生まれた瞬間から、世界は壁に囲まれていた。
大地に張り巡らされた、壁。乾きに苦しみ、飢えにもがき、助けを求めて手を伸ばしてみても、指先に触れるのは冷たく堅い壁の感触だけだった。
この壁の外には何があるのだろう。
いつの頃からか胸に宿った、素朴な疑問。
穏やかな風が吹いたときには、壁の向こうから音が運ばれてくる。賑やかな笑い声、華やぎに満ちた喧騒。壁の向こうにも世界がある、人がいるのだ。そう知って手を伸ばしても、やはりぶ厚いこの壁が邪魔をする。
――いつかきっと陛下が気づいてくださる。
飢えて痩せ衰えた大人たちが、口癖のように繰りかえす言葉。
――だから安心して。そう、いつかきっと、陛下が気づいてくださるから……。
そんなの嘘だ。
「メラス、どこにいくの?」
空は紅蓮に染まり、彼方には茜色の雲が浮かんでいる。庭の木々は長い影を地面に落とし、荷物を肩に背負ったメラスの影もまた庭先に長く伸びていた。
メラスは背後を追ってくる子供に気づき、肩越しに振りかえって笑った。
「ちょっと出かけてくる。院女にもそう伝えてくれ」
子供は不安げな顔をする。
「大丈夫、すぐ戻るから」
ごまかすようにその頭を撫で、メラスは深い茜色をした空の下にそびえる壁を見据えた。
それは宮廷のある方角。海明遼を支配する王は、あの壁の向こうにいる。
「待っていて、マリア。私が必ずこの地を救ってみせる。……必ず。絶対に」
第二話「魔仲師ガーサ」
海明遼国、城下町。
冬の白陽が中天にさしかかり、昼の活気で賑わう城下町に不穏なざわめきが広がった。湯気を上げる屋台を物色していた町民は、足を止め、波紋のように広がる囁き声に耳を傾けた。
「おい、さっき東華路で誰かが軍に捕らえられたってよ……」
「この間の大門の爆破犯だという話だが……」
大門の爆破犯、その言葉に、町民たちは色めき立った。
ここ最近、城下町は大門の爆破事件の話で持ちきりだ。それは数週間前に起きた事件――何者かが宮廷の東の大門「陽昇楼」を爆破したという事件のことだ。宮廷は、海明遼の政治の中心地であると同時に、皇帝の住まう神の宮でもある。それを、たとえ門ひとつでも破壊するなどと、善良な民草にはとても考えられないことだった。
だが、噂話はそこであっさりと終止符が打たれる。
「違ぇよ。俺がさっき聞いた話じゃ、下級民が盗みを働いたってことだ」
「ああ? なんだ、また下級民か……」
客同士の噂を耳にした屋台主もまた、竹の葉に飯団子を包みながら、眉をひそめてみせた。銭と交換にそれを受け取った客は、周囲をはばかりながら小さくため息をつく。
「冗談じゃねぇな。近頃の騒動に便乗して、下級民が何かと調子に乗ってやがる。どうせ大門を爆破したのだって、連中に決まって――」
言い終わるより前に、屋台主が制止の手を上げた。客はあわてて口を閉ざし、自らの肩越しに主の視線の先、大通りに開かれた門扉に目を向ける。
見ると、ここ庶民の町である「城下町」と、中級階級に属する民の居住地「中級街」を隔てる高壁に開かれた門から、軍旗を背負った馬列が出てくるところだった。
声を殺していた客と屋台主、その他の通行人たちは、軍旗の色と模様を確認するなりほっと安堵の息を吐き出す。それが可笑しくて、彼らは互いに顔を見合わせ苦笑した。
「人情男ガーサ仲師殿のご登場だ」
「ガーサ仲師!」
「こんにちは、仲師!」
十数騎から成る馬列の先頭に、栗毛の馬で参列していたガーサは、南彪門をくぐりぬけて城下町に入るなり受けた歓待の声に、穏やかな笑顔を浮かべた。
「おお、随分と元気そうだ。変わりはないかい?」
馬から身を乗り出すようにすると、少し離れた場所に立っていた小さな子供二人がくしゃりと笑顔を作って、大きくうなずいた。
「この間、仲師が作ってくださった給湯場もよい調子で、みんな大助かりなんです」
「それはよかった。今年の冬は冷えこむだろうから、給湯場に行けない者がいたら、お前たちもよく助けてやるんだよ」
「はいっ」
寒さで赤くなった頬をさらに紅潮させてうなずく子供たちに微笑み、ガーサは背後の馬上から聞こえてきた咳払いに促され、手綱を引き締めた。わざとらしい咳でガーサを追い立てた老年の軍人は、せいぜい厳しい面をつくって、犬猫でも追い払うように手を振る。
「ほら、お前たち。どいたどいた。他の軍隊には、間違っても声をかけるんじゃないぞ」
「分かってら! 人情男ガーサ仲師殿だからやるんだい!」
「っこら!」
子供たちが走り去ってゆくのを見送ってから、老年の軍人は、クツクツと笑っているガーサを背後からねめつけた。
「笑いごとではありませんぞ、仲師。市井の者になめられるようでは困ります。こんな有様だから支終師軍にまで侮られるのです!」
「ああ、カイにも良く言われるよ」
「うむ、カイ補佐は正しい。実に正しい。であるにもかかわらず、仲師に反省の色が見られんのは何故ですかな?」
「さて、何故だろうか。命題だね」
ガーサは素知らぬ顔で空を見上げて、背後で上がる呻き声に楽しげに笑った。
馬列はそのまま多くの人々に声をかけられながら、城下町に幾筋も走る通りを抜ける。やがて東端にある「東華路」と呼ばれる区画までやってくると、馬列の掲げた旗と同色の赤帯を腰に巻いた兵卒が彼らを出迎えた。
「こちらです、ガーサ仲師」
ガーサは騎馬から下りて、兵卒の案内に従い、狭い路地の中へと足を踏み入れた。老年の軍人が同行し、後の者たちは路地の入り口で待機する。
先日の雨でぬかるんだ路地は、両脇に連なる建物の陰となっていて薄暗い。古びた建物群は、外から来る、金のない旅人向けに建てられた宿屋のようで、旅装束の男たちが突然現れた軍隊に不安げな表情を浮かべていた。
案内された先は宿の軒先で、四、五人の町民が群がっているのが見えた。
「道を開けよ!」
兵卒が声を上げると、そのわずかな野次馬も波が引くように壁際へと身を寄せる。
その先に現れたものに、ガーサは眉根を寄せた。
「主はいるか?」
「へ、へい。ガーサ仲師、本日はお日柄もよく…」
野次馬の中から転がり出てきたのは、気の弱そうな宿屋の主だった。ガーサは緊張した様子の店主に労いの笑顔を向ける。しかし質問は後回しにして、ガーサは誰が止めるよりも前にぬかるみへと膝を落とした。
「ちゅ、仲師殿、裾が汚れまさぁ!」
「うん」
慌てる店主に生返事をして、ガーサは泥の中にうつ伏せで転がった一人の男性に手を伸ばす。
身なりのひどく貧しい男だった。衣服と呼んでもよいものか迷うほどの襤褸布をまとっている。この寒空に靴も履いていない。代わりに、彼の全身を覆っていたのは泥と垢、そして目を奪われるほど赤い血だった。
目は、開いている。空ろに地面を見つめる目には、こびりついた目垢と一緒に、涙が浮かんでいた。
その醜い有様に誰もが顔をしかめ、野次馬からはひそひそと嫌悪感も露わな囁き声が聞こえてくる。ガーサは彼らが途端に悲鳴を上げるのも無視して、そっと痩せて皮のたるんだ男の首筋に触れた。
虫の息ではあるが、まだ生きていた。
「ここらを徘徊していた下級民ですよ。うちに入ろうとした旅の方から、財布を奪ったんでさ。警備兵に取り押さえられて観念したんでしょう、持っていた短刀で自分の腹をぐさりと一突きして…迷惑な話でさ」
「よく見かける顔かい?」
「へぇ。まだ小さい息子をよく連れて、ここらの軒下をふらふらしては、警備兵に壁の外へ追いやられてた奴でさ」
「爆破犯との関係は」
最後の問いは、同行の老年の軍人に向けられたものだ。軍人は苛立ちまじりの溜息を吐き出し、答える。
「関係はないようですな。たった今、支終師軍から情報伝達に手違いがあったと報告が」
「そうか……。財布を持ち主に返してやってくれ」
「分かりました」
老年の軍人が宿屋の主を促して店内へと消える。それで野次馬も興味を失ったようで、顔をしかめて路地を去っていった。その全員が汚らわしいものを見るような目で、泥に埋もれた男を一瞥して。
「……家族は?」
案内役の兵卒を残したきり人気の失せた路地に、ガーサの問いかけが小さく響く。男は苦しみに細めた目尻から涙を零した。
「だ……処刑、い……」
男が口を開いた。血が上ってきているのか、赤い泡を吐き出しながら繰りかえす。
「処刑……は、……や、だ」
死に際にしては、あまりに痛々しいその台詞に、ガーサは顔を哀れみに歪める。
路地の向こうから騒がしい足音が聞こえてきた。ガーサは男の額に手を当てると、素早く兵卒を手招きした。
「警備兵だ。時間を稼いでくれ。この男はもう長くない」
「し、しかし仲師、まだ生きているならば、公開処刑にかけねばなりません。引き渡さねば、支終師軍も黙っては――」
「頼む」
兵卒は激しい葛藤に言葉を詰まらせる。だが、自分に真っ直ぐに向けられたガーサの眼差しが、切実な色を宿していることに気がつくと、やがて躊躇いながらもうなずき、路地の外へと駆けて行った。
「……大丈夫だ。処刑場には行かせんよ」
遠くから男の引渡しを命じる警備兵と、兵卒との押し問答が聞こえてくる。それに被せるように、ガーサは静かに男に語りかけた。服の裾で男の血と泥に汚れた顔をぬぐい、やがてかすかになってゆく呼吸を見守る。
路地のやり取りに気づいたのか、去ったはずの野次馬が二人ほど戻ってくる。町民は戸惑った様子で中途半端に手を伸ばすと、ガーサをたしなめた。
「仲師殿、その男は下級民です。病持ちかもしれねぇ。何がうつるとも分かりませんよ」
「そうです、そんな盗人、ほっておきなさいよ。自業自得なんですから」
しかしガーサが答えずに無言な様子を見ると、町民は顔を見合わせて「水でも持ってきましょうか?」とおそるおそる口にした。
「あ、あんた……が、魔仲……殿」
不意にガーサの腕に、男が頬を寄せた。腕を持ち上げようにもすでに叶わず、辛うじて顔だけを傾けることが出来たのだろう。
「仲……師、な、にも、ない……んだ」
途切れ途切れの言葉を必死でつむぐ男の目尻から、最後の一滴が零れ落ちる。
「この国には、なにも……な、い……っ」
男の目は力を失い、やがて触れていた震える頬もこくりとガーサの腕から落下した。ガーサは男の死体を無言で見下ろし、静かに頭を垂れた。
路地の外から慌しい足音が聞こえてきた。ガーサは言葉を失う町民に声をかける。
「どうか、何も見なかったことに」
警備兵の乱入を引き止めていた兵卒が逃げ帰ってくる。兵卒を押しのけるようにして現れた足音高い闖入者を、ガーサは立ち上がって出迎えた。
「仲師殿、困りますな。城下町の警護は支終師軍の管轄です。魔仲師軍に登場されては、われらの面目が立ちません」
体格の良い警備兵は、あからさまな嘲笑を浮かべて、せいぜいが中肉中背のガーサを威圧的に見下ろす。ガーサは気にした様子もなく、人懐こい笑顔を浮かべた。
「すまない。爆破犯と関係があるとの情報を、貴軍より得たものでね」
「おや、それはとんだ無駄足をさせてしまいましたな。情報伝達を徹底するよう命じておきますれば、平にご容赦を」
口端に歪んだ笑みを浮かべたまま謝罪を口にする警備兵に、ガーサは柔和な表情を絶やさずに首を振る。
「いや、気にしないでくれ」
警備兵はとるに足らぬ物でも見たように鼻頭に皺を寄せると、話題をさっさと元に戻した。
「もう用はないようでしたら、その男を引き渡していただきたい。これより処刑場に引きずり上げて、首を切ってやりますゆえに」
「それは邪魔をしたね。しかしその男、すでに息のない様子だが」
その言葉に、警備兵の顔が露骨な嫌悪をあらわにする。ガーサを睨み据えたまま、男を高い位置から見下すが、男は確かに息を引き取った後のようだった。
「……仲師殿。貴軍の兵卒がわれらの足止めをしなければ、死ぬ前に刑場に引きずり出せたとは思いませぬか?」
「いや、私が来た時にはすでに死んでいたよ」
警備兵はぎろりとガーサを睨むと、乱暴に舌打ちして死体をつま先で蹴飛ばした。ガーサは動揺した様子の町民に小さくうなずいてみせると、死体の処理を命じる警備兵に背を向け、薄暗い路地を後にした。
足早に路地を馬列の待つ入り口へと戻る仲師に、兵卒が必死で追いすがる。
「仲――」
ガーサは歯を食いしばると、力任せに路地の壁に拳を叩きつけた。
激しい怒りに息が上がる。筋が白く浮き立つほどに握りしめていた拳を、震えと共に解き放つと、ガーサは振り返らぬまま兵卒に声をかけた。
「……男には小さな息子がいたという。見つけて、保護してやってくれ」
兵卒は今度は躊躇することなく、力強く、最敬礼の形をとった。
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ケナテラ大陸中央国家、海明遼の首都「彪旋」は、外輪を彪鞍山、旋興山、啓虔山の連山に囲まれた盆地に横たわる、丘の上に築かれた巨大な都である。
長い治世の中、一度は未曾有の大地震により国土全体が焦土と化したものの、古代の英雄、「朱燬媛士」と「羅輪戒王」の働きによって、再び息を吹き返したと言われている伝説の都市だ。
空の高みより見下ろせば、都は、丘の頂きを中心として、同心円状に広がっている。弧の中心には、皇家の居城である「内廷」が、内廷の前部には政の中心である「外廷」が設けられ、両方を合わせて「宮廷」と呼ぶ。
宮廷の周囲には、政府の高官、いわゆる「高級民」が住まう高級街が広がる。さらにその周囲には、高級民を除いた宮廷関係者、いわゆる「中級民」の中級街が連なり、その外側にようやく「庶民」の町、城下町が築かれていた。
それぞれの街の周囲には巨大な隔壁が設けられ、自由な行き来は禁じられている。上の者が下の街を訪ねるのは自由だが、下の民が上の街を訪ねることは決して許されない。それは海明遼における、絶対の法律であった。
民は、生まれ落ちた身分に沿って、生涯をつつがなく全うすべし。
人種的にも身体的にも何一つ違いを持たない民は、生まれた瞬間から四階級、すなわち高級民、中級民、庶民、下級民に振り分けられる。民はそれぞれの階級に見合った壁の中で生活をするのだ。
ただし、「下級民」に限ってはそこに独自の居場所を持たない。ただ城下町の路地を徘徊しては他人の家の軒下で眠り、警備兵によって町の外に広がる草原へ追いやられる、そんな暮らしを送っていた。
完璧なまでの身分制度によって支配された海明遼。
その頂点の一角を担う「外廷」の南座、仲師師武官庁の奥の一室で、ガーサは窓の外を険しい眼差しで見つめていた。
「はい、お茶が入りましたよ、ガーサ仲師」
傍らから声をかけられ、ガーサは顔を持ち上げた。目の前に如才なく差し出された茶器を、苦笑して手に取る。
「お茶汲みは、いつから君の仕事になったんだい? カイ」
カイと呼ばれた二十代と思しき女性は、黒檀作りのおぼんを抱きしめて、端正な顔立ちに知性的な微笑みを浮かべる。
「今だけ限定です、仲師。秘書官があまりに忙しそうだったので、何だか可哀想で」
「ああ、今はみんな腰を椅子に沈める暇もないからね。集まる情報といえば、どこかの軍隊からの嫌がらせの偽情報ばかり。確認するのも手間がかかるというのに、確認しないわけにもいかない。全く。茶の味も忘れてしまいそうだよ」
「あら。そのわりには、仲師はずいぶんとお暇そうですわねえ?」
嫌味たっぷり、笑顔にっこりで言われて、ガーサは苦笑した。
「言われてしまったなぁ」
「冗談ですよ。仲師はむしろお休みなさってください。今、倒れられたら、それこそ大騒動なんですから。……先ほどの一件は、やはり支終師軍からの“手違い”情報でしたか」
ガーサは溜息まじりに笑って、自分の衣服を見下ろした。路地裏での一件で、泥と血とに汚れてしまった衣服は、宮廷に参内する折に新しく着替えさせられたので、今は染み一つ存在しない。だが皮膚にはまだ路地の滞留した匂いと、血臭とが残っているような気がした。
「ただの財布泥棒だったよ。下級民のね。最初から上手くいくとは思っていなかったのだろう、警備兵に捕まると、すぐに持参の刀で腹を切ったらしい」
