小説(長編小説)王宮の自動人形|第三章 序



序話「夏暦」

 暦の上では夏を迎えたものの、いまだ木陰や軒下に春雪の残る、肌寒い日。
 海明遼国の南西と国境を接した堕龍封だるほう国の南方、消練地しょうれんじ高原の寒地にある貧しい村落の片隅で、ひとりの男が歓声を上げた。
「メラスが魔仲師に? それは本当か!」
 夫の書斎に吉報を届けたボルビアは、夫の険しい顔が綻ぶのを見て、瞳を見開いた。
 夫――イスティーノ=アシュラスのこんなにも嬉しそうな顔は、もう長らく見ていない。
「ええ。行商人が「海明遼初の女総師が誕生した」と。紅蓮の髪を持つ娘で、炎を自在に操る、と。きっとガーサ様の義娘のことです……」
 名は伝わってきてはいない。だが、ボルビアは確信していた。夫もまた、メラスの立身を疑っている様子はない。
「そうか。……そうか」
 イスティーノは目元に片手を宛がい、唇を固く引き結ぶ。
 ボルビアは無言で書斎を後にし、襖をそっと閉じた。
 きっと、柔和な顔に似合わず、男らしさを旨とする誇り高き夫は、妻に泣いている姿など見られたくはないだろうから。


 すでに夏の盛りを迎えた海明遼国、騎州の季羊邑。道を行く民から笑顔の絶えぬ、豊かな村落の中心――村長の屋敷と同等以上に立派な母屋を持つ、武家屋敷の一室。
「あら、文を書いていらっしゃるんですの? 兄様」
 朝から私室に籠り通しの兄ファイファンダ=ファイフォンドに気づき、妹のシンラッスシャーンが声をかける。
 ファイファンダは白髭を撫でながら、いたずらっぽい笑顔で老いた妹を振りかえった。
「うむ、メラスに文を書いているのじゃ」
「顔が見たくなるからと、ずっと文を書くのを控えてきましたのに」
「そうじゃ。しかしあれが魔仲師となったのじゃから、祝いの文を書かぬわけにはいくまい」
「まあ、メラスが魔仲師になったのですか?」
 呑気な反応に腹を立てたのか、ファイファンダはぎろっと妹を睨みあげた。
「ええい、シンラ、なにをしておる! 酒じゃ、酒じゃ! 騎州でもっとも旨い酒を買ってまいれ。〈鬼魂酒〉じゃ、あれがいい! 〈鬼魂酒〉をこの文と一緒に送ってやるのじゃ!」
 墨をたっぷりつけた筆を振り回し、春に替えたばかりの畳を汚しながら、ファイファンダは声を上げる。
 シンラッスシャーンは溜め息をついた。
「年頃の娘に、あのように色気のない酒を送るなど……せめて梅酒や桜酒になさったら」
「なにを言う、魑魅魍魎の巣喰らう宮廷に乗りこむ娘に、そんななよなよした酒をやれるか。酒じゃ、酒じゃ、強い度数の酒をわんさと用意するのじゃ!」
 そう吼えて、高らかに笑うファイファンダ。
 シンラッスシャーンは控えめに苦笑し、背後を通りすがった下女に「使いを頼まれてちょうだい」と小声で指示を出した。


 海明遼国の西方、流都ると国との国境にある、蛇憐じゃりん要塞。
 主に山賊の討伐を目的とした辺境警備隊が駐屯する要塞の見張り塔で、兵士は空から伝書鳥が舞い降りてくるのに気付いて顔を上げた。
 羽を広げ、塔の窓に下り立った伝書鳥。
 足筒には、首都からの文であることを示す暗号が刻まれている。
 兵士は筒から紙片を取り出し、宛名の欄に「カイ=コワルチューン」と上官の名が書かれていることを確認した。
「文が届いたの?」
 当の上官は、背後の文机で面倒な決済書に目を通していた。
「はい。カイ隊長宛てです。私信のようですが」
「私に?」
 カイは決済書から顔を上げ、立ち上がる。
 辺境警備の任について一年。カイに私信が届いたのは初めてのことだった。
 カイは紙片を受けとり、筒状に丸まったそれを開いて、短い文章を一読する。
 兵士は、カイの口許に笑みが広がるのを見て、まさか恋人からの文だろうかと邪な好奇心に駆られるが、すぐに自省し、部屋を後にする。
 扉を閉じ、見張り塔のらせん階段を下りはじめたところで、後にしてきた執務室から笑い声が聞こえてきた。
 万歳、と叫ぶ、カイの珍しい声が響く。
 兵士は思わず足を止め、「なにか良い報せがあったのだろうか」と階段を戻り、扉に手をかけた。できるならば、尊敬する上官とともに、喜びを分かち合いたいと思い――、
 開きかけた扉の隙間から、虚空を舞う雪が見える。
 びりびりに千切られた紙片が、季節外れの雪のように舞い、その中心で、カイが泣いていた。
 天井を仰ぎ、我を忘れたように笑い転げながら、苦しげに、悲しげに、滂沱の涙を流していた。
 兵士は息を飲み、立ち尽くす。その狂乱に、ただただ圧倒され、後ずさることすらもできなかった。



 そして――海明遼国の中枢、宮廷。


「魔仲師補佐に任じられたか。そうか。補佐、か」
 外廷の隅にある、天議長しか入室を許されぬ建物の一室。天議長の証たる装束をまとった老人が、金糸の髪をした若者を前に、溜め息ともつかぬ息をついた。
「魔仲師であるに越したことはなかったが、まあ、補佐というのもやりがいのある仕事だ。せいぜい頑張りたまえ」
「はい」
 老人の揶揄とも取れる言葉に、金髪の若者は無感動な声で答える。
 老人は反応の薄さが気にかかったのか、魔仲師補佐の任命状に落としていた目線を上げた。若者を射抜くように見つめ、改めて口を開く。
「それで――気分はどうだね? 長年の過酷な鍛錬の果てに、女人の総師の「補佐」になれた気分は。ジャスク=エミラよ」
 今度は分かりやすく嫌味を言うと、ジャスクと呼ばれた若者は、狐や狼を思わせる鋭い眼で、老人を真っ直ぐに見返した。
「最悪です」
 吐き捨てる。老人は片眉を持ち上げた。
 ジャスクは隙のない動作で立ち上がると、目礼すらなく、部屋を辞する。
 老人は黙したまま、襖の向こうに消えたジャスクの華奢な背を見送り、薄く笑った。


 それは、不吉の予兆。
 四百年の安寧を築いてきた海明遼に巻き起こる、夏の嵐の前触れ――。