小説(長編小説)王宮の自動人形|第一章 8



第八話「ひとひらの願い」

 皇帝陛下とやらの横っ面を、引っぱたいてやりたかった。
 気づけ、気づけ、気づけ。
 私たちの苦しみに、気づいてくれ。
 ――ただ、それだけを伝えるために。


 椅子に腰をおろしたフォレスは、床に直接、それも寝台から遠い壁際に座るメラスを不思議そうに見つめた。
「椅子、座れば?」
 メラスは抱えた膝に顔をうずめ、投げやりに首を振った。
「……いい」
 そして、また黙りこむ。
 頭の中が真っ白だった。考えるべきことはたくさんあるのに、何ひとつ思いつかない。椅子からずり落ちるようにして倒れたガーサを見て、イスティーノから思いがけない真相を聞かされて、頭が痛むほどに混乱している。
 ――ただ、君を守ろうとしただけなんだ。
 ――ガーサは君の願いを知りたがっていた。
 メラスは唇を噛みしめた。
 知らなかった。まさかガーサが、メラスを守るために危険を犯していただなんて。
 馬鹿な総師。恩寵深き宮廷を穢した罪人を、ただ幼いという理由だけで、必死に守ろうとした。己の地位を賭け、寝る間も惜しんで反乱組織を追った。ガーサの救いを待つ人間が、海明遼国には山ほどいるというのに。
(馬鹿なのは、……私だ)
 メラスは抱えた膝に力をこめる。突っぱねた裸足が床を滑って、きゅっと小さな音をたてた。
「話、聞こうか?」
 半ば存在を忘れかけていた少年が声をかけてきた。
 反射的に首を横に振るが、フォレスは懲りずに続ける。
「悩みをためこむと、はげるよ」
「……ほっといてくれ」
「いや、まじで。胃に穴も開くし」
「……いい」
 フォレスは小さく溜息をついたようだった。椅子の脚を引く音がして、無造作な足音がしたかと思うと、隣にとんっと座る音がした。
 わずかに触れた肩から、フォレスの体温が伝わってくる。
 たったそれだけのことなのに、メラスは顔をくしゃりと歪めた。
 どうして、ガーサの近くにいる人たちはみな温かいのだろう。頭を撫でてくれたイスティーノの手も、出会ったばかりの少年の肩も、温かくて、優しくて、泣きたくなる。
「追及しようってわけじゃないんだ。俺はただの見舞い客だし。けど、たまたま顔出したら、そこん家の子が泣きそうな顔してる。事情がさっぱりな俺に出来ることって言ったら、愚痴聞いてやることぐらいで……ええと、つまり、話すだけでもだいぶすっきりするからさ」
 言葉のたどたどしさから、フォレスが本当に困っているらしいことが分かった。
 ただの見舞い客が思わず心配してしまうぐらい、自分はひどい顔をしているのだろうか。狼狽したフォレスの声音に、少しだけ気持ちが和んだ。
 ――話したら、すっきりするだろうか。
 これからどうすればいいかも、分かるだろうか。
 寝台で眠るガーサに目をやり、メラスは決意して口を開いた。
「私は……下町を守りたくてここまで来た」
 思いのほか、しゃんとした声に勇気づけられ、メラスは先を続ける。
「でも、そのことで他の誰かに……ガーサに迷惑をかけるつもりなんて、なかった」
 メラスは震える手で膝を抱えなおす。
「話、聞いてくれる……?」
 気弱な問いかけに、隣の少年は心強くうなずいた。


「フォレスは、下町って知ってる?」
 質問の意図を図りかねたのか、フォレスが首をかしげた。
「ガーサやイスティーノは、あまり知らないみたいだった」
 扉越しに聞いた会話で、彼らは下町の場所すら分からないと言っていた。フォレスは「ああ」と納得したようにうなずく。
「知ってるよ」
「……知ってるのか?」
 自分で聞いたくせに、思わず問い直す。総師も知らなかったことを、目の前の少年が知っていることが奇妙に思えたのだ。フォレスは悪戯っぽく笑った。
「ガキの頃に下町の噂を聞いてさ。あちこち壁を登りまくって、下町を探して、で、見つけて中を覗いたことがあるんだ」
 何だか、メラスのような話だった。自分以外にも、あの壁を越えようとしていた人間がいたなんて。
 メラスはわずかに顔を綻ばせる。
「じゃあ、知ってるよな。下町がどういう場所か」
「そうだな……」
 フォレスも遠くを見つめて、そこに見えた光景に微笑んだ。
「まるで、楽園のような場所だったよ」
 メラスは素敵な例え方に、うん、とうなずいた。
「私は下町が大好きだ。あそこは本当に、楽園のような場所なんだ」
 春になれば、冬枯れしていた木々がいっせいに芽吹く。薄紅の花が咲き誇り、空が霞がかったように淡く色づく。その美しさときたら、メラスのつたない言葉では表現できないほどだ。
 花が散ると、濃い緑葉が風に揺れ、夏の訪れを告げる。眩しい太陽をさえぎる優しい木陰は、子供たちの絶好の遊び場だ。
 秋になれば、木々は赤く染まる。丸々と太った実を落として、人間や動物の冬の蓄えとなる。
 自然の恩恵を受けながら、つつましくも穏やかに過ぎてゆく、下町の刻。
「井戸は澄んだ水で満たされていて、畑もいつも野菜でいっぱいだ。……って言っても、育てた野菜はどっかに持ってかれちゃうんだけどな。でも、自分たちの食い扶持分ぐらいは貰えたから、食べ物に不自由はなかったよ。学校はないけど、孤児院で学ぶことができる。医者はいないけど、薬草園があって、みんな自分で扱える。――私はそんな下町で生まれ、育った」
 切なさに似た愛しさに胸をしめつけられ、メラスは目を細める。
「下町だけが、私の世界だった。他に世界があるなんて思いもしなかったし、下町が壁に囲まれていることも気にならなかった。生まれたときからそうだから、そういうもんだと思ってたんだ」
 風が吹き、窓をかたかたと鳴る。
「ある日、風に乗って、壁の外から笑い声が聞こえてきた」
 そのとき、メラスは初めて壁の外にも別の世界があることを知った。
「憧れっていうのかな。下町の他にも世界があるって知って、すごく憧れた」
 壁の外には一体どんな世界が広がっているのだろう。
 どんな人々が、どんな暮らしをしているのだろう。
 孤児院の院女が語ってくれたお伽話のような世界が、自然と頭の中にふくらんでいった。
「外の世界を見てみたい。思いはどんどん強くなっていった。それで、壁の上に立ってみようって思いついたんだ。壁の上からなら、きっと外の世界を見渡すことができる。それで毎日、壁の表面とこに足掛かりになりそうな穴を削ることにした。これが結構大変でさ……畑仕事や孤児院の仕事もあるから、なかなか進まなくて」
 だがメラスにとってそれは、本気というよりは、面白い遊びを見つけたという程度のものだった。
「憧れはあっても、やっぱり下町が好きだ。外を見てみたいけど、出たいとは特に思ってなかった。私は下町の生活に満足してたんだ。――あいつらが来るまでは」
「あいつら?」
 メラスは脳裏に浮かぶ、紅千柱大廊で出会った天議長の顔を睨みつけた。
「宮廷の天議長。”あいつら”の一人が天議長だったってのは、昨日知ったんだけど」
 三年前のことだ。
 強風が逆巻く嵐の晩、壁の外から妙な男たちがやってきた。
 メラスは呆けた。外の人間を見るのはそれが初めてだったし、外から誰かが来る可能性を、考えたことがなかったのだ。
 高級民だ、と孤児院の院女は驚いたように言った。
 いかにも高貴な出で立ちだった。垢汚れなどあるはずもない清潔な衣装と、高価な装飾品。
 彼らは下町の民を見つけると、見たこともない類の微笑を浮かべた。
