小説(長編小説)王宮の自動人形|第二章 10



第十話「光と影」

 辻占い師は、目の前にしゃがみ、好奇心たっぷりに己を見つめる皇子にこう告げた。


 では、覚えておおきください。
 カラクリが動きを止めるとしたら、その理由はただひとつ。
 歯車のいずれかがぱきりと割れて、粉々に砕け落ちたときなのです――と。

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 ガーサは、今朝の朝議にかける予定の書類に目を通しながら、朝食を食べていた。
 難しい顔で書類を睨み、思わず食事の手を止めるガーサに、背後に控えていたマイサが溜め息をついて「ガーサ」と言う。
「食事をとるときぐらい、書類は脇に置いてください。体を壊したらどうします」
「んー……うん、おいしいよ」
「ガーサ!」
 マイサに脇から書類を奪われて、ようやくガーサははっと我に返った。
「あれ、どうしたんだい? おいしいよ! おいしい!」
 慌てて言い募るガーサに、マイサは目を細め、はあ、と声に出して溜め息をついた。
「家でのお仕事はほどほどになさいませ」
「……はい」
 書類を取りあげられてしまったので、観念してガーサは食事に専念する。
 そこへ、二階からどたどたと足音が聞こえてきた。ガーサは自然とほころぶ顔を持ちあげ、マイサはまた「メラス……」と不満げに呟く。
 元気すぎる足音は、二階の廊下から階段を駆け下りて、一階の食堂の前の廊下をばたばた駆け抜け、しばらく水場で顔を洗うような音をたてたあと、ようやっと赤髪の主を食堂まで連れてきた。
「あ、ガーサ、マイサ、おはよう! ……ございます」
 挨拶もそこそこに、食事の席につこうとしたメラスは、マイサの背後にめらめら燃える炎を見たのか、ぴたりと止まってきちんと挨拶をしなおした。
「おはよう。ずいぶん早起きだね、メラス」
 十七歳になっても相変わらずのお転婆ぶりに、ガーサは苦笑すると、メラスはかっと顔を赤らめながら席に腰を落とした。
「今日からまたあっちだから……しばらくその――」
 学舎が夏季休暇に入ったため、メラスは今日から下町に行くことになっていた。
 ガーサは、口籠るメラスの赤い顔を見つめ、ぶわっと目に涙を浮かべた。
「そうか、早く下町に行きたくて、そんなにはしゃいでいるんだね。私と離ればなれになるのがそんなに嬉しいんだね……っ」
「ちがう! しばらく会えないから、今朝はなるべく長くガーサと一緒にと思――あ!」
 メラスは、言うつもりのなかったことを口走った口を両手でばっと塞ぎ、耳まで真っ赤になった。
「……ガ、ガーサが寂しいかと思って、早く起きてやったんだよ」
 むっつり顔で、苦し紛れの言い訳をするメラスに、ガーサは相好を崩した。
 にこにこ。にこにこにこにこ。
 頭に花が咲いたみたいなガーサの能天気な笑顔を、メラスはぎろりと睨みつけた。
「いいから、早く食べろよ! 今日は議会開催の前に、重要法案を通すための最後の根回しってやつをするんだろ? 天議長どもに」
「こら、口が悪いよ、メラス。天議長に対し、「ども」はいけない」
 父親らしく娘を叱ってから、ガーサは穏やかに笑んだ。
「それに、そんなに急ぐ必要はないんだ。今朝、声をかけるのはひとりだけだからね。オヴジェウル=ミウリ氏。覚えているだろう?」
 オブジェウル=ミウリは、春に就任した三名の天議長のうちのひとりだ。
 春からこっち総師たちは、新任の天議長たちとの「距離感の見極め」を急いでいた。総師を目障りだと思っているならば距離を置き、多少なりと歩み寄りを考えているならばしたたたかに距離を詰め、完全中立を決めこんでいるならば下手な手回しはしない……どの程度の距離で接するのが「ちょうどいい」のかを見極めようとしているのだ。
 三名のうち、アールズ=フォワマム氏との「ちょうどいい」距離は、就任早々に決まった。「距離を置く」である。フォワマムは典型的な議会派で、総師を目の上のたんこぶと見なしている。総師の発言は、その内容に関わらず、すべてに「否」を掲げるのだ。
 リード=バイアー氏は就任以前から「中立」を表明していたが、実際、これ以上ないほどに公明正大な人物だった。総師を目の敵にして、じたばたと足掻く天議長たちを鼻で笑い、自分にすり寄ってくる総師を蠅でも追い払うみたいに手であしらう。懐柔できないという点では厄介な人物だが、その絶対的な公平さ、揺るぎない中立は、総師からも、天議会からも一目が置かれていた。
 そして目下、総師たちが距離感を決めかねているのが、オヴジェウル=ミウリ氏である。
 その気性は、一言で言えば、静謐。口数が少ないというわけではないが、言動、挙動にばたついたところがまるでなく、まるで盤石のような安定性があった。議会派か、総師派か、中立かはいまだにはっきりしないが、見たところリード氏同様、中立に近いようだ。
「なかなか手の内を見せない人物だ。ゆったりと浮かべた笑みの裏側でなにを思うのか……議会開催の前に、少しでも考えを探っておきたい」
「リード天議長と、オヴジェウル天議長の話は、たまに同級生の話でも出てくるよ。次代の天議会を中心的に取りまとめるのは、この二人のどちらになるだろうって。ただ、リード氏は頑固一徹な気性のせいで敵も多いから……多分、オヴジェウル氏が」
 ガーサは学生たちの分析を聞き、微笑ましい思いでうなずいた。
「感心だ。中級民の学生たちはよく分析ができている。将来有望だな」
「どうかな。ただの冷やかしって感じもするけど」
 メラスは揶揄するように笑って、天井を仰いだ。
「でも……そうだな、何人か、こいつはすごい官僚になりそうだって同級生はいるよ。私が下級民の出って知っても、遠巻きにするより、どんどん近づいてきて、議論をぶつけてくる。最終的にはいつも、「下級民は下劣」ってことで終わっちゃうんだけど、そのくせ、しょっちゅう話しかけてくるから、色々と思うところがあるんじゃないかな」
「そうか。それはますます頼もしい」
 メラスも笑ってうなずいた。
「私も嬉しい。遠巻きにされるより、たとえ軽蔑や嫌悪であっても興味を持ってくれた方が未来が見える。……なるべく話をするようにしてる」
 ガーサは微笑み、「それがいい」と答えた。


 食事を終え、すべての準備を終えたところで、メラスは玄関に向かった。
 ガーサも、長らく家を空ける娘を見送るために後をついてくる。
「私がいない間、体に気をつけるんだぞ。たまには息抜きもしろ」
 玄関口に座って、靴を足に通しながら、メラスはむっつりと振りかえってくる。
「同僚と食事するとか、お酒を飲むとか……ガーサは根詰めて働きすぎだ」
 仏頂面の忠告が可笑しくて、ガーサは破顔する。
「そうだね。……実は今夜は、その同僚たちと飲み会だ」
 よほど珍しい一言だったのか、メラスが驚きのあまりに目を丸くした。瞳が大きく開かれて、綺麗な緑色の光を弾いている。
「先日、新しい部下が入ったんだ。その歓迎会。中級街の居酒屋で飲み会らしい」
 メラスはまじまじとガーサを見上げ、楽しげに笑いだした。
「じゃあ、別の忠告! 絶対、飲みすぎるな。ガーサは泣き上戸なんだから。新しい部下に情けない姿見せたら、新参者にまで「人情男」ってからかわれるぞ!」
 ガーサは先日のフォレス主催やけ酒大会を思い出し、苦笑した。さっぱり記憶にないのだが、はたと気づいたら、ファイファンダとイスティーラがすっかり酔いつぶれていて、その横でフォレスとメラスが目を真っ赤に腫らし、「本当に罪な男だよ」「これ以上惚れさすな、馬鹿」とぶつぶつ文句を垂れていたのだった。いったい、なにが起きたのか。
「本当になあ、ガーサは……どうしようもないんだから」
 今日もぶつぶつ文句を垂れるメラス。
 ガーサは、こちらに向けたメラスの背中を、黙って見つめた。
 五年前はあんなに痩せ細って小さかったのに、気づけばずいぶんと背が伸びたものだ。天窓から射しこむ淡い朝の光が、背中に垂れた紅蓮の髪を赤々と燃えあがらせる。
「大きくなったなあ……」
 しみじみと呟くと、メラスが顔をしかめて振りかえった。
「またガーサは……そういうことばっかり言ってると、早く老けるぞ」
 相変わらずの汚い言葉づかいに、ガーサは笑う。マイサがどれほど注意しても、油断するとすぐに地が出てしまうのだ。
 だが、ガーサはメラスの飾らぬ口調がとても好きだった。
 彼女は、いつも真っ直ぐだ。きっとメラスはその性格に違わず、どこまでも真っ直ぐに未来へ向かって歩いていくのだろう。いや、歩くというより、両腕を力いっぱいに振るって駆けていくのだろう。
 それを思うと、誇らしい気持ちになるのと同時に、哀しみが胸を打つ。
 メラスはどうやら、ガーサが五年かけてひそかに準備してきたことに気づいたようだ。
 いや、本当の意味では気づいてはいないかもしれない。彼女はきっと、ガーサがメラスを師武官庁の役人にしたい程度に考えていると思っているだろう。
 だが、違う。
 ガーサはメラスを自分の部下にしたいのではない。
 総師にしたいのだ。


