第六話「壁」
メラスは部屋に置かれた姿見の前に立ち、物思いに耽っていた。
――君の力になりたいんだ。
あれは、もう四日も前のことだ。背に投げられたガーサの言葉が、心の中から消えてくれない。メラスはこつんと鏡の中の自分と額を合わせた。
何故あんなことを言ったのだろう。仮にも宮廷に反意を持つ重犯罪者に向かって。
ガーサの言葉は、静かな湖面を乱すつむじ風のようだ。必死に平静を保ってきた心を、どうしようもなく騒がせる。
(信じては駄目だ)
心の中で何度も言い聞かせる。
(ガーサは私が誰なのかも分かっていない)
あの御人好しな仲師が嘘をついているとは思わない。だが彼はメラスのことを何ひとつ理解していない。何も知らずに、軽々しく口にした言葉など信じてはいけない。
そうだ、目的はあと少しで達せられる。成功を目前にして、甘い言葉に惑わされてはいけない。失敗は決して許されないのだ。
メラスは固く閉ざしていた瞳を開き、腹立つぐらい貧弱な自分の顔を見つめた。
『メラス。朱燬媛士さまって知ってる?』
記憶の奥底で、大切な友達の声が響きわたる。
『遠い昔、このケナテラ大陸が崩壊の危機に陥ったとき、人々を救った英雄様よ。その御方は、まるで燃えるような赤い髪をしていたって。ね、メラスみたいでしょう?』
鏡に映る、紅蓮の髪。燃え盛る炎のように、浪々と波打つ髪。
昔、絵巻物で見たことのある英雄の姿と、確かに少し似ている。
『メラスならきっと、朱燬媛士様のように私たちを救ってくれるよね』
メラスはひとたび目を伏せる。
次に見開いたときには、澄んだ緑の瞳には痛々しいほどの決意が秘められていた。
「明日だ。明日、計画を実行する」
呟いた途端、鏡面に触れた指先から、炎が生まれた。
細い指を中心にして、赤く透き通った焔が、鏡の上を滑るように広がってゆく。それは鏡の向こうにいる弱気な自分を焼きつくし、メラスに静かな闘志を与えた。
「……マリア。すぐ帰るなんて、嘘ついてごめん」
――私はきっともう、帰れない。
+++
「ガーサ、食事のときぐらい書類は手放してくださいませ」
昼食の席、メラスが箸を手に木卓の端に目を向けると、ガーサがまだ紙束を眺めていた。
「ガーサ!」
最初の声が聞こえなかったらしいガーサに、侍女長のマイサが声をあげる。
ガーサははたと顔を持ち上げて目を瞬かせた。
「ん? どうした?」
「……食事が冷めます。早くお召し上がりください」
溜め息をつき、侍女長はあきらめたように部屋を引き払った。
いつも通り、広間にはガーサとメラスの二人だけになる。
ガーサは書類を傍らに置き、まだ目で侍女長を追っていた。
「マイサはどうかしたのか?」
「……おっさん」
メラスは白けた目になる。
「おっさんじゃなくて、ガーサと呼びなさいと言っただろう?」
「――それ、ずっと見てるけど、なに?」
紙束に目を向けて聞くと、ガーサは曖昧に笑った。
「ちょっと。仕事のね」
「……ふーん」
明らかに何かを隠した様子に、メラスは仏頂面で生返事をした。
ガーサは隠しごとばかりだ。隠されるのは当たり前のことなのに、ここ数日、妙に気持ちがざわつく。だがガーサはメラスの苛立ちには気付かず、箸を手にしながらまた書類を目で追った。
メラスは侍女長と同じ溜め息をついて、汁物の椀を手に取った。
「おいしいかい?」
ガーサが見ていないのを良いことに、いかにも旨げに具を掻きこんでいたメラスは、顔を赤くする。見なくて良い時だけ、ガーサはメラスを見ている。
「……うまい」
メラスは椀を卓に戻すと、気まずく、それでも正直に答えた。
「そうか、それはよかった」
ガーサは満面に微笑むと、また書類に目を向ける。
「死刑執行前の最後のご飯だ、おいしくないわけない」
せめてもの意趣返しに、メラスはつっけんどんに言った。
途端、ガーサは大げさなほど悲しい顔をした。
「死刑だなんて、そんな悲しいことを言わないでくれっ」
全く、とメラスはげんなりした。ちょっとでも自虐的なことを言うと、悲しげに泣くか、本気で怒るかしてくるのだから。今さらながら、最初にガーサ自身が言っていた「人情男」の意味を痛感する。
「死刑なんだろ。だって私は絶対、何も話さないからな。いい加減にあきらめて、私を刑場に引きずり出したらどうだ」
