小説(長編小説)王宮の自動人形|第一章 7



第七話「揺るぎなき心」

 メラスは寝台の上に横たわり、膝を抱えて身を丸めた。
 もう夜だ。開けっ放しの窓から吹きこむ夜風が、優しく背中を撫でてゆく。
(失敗した……)
 空ろに膝小僧を見つめて、メラスは目を細めた。
(たった一度きりの好機だったのに)
 台無しにした。自分の手で。思ってもみなかった相手が突然目の前に現れて、憎しみに目が眩んでしまった。
(あんな奴が天議長。あんな男がこの国の中枢……)
 メラスは膝を抱えなおして、目を閉じた。
 眠ってしまいたい。なのに目を閉じると、すぐにまた悲しげな顔が浮かぶ。
 ガーサの傷ついた顔だ。
『おまえも、高級民だ!』
 あんなことを言うつもりはなかった。
 ただ悔しくて、悲しくて、どうしようもなく苦しくて、衝動的に突き放してしまった。
『メラス』
 眩しい笑顔だった。
 頭を撫でる、大きな手。
 やめろと言うと、本気で泣くのだ。
 一体いつの間に、自分はガーサを好きになっていたのだろう。
 計画が失敗に終わったことよりも、あの優しい仲師を傷つけたことの方が、ずっとずっと、辛い。


 メラスは気づけば真っ黒な眠りについていた。何の夢も見ない、悲しみも、苦しさも何も感じない、ただ奈落の底に落ちたような深い深い眠り。
 その闇の中に、ふと声が聞こえてきた。
 誰かが喋っている――メラスは遠い声に耳を澄ます。
 木々が寂しげにざわめいている。夜の冷気が頬を撫で、薄っすらと目を開ける。すっかり慣れてしまったガーサ邸の匂い。ふかふかの綿が入った布団の感触。一つ一つ確かめるように眠りから覚め、メラスは上体を起こす。
 声は部屋の外からした。遠さからして、きっとガーサの部屋だ。
 窓の外に浮かぶ月の位置を確かめると、ずいぶんと遅い時間なのが分かった。
 こんな時間に来客だろうか。メラスはまだはっきりと目を覚まさないまま、寝台を下り、廊下に出た。
 話し声が近づいた。扉越しのくぐもった声が、廊下にかすかに漏れている。
 ──……つまで……。
 ──と……じゃない。
 メラスは聞いてはいけないと思いながら、その場を離れることができず、素足を忍ばせてガーサの部屋まで歩み寄り、扉に耳を押しつけた。
「俺は最初に忠告をした、ガーサ」
 耳に入ってきたのは、聞き知らぬ男の声だった。
「宮廷が今どれだけの騒ぎになっているか、お前は分かっているか?」
「……ああ、分かっているよ」
 力ないガーサの答えに、「いいや、分かっていない」とすぐさま反論が返される。
「天議会はお前の失態に大喜びしている。明日、今日の騒動の処分がお前に下される。どんな処分を下してやろうかと、連中が大笑いしながら会議を開いてるんだ」
「それは、ありがたいね」
「俺の忠告を無視して、好き勝手に事を進めたあげく、このざまか。掛け値なしの大馬鹿者め!」
 容赦ない言葉に、ガーサは苦笑をしているようだった。
「……イスタ。君は下町について、何か知っていることがあるか?」
 不意に出てきた「下町」という単語に、聞き耳をしていたメラスはどきりとした。
「それは、この火急時に話す内容か?」
「私にとっては、いま一番大切な話だ」
 苛立った男の声に、ガーサは静かに答える。
 しばらく沈黙が続き、根負けしたのか男が喋りはじめた。
「知っていることはほとんどない。首都のどこかに、下町と呼ばれる完全閉鎖区画があり、法的な身分を持たない民――奴隷が暮らしている、それぐらいだ。どんな町なのか、関心がなかったわけではないが、下町への立ち入りは、古い時代の皇帝が定めた法によって絶対的に禁じられている」
「……私もだ。関心は持っていた。閉鎖区画であろうと、人が暮らしているなら、彼らの状況を知っておきたかった。だが調べてみても、場所ひとつ特定できない。いや、たとえ特定できたとしても、下町への立ち入りは禁止されている。中の様子を確認することはできない。……目の前に、明らかな貧困に苦しむ下級民がいるというのに、いつまでも目に見えない世界のことを案じつづけることはできなかった。――だから私は、この期に及んでもなお、あの娘が何を想い、何を願い、どれほどの覚悟で宮廷まで来たのかを、理解してやることができない。……頼られないわけだな」
 ガーサの自嘲する声に、メラスは首を横に振って、扉に額を押しつけた。
「違和感はずっとあった。メラスは時々、奇妙な話をしていた。最初にメラスはこう言っていたんだ。猫は身軽で、壁もらくらくと飛び越える。私たちを自分の子猫だとでも思っているのか、どこからか新鮮な野菜や魚をくわえてやってくるのだ、と」
「……なるほど。下級民には、自分だけの街がない。城下町の路地をうろつき、他人の軒先で眠る。彼らの世界には、壁と呼べるようなものがない。確かに下級民にはない発言だな」
「孤児院暮らしだと聞いていたから、城下町の名簿を取り寄せてみたんだが、メラスの名前はなかったよ。嘘をついたのか、それとも下町にもまた孤児院があるのか。……メラスの言葉は、違和感だらけだった。どうして私はメラスを下級民だと決めつけてしまったのか……」
「誰が、下町の娘だと気づけた? 想像もできなかったことだ。ガーサ、無用な自責を抱いて、時間を無駄にしないでくれ」
「――だが、天議長は知っていた。何故だ」
 不意に、男が溜め息をついた。
「あの娘の素性はひとまず置いておくんだ。よく考えろ」
「……何をだ」
「天議会の連中がどれだけ総師を憎んでいるか、まさか知らないわけじゃないだろう。特に君は陛下の覚えがめでたい。いいか、今は自分の進退を第一に考えるんだ。もしも君が失脚するようなことになれば、今まで君を慕って、必死に戦ってきた者たちはどうなる!」
「だが――なら、イスタ。君ならできるのか?」
 ガーサは苦痛に満ちた声でