第二話「別離」
「お前、どこかに行っちゃうだろ」
フォレスはたじろいだ。鋭く睨みつけてくるメラスの迫力たるや、背後に燃えさかる炎でも背負っていそうだったのだ。
「フォレス!」
「っふぁい!」
「お前――どこかに! 行く気だろう!」
もう一度、今度はより強い口調で問われ、フォレスはますます情けない顔になる
「そんな恨めしげな眼で見るなよー。てか、なんでそう思うのさ、メラス」
「態度がよそよそしい。いつもうっとうしいぐらい馴れ馴れしいくせして」
遠慮容赦ない物言いに、今度こそフォレスは降参の手を挙げた。
「お察しの通りです。ちょっと数年ばかり、出かけてこようと思ってるんだ」
「どこに」
「お勉強の旅に」
強気な表情から一転、不安に顔を曇らせるメラスに、フォレスは答える。
「皇族直轄領に行って、政に携わろうと思ってる」
海明遼の第二皇子であるフォレスとそんな会話を交わしたのは、総師御名戴式当日のことだった。
史上最大規模となった総師選を突破し、見事、魔仲師の座を得たメラスは、一年前までガーサの所有であり、今はメラスの所有となった屋敷の庭石に腰かけ、その日のことを思い出していた。
『今さらって思うだろ』
フォレスはそう言って苦笑した。
『第二皇位継承権を持つ一国の皇子が、それも「放浪皇子」なんて情けないあだ名までつけられていた俺が、今ごろ政に関わるのかって』
初夏の庭園を抜けてきた風に、メラスの赤い髪が揺れる。
『ずっと逃げてきた。幼い俺には受けとめきれなかった過去からも、毒に満ちた宮廷からも、父からも――皇子という身分に課せられた責務からも。……自信がなかったんだ。怖かった。すべてを投げだし、好き勝手に生きてきた俺が、第二皇位継承者なんて重たいものを、国を動かす責務を背負っていくことが』
フォレスの伏せた睫毛が、夏の光を弾いて輝いて見えた。
怖いと言いながら、すでに彼は、覚悟を決めた面構えをしていた。
『けれど、メラスを見ていて、気持ちが動いた。下町を救いたいと願い、あがく姿を見るうち、その力があるのになにもせずにいる自分が恥ずかしく思えた。自信がないなんて、なんて卑屈で、贅沢な悩みだろうかと。だから俺は、皇族直轄領に行き、政を学んでくる』
メラスは静かに立ち上がり、緩んだ衣服の襟元を整える。
今日は、フォレスが西方の皇族直轄領・草氓に発つ日――。
あらかじめ聞いていた皇子出立の地に赴くと、そこは宮廷の裏手、警備兵以外には人気のない裏門だった。豪華絢爛な正門に比べて、規模が小さいばかりか、華やかさにも欠けた。というよりも、宮廷仕えが所用のために使う勝手口である。
「なんだ、勝手口から出立か? しかも見送りは私だけとは」
「そうなのよ、たいそう嫌われたものだわー」
門前にそびえる巨木の根元に立っていたフォレスは、珍しく華美な装飾の入った漆黒の礼装の袖をひらひらさせながら、陽気に笑った。
「というのは、冗談で」
よかった、冗談か。苦笑しつつ、メラスはフォレスの隣に立つ。
「盛大な出立式は内廷で済ませてきた。こっちは誰にも内緒の二次会」
「そっか」
メラスは安堵する。大勢の人間がいては、メラスはフォレスの友人としてではなく、総師のひとりとして他人行儀な挨拶をしなければならなくなる。身分の差を超え、二人が重ねてきた年月を思えば、それはあんまりに寂しい別れだった。
「寂しくなるな、フォレスがいなくなると。周りに、親しい人間が誰もいなくなる」
メラスは警備兵の目が届かぬ幹の陰にすっぽり収まり、深々と溜め息をついた。
「行かないでくれ、なんて馬鹿を言いそうになる自分を殴ってやりたいよ」
「俺も寂しいよ。名前を呼び捨てしてくれる不届き者が、傍らからいなくなると思うと。でもま、文のひとつも書いてやるし、安心なさいって」
気軽に肩を叩かれ、メラスは渋面をつくる。
「やけに偉そうじゃないか。放浪皇子」
「偉いんです。そのことを日に日に実感して、重圧で死にそうなんです」
メラスはぷっと噴きだし、頭上の枝葉が落とす影を見つめた。
「考えてみると、オールアーザ陛下に御子が生まれなかったら、お前が次代の皇帝陛下なんだな」
フォレスが皇帝の座に君臨するとしたら、それはオールアーザが死去したときだ。ずいぶんと不謹慎なことを軽々しく口にするメラスを、フォレスはいつもながらに咎めない。昔からそうだが、メラスが魔仲師になろうとも、それは変わらないらしい。
「フォレスが皇帝の座に就いたら、これほど心強いことはないが」
言って、メラスは自嘲気味に笑った。
「いや、さすがにこれは不敬すぎる発言だな。しかも陛下はフォレスのお兄さんなのに。悪いことを言った。忘れてくれ」
だが、フォレスは無言だった。
いくらなんでもまずかったか、と不安に思い、わずかばかり背の高いフォレスの顔見上げたメラスは、どきりとする。
木陰の下に佇むフォレスの横顔は、ひどく真剣で、懸念に歪んでいたのだ。
「……メラスに、忠告をしておく」
我知らず背を正し、メラスは息を飲んで次の言葉を待つ。
「俺の兄は、オールアーザ陛下は、天議会の傀儡だ」
そのときひときわ強い風が吹き、上空で無数の葉々が不穏にざわめいた。
「え……?」
「いつからそうだったのか、誰も気づかぬうちに、天議会は陛下を手中に収めていた。オールアーザは天議会にすっかり傾倒している。ひとつの決定を下すにも天議長の顔色をうかがい、自分の意思と呼べるものをすっかり失っている」
フォレスの漆黒の瞳に、仄暗い闇が宿った。
「この国は、オールアーザの御代で、大きく傾くだろう」
魔仲師に就任して間もないメラスは、オールアーザの人物像を知らない。賢帝と言われた前皇帝に対して、あまりに気弱、あまりに頼りない、そんな陰口は聞いたことがあるが。
「それで直轄領に? 政を学び、いずれ陛下を傍らから支えるために」
問うと、フォレスは肩の強張りを解き、物憂げに息をついた。
「それもある。兄に意見しようにも、今の経験不足な俺じゃ、鼻で笑われるだけだし」
「宮廷でなにかあったのか?」
政に携わるだけなら、なにも直轄領に行く必要はない。わざわざ宮廷を離れるには、それなりの理由があるのだろう。
宮廷には、フォレスを皇帝の座につけようとする一派がいるとも聞くが――。
フォレスは深々と息を吸いこみ、長々とそれを吐きだすと、疲れたように巨木の根本にしゃがみこんだ。
「色々とね。俺が動くと、俺自身が願ってないにも関わらず、蠢きだすものがいるんだわ。本当めんどくさい」
言いながら、フォレスはおもむろにメラスの衣服の裾に手をかけ、ぺろりと捲った。
「わお、魅惑の生足。しっかりと心に刻んでおこ――っぐお!」
すかさず、メラスの強烈な蹴りが入ったのは言うまでもない。
「おのこを足蹴にするなんて、ひどいじゃないの、メラスちゃん!」
「人が真面目に聞いてれば、生足だあ? ああ?」
「が、柄がいとわろしです、魔仲師さま」
「……まったく。不安でいっぱいなのはこっちも同じなんだ。最後ぐらい強がらないで、素直に「不安です」って言え、フォレス」
腹を立てて言うと、フォレスはふっと嬉しげに笑った。
「そうだな。でも、不安なのが俺だけじゃないって思えば、だいぶ気楽」
しゃがんだまま頬杖をつき、フォレスは宮廷の無限に続くかのような隔壁を見つめた。
「オールアーザは尊敬に値する兄だ。優しすぎるところはあるけど、誰かが無情さを補えさえすれば、きっと良い治世を敷く。なれるならば、俺が兄を支えたい。できるかどうかは不安だけど、まあやるだけやってみるわ」