「そうですか」
「何もない、と言われた」
「え?」
ガーサの突然の言葉に、カイは控えめに首を傾げる。
「その男は、この国には何もないと私にすがった。ほんの数秒後に死ぬのだと分かっていたろうに、男はそれだけを必死の思いで言い遺したんだ。子供もいるという男がだ」
風が吹きすさび、開け放たれた窓辺から枯れ葉がひらりと舞い落ちる。目を眇めてそれを見据えて、ガーサは自嘲するように続けた。
「何もない。この国には何もない。……確かに、海明遼は下級民に対し、何も与えない。下級民に生まれた、ただそれだけの理由でぼろ服をまとわせ、食料や家を持つことを許さず、受けてしかるべき教育も、手に持つべき職すらも与えない。生きるためには盗みでも働かなければやってゆけないんだ、彼らは。それなのに、自刃覚悟で盗みを働いた者を、すでに虫の息であるにも関わらず公開処刑にかけるなど……」
至極当然のように、あるいは楽しみであるかのように”公開処刑”と口にした警備兵長の顔を思い出し、ガーサは穏やかな顔を怒りに震わせる。
海明遼の犯罪発生率は、他国に比べて極端に低い。
それは厳格な法律が、民を抑制しているからだ、と人は説く。
だがガーサは、幾度となく下級民が死刑台に送られるのを見てきた。彼らの罪の多くは盗み。飢えに苦しみ、ほんのひとかけらの食べ物を盗んだことが万死に値することだと法律は説く。だがそれでも下級民は盗みを働く。見つかれば死刑になると分かっていて、それでもなお。
そうしなければ、どのみち飢えて死ぬのである。
だがそれも仕方のないことなのだと、人はやはり説くのだ。下級民だから仕方がない。彼らが飢えて死ぬのは当然だ、盗みを働き、処刑台に送られるのは当然だ、と。
厳格な法律が民を律しているのではない。厳格な法律が築きあげた、その選民思想こそが民の心を律している。
先ほどのようにすでに虫の息であっても、生きていれば処刑場に引きずりだし、これ見よがしに罪状を読み上げては、民の前で惨い刑罰にかける。穏やかな死すら奪う、まるで人間の尊厳すら認めぬ行為。ただしそれは、下級民に対してのみ行われる。
およそ悪と呼ばれるもの全てを下級民に押しつけ、庶民以上の民は自らを清廉潔白と信じ、平穏な日々を営む。
国家四百年の安寧は、そうして築かれた。
「この国に何かがないとすれば、それは人としての心かもしれないな」
何も答えられずにいるカイに気づいて、ガーサは少しだけ笑った。
「門のひとつも爆破されたって、おかしくはないかもしれないということだ」
「仲師! 誰かに聞かれたらどうします」
「いいさ。私がそう思っていることなど、とうに誰もが知っている」
情報規制を引いてはいるが、爆破されたのは大門だけではない。宮廷のあちこちに爆薬が仕掛けられ、次々と建物が破壊されてゆく。犯人の正体はいまだ不明。分かっているのは組織による犯行ということだけである。
宮廷には政を司る宮だけでなく、皇族の住まう宮もある。陛下にもしものことがあっては一大事と、全軍が総力を挙げて反乱組織を追っているが、今に至っても彼らが何者なのか、目的はなんなのか、それすら分かっていない状態が続いていた。
民の間では一連の犯行が、下級民の仕業であるという噂が広まっている。
確かに国家に不満を抱くとすれば、真っ先に思い浮かぶのは下級民だ。
いや、むしろガーサは犯人が下級民であることを望んでいる。
四百年に渡って泥の中を這い続けた彼らが、まだ人間の尊厳を失わずにいてくれるなら。
まだ、諦めずにいてくれているのなら、自分は――。
「仲師、失礼します」
物思いに耽るガーサに、部屋の外からの声がかけられる。
「何だい?」
「たった今、不審な娘が捕らえられたとの報告が」
「娘?」
部屋に通された部下は、神妙に頭を下げると、思わぬことをガーサに告げた。
「宮廷の蔵が、その娘によって爆破されたと……」
ガーサは目を見開き、椅子を倒して立ち上がった。