第四話「不可解な男」
「ほう、あのちびの補佐にそんなことを言われたか!」
数日後、紅千柱大廊を共に歩くロウヴァーラに笑いとばされたメラスは肩を落とした。
「笑うとこじゃない……」
情けなく嘆息すると、ロウヴァーラの傍らに控えていた補佐のオロバルが、主の背中をバシィッと平手打ちしてから、穏やかに微笑んだ。
「そんなに落ちこむことありませんよ、メラス仲師。貴女は特殊なんです。みんな警戒しているだけですよ」
「警戒というか、侮られているというかだけどな……」
「それは仕方ないというものです。前魔仲師のガーサ=シュティッバー殿は、たいへん人気のある総師でしたから。つい比較して、落胆してしまうのでしょう」
ぐさり。口調は優しいが、容赦ない物言いである。
(けど、わかりやすい)
ジャスクのわかりにくい態度に比べれば、オロバルの率直さは親切ですらあった。
メラスは苦笑した。
「ガーサと比べて落胆というなら、仕方ないな。私だって、私にがっかりしている」
オロバルは慌てて、細い両腕を振った。
「あっ、誤解しないでくださいね! あなたを非難したのではないですよ。ただ、それだけガーサ殿が大きな存在だったということです。それに、こんなのははじめだけです。今、みんなは貴女が何者かを見極めようとしているんですよ。自分たちが仕えるにふさわしい人物かどうか。忠義を捧げるに値する人物かどうか。……僕もそうです。もちろんロウ初師も。新人軍師の最初の正念場ってわけですね」
「そうそう。さっきお前は笑うところじゃないと言ったが、俺はむしろ笑い飛ばせと忠告しよう!」
オロバルの言葉をロウヴァーラが継いで、メラスの背中を力任せに叩いた。
「いたっ」
「この世界で生き抜くコツは、ともかく背をピシッと伸ばすことだ!」
メラスはじんと痺れた背中を、言われるままにすっと伸ばす。
「覚えておけ。陰口を叩く者は、前ではなく、背後にいる。背後なら顔を見られる心配がないから、好き放題に言えるってわけだ。だから連中が見るのは、メラスの決意に満ちた顔じゃない、背中だ」
「背中……」
「そう。まずは背筋を伸ばせ! 大股で歩き、話すときは大声で! こちとら過酷な選抜試験をくぐり抜け、ここに立っているんだぞ、ってな。そうやって堂々としていれば、だいたいのことはどうとでもなるもんだ」
そう言って、ロウヴァーラはまた大笑いした。
まったくこの豪快な軍師を前にすると、こんがらがった状況も簡単に解きほぐせそうな気がしてくるから不思議である。
「だが正直なところ、ジャスク殿には驚いたな。そういう挑発的な態度を取るような人物ではないと思ったが」
「そうですねえ、僕もびっくりです」
メラスは首を傾げた。
「私はあまり詳しくないんだが、ジャスク=エミラはそんなに有名人なのか?」
「有名だな。なにしろ東の鵬雛舎を、歴代最年少で首席卒業した神童だ」
首都より遠く、東の騎州にある最高学府「鵬雛舎」。世に名の知れた大人物のほとんどは鵬雛舎の出身だ。首都からは山賊の住む山をいくつも越えていかねばならず、その旅路はたいへん危険なものという。だがそれでも高級民は、時に皇族すらもが、最高の教師を求めて鵬雛舎へと旅立つ。
「とくに大学院は、不眠不休で勉強しても二十五歳で卒業できるかどうかってところだ。それをジャスク殿は十四歳で卒業した。それも余裕しゃくしゃくでな」
「ジャスク殿が学舎にいたころは、あんな子供に負けてなるものかと誰もが血の汗を流しながら勉学に励んだそうですよ。おかげで、ジャスク殿のいた時代の卒業生は、ずば抜けて成績優秀者が多いのだとか」
「それは……すごい伝説の持ち主だな」
「ああ。さらに卒業の翌年、二人の兄を差し置いて、名門エミラ家の家長の座を継いでいる。噂では、多額の借金を抱え、没落寸前だったエミラ家を、ほんの一年たらずで再興させたと言われ、いまやエミラ家はかつてない繁栄の時代を迎えているそうだ」
