第五話「海明遼の心臓」
広大な国土を有した海明遼国を統括する、政の宮。
はるか古代より脈々と続く神の血族、すなわち皇家を頂点に据え、国は天議会と呼ばれる総勢五百人もの議員によって動かされている。
人々の崇拝を一心に集め、四百年に渡る平穏を与えた皇家と天議会。
海明遼の心臓――宮廷。
宮廷に入る前に幾つもの門が立ち塞がり、そのたびにメラスは身体検査を受けた。刀や短剣のような武器を持っていないかを衣服越しに確認される。五番目の門では、ついに女官を宛がわれての脱衣検査を命じられ、メラスはいよいよげんなりした。
検査を終えて部屋を出されると、廊下で待っていたガーサが声を立てて笑った。
「ひどい顔だね。正面から宮廷に入るのは大変だろう。裏から忍び込んだほうが楽だったかな?」
メラスは乱れた襟元を不器用に直して、眉をしかめた。
「そうだな。あっちの方が楽だったよ。あっさりと、おっさんに外に引きずり出されたけどね。……なのにあんたは、また私を宮廷に連れてくる。一体何を企んでるんだ?」
不遜な物言いに、ガーサはクツクツと笑う。
「心外だな。君が見学したいと言ったから連れてきただけだよ」
相変わらず簡単に言ってのけるガーサをねめつけ、メラスは溜め息をついた。
「変なおっさん……」
口癖になってしまった捨て台詞を吐いて、二人は揃って建物の外へと歩きだした。
「裏からは壁を越えて入ったのかい?」
ガーサの問いに、メラスは答えるかわりに唇を引き結んだ。
「ああ、別に手口を聞き出そうってわけじゃないよ?」
警戒していると思ったのだろう、ガーサが慌てて手を振った。
聞き出せよ――むしろ、そう思う。メラスは犯罪者だ、覚悟を決めてここまで来た。なのにガーサは、メラスに甘い。甘すぎる。
(だから、こっちの調子まで狂うんだ……)
メラスは深々と息を吐いて、ぶっきらぼうに口を開いた。
「壁を越えて入った。もっと北の方に、木が伸び放題のところがあるんだ。そこから壁に飛び移って侵入した」
「よく警備に見つからなかったものだね。あそこはいわば鼠取りなんだよ」
「鼠取り?」
「わざと侵入を許し、待ち構えていた警備兵に捕らえさせる。尋問して、企ての内容や、仲間が他にいないかを聞き出す。そういう場所だ」
「ふーん。でも、警備なんかいなかったよ」
仏頂面で答えるメラスに、ガーサは不審そうにした。
「警備が、いなかった?」
「ああ、一人もね。もしかして、交代の時間だったのか? だとしたら、私は運がいい」
「……そう、か」
ガーサは顎に手を当て、足元を見つめたまま口を噤んだ。メラスはしばらくその真剣な横顔を眺めていたが、それ以上何か言う気配がないので、視線を前に向けた。
前方にはまた、巨大な壁が立ちはだかっていた。
「どうかしたかい?」
突然足を止めたメラスを訝って、ガーサが首を傾げる。
メラスは隔壁を見上げたまま、ぽつりと呟いた。
「また壁がある……」
ガーサはメラスの視線を追って、「ああ」とうなずいた。
「宮廷に入るには、六壁六門を越えなければならないんだ。さっきの門が第五の門だから、この壁に設置された門が最後だよ」
強烈な威圧感を放つ壁は、防御壁の様相を呈していた。
「壁だらけだ。宮廷も、海明遼の都も……」
メラスは堅い壁に指先で触れ、仰け反っても見えない頂点を探した。
目が廻る。息苦しさに胸元を掻きむしる。
出してくれ。
ここから、出して――。
「メラス?」
メラスはハッと顔を上げると、震える指を壁から離した。
「何でもない……」
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最後の門を越えると、そこはもう宮廷の内部だった。
美しい意匠を凝らした立派な建物が、広い敷地に悠々と居を構え、鮮やかな朱色の甍が青空の下に連なっている。適切な位置に緑が配され、涼しげな木陰がいかにも心地よさそうだ。
静かだった。
「午後の仕事の最中だ。静かなものだろう。ここらの建物はすべて総師軍の管轄で、さっき通った門に詰めている兵師の兵舎や、訓練所が置かれている」
「ふーん……」
「宮廷内部の守護は、特に支終師軍が担当している。各門を警備し、宮廷内の治安を守る。皇帝陛下の住まう宮は、主に支初師軍だ」
――皇帝。
重たい響きを持つ単語を心の中で唱え、メラスは呼吸を整える。
ガーサが豊かな笑い声をあげた。
「どうした、メラス。急に元気がなくなったね。緊張してるのかい?」
「……別に。こんなことで緊張してたら、爆破なんかできるもんか」
「なるほど、それはもっともだ」
ガーサは感心した様子でうなずいた。宮廷内で交わすには異常すぎる会話だったが、ガーサは気にした様子もない。メラスは苦い顔で額を押さえる。