 今の総師たちは、前皇帝の寵愛を受けて、政権を得た者たちだ。前皇帝亡き今、その寵愛が重い足枷になっていた。
 賢帝と謳われた前皇帝の存在感は、崩御後もなお巨大だった。オールアーザが新皇帝として玉座についたあとも、宮廷内には賢帝の死を嘆く声が大きく、オールアーザは一挙手一投足まで前皇帝と比較された。特に、前皇帝の覚えがめでたかった者たちほど、嘆く声を大きくしたため、オールアーザは彼らを厭い、徐々に身の周りから遠ざけはじめていた。
 総師は、新皇帝のそうした動きを早くから察知し、言動や態度には十二分に注意を払った。だが、天議長たちもまた大人しくはしていなかった。彼らは、事あるごとに新皇帝に侍って、「総師は、父君と陛下を比較している」「総師は、陛下の政治手腕を不安に思っている」と、あることないこと囁きはじめたのだ。
 結果、オールアーザは総師を煙たがるようになり、逆に、天議会への寵愛を深めつつあった。
 天議会はこれからどんどん力を増していくだろう。だが、前皇帝の寵愛を受けてきた今の総師には、それを阻むだけの力がない。阻もうとすれば阻もうとするだけ、オールアーザの不興を買うだけだ。


(総師にも、新しい風を入れる必要がある。前皇帝とは無関係の、若い総師を……)
 メラス自身は気づいていないようだが、彼女の武芸の才覚はずば抜けている。加えて、炎術師の素質も備えている。
 なにより、否応なしに人を惹きつける、烈火のごとき存在感――。
 メラスなら、きっと立派な総師になれる。
(……だが)
 ガーサは義娘に聞こえぬように小さく溜め息をついた。
 メラスの武芸達者ぶりを誇らしく思うと同時に、深い悲しみを覚えるのは、ガーサ自身は決してメラスが総師になることを望んでいないからだった。
 メラスを本当の娘のように思っている。幸せになってほしかった。いっそのこと、下町や下級民のこともすべて忘れて、大切な誰かと添い遂げ、満ち足りた普通の生活を送ってほしかった。
 総師として歩む道は、あまりに過酷だ。
 政の世界にひとたび足を踏み入れれば、もはや普通の幸せなど得られまい。
 メラスはとうに覚悟を決めている。自分なりに道を探し、ガーサの役に立とうと懸命の努力をしている。実のところ、朱燬媛士という名で城下町を暴れ回っていることも知っていた。時おり、怪我をして帰ってくる娘を見て、心配もせず、理由を探りもしない親などいはしない。
 覚悟が決まらないのは、ガーサの方だ。
 愛しい娘を、辛い目になど遭わせたくはなかった。
(自分は、あまりに無力だ……)
 ガーサの世代で、壁を取り払えるならどんなにか良かったか。そうすればメラスは、壁のない世界で幸せに笑っていられただろうに。
 だが、眼前に立ちはだかる壁は、あまりに厚かった。ガーサの世代だけでは、到底、壁を打ち破るまでには至れないだろう。
 壁を破壊するために、新たな世代の力が必要だ。
 そして、予感がある。
 世代交代の時は、すでに目前に迫っている――。
「私はずっと、ガーサの側にいるよ」
 背を向けたままのメラスの呟きに、ガーサは物思いから解放される。
「え?」
 問い返すと、メラスは唇をへの字にして、むっつりとガーサを振りかえってきた。
「だから! 結婚なんかしないって言ってるんだ。できるかできないかって話じゃなくて、したくないんだ。私はガーサの側にいる。年取って、よぼよぼになったら、面倒見る奴がいるだろ。だから――安心しろよ」
 義娘の優しさに、ガーサは思わず微笑み、しかし首を横に振った。
「私はメラスには大切なひとを見つけて、添い遂げて欲しいと思っている。君が進む道は、いずれにしても過酷だ。辛いとき、悲しいときに、誰かが側にいなければ、とても前に進みつづけることはできない。……私は年を取る。君よりも早く老いて死ぬ。誰かを好きになったら、迷わずその手を取ってほしい」
 メラスは変な顔をして、反論しようと口を開きかけるが、結局ゆるゆるとうなずいた。
「……分かった。でも、結婚とかそういう話は置いといて――これからどうなるかは、私も良く分からない。ガーサの側にいたいと思うけど……そもそも、ガーサの方が誰かと結婚するかもしれないしな」
「え……!?」
 思わぬことを言われて目を白黒させるガーサに、メラスはぶつぶつと呪文のように唱えた。
「カイ補佐とか、カイ補佐とか、カイ補佐とか」
「ど、どうしてカイが出てくるのかな。しかもなんだい、その洗脳するみたいな言い方は」
「でも! どうなっても、ガーサは私の自慢の父親だから! だからやっぱり側にいるんだ!」
 ガーサは目を見開く。
 光の中で、メラスの真っ直ぐな緑色の瞳がきらきらと輝く。少し拗ねたような目だ。けれどそれは、腐敗した世界を焼き払う浄化の炎のように清らかで、健気だった。
 五年前のあの日、ガーサが目を奪われた、烈火のごとき眼差しだ。
「……ああ。メラスは私の自慢の娘だ」
 思わず素直な気持ちを口にすると、メラスはぱっと顔を背けた。
「――これからも自慢でいられるよう、頑張るから……待ってろよ」
 そうしてメラスはのろのろと靴を履き終え、立ち上がった。
「じゃ、行ってくる」
 よほど恥ずかしかったのか、メラスは耳まで真っ赤にして、背中を向けたまま手を挙げた。
 ガーサはくつくつと笑って、うなずいた。
「ああ。いってらっしゃい、メラス」


 扉の向こう、光に溶けこむように消えていったメラスを見送り、ガーサは食堂に戻ろうと踵を返す。
 そのときふと、視界が陰った気がして、ガーサは玄関を振りかえった。
 扉の高い位置にある窓から射しこむ光が、先ほどよりも威力を弱めている。きっと太陽が雲の影に入ったのだろう。
 ガーサはしばらく足を止め、薄暗い玄関口に立ち尽くした。
 ああどうか、と、ガーサはまるで予感に駆られたように祈った。
「どうか、愛しい我が娘に、幸多からんことを……」


 あの日、固く手を握り合った、かけがえのない娘の幸せを。
 国の未来を憂うよりも強く、深く。
 ガーサは、祈った。

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「準備はいいな、愛娘よ」
 鈍い光を放つ刃。その切っ先に視線を這わせ、愛娘は首肯する。
 準備はいいかなど、尊師には珍しい愚問だと思う。
 ずっとこのときを待っていたのだ。尊師の役に立てるこの日が来るのを。
 だが、確かに心の奥底で、「準備はいいか」の問いに顔を曇らせる自分がいる。
「……準備は、整っています」
 その迷いを否定するように、愛娘は、わざわざその言葉を口にした。
 うなずいたあとに、言葉まで発したその二度手間を、尊師は不審に思ったろうか。確認するのが恐ろしく、愛娘は刃に視線を落とす。
 研ぎ澄まされた鏡面のような刃に映る、己の冷徹な顔に。
「いつでも、ご指示ください。我が尊師。我が父。
 我らが偉大なる天議長――オヴジェウル=ミウリ様」