「ずっと憧れてた外の人間が来たっていうのに、私は奴らを薄気味悪いと思った。なんて気持ちの悪い笑い方をするんだろうって。そうしたら、連中は本当に最低な奴らだった」
「天議長が……まさか。下町への立ち入りは、法律で禁止されてる」
「そうみたいだな。でも、来たんだ」
 ガーサとイスティーノの扉越しの会話でも、古い時代の皇帝が定めた法とかどうとか言っていた。メラスには、法律だとかの細かい話は分からない。ただあの日、彼らが来たのは事実だ。
「いったい何をしに……」
「最悪なことだよ。怖くて、気持ち悪いこと。あれを、何て言うのか私はよく分からない」
「……たとえば?」
「お前らは家畜だ、て笑った。家畜には何をしてもいいんだ、て。何をしてもいいってぐらいだから、奴らは本当に何でもした。夜明け前に奴らが帰ったあとは、下町のみんなでたくさん墓を作ったよ」
 息を呑む気配に、メラスは膝小僧に額を押しつける。
「一度きりじゃないんだ。その後も、何度も奴らは下町に来た」
 ありとあらゆる蛮行が繰り広げられ、それは来るたびに酷くなってゆく。
 恐怖と絶望が、穏やかだった下町の暮らしを激変させた。
 悪夢の夜が明けると、痛々しい姿になった院女は、隠れていた子供たちを抱きしめて言った。
「“皇帝陛下がいつか気づいてくださる。いつかきっと”」
 平坦に院女の言葉を繰りかえして、メラスは目を閉じた。
 嘘だ、そう思った。
 皇帝とやらは、気づかない。
 今まで気づかなかったのだ。気づくはずがない。
 こんな壁に阻まれては、誰も自分たちの嘆きに気づきはしない。
 壁の外からは笑い声。夜、恐ろしい蛮行の中、メラスは必死に壁を叩いて助けを求めた。
 だが、誰も気づく気配なかった。
 下町の生活は、急速に壊れていった。
 育てていた野菜の全てが没収され、薬草までが奪われた。自分たちに与えられるのは、外の世界から送られてくる残飯。酷いときは、それすらない。
 飢えに苦しみ、病に泣き、痩せ細った腕で、死に物狂いに壁を叩く。
 それでも、助けは来ない。
 嫌でも気づかされた。
「皇帝は、決して気づかない」
 風が窓を鳴らす中、メラスは言い放った。
 横目でフォレスを見ると、少年は驚くほど厳しい顔をしていた。虚空を険しく睨む目に、先ほどまでの明るい色はない。それを不思議に思いながら、メラスは首をかしげた。
「フォレスは、朱燬媛士っていう人を知っている?」
「え? ……ああ、ケナテラの古代の英雄の名だ。滅びゆく世界を救った、という」
「孤児院にマリアって友達がいるんだ。その子が、私に似ているって」
「あ、赤い髪……」
「うん。それでマリアが私に、メラスなら朱燬媛士様のように世界を救ってくれるよねって言ったんだ」
 自分よりも幾つか幼いマリアの無邪気な笑顔を思い出し、メラスは愛しげに微笑んだ。
「世界が救われたら何をしたいか聞いたら、おなかいっぱいご飯を食べたいって。私を頼ってくれたこと、嬉しかった。けど、すごく辛かった。私じゃ世界は救えない。……それで思いついた」
 フォレスが首を傾ける。
「いつか皇帝が気づいてくださるってやつだよ。あっちが気づかないなら、こっちから気づかせてやればいいんだって思ったんだ」
 それは、とても簡単な論理だった。
 そしてその論理から、少女の無謀すぎる計画は始まった。
「宮廷に乗りこむ。皇帝とやらに直接会って、横っ面をひっぱたいてやる。とっとと下町の惨状に気づけよ、この馬鹿皇帝! そう詰ってやる。……それが、私が宮廷に来た目的だ」
「む、無謀だなぁ」
 フォレスが呆気に取られた顔で呟いた。メラスも思わず笑う。