「もっと仲師らしくしろよ、おっさん……」
「ガーサと呼びなさい。あ、ほら、見えてきた。あの門を越えれば、もっと賑やかな場所に出られるよ」
そこには、上部に楼閣を持った門が口を開いていた。
楼閣の前には、複雑な模様が描かれた二本の朱塗りの柱が立てられている。柱の頂点では勇壮な三角旗が揺れていた。
柱の前にはそれぞれに兵師が起立し、長槍を手にしている。
――メラスは、ぎくりとした。
二人の兵師が、冷たくメラスを睨んでいた。
彼らの眼差しの奥に滾るのは、これまでの門兵にはなかった強烈な嫌悪感だ。
「大丈夫だ。堂々としていなさい」
メラスの緊張を読み取ってか、ガーサが余裕たっぷりに言った。
「だから緊張なんてしてな……!」
反論にガーサを見上げたメラスは息を飲んだ。
そこには屋敷で見るガーサとはまるで違う、仲師のガーサがいた。
背筋を伸ばし、自信に溢れた眼差しで揺るぎなく前方を見据えている。その姿にメラスの心も自然と落ち着きを取り戻してゆく。
メラスはそんな自分への苛立ちから、顔を歪めた。
門の前までたどりつくと、兵師が鋭い目でメラスを見下ろしてきた。手にした長槍の先端が、わずかに揺れたのは気のせいではない。
「仲師」
何食わぬ顔で柱の間を抜けようとしたガーサに、左側の兵師、左門兵が声をかけた。
右門兵が驚いた顔で振りかえるのを無視して、左門兵はおもむろに長槍を構えて二人の行く手をふさいだ。
「ご無礼を。どうか……もう一度お考え直しください」
辺りをはばかった低い声だ。だがメラスの耳にもわずかに聞こえたその声は、確かにそう言った。
右門兵は不安そうに同僚を見つめていたが、止める気配はない。
ガーサは緊迫したその場には似合わぬ笑顔で答えた。
「考え直すといわれても、私はもう今日の昼食は、肉料理と決めたんだ」
「仲師、我々には貴方しかいないのです。どうか――お考え直しを」
ものすごく下らない返事をするガーサに、兵師はなおも食ってかかる。だがガーサは兵師を黙殺すると、長槍を手の甲で払いのけた。
うなだれる兵師に笑いかけ、ガーサは労わるようにその肩に手を置いた。
「さあ、行こう」
促され、メラスもまた兵師の脇を抜けようとした。
「お前のせいで……っ」
通りすぎざま、憎悪に満ちた声がメラスの耳を突いた。びくりと震えるメラスを、兵師の煮えたぎった眼差しが容赦なく貫く。
ガーサの腕が、メラスの手をぐっと引いた。
「さあ、メラス」
優しく、けれど力強く促され、メラスは無意識に歩きだした。
楼閣の下部をくりぬく隧道に入り、言葉を飲んだまま先へと急ぐ。ずいぶん進んでからようやく、メラスは肩越しに門兵を振りかえった。しかし門の向こうは白い陽光の中に没し、もう何も見えなかった。
メラスはガーサを仰ぎ見る。彼の表情には何の変化もない。
「ん?」
視線に気付いて、ガーサが見下ろしてくる。
メラスは今更ながら手を握られていることに気付き――その手を、自分がすがるように握り返していることに気づいて、慌てて振り払った。
「馴れ馴れしく触るな!」
「そんな……!」
ガーサは大げさに傷ついた顔をする。
「せっかく親しくなれたと思ったのに! しくしく!」
「なってたまるか!」
ガーサはまだしくしく言いながら、悲しげに手を離した。
途端に、手のひらに冷たさが戻ってくる。意思とは無関係に込みあげてくる心細さを振り払おうと、メラスはガーサの背を睨みつけた。
「……今の、なんだったんだ」
ガーサは首を傾げた。
「今の?」
「今の、何か、考え直すとか何とか」
「ああ。あれは私の昼食が肉料理で、彼は魚がおすすめでね」
「ふざけるな!」
叫んだ途端、自分の声が響き渡った。
反響する己の怒りに、またあの緊張感が蘇ってくる気がして、メラスは歯噛みした。
「あいつら、私のせいだって言ってた。何の話だ」
「さあ、何だろうか。私にも良く分からない」
「――っ」
メラスは激しい苛立ちに、ガーサを睨みつけた。
「あんたは、何を企んでるんだ!」
「何も企んでなどない。それでは不安かい?」
「……もういいっ」
メラスは踵を返し、甲高く足音を響かせながら、前方へと歩を速める。
「メラス」
静かな声が、怒る背を追ってきた。
「蔵を爆破したのが金のためではなく、他に理由があるなら教えてほしい。君の力になりたいんだ」
メラスは答えず、無言で歩きつづけた。
門を抜けた先には、直線の道が続き、緑豊かな庭園や用途もよく分からない建物がずらりと並んでいた。ガーサはそれら全ての用途をいちいち説明していった。メラスは迷路のような宮廷を、最初の師武官庁からの位置関係を図ることで、どうにか把握してゆく。
その間、メラスは門兵以外の宮仕えを一度たりと見ることはなかった。