「それはそれは」
呆気にとられるメラスに、オロバルが笑いかけてきた。
「有能な方です。ジャスク補佐は当たりくじですよ。僕が言ってはなんですが、無能な補佐はいくらでもいますから」
「そうだな。……味方ならな」
「ええ。ですから、まずはジャスク殿を味方につけることです。彼が味方についてくれれば、兵師たちも自然と態度を改めるはずですよ」
オロバルの言葉に、ロウヴァーラも「うんうん」とうなずく。
「まずはジャスクを味方に、か……」
メラスは反芻し、ようやく心からの微笑みを浮かべた。
「ありがとう。気が楽になったよ」
ロウヴァーラはにっと笑い、ふと首をかしげた。
「俺たちはこれから師武官庁に用事があるんだが、メラスもどうだ。一時間ばかり時間ができてな、タイガル師武官庁長殿と親交を深めようかと思っている」
「ああ……それはぜひ行きたいとこだけど、これから魔総師軍の文官たちを初顔合わせなんだ」
軍部のさまざまな事務処理をおこなうと同時に、天議会議員としてのメラスを影で支えることになる、魔仲師直属の文官たち。
メラスにとって、今日の初顔合わせは、軍人たちとの顔合わせよりも重要なものだった。
なにしろ、下町の問題、下級民の問題を天議会で議論するためには、文官の理解と協力が必要不可欠だからだ。
文官は、果たしてメラスにどんな反応を示すだろう。軍人たちがああであった以上、笑顔で迎え入れてくれるとは到底思えない。
それでも、なんとしてでも文官を味方につけなくては。
「頑張ってこい、メラス」
ロウヴァーラの鼓舞に、メラスは笑った。
「背筋を伸ばし、堂々と。話すときは大声で、だな!」
「その意気だ!」
ロウヴァーラ、オロバルと別れ、紅千柱大廊をひとり歩きだしたメラス。
――その堂々たる背を、物陰から食い入るように見つめる影があることに、メラスは気づいていなかった。
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廊下を歩いていたジャスク=エミラは、真正面から男がやってくるのに気づき、軽く右によけた。
よけたというのに、ジャスクは男とまともに正面衝突した。
長身の男だった。肩幅も広い。相手と比べなくとも小柄なジャスクは弾きとばされ、廊下の壁に体をぶつけるはめになった。
「失礼、補佐殿。先を急いでいたもので」
男はいやらしく笑って、ジャスクの反応を待たずにその場を後にする。
自信に満ちた後ろ姿を見送りながら、ジャスクは記憶を探った。確か、男の名はザローバ=アガンチ。代々、天議会議員を輩出する家に生まれ、二年前、自身も天議会の一員となった。
――東の鵬雛舎を中退したものの、その事実を金の力でもみ消した。天議会議員たちに賄賂を贈ることで、ようやく議員の仲間入りを果たした。金と権力に物を言わせ、好き放題にふるまう貴族の甘ったれ。そんな悪評のある男だ。
「……くだらない」
呆れるほど広々とした、決して人と人とがぶつかるはずもない大廊下で、ザローバと「ぶつかった」ジャスクは、小声で吐き捨て、再び歩きだした。
「お初にお目にかかります、ジャスク補佐。秘書を務めます、カノユ=ヤムライと申します」
魔仲師軍の事務所である、魔仲師武官庁庁舎の執務室に足を踏み入れたジャスクを出迎えたのは、カノユ=ヤムライという秘書だった。
ジャスクよりもひとつかふたつ若い。長い黒髪を高い位置で束ね、清潔感のある薄紅色の官衣に身を包んでいる。眼差しは清らかで、これから始まる仕事への志気で輝いていた。
ジャスクは微笑んだ。
「よろしくお願いします。頼りにしています、ヤムライ秘書」
その瞬間、執務室の空気がピンと張り詰めた。