「そうだな。私もそう思う。でも……思いついちゃったんだ。だからまず、壁の足場を完成させた。尖った石を使って、つま先だけを引っ掛けられる穴を掘った。あとは木の蔓で縄を縒ったり。それだけで、半年かかったよ。そうやって、ようやく壁を登った。……初めて壁に登った時のこと、忘れられない」
 メラスは緑の瞳に憧憬を宿して、微笑んだ。
「想像してたよりも、ずっとずっと巨大な世界だった。夕焼けに沈んだ海明遼は、信じられないほど大きくて、綺麗だった……」
 それから準備を重ねて、下町を出奔した。今から三ヶ月余り前のことだ。
 壁を越えて、城下町に入ったメラスはすぐに思い知った。城下町を歩く人々が、傍らに聳える壁に見向きもしないことを。皇帝どころか、壁一枚隔てただけの場所に暮らす庶民も、本当の意味で「下町を知らなかった」のだ。
 城下町の民は、壁の向こうは、都の外と認識していた。
「それから二ヶ月かけて、情報を集めた。階級制度の存在も、城下町に出てから初めて知った。……下級民が盗みを働いたとかで、処刑場で首を斬られるのを見たよ。見学してた城下町の人たちは笑ってた。――この国は、おかしい」
 そしてその異常な階級制度の中に、やはり下町の民は組みこまれていなかった。それを知ったとき、ほっとしたような、哀しいような、複雑な気分になったのを覚えている。
「そうやって調べてるうちに、爆破事件のことを知ったんだ」
 皇帝陛下がおわす宮廷を爆破する、謎の爆破犯。
 メラスは、これだ、と思った。
「宮廷の内部に侵入する方法がなかなか思いつかなかったんだけど、爆破犯のことを知って、便乗することを閃いた。つまり……爆破犯のふりをして、捕まっちゃえばいい、て考えたんだ」
 フォレスが口を引きつらせた。
「ははあ、捕まっちゃえーと……」
「牢屋は宮廷の中にあるだろ? つまり宮廷の深部に入りこみたいなら、捕まっちまえばいい。で、牢屋に入れられたら脱獄する。そのまま宮廷の中心に走っていけば皇帝に会える、そう考えた」
 子供じみた単純な計画に、メラスは他人事のように笑った。
 けれど目は少しも笑っていない。
「脱獄できると思った?」
「……どうだろう。するつもりではいたけれど、できるとは思ってなかったかも」
 メラスは自分の手を見つめた。
 薄い手のひらに、一瞬だけ、蝋燭ほどの小さな火が浮かんで消える。
「生まれつき、変な力を持っているんだ。念じると、火を呼ぶことができる。牢屋の格子も、時間をかければ火で溶かせるかなって。監視兵を火で脅かして、逃げることもできる。……古蔵の爆発もそうだよ。本当は火をつけて、火事にするだけのつもりだったんだけど、いきなり爆発しちゃって。髪の毛が少し焦げた」
「あの辺りの倉庫は、昔、爆薬庫として使われてたからな。爆薬の残りかすでもあったのかも。それにしても、炎術師とはな」
「えんじゅつし?」
 フォレスは立てた親指でガーサを示した。
「生まれつき、精霊の力を操れる人間たちのことを、精霊術師と呼ぶんだ。メラスみたいに火の精霊の力を操る人間は「炎術師」だ。多分、先祖の誰かが、火の精霊と交わりを持ったんだろう。ガーサは風術師。だから魔総師になれた。魔総師は、精霊術を使えないとなれないからな」
「へぇ……」
 そんなに凄い力だったのか、とメラスは改めて自分の手を見つめる。
 先ほどのような小さな火しか呼べないので、普段の生活で使ったことはほとんどない。
「それにしたって無謀だ」
 改めて言われ、メラスは頬を気まずげに掻く。
「でも途中まではうまくいってたんだ。予想外だったのが、ガーサだ。まさか屋敷に連れてこられるなんて思いもしなかった。……でもガーサは、宮廷を自由に歩いていいって言ってくれた。絶好の機会だ。宮廷の地図を覚えたら、ガーサの監視をかいくぐって、皇帝がいる場所まで行ってやろうって改めて思った」