ガーサはほろほろと浮かんでくる涙を袖でぬぐった。
「やめろよ、高級な服がもったいないだろ」
苛めるのがちょびっとだけ面白くて、メラスはさらに突っついて遊ぶ。
だが返ってきた答えは予想外なものだった。
「いいんだいいんだ。どうせ袖がもうぼろぼろなんだから。メラスが毎日苛めるからっ」
「人にせいにするな……ん? そういえばその服、良く着てるな。宮廷に参内する時もさ」
ガーサは鼻水を啜りながら、影を背負って遠い目をした。
「私の一張羅だからねぇ……」
「そのぼろぼろのが? そんなんで宮廷に入っていいのか? 総師なんだから、新しい服作れよ」
まだ宮廷知識に乏しいメラスにも、それが宮廷仕えとしては不相応な服であることぐらい分かる。だがガーサは深すぎる溜め息をつくと、首を横に振った。
「服を新調する金が、今ちょっと……」
「は!? 高級民だろ、おっさん!」
「何というかまあ、半端な立場にいてね」
微妙な答えに眉根を寄せるが、メラスはあることに気づいて眉根をひそめた。
「そういえば、マイサ以外の侍従はどうしたんだ? 最初たくさんいただろ」
「彼らは友人の屋敷から借りてきた侍従だ。マイサだけでは手に余ると思ったからね。マイサの他には料理人しかいない」
「こんなに立派な屋敷に住んでるくせに!?」
るるるーとガーサは目を糸のように細めた。
「普通は、国から雇用費を貰えるんだが、今はちょっと宮廷での立場が悪くてね。おかげで手が足りずに、マイサには苦労をかけている。おかげであんなに苛々しちゃって」
「立場が悪いってどういうことだよ」
「それは……――そうだね。メラス、総師と天議会は対立関係にあるんだ、と言って、分かるかな?」
改まった口調で問われて、メラスは少し考える。
総師は、軍人だ。天議会は、議員。分かることはそれぐらいだ。
「簡単に言うと、総師は皇帝陛下から寵愛を賜っている。本来、軍人は政治には関与できないのだが、皇帝陛下の勅令が下され、天議会で議席を得ることになった。そのせいで、天議会は総師をねたんでいるんだ。中でも私はある政策の件で、天議会から目をつけられていて、そりゃもうありとあらゆるいびりを受け……ついには給金の不払いまで」
ガーサが言うと何だか程度の低い話に聞こえるが、一国家の、仮にも総師たる男が給金を受け取れないというのは異常事態である。相当な圧力を受けているのだと、メラスにも分かった。
「ある政策って何だ?」
気にかかって、何とはなしに問いかける。
ガーサは書類の束を傍らに置くと、小さく溜め息をついた。
「下級民への支援政策だ。それから、下級民という地位の撤廃を天議会に提議している」
メラスは目を見開いた。
「下級民の、支援政策?」
「そう。……メラス、この国では悪しき身分制度が当たり前のように存在している。生まれた時から厳しい身分制度の中に組みこまれ、誰も疑問に思わない。下級民が飢えに苦しんで死ぬのが当たり前と思っている。それは……下級民すらもが思っていることだ」
ガーサはメラスが言葉を失っていることに気がつくと、真っ直ぐに少女を見つめた。
「全ての民に、気づいてもらわなければならない。この国が腐っているということを」
「腐ってる……」
「数百年もの間、全ての罪を下級民に押しつけ、多くの民が偽りの平和の上にあぐらをかいてきた。その事実に気づかねばならない」
ガーサは詰めていた息を吐き出すと、焦げ茶色の瞳に泣きたくなるほど優しい色を宿した。
「メラス。動いているのは私だけではないよ。私の友人も、総師の大半も、それに天議会の中にも数人ではあるが、下級民の支援に賛同してくれている人たちがいる」
メラスは、ガーサを見つめ返した。
「途方もない時間がかかるだろう。並々ならない労力も要する。だが私は生涯を費やして、下級民を救いだすつもりだ。……君はどう思う?」
突然、意見を求められて、メラスは素直な尊敬に頬を赤らめた。
「えっと……すごいと思う。すごく、良いことだ。きっと喜ぶよ、下級民は」
つたない言葉しか出てこないのが悔しかったが、メラスは続ける。
「下級民はひどい生活をしてた。痩せっぽちで、病気みたいな顔をしてた。軒先を歩いてるだけで、石を投げつけられて……早く政策が認められて、下級民が楽になるといいと思う。すごく、そう思う」
「そうか」
ガーサは何故かほっとしたように微笑むと、メラスの赤い頭を優しく撫でた。
「実は、君にも協力をしてほしいと思ってるんだ。いや、君が宮廷まで押しかけて来てくれたから、私も決断をしたのだが」
「協力?」
「多くの下級民は何もかもをあきらめてしまっている。しかし政策を通すには、下級民自身の声が必要なんだ。彼らが動かなければ、天議会を動かすことは決してできない」
声を失うメラスに、ガーサは力強く続けた。
「私はずっと、下級民が立ち上がってくれないかと期待していた。あきらめずに声を張り上げる、君のような下級民を待っていたんだ。ちょっと不謹慎だけどね」
だから協力してほしい。そう無言の内に請われて、メラスは絶句した。
震える拳を机の下で握りしめる。
「そ……、れは……」
頭が混乱し、言葉が途切れる。
しばらく何も言えずにうつむき、それでもメラスはどうにか口を開いた。
「もし私が……協力できないと言ったら、下級民は救われない?」
「いや、そんなことはない。それは心配しなくていいよ。方法は他にも色々あるから。協力するかしないかは、君の意思に任せる。少し考えてみてくれ」
メラスは唇を引き結び、こくり、と小さくうなずいた。
「よし、詳しい話は後だ。冷めないうちに食べようか!」
ガーサはそう言って、また箸を皿に伸ばした。しかしその目線はやはり書類に向けられている。おざなりに動かしていた箸はやがて止まり、ガーサは書類に没頭しはじめた。
「そっか。だから力になりたいって言ったのか……」
小さな独り言に、ガーサが「ん?」と顔を上げる。
何でもない、と首を振るメラスに、ガーサは相変わらずの穏やかな顔で笑った。
「今日の午後も宮廷に行くかい?」
メラスは静かにうなずいた。
「ああ……」
+++
「皇帝ってどこに住んでるんだ?」
紅千柱大廊と呼ばれる吹き抜けの廊下を歩きながら、メラスは訊いた。
ガーサはその名の通り、廊下の片側にずらりと並ぶ紅柱に触れながら、東の空を見つめた。
「陛下のおわす宮となると、さらに東だね」
「それって私でも行けるのか?」
「行きたいのかい?」
メラスは怯むことなく、ガーサを真っ直ぐに見返した。
「ああ、もちろん。この国の支配者がどれほど馬鹿面なのか、是非とも見てやりたい」
不遜極まりない言葉である。警備兵が近くにいればその場で首を斬られても何の文句も言えない。いや、ガーサが並の軍師であるならば、ガーサがそうしたはずだ。だが相変わらず武官らしい様子を見せないガーサは、ふと真剣な顔でメラスの顔を覗きこんだ。
「メラス。私も君が皇帝陛下に会えるなら、どんなにいいかと思うよ」
「あんたも皇帝が馬鹿面だと認めるわけだ」
「陛下は素晴らしい方だ。いつも民のことを考えておられる」
メラスは緑色の瞳を細め、薄く笑った。
「その民ってのは、どの民だ? 高級民か? 中級民か? それとも下級民まで? 本当に皇帝が民のことを考えているなら、宮廷は爆破されないし、私もここにはいない。おっさんが天議会にいびられることもなかったはずだ」
ガーサは微笑み、メラスの頭に手を置いた。
「目隠しをされれば、見たくても見えないものがある」
ガーサの声音はやけに平坦だった。
それだけに言葉自体の持つ重さが、手のひらの重みと一緒に、じかに伝わってくる気がした。ガーサは皇帝陛下が誰かに目隠しされているのだと、暗に告げている。
メラスは東の空を見据える。
「じゃあ、私がその目隠しを取ってやったら、皇帝は私たちに気がつくんだな」
ガーサは意表をつかれて、メラスを見つめ返した。
「それはどういう意味だい?」
「ガーサ。あんたは変だけど、いい奴だった。高級民は馬鹿ばかりだと思ってたよ」
初めてまともに名を呼ばれて、ガーサが驚いた隙に、メラスは畳みかけるように言葉をつなげた。
「考えたけど、下級民の政策のことだけど、やっぱり協力はできない。……ごめん。協力できたらよかったんだけど、私じゃ無理なんだ」
「いや、それはかまわないが……」
「でも、上手くいくことを願ってる。心の底から」
ガーサはしばらく沈黙し、やがて慎重に口を開いた。
「君は時々、壁の外から物事を見ているようなことを言うね」