そう言って、フォレスは「とほほ」と膝に顎を埋めた。
「でないと、俺が次代の皇帝陛下ですよ? 放浪皇帝が統べる御代って、どんな世の中よそれ。海明遼国の民に申し訳がつかないわー」
強がるなと言った途端、愚痴を零しはじめるフォレスに、メラスは自分自身が救われたような気分で苦笑した。
「そんなことない。フォレスが皇帝になったら私は嬉しい。そうでなくても、お前を主君に迎えられる草氓の民は幸せだ」
フォレスは「だといいけど」とぼやき、すっくと立ち上がった。
「さあて、そろそろ行くかな! 馬を待たせてるんだ。これ以上遅れると、ル=レイに顔面蹴りを食らわされる」
「そう、だな……」
メラスはゆるゆると微笑み、うつむく。
(これで、お別れか……)
ふと、うなだれた頭に、フォレスの片腕が回された。
幼い頃からよく知る、兄とも、友とも、盟友とも慕った皇子の、あたたかい手だった。
「元気で、メラス。俺も頑張るから。お前も頑張れよ」
ぽん、と後ろ頭を叩かれ、メラスは涙を堪えながら穏やかに笑った。
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はじめ、その男を見たとき、小さいなと思った。
すぐに思い直す。男も小さいが、自分もでかいのだ。
身近にいた男というとフォレスだったから、この男はずいぶんと華奢に見えた。そういえば自分はまだ身長が伸びている。以前、「俺よりでかくなるな」とフォレスに釘を刺されたが、今どれぐらいだろうか。
そんなことを埒もなく考えていたため、突然「メラス殿」と呼ばれたときには大仰に驚いてしまった。
「貴女とは総師選の際に、幾度となく言葉を交わしたが、まさか本当に魔仲師になられるとは。驚きだ、と言っては失礼かな?」
話しかけてきたのは、ファイファンダ=ファイフォンドにかわって新たに支初師の座に就いたロウヴァーラ=ヨールペンだ。
年齢は、三十代後半。見惚れるほどの偉丈夫で、焦げ茶色の髪を洒落者らしく後ろに撫でつけている。どことなく、ガーサに雰囲気の似た男だ。柔らかそうな口髭のせいだろうか。
長期に渡った総師選の最中、たびたび言葉を交わし、交誼を深めてきた。
史上最大規模となった総師選に、天議会は己の息のかかった者たちを多く投入した。だが、総師を手駒で埋めようとした天議会の思惑は、大きく外れたと言っていい。総師、補佐、補充軍人を含め、総師選に勝ち抜いた全体の人数のうち、いわゆる天議会推薦者は半数以下であったらしい。
そしてこのロウヴァーラは、天議会側の手駒ではない総師のひとりだ。
「実は、自分が一番驚いてる。またお会いできて光栄です、ロウヴァーラ支初師」
「ロウヴァーラでかまわんよ、メラス」
メラスは豪快に笑うロウヴァーラの差し出してきた手を力強く握りかえした。
――場所は、宮廷の一角に建てられた、日ごろは客人をもてなすために使われる「望月楼」の一室。初夏の日差しを受け、白々と輝く畳の部屋には、総師および総師補佐に任じられた全員が集まっていた。
今日の集いのことを、宮廷仕えたちは「総師の宴」と呼んでいた。正式な着任を前に、総師と補佐同士で交誼を深める席らしい。
といっても、堅苦しい席ではなく、全員で車座になって気軽に楽しむ茶会といった風情だが。
噂によると、ガーサが総師に就任した際、血気逸った若い総師が、年配の補佐と口論をはじめたが、それを諌めるため、「まあまあ、怖い顔で睨み合うのはやめて、皆でお茶会でもしません?」と言って何気なく始まったものだったと聞く。以来、新しい総師が任ぜられると、車座で茶会をするのが伝統になったようで――そのときのことを思うと、いかにもガーサらしく、口が緩むメラスである。