 そこまで言って、メラスを力なくうつむいた。
「……成功するとは、やっぱり思ってなかったと思う。でも、それでも良かった。皇帝に会いに行くことが出来なくても、最悪、裁判所とか、処刑場で会えるんじゃないかって思ってた。重罪人の処刑には、皇帝も立ち会うって城下町で聞いたから。だからそのときに、一言でも下町の現状を伝えられたらいいって思ってた。ううん、今でもそう思ってる。処刑が決まったら、私は誰が止めてもそうする。だって――なあ、フォレス。皇帝はすごい人なんだろ? 宮廷にいるあんたなら知ってるよな? 下町のみんなは本気でそう信じてるんだ。皇帝陛下なら、きっと救ってくださるって。気づきさえすれば、助けてくださるって」
 すがる思いで、メラスはフォレスに詰め寄った。
 いつか皇帝陛下が救ってくださる。悪夢の夜を終わらせてくれる。
 皇帝陛下ならば、下町を助けてくださる。
 多分、誰よりもそれを信じたのは、メラス自身だ。
 だから、いつまでも助けてくれない皇帝に、誰よりも腹を立てた。
 だから、命を懸けてまで、宮廷までやって来た。
 下町の民の嘆きを知ってもらうことさえできれば、きっと皇帝陛下が救ってくださると信じて。
「……でも、それがガーサを追いこんだ」
 メラスはガーサの眠る寝台を、後悔に揺らぐ瞳で見つめる。
「困らせるつもりじゃなかった。傷つけたかったわけじゃない。……でも、いまさらそんなの遅いよな。私は単独犯で、反乱組織の情報も持っていない。情報があるなら、今すぐにだって渡すよ。それで反乱組織を捕まえることができるなら、ガーサの窮地を救えるなら、今すぐに」
 けれど、出来ない。ガーサはメラスを守るために多くを犠牲にしたのに、メラスには何ひとつ返せるものがない。たとえこの身を天議会に差し出したとしても、拷問の末に得られるものはひとつもないのだ。
 メラスはくしゃりと自分の前髪を掻き混ぜ、歯を食いしばった。
「ガーサのことなんて信じてなかった。信じる気なんて最初からなかった。でも今なら信じられる。私が見てきた下級民は、本当にひどかったんだ。下町よりもずっとずっと悲惨だった。ガーサなら下級民を救える。なのに私は、そのガーサを……」
 身を刺すような後悔が押し寄せてくる。
 悔やんでも悔やみきれない。下級民やガーサを犠牲にして、下町を救いたかったわけではない。ただメラスは、メラスの命だけを賭けたつもりだった。こんなこと、望んではいなかった。
「……まあ、ガーサはあの通りの男だからな」
 重苦しい沈黙を消し飛ばしたのは、フォレスだった。
「あんな能天気な笑顔した軍師なんて、不審に思うことはあったって、そうそう簡単には信じられないって。しょうがない」
 あっけらかんと笑いながら、しかしフォレスは呆れと尊敬の入り混じった瞳で、ガーサを見つめた。
「変な男だよな、ガーサって。俺さ、父親みたいに思ってるんだ。どうしようもなく、ちゃらんぽらんな親父。で、イスティーノが母ちゃん」
「イ、イスティーノが母ちゃん!?」
「そ。家計は火の車だってのに、貧しい人を見たらお金を恵まずにはいられない父親と、そんな旦那を、あんた、うちの家計簿見たことある!? って叱り飛ばす奥さん」
 昨夜の二人の口論と、フォレスの妄想が見事に合致して、メラスは思わず噴き出した。
 慌てて口を両手で押さえるが、勝手に想像がふくらんでゆく。
 笑っている場合ではないのに、一気に気持ちが軽くなってしまった。メラスは「な?」と言わんばかりのフォレスと顔を見合わせ、ガーサに視線を移した。
「……そっか。ああいうのが父親なのかな。生まれたときにはもう親なんていなかったから、想像もしなかった。そっか……、でも、うん」
 二人きりの食卓を気まずく感じたときも、優しく頭を撫でられたときも、いつも心のどこかにはくすぐったさがあった。思い返せば、今にも芽生えてしまいそうな何かを、メラスはいつも必死で押さえつけていた。
 頭とは裏腹に、心はとっくにガーサを信頼していたのだろう。
「ガーサが父親だったら、良かったな……」
 メラスは呟き、やがて小さな声で、ありがとう、と言った。
「ありがとう、聞いてくれて。少し、気持ちが楽になった」
 素直に頭を下げるメラスの髪を、フォレスは笑いながら、くしゃくしゃに掻き混ぜた。
 と、その時、ふたたび扉を叩く音がした。今度こそイスティーノの使いだろうかと思ったが、よりにもよって、二度目の叩音も窓から聞こえてきた。
「……この家の玄関は、窓なのか?」
「いや、俺以外に窓から入る阿呆はいないと思うけど」
「というか、何でそもそもフォレスは窓から入ってきたんだ?」
「マイサだよ、マイサ! あの侍女長、すっげぇ怖いんだって! 俺の顔を見たときの鬼のような形相……ああ、恐ろしい!」
 言いながら、フォレスは窓辺に歩いてゆき、無造作に閉ざした窓を開いた。
 一瞬、メラスの目に映ったのは、老人である。
 やけに身綺麗にした白髭の老人が、憤怒の表情で、張り出した梢にしがみついていた。
 フォレスが引きつり笑いを浮かべ、ぴしゃりと窓を閉じた。
「……な、なんだ今の?」
「え!? やー、えー、なんだ、あれだ、うん、悪い! 俺もう、帰らなくちゃだわ! ……ええと、メラス。少しでも力になれたなら良かったよ。で」
 フォレスは、外から揺さぶられる窓を後ろ手で押さえながら、空いた手でメラスを手招いた。
 寄ってくるメラスの耳元に顔を近づけて、フォレスはこっそりと囁いた。
「俺はなんも言ってやれないけど、かわりに贈り物。あー、起きてんだか起きてねぇんだかいまいち分かんねぇし、聞いてたんだか何なんだかもよく分かんないんだけど」
「え?」
「その寝台に置いてあるから。多分たぬき」
「……!?」
 謎の言葉にハッとして、メラスはまさかと寝台を振り返った。
 その隙にフォレスが「じゃ!」と叫び、窓を素早く開けて、いきなり窓から飛びおりた。
「ま――フォレス!?」
 混乱しながら窓枠にしがみつくと、フォレスが軽々と地面に着地しているのが見えた。一方の老人は梢にしがみついたままで、ばちっと目が合ってしまう。
「ど、どうも……」
「や、これはお初におめもじつかまつる……」
 頭を下げると、つられたのか、老人も丁重に頭を下げた。
 と、フォレスが口端をにやりと笑わせて、突然声を張り上げた。
「しっかりしろよ、未来の奥さん!」
「な──っ」
 メラスが顔を赤くして文句を言おうとした途端、
「な、なななな何てことをー!?」
 ものすごい剣幕で、老人が木から飛び下りた。百点満点の見事な着地を果たすと、脱兎のごとく逃げ出したフォレスを追いかけ、襟首を力任せに掴んだ。
「行きますぞ……!」
 老人に引きずられながら、フォレスがメラスに向かって陽気に手を振る。謎に満ちた二人の姿は、そのまま屋敷を囲う森の向こうへと消えていった。
 一体、何だったのだろうか。
 呆然としていたメラスは、はたと我に返る。自分の置かれた状況を思い出し、窓辺で凍りついた。
 メラスはごくりと息を飲み、おそるおそると寝台を振りかえった。
 ガーサは上体を起こし、腹立たしいほど能天気に笑った。
「やあ、メラス。お父さんだよ!」
「……この、でっかいタヌキー!!」