小説(長編小説)王宮の自動人形|第一章 10



終話「優しい口実」

「メラス、水汲んできてちょうだい!」
 広々とした野原に、風に吹かれて寝転がっていると、孤児院の方から声が聞こえてきた。
 体を起こして首を巡らせ、裏口から顔を出す院女に手を振る。
「はーい!」
 風になびく赤い髪を押さえ、メラスは立ち上がった。体についた草を手で払って、孤児院の裏手にある井戸へと向かう。
 井戸は無人だった。置かれた釣瓶を取りあげ、井戸の中に落とす。ぽしゃりと水の跳ねる音。
 ――風が気持ちよかった。
 長い冬が終わり、髪を揺らす風はすっかり春のものになっていた。花こそまだ芽吹くには早いものの、確実に野原は春に染まってきている。
 静かだった。高級街での暮らしや、宮廷での出来事は、今思うと夢のようだ。
 もしかしたらあれは、本当に夢だったのかもしれない。
 だが、あの日以来、下町に外からの侵入者が来ることはなくなった。
 すべて元通りだ。平和で、穏やかで、まるで止まってしまったような時間が下町に降りつもる。
「……はあ」
 知らず知らず、溜め息が漏れた。
 我ながら元気がない。下町に平和が戻ったのだから、満足のはずなのに。
 寂しかった。
 胸に大きな穴が開いてしまった、そんな感じだ。
 理由はわかっている。あの優しい仲師との別れが辛かったのだ。
「まったく」
 メラスは頭をぽかりと殴ると、気を取り直して釣瓶の綱に手をかけた。
「いっそ夢だったら、どんなに良かったか」
 ぼやきながら綱を手早く引いてゆく。ぎしぎしと鳴る綱の音が心地よい。
「夢ならこんなに辛くないのになあ……」
「何がだい?」
 突然声をかけられ、メラスはせっかく引き上げた綱を手放してしまった。盛大な音を立てて滑車が回転し、水が入って重みを増していた容器が、水面を激しく叩く。
 ――なんだ、今の。
 水面が元通りに静止するまで、メラスは呆然としていた。
 そして、混乱したまま、ゆっくりと背後を振りかえった。
「やあ、メラス」
 そこには、有り得ないことに、海明遼国の人情魔仲師ガーサ=シュティッバーが立っていた。
「まったく、つれない子だな、君は。何も言わずに出て行ってしまうなんて」
「な、ななな、なんで――て、手紙があっただろ!?」
 メラスは裏返った声で、ぶすっと顔をしかめているガーサに詰め寄る。
「うん。堂々として、立派な字だった。下町の教育水準はとても高いようだね」
 何だかよく分からない感想を述べるガーサだが、顔はあくまで不満そうだ。
「メラス。反乱組織は捕まえたよ。天議会が定めた期限以内にね。……情けない話だが、組織の背後にいたのは支終師だ。彼が組織を手引きし、宮廷内部に引き入れていた。目的は、総師の壊滅……事件を未解決に終わらせることで、総師の責任問題を追及しようとしたらしい」
「総師が、総師を?」
「総師も一枚岩ではないということだ。元々、支終師は、他の総師軍と折り合いが悪かった。どうやら裏で、天議会に買収されていたようだ。今回の件では、天議会まで追及はできず、総師内部の問題として終わってしまったがね。……陛下への反逆罪で、反乱組織と、支終師は冬のうちに処刑されたよ。事件は解決だ」
 メラスはうなずく。実は、ガーサが無事だったか気になって、あれから何度も壁越えをした。城下町では情報があっという間に伝わり、反乱組織を捕まえた魔仲師への賞賛で盛り上がっていた。だから本当はとっくに知っていたのだが。
「でも、それはどうでもいいんだ」
 ガーサの言葉に、メラスは目を丸くした。
「どうでもいいって……仲師の座を追われずに済んだんだろ?」
「あの日、気づいたらメラスがいない。残されていたのは、手紙だけ。どれほど驚いたと思う?」
「それは……ごめん。でも私がいたら、ガーサは私を気にして、ちゃんと眠らないだろ。だから一度、下町に戻ることにしたんだ。カイ補佐に聞いたら、今なら私が姿を消しても、天議会が罪人を逃した罪とか何とかで、ガーサに罰を下すことはないって。……逃げたわけじゃないんだ」
 メラスは口をもごもごさせた。
「ただ、あの時は、自分に何が出来るのかがわからなかった。ガーサの負担になることだけは嫌だった。だからその、下町で頭を冷やして、そんで、下町をどう救ってゆくかとか、そういうの、じっくり考えたくて。浮かんだら、また壁越えて会いに行こうと思ってた。高級街だったら、宮廷よりは簡単に侵入できるし……」
 とんでもないことを当然のように言ってのけるメラスに、ガーサは頭を抱える。
「また無茶なことを……一緒に考えようって言ったじゃないか。君がいなくなったおかげで、私は今回の爆破事件に関する経過報告書をたったの三日で仕上げ、過去に例のない下町への立ち入り許可を皇帝陛下に掛け合い、養子迎え入れの許可を天議会に承諾させるという強行に出なくてはならなかった。いくら今回のことで天議会が弱腰になっているとはいえ、これで私の地位はまた格段に下がるというものだ」
「……ご、ごめ――え?」
 今、何かさらりととんでもないことを言われた気がする。
「ちょ、ちょっと待った。あ……と、最初から……何が、え!?」
「君がちゃんと残っていてくれたなら、下町の立ち入り許可なんて必要なかったし、養子申請だってもっとのんびりやれたと言ったんだよ。まったく、せっかちったらありゃしない。そもそも」
「ちょ──っと待てってば!」
 このまま日暮れまで文句を吐き続けそうなガーサの言葉を、メラスは無理やりにさえぎった。
 ガーサがにこりと微笑む。
「ん?」
「なんの話をしてるんだ、ガーサは!」
 メラスは大袈裟な身振り手振りでガーサにつめかかる。ガーサは動揺で真っ赤になったメラスの顔を、楽しげにつんっと指でつついた。
「……て、人の話をきけよ、おっさん!」
「事件が解決したら、話すつもりでいたんだよ、メラス」
 怒りを爆発させるメラスを、ガーサは笑顔で制止した。
 この笑顔に弱いのだ。メラスは仕方なく口をつぐむ。
「大変だったよ。なにしろ君は宮廷を爆破させた人間だ。天議会を説得するため、イスタや同僚が必死になって協力してくれてね。天議長の弱味はずいぶんと役に立ったが、それでもひと冬かかってしまった。今朝、やっとのことで許可が下りたんだよ。……といっても、一番の功労者はフォレス様だけどね。フォレス様が前面に立ってくださらなければ、まず両方とも許可は下りなかっただろう」
「……フォレス様?」
 話の展開についていけず、戸惑うばかりのメラスは、懐かしい名を聞いてきょとんと首を傾げた。
「様って……」
「ん? ああ、この前メラスと話していた方だよ」
「フォレスだろ? 知ってるよ。じゃなくて、何で、様なんだ?」
「あれ? ……名乗らなかったのかな」
 ガーサは目を瞬かせ、天気の話でもするように言った。
「あの方は、皇太子様だよ」
「……は?」
「第二皇位継承者、蒼煌仲子フォレシルアス=ラグト・イズトリー。フォレスという名を名乗れるのは、この国ではフォレス様だけで――」
「ば、馬鹿じゃないの!?」
 何が馬鹿なのかがまったく分からないが、メラスは動揺しすぎて思わず叫んだ。
 おかしいと思ったのだ。あの時は落ちこんでいて意識しなかったが、後で考えてみると、フォレスはガーサやイスティーノを呼び捨てにしていた。宮廷の人間で、彼らを呼び捨てに出来るのは、同位の総師か、天議会議長ぐらいなもののはずだ。だから何となく、総師の関係者なんだろうと思っていたが――まさかよりにもよって、総師、天議長のさらに上をゆく皇族であったなどと!
「あ、あれ? 私、ど、怒鳴りつけたような。あれ!? 踵落とし食らわせた!?」
 いまさら真っ青になるメラスに、ガーサまでが「踵落とし……」と呆気にとられている。
「というか、なんで皇族が高級街をぶらぶらしてるんだよ! 内廷ってところにいるんじゃなかったのか!? あんな庶民が着てそうな格好で、き、木に登ってたし、しかもあの口調……そうだよ! あいつ、「いよっ」て、挨拶したぞ!?」
「あの方は、放浪皇子という異名を持っていてね」
 メラスの混乱しきった様子に、ガーサはクツクツと肩を震わせた。
「色々事情があって、政治の舞台には立たれない方だ。今回はメラスのために、かなり無茶をしてくださった」
 そう聞いて、メラスはようやく落ち着きを取り戻す。
 そうだ。フォレスがあの時メラスの話を聞いてくれなければ、あの後、あんな風にガーサと語り合うことは出来なかったかもしれない。自暴自棄のまま、屋敷を飛び出し、皇帝陛下に会いに行っていたかもしれない。
 フォレスの快活な笑顔を思い出し、メラスはうなずく。
「……そっか。お礼、言いたいな」
「そうだね、今度お会いしたときにでも言ってさしあげるといい。ずいぶん心配してらしたから。で、メラス。そういうわけだから、私の娘にならないか?」
「うん……。…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……ぇえ!?」
 メラスは目を丸くして、顔を跳ね上げた。
「今までの話、全然聞いてなかったね、メラス」
「な、なに言ってるんだよ!」
 メラスは変人でも見るような目つきでガーサを見つつ、じりじりとその場を後ずさった。
「あ、あんた、頭おかしいんじゃないのか? もしかして、倒れたときに頭でも打ったか!?」
「理由一。聞きたいかい?」
 楽しげなガーサの意地悪な問いに、メラスは声もなくうなずく。
「よし。これはね、口実なんだけど、君に下町と下級民、宮廷の橋渡しをしてほしいんだ」
「……はし?」
「そう。私はこの通り、そうそう下町に来ることはできない。下町の状況を知ることができないんだ。下町の者が何を望み、何を求めているのか。メラス、君から色々と学びたい。それから下級民のことにも協力をしてほしいんだ。この国を支配する身分制度を異常だと思っている人間は少ない。私ですら、生まれたときから存在する身分制度を、完全には客観視できていないだろう。だから制度の異常さを知る人間の協力がほしいんだ。これが理由一」
「あ、そうか。そういうこと……」
 メラスはつい肩を落としてしまった。
 フォレスと父親の話をしたせいだろうか、娘になってほしいと言われ、本当にただガーサと家族になることを期待してしまったのだ。
 だが言葉を詰らせるメラスを見て、ガーサは声を上げて笑った。
「メラス、理由一と言ったろう。口実とも言っただろうに! ここからが本題だ。よく聞いてくれ。君が出て行ってから、家が恐ろしく広く感じられてね。静かなんだよ、いつも通りなのに」
 そしてガーサは微笑んだ。あの優しい眼差しで。
「何だか寂しいんだ。あの賑やかな、赤い髪の娘がいないとね」
 ガーサは少し照れくさそうに頭を掻いた。
 メラスは両手で口を覆った。そうでもしないと、何か妙なことを口走ってしまいそうだった。だが口走らなくても、顔が真っ赤になってゆくのを感じる。
「メラス。私の娘になってくれないか?」
 改めて、ガーサが手を差し出した。
 メラスは片手で口を押さえたまま、わずかに躊躇ってから──その手を軽く握りかえした。
「そう……なれたらいいって、思ってた」
 そう言うと、メラスとガーサは顔を見合わせ、どちらともなく笑い出した。
 それは静かで、穏やかな、春も近い午後のことだった。