小説(長編小説)王宮の自動人形|第三章 5



第五話「失態」

 意識が混濁している。
 視界はひどくぼやけ、眼球を動かすたびに、物の形がぶれて吐き気がした。
 ――なにが……。
 頭が痛い。気持ちが悪い。メラスは落ちそうになる意識をなんとか留める。
 どうする?と誰かが笑っている。
 順番に。と誰かが答えた。
 失笑が起きた。それは高級民らしい上品な笑い声。しかし、どうしたわけかそれはひどく野蛮で、暴力的に聞こえた。
(そうか……)
 たしか、廊下を歩いていた。目の前で書類を落とし、慌てふためく文官に手を貸した。風に舞う紙片をふたりで拾いあつめ、礼を言われた。
 ありがとうございます――どうも、ご苦労様なことでしたね、と。
 その口調に、本能的な警戒心が呼び覚まされた。
 だが、遅かった。隙だらけであったろう後頭部に衝撃を受けた。たまらずに転倒したメラスはとっさに腰に履いた刀の柄に手を回した。
 しかし、相手のほうが素早かった。総師を相手にしようというのだ、もちろん万全に準備を整えて挑んだのだろう。うつぶせた体を複数の人間に押さえこまれたところで、暴れる口になにか液体のようなものを含まされた。
 意識が朦朧となり、落ち、そしていま、どこかの部屋のなかにいる。
 薄暗い。質素な天井が見える。宮廷内は、高級民の出入りするような場所には、天井にも隙なく装飾が施されている。木地もあらわな天井は、ここが使用人が使うような裏部屋であることを教えていた。
「だいたい、女の身で、総師になろうって腹が気にいらないんだ」
 不意に、遠くに聞こえていた声が大きくなった。
「皇族の推薦状! どんな風に体を開いて、享楽好きの放浪皇子様を陥落させたのかねえ」
「下級民の女のなかには、体で金を稼ぐ者もいるそうだ。いったいどこの物好きが、薄汚れた女を抱くものかと思ったが、なるほど、あの皇子ならばあり得る」
 ああ――と、ぼやけた意識のなかで、メラスは自分が置かれた状況をうっすらと察した。
 多分これは、貞操の危機というやつである。
 男たちの口調で察しがつく。幼いころ、下町にやってきた侵入者たちは、こうやって下町の民を罵りながら、泣き叫ぶ院女たちを強姦し、殺害したものだ。自分のなかにある矛盾になど気づかない愚か者ども――メラスは力の入らない腕をなんとか動かし、指で床をなぞる。
 畳。倉庫ではない。使用人の休憩室だろうか。武器になりそうなものは見当たらない。
「起きたんじゃないか? もう一度、眠らせるか」
「いいや、分からせてやれ。身のほどをわきまえねば、どんなことが起こるのかをな」
 しゅるりと腰帯をほどくような音がした。
 膜を張ったような視界に、見知らぬ男が現れる。ほかの男たちに笑われながら、その男は指一本しか動かせないメラスの体に覆いかぶさった。
 さて、どうするか――。
 武器はない。だが、男のほうから身体を添わせてくれるのならば、まだ助かる手立てはある。なにしろ武器はなくとも、相手の側からメラスの手が届くところに急所を持ってきてくれるわけだから。
(頭が動けば、顎を頭突き。膝が動けば、みぞおち。手が動けば、金タマを握りつぶそう)
 つらつらと考えながらも、しかしメラスはためらった。
 この男が何者なのかが分からない。
 もしも相手が自分よりも上位の人間――天議長の誰かであれば、下手な手は打てない。逆に自分が窮地に追いこまれかねなかった。
 いや、天議長でなくとも、皇家の者と懇意にある者であれば、あっという間に失脚に追いこまれるだろう。
 それ以前に、体が動かない。
 残念ながら、金タマを握りつぶしてやることはできなさそうだ。
(辱めることが目的なら、放っておいてもいいか……)