室内にはすでに二十人の文官が集まっていた。その全員が、ジャスクの友好的な「笑顔」をぽかんとして眺めている。
――あの「冷徹」と噂されているジャスクが、朗らかに笑っている。
文官たちは互いに目配せし、これはどういうことかと探りあった。
今日の初対面を前に、文官たちはありとあらゆる情報を収集した。
ジャスクに関していえば、その華々しい経歴はもちろん、宮廷入りしてからの言動・挙動についても調べつくしてあった。
そこから導きだした人物像は、「冷徹」。
同輩たちと親しむ様子もなく、笑顔を一切見せる気配もない。冷徹な人間嫌いとまで分析していた文官もいたのだが……こちらの情報不足だったのだろうか。
「メラス仲師は……まだ来ていないようですね」
周囲の奇妙な反応に気づいてか気づかずか、ジャスクはそう独りごちた。
我に返った文官のひとりは、追従するように嘲り笑った。
「ジャスク補佐はもういらしたというのに、我らが仲師殿は悠々と遅れてご登場か」
「もう全員集まっているぞ。これだから出自の卑しい女は信用ならな――」
言いかけた文官はそこでびくりと言葉を切った。
ジャスクが冷ややかな目で自分を睨んでいることに気づいたのだ。
「……どうしました?」
「えっ、あ……」
「先を続けてください。ずいぶんと大声で私語をしてくれるものだと思っただけですから」
「あ、そ……その……」
蛇に睨まれた蛙がごとく、文官はしどろもどろになる。
「続ける気がないのなら、私からひとつ訂正を。『出自の卑しい女』とやらが遅いのではなく、私たちが早いのです。約束の時間まではまだ間がありますから。まさかあなたがたは、『主君たる者、誰よりも早く来て、襟を正して配下を待っているべきだ』などと分不相応な考えを持っているわけではありませんよね?」
ジャスクは淡々と言って、ようやく文官から視線を外した。金縛りが解けたように、文官は詰めていた息を吐きだした。
そして、冷や汗の浮かんだ顔一面に「困惑」の文字を刻む。
「ヤムライ秘書」
「カノユで結構です、ジャスク補佐」
「では、カノユ。本日の書類をもらえますか。メラス仲師が来る前に目を通しておきたい。しばらくは行事続きで、仲師もお忙しい。不備があっては手間を取らせます。万全にしておきましょう」
「はい」
――おかしい。
執務室に集った文官たちは戸惑いとともにそう思った。
事前に集めた情報の中には、メラスが魔仲師軍と対面したときの惨憺たる様子も入っていた。もちろん、ジャスクがメラスにたいそう邪険な台詞を投げつけたことも聞き及んでいる。
ジャスクは、メラスを認めていない。自分たち同様、嫌悪感すら抱いている。文官たちはそう考えた。
なにしろ、卑しい出自だ。学歴だってろくでもない。男をさしおいて、弱い女の身で軍師になった図々しさも、腹に据えかねる。
メラスよりもはるかに有能であるジャスクは、無能な軍師の下にいることをよしとはしないだろう、とそう考えていたのだ。
だというのに、これはいったいどうしたことか。
メラスを庇うような発言をしたばかりか、メラスに余計な手間をかけまいと殊勝に書類の精査などをはじめるとは。
文官たちは訳が分からず、一様にうなり声を上げた。
だが――、いったんは態度を改めた文官たちも、約束の時間がすぎ、さらに時鐘が一時間の経過を告げるころには、ふたたび嘲りを顔に表すようになっていた。
忍び笑いがあちこちで漏れ、大仰に溜め息をつく者まで現れる。秘書のカノユは落ち着かなげに視線を泳がせ、傍らのジャスクに視線をやった。
「ジャスク補佐……あの」
「……遅いですね」
応じるように、ジャスクが呟いた。
そして、なにかを思案するように、開け放した襖の向こうの庭を見つめる。
「私、探してまいります」
カノユが思いきって席を立とうとしたとき、ジャスクが静かに首を振った。
「いえ……、私が行きましょう」