(あなたが始めた茶会に、今、私はいるよ。ガーサ)
心の中で呟き、メラスは女官に促され、車座の一角に腰を下ろす。
「メラス仲師は、海明遼国始まって以来の女総師。ひとり女性がいるだけで、雰囲気が華やかになりますね」
そう言って左隣で微笑んだのは、支初師ロウヴァーラの補佐となったオロバル=エンラーだ。
「へー、ほー、お前だけでも十分、華やかだと思うがな、俺は!」
すかさず茶々を入れたのは、ロウヴァーラである。オロバルはにこりと笑った。
「そうですねえ、ありがたく思ってくださいね、ロウ初師。初師の放つ暑苦しい雰囲気を、僕とメラス仲師が、一生懸命、抑えこんでるんですから」
「あん!? 暑苦しいだと!? 男らしいと言え、オロバル!」
「お断りですー」
すっかり形の出来上がっている二人の関係に、ほかの総師や補佐は呆気にとられ、あるいは渋面をつくり、メラスはといえばひそかに笑った。
オロバルは、今夏で二十四歳になるというが、そうとは思えないほど愛らしい顔をしていた。
華奢な体は少女のようだし、顔立ちも童顔きわまっている。彼が笑うと、花がぱっと咲くようだ。
だが、オロバルには顔に似合わぬ豪気なところがあった。
この青年は、実はもともとは天議会が手駒として推薦し、総師選に投入した者なのだ。
総師選の最中、ロウヴァーラやメラスといった総師側の参加者と交誼を深めるうちに、心変わりをしたのだという。天議会の操り人形になるのは御免だ、そう言って、大勢の天議会議員が見る前で推薦状を破り捨てると、独力で総師の座にまでのし上がってきた――そんな曰くある男なのだ。
「天議会の推薦者の多くが、総師選の早い段階で脱落したのは、今思えば、当然のことです。まず、意思の強さが違う。天議会の操り人形として、ろくな使命感もなしに動く者よりも、確かな信念を持ち、己の意思で動く者の方が、もちろん強いに決まっていますから。ひととして」
そう言い切るオロバルに、メラスは清々しいまでの潔さを感じていた。
だが、総師側推薦者の中には、天議会から寝返ったオロバルを「意志薄弱な裏切り者」と軽蔑する者もいるし、「裏があるに違いない。信用ならない」と見る者もいる。
それでも、今のところ表立って揶揄する者がいないのは、豪放磊落なロウヴァーラの存在が大きかった。
ロウヴァーラは、天議会から寝返ったオロバルが己の補佐につくと分かると、「へえ、退屈しなさそうな補佐が来たもんだ」と笑い、「用心を」と忠言する者たちを「誰に物言ってるんだ?」と一蹴したのだ。
気持ちのいい支初師だ。支初師は、総師軍の中でも一番の花形。彼らが総師の頂点に立つならば、総師の未来も明るそうだ。
(羨ましい)
メラスは、楽しげに言い争う二人を見ながら、不意にげっそりとした気持ちになる。
羨ましい。まったく、羨ましい。
彼らに比べ、自分の補佐ときたら。
メラスの右隣に座る「小さな男」、魔仲師補佐ジャスク=エミラときたら。
「ジャスク殿。貴公の名声は、辺境の要塞で警備の任に就いていたころより聞いておりますぞ。総師選でも大変な活躍でしたなあ」
補佐のひとりが、追従するような調子で身を乗り出した。
「なんでも「仮面使い」なる異名をお持ちとか。その逸話、ぜひお聞かせ願いたいのですが、いかがか!」
その対面に座っていたジャスクは、手にした茶器に落としていた琥珀色の視線を、ひた、と補佐に向ける。
「私は別段、話したくはありませんが。なにか」
和やかな茶会の空気が、一瞬で凍りついた。
補佐は顔をこわばらせると、なぜかジャスクではなく、メラスの方を睨みつけてきた。
メラスは顔を引きつらせ、平然と茶を啜るジャスクを見下ろした。