 そんなもので辱められるほど清い心など、最初から持ちあわせていない。
 頭が重い。意識をつなぎとめておくのがやっとだ。メラスは投げやりな気分で目を閉じる。
 そのとき、黒い瞼の裏にふっと光がさしこんだ。
「お、おい……!」
 ざわめきが起こる。覆いかぶさっていた男が、慌てて身をはがした。
 メラスは光の先を見つめた。開いた木戸から漏れる真っ白な光のなかに、小さな人影が見える。
 逆光だ。だが、人影が一歩、室内に入ってくると、その顔が明らかになった。
 凛としてたたずむ金髪の青年――ジャスク=エミラ。
 彼が踏み入っただけで、室内に充満していた下劣な空気が吹きとんでいったようだ。
 ジャスクは困惑した表情を浮かべ、視線を落として、はっと目を見開いた。
 目が合った。
 ジャスクは軽くうなずいた。任せろとでも言うように。
 男たちが怒号をあげた。
 ジャスクが鋭く目を細め、腰に刷いた刀を鞘ごと引きぬく。
(意外だ……)
 メラスは自分でも呆れるほど能天気に思いながら、深く安堵しながら意識は手放した。


 次に目を開けたとき、メラスは風通しのよい、明るい部屋に寝かされていた。
 顔を横に向けると、軽く開かれた障子の隙間から、質素ながらに心地のよさそうな庭園の一角が見えた。
「お目覚めですか、魔仲師」
 頭の後ろで声がしたので顔を向けようとすると、後頭部に鈍い痛みが走った。
「い……たた」
 それを気遣ってか、声の主がメラスの傍ら、視界に入る位置まで回ってきてくれた。
 黒い髪を結い上げた少女だ。薄紅色の官衣をまとっている。
「カノユ=ヤムライ秘書……だな?」
 どうにか頭の霞を払い、記憶の浅いところにある名前を引きだす。
 カノユは少しばかり驚いた顔をした。
「もう、ご存知でしたか」
「文官の名前と、身体的特徴は、ひととおり覚えてある。ところで、ここは?」
「魔仲師武官庁庁舎の東憧殿です。人払いはしてありますので、どうぞゆっくりとお休みください」
 魔仲師軍の文官たちがいる建物だ。
 庁舎には執務室のほかに、総師、総師補佐の私室、娯楽場、文蔵、厨房などがそれぞれの名前を持って用意されている。この東憧殿は、庁舎の管理をつとめる身分の低い者たちの休憩室だ。
「そうか……」
 助かった、というわけか。
 カノユが湯気をあげる器を掲げた。
「薬湯です。熱が引きます。身を起こせますか?」
「ああ。うう、口のなかが気持ち悪い……」
 用心深く身を起こすと、身体のあちこちに痛みが走ったが、致命傷はなさそうだった。
「意識を奪う薬を盛られたようです。あの愚か者たちの懐に、薬壺が……。後遺症が残る類いのものではなかったようですが」
 愚か者。その言葉に、メラスは改めてカノユに目をやる。
 若い。多分、メラスよりも年下だろう。怒りのせいか、朱に染まった目元は清廉で、どこか幼馴染のマリアの瞳を思い出させた。
 思いがけないことに、カノユは自分の身を案じてくれているらしい。
(そうか、味方がいてくれたわけか)
 胸の奥があたたまると同時に、メラスはがくっと肩を落とした。
「あああ、なんて情けない。隙を見せるなんて……穴があったら入りたい」
「そんな! 多勢に無勢です。いくら魔総師様といえども、不意を突かれては太刀打ちできません。だいたい、宮中であのような……あのような――なんて不埒な輩でしょう!」
 カノユが激昂する。メラスはあぐらに頬杖をつき、眉を寄せた。
「薬が用意されていたということは、計画的な犯行だったんだろうか」
 カノユは庭に視線を向けてから、手を伸ばしてすっと襖を閉ざすと、表情を引きしめてメラスに向きなおった。
「主犯格の名は、テラバ=アスラ。下級議員です。ほかの有象無象ともども、ジャスク補佐が彼らの身柄を終師軍に引き渡しました」
