で、泣き声のような呻き声をあげる。
痛みを感じるよりも先に、襲撃者が胸を刺し貫いた短刀を引き抜いた。
白い月を、真っ赤な鮮血が染める。
ガーサは飛び散る血を見つめながら、虚空に向かって手を伸ばした。
その手は、泣き崩れる襲撃者に伸ばされたものだったか、あるいは虚空に散る紅蓮の中に見た、誰かの幻に向けたものだったのか……。
――……メラス。
メラスは悲鳴をあげて飛び起きた。
その拍子に、隣で寝息をたてていたマリアが驚いて目を覚ました。
「ど、どうしたの、メラス?」
マリアは呆然と虚空を見つめたまま硬直しているメラスの顔を覗きこんだ。
メラスの顔は血の気が引き、唇が小刻みに震えていた。
「マリア……」
メラスは感情を押し殺すように、口元に手を当てて震え出した。
「大丈夫? 怖い夢でも見たの?」
驚いて寝台からころげ落ちたアレクとシーアが、ぽかんとメラスを見つめ、やがてなにか恐ろしいものを感じとってか、わんわんと声をあげて泣きだした。
マリアもまた恐怖に駆られながら、しかしメラスを宥めようと背中を擦ってやる。
「マリア、どうしよう……っ」
だがメラスの動揺は収まらなかった。痛々しいほどに震えた手で、マリアにしがみついてくる。いつも毅然としたメラスの弱々しい様子に、マリアは戸惑いのあまりに目尻に涙を浮かべた。
「どうしたの?」
「分からない、分からないけど……すごく怖い……、怖いんだ……っ」
なにか夢を見た気がする。けれどよく覚えていない。
ただ理由もなく、恐ろしくてたまらなかった。
「……ごめん、マリア。今日は家に帰る――」
震えながら、メラスはマリアから身を離して寝台から下りる。痛々しいその姿のまま帰すのは心配だったが、止めることもできず、マリアはメラスにかわって荷物を用意する。
簡単に荷造りを終え、すでに外套をまとっていたメラスに手渡すと、マリアはメラスをぎゅっと抱きしめた。
「気をつけてね、メラス」
メラスはマリアを強く抱き返し、荷物を肩にかけると孤児院を後にした。
走って、走って、走りつづけ、それでも高級街に帰りついたのは、夜明けを過ぎた頃だった。
柔らかな白い朝靄に包まれた高級街は、ひどく静かだった。
すでに早出の宮廷仕えが、外邸に向かっているべき時刻だというのに、道には人の気配が一切なく、虫や鳥までもがしんと息を潜めているようだった。
メラスの足は、自然と、重たくなる。
早く帰りたいと思うのに、足がうまく前に進んでくれない。
なんなのだろう、この不安は。どうしようもない、この恐怖は。
早く家に帰りたかった。
ガーサと、マイサがいる、あの温かな家に帰れば、この不安は治まる。
きっと。――きっと。
だが、屋敷に帰りつくと待っていたのは、いつも美味しい菓子を作ってくれるマイサでもなければ、満面の笑顔で迎えてくれる優しい義父ガーサでもなかった。
メラスは立ち呆けて、門の前に佇む兵士たちを愕然と見やった。
「……リュマーラメラス=シュティッバー、ですね」
平坦な兵士の問いに、メラスは無言のままうなずく。
兵士たちは顔を見合わせた。やがて、その中のひとりが前へと進み出る。
人形のようだと思った。男の顔はまるきり無表情で、よく出来た人形のようだった。
だから男が次に紡ぎだした言葉も真実味がなくて。
「リュマーラメラス殿。ガーサ=シュティッバー魔仲師が、亡くなられました」
まるで、信じることができなかった。