メラスは笑った。
「外じゃない。”内側”だよ」
「メラス、君は一体――」
だがガーサが言い切るよりも早く、異変が起きた。紅千柱大廊のずっと奥、影の落ちた曲がり角から無数の足音と笑い声が近づいてきたのだ。
メラスは一瞬、馬鹿みたいに呆けた。
宮廷を歩きまわった一週間、門兵以外の人間には一度たりと出会ったことがない。ガーサは仕事が忙しい時間帯だからと言っていたが、人がいない宮廷にすっかり慣れていたメラスは、近づいてくる足音に必要以上の不安を覚えた。
嫌な、予感がした。
ガーサがメラスを後ろ手に引き寄せる。自分の背に隠すように、紅柱とは反対側の壁に身を寄せた。押しつぶされそうになって、メラスはガーサを見上げた。
「なに――」
「メラス。彼らが目の前を通るより先に、頭を下げるように」
ガーサの説明は簡単だった。メラスは眉をひそめるが、自分の腕を掴むガーサの力がやけに強くて、反論する言葉を飲みこんだ。
しばらくもせず、賑やかで、それでいて浮ついた話し声が近づいてきた。
その足音。
いかにも布張りの上等な靴を履いていると分かる、固いところのまるでない足音。
高級民だ。
メラスは本能的に音のするほうを振りかえる。だが、ガーサが自ら頭を下げるとともに、メラスの頭を無理やり手で押し下げた。
話し声がすぐ側までやってきた。
否応なく床に視線を落としたメラスの視界の中で、靴の大群は、頭を下げた二人にまるで気付いていないとでも言いたげに過ぎ去っていった。
メラスは安堵のあまり、ほっと息を吐き出す。
だがその時、最後の靴が、その軟弱な足が、メラスの前で立ち止まった。
「ほほう。誰かと思えば、ガーサ仲師ではないか」
低い、含み笑いがガーサにかけられた。
「顔を上げよ、仲師殿。君は我々と同位ではないか。陛下に寵愛を受けておられる総師殿に頭を下げられるなど……陛下が見ておられたら、責めを受けるのは私なのだぞ」
上品な声だった。まるで絹の上に指を滑らせるような、とらえどころのない声だ。
「申し訳ない、天議長殿。ただ紅千柱大廊では、壁際を歩いていた者が柱側の方に道を譲るものと、そう記憶しておりましたので」
ガーサの心地よく朗らかな声が、掌から震動となって伝わってくる。
息を詰めていたメラスは、最初に宮廷を訪れたときと同じように緊張が解けてゆくのを感じて、複雑な思いで唇を引き結んだ。
「ふん、まあよい。――それよりも……」
不意に、メラスの顎の下に何か冷たいものが差し入れられた。
ぐっと顎を持ち上げられて、初めてメラスは畳まれた扇子が自分の顔を持ち上げていることに気付く。扇子を辿ってみれば、そこには上から見下ろすような冷たい蔑視があった。
その顔を見て、メラスは頭が真っ白になるのを感じた。
「ほう、この娘が噂の」
男が軽蔑しきった声で言う。
「なるほど、これが下級民か。意外だの。生意気にも人間の顔をつけておるわ」
「……天議長殿」
「毎日、水を嘗めさせるかわりに香水でも食らわせておるのか? 畜生の匂いはせんようだ。しかし、この荒れた肌」
男は着物の広袖を口元に当て、扇子でメラスの頬を打った。
「女子のくせに、触る気にもさせん。ガーサ殿も趣味のお悪いことだ」
「天議長。おやめください」
「ふん。よくも陛下のお膝元に、こんな薄汚れたモノを連れてこられたものよ。噂では、下級民は毎日、家畜の内臓ばかりを食らっておるそうではないか。汚らわしい生き物ぞ。これほどの下卑た生き物に、“民”の称号を与えるとは陛下も御人が良い。仲師殿、同情するぞ。かように下卑た生き物が、貴公の地位を貶める結果になろうとは――……ん?」
ガーサの制止を無視し、汚いものでも見る目つきでメラスを見下ろしていた男は、眉をひそめた。
「……お前」
まじまじとメラスを見つめ、何か不可解な思いに駆られた様子を見せる。
メラスは目を見開いたまま、唇を震わせた。
「どこかで……ッぅ!?」
最後まで言わせず、メラスは右手を突き上げ、男の太い首をわし掴んだ。
わずか十二歳の子供とはいえ、突然の行動に驚いた男はとっさにくぐもった悲鳴を上げた。そしてガーサがメラスを制止しようと手を伸ばした直後、突如、男の首から紅蓮の炎が吹き上がった。
「……メラス!」
灼熱が男の喉を焼いた。炎は赤々と燃えあがり、熱波がメラスの髪を揺らす。
「っぎぁやああああ……!!」
男が苦悶の悲鳴を上げるのを見て、メラスははっと手を引き離した。
振りかえると、ガーサが唖然とメラスを見つめていた。
総師ともあろう男が、たかが十二歳の少女の起こした行動に次の一手をとれずにいる。宮廷の爆破犯として、それは小気味良い光景のはずなのに、ちっとも笑えなかった。
メラスはガーサから顔をそむけると、身を翻し、紅千柱大廊を逃げるように走り出した。
「メラス!」
ガーサが我に返り、後を追いかけようとする。
だがそれよりも早く、焼け焦げた喉を押えた男が、醜く狂ったように絶叫した。
「っな、何てことを――その娘は下級民などではない!」
「下町の畜生だ……!」
ガーサは目を見開いた。
「そいつを……っ“その家畜”を捕まえろ――!」
男が廊下に転げたまま、他の議長らに指示を出した。
同時に、ガーサが逃げ出した小さな背を追って駆け出した。
赤い髪を振り乱して走る少女に、貧弱な議員らが次々と腕を伸ばす。今しも無数の手がメラスを捕らえようとしたその時、ガーサは胸元に下げられた藍色の石を掴み、紐を引きちぎって前方をなぎ払った。途端、議員たちは床から湧き起こった突風に足をすくわれ、どっと床に倒れこんだ。
「ガーサ・シュティッバァ……ッ、貴様ぁ……!」
ガーサは罵声を上げる議員たちの脇を走りぬけ、風のように駆けた。
「メラス!」
ガーサは声を限りに叫んだ。人気のまるでない廊下、磨き上げられた床に自分の姿と、はるか前方を行く小さな子供の姿が映っている。
後悔が身を貫く。あれだけ長い時間を一緒に過ごしたのに、少しもその気配に気づかなかった。違和感は、確かに覚えていたというのに。
『下町の畜生だ……!』
ガーサは歯を食いしばり、胸を突く痛みに耐えた。
廊下からメラスの姿が消える。ガーサもまた柱の間を抜け、緑豊かな庭園へと飛び出した。鬱蒼とした、だが絶妙に配置された樹木の間を縫って、ひたすら庭園を、一瞬見える赤い髪を追って駆ける。
そして、彼は足を止めた。
そこは庭園の終わり。
巨大な壁が立ちはだかっていた。
メラスは壁の前に立ち尽くし、どこか呆然と、壁の頂点を見上げていた。
「メラス――」
「何でだよ……」
メラスがぽつりと呟く。
ガーサに話しかけたというよりは、独り言のようだった。
まるでたった一人、孤独に堪えながら呟いたような、寂しくて痛ましい声だった。
「何で……!」
メラスは割れた声で絶叫し、ぶ厚い壁を小さな両の拳で殴りつけた。
「何でこんなもんがあるんだ!」
何度も、何度も。
歯を食いしばって、声にならない悲鳴を上げて。
「……っ……何で!」
そして彼女は、そのままその場に崩れ落ちた。
「……こんな、壁」
ガーサは傍らに膝をつき、そっとその肩に触れる。だが指先が触れるよりも早く、メラスがその腕を振り払った。
緑色の双眸がガーサを睨みつけた。
それはどんな鋭い刃よりも鋭く、どんな痛みよりも激しい痛みをともなった眼だった。
「高級民なんか嫌いだ!」
メラスは歯を食いしばると、呻くように張り叫んだ。
「おまえも、高級民だ!」
明確に拒絶され、ガーサはそのまま地面に突っ伏し、荒い呼吸を繰り返す少女を、ただ黙って見下ろすしかできなかった。
下町、それは華やかな歴史を歩む海明遼の傍らで、ひっそりと影のように存在し続ける町の名だ。
身分ごとに街を区切るため、同心円状に隔壁を設けられた首都。その最外壁の一端に、壁が二重に築かれた場所がある。
二重になった壁の間には、隙間と呼ぶには余りある広さの大地が広がっている。三日月形をした肥沃なその大地こそが、下劣な者どもの町、下町と呼ばれていた。
縄をかけても届かぬ高い壁に囲われ、出入り口は城下町との間に門が一つあるだけ。唯一の出入り口であるその門にも、頑強な門扉と、何重にも鍵がかけられ、通行が禁止されている。
出ることも、また入ることも叶わない、世界から完全に隔離された町。
そこに暮らすのは、下級民という呼び名もない、国に存在を認められていない人間たち。
厳格なる階級制度の中すら置かれぬ、最下劣の者たち。
下町の畜生。
それは人間であることさえ認められぬ者の、名とも呼べぬ蔑称だった。