 下級議員だったのか。メラスは安堵しつつ、くっと笑う。
「有象無象とは、よく言ったもんだな!」
 くつくつと笑うメラスに、カノユはためらいがちに口を開いた。
「あの。どうか……お気を落とさずに」
「ん?」
「メラス仲師のお命を奪おうとしての暴挙ではありません。女が政界に入ると必ず一度は起きる事態なのです。前魔仲師補佐のカイ様を?」
「ああ、よく知ってる」
「補佐になられてすぐ、メラス仲師と同じような目に遭わたそうです。女が自分の上に立つことに対しての妬みと嫌悪。危ういところをガーサ前魔仲師に救われた、と聞いたことがあります」
 ふたりには、そんなことがあったのか。
 メラスは補佐を助けに入ったガーサの姿を思い浮かべる。
 その姿は自然と、おのれの補佐と重なった。
 ――ジャスク=エミラ。
 あのときジャスクはなにを思ったろう。他愛もなく罠にかかり、下級議員などに組み伏せられた無様な姿を見て、きっと心から幻滅したに違いない。
(そうだろうか……)
 ジャスクの表情はどこか戸惑っているように見えた。
 それどころか、鞘を手にしたジャスクの眼差しは、冷たい怒りに燃えていたように見えたのだ。
 ふと、メラスは我に返る。
「……いま、女が政界に入ると、って言ったか?」
「え? ええ、はい」
「カノユは大丈夫か!? 武官でこれでは、文官はもっと大変だろう!」
 カノユは目をぱちくりさせた。
「今のところは。ここ数年で、文官には女人も増えてきていますので……」
「今のところは、だなんて!」
 メラスは声を荒らげ、カノユの華奢な両肩をがしっと掴んだ。
「あ、あの、メラス様?」
「武官とちがって、文官には身を守る力はないんだ。いいか。助けが必要なことが起きたら、かならず私に言うんだぞ。私がカノユを守るからな!」
「あ……はい――」
 カノユの頬がぽっと赤らむ。
「あ、ありがとうございます、メラス様」
 なぜだか耳まで赤くして、おろおろとするカノユである。
「ところで、今は何時だ? 盛大に遅刻してしまったな」
「あ、まだお休みになっていてください。熱がひいてはおりませんので。それに……いま行っても、もう」
 いない、か。それはそうだ。メラスは自嘲する。
「そうはいかない。顔を出すだけでも出さないと」
「……お体は、大丈夫なのですか?」
 ふと、カノユが不安げに言った。メラスは首をかしげ、腕をぐるぐると回す。
「ふらつくけど、怪我は大丈夫そうだ。無駄に頑丈にできているからな」
「いえ、その……、お怪我のことでは……」
 メラスは少し考えてから、カノユの言っている意味を悟り、薄暗い笑みを浮かべた。
「大丈夫。少し触られただけだよ」


 痛む体を無視して東憧殿を出て、文官たちが待っているはずの執務室に向かうと、案の定、そこは閑散としていた。
 ひとりだけ、文机に向かっていた壮年の男が、メラスに気づいて立ちあがる。
「終業時間となりましたので、皆、帰りました。私もこれで失礼します」
 感情のない声で呟き、男はメラスの脇を通りすぎて部屋を出ていく。
 予想通りだ。予想通りではあったが、襲撃を受けて怪我を負った上官に「大丈夫ですか」の一言もないのは、果たして尋常な状況と言えるだろうか。
 もしもこれがガーサであったなら、皆、心配して駆け寄ったのではないかと思わずにはいられない。
 いや――ガーサならそもそもそんな事態には陥らなかったろう。ハンカチが落ちていれば喜んで拾いにいくような人情男だけれど、たとえ身を屈めたときにも彼は決して隙を見せなかったはずだ。
(下級議員に襲われて、無様に昏倒するような総師など、私もごめんだ)
 メラスは誰もいない執務室から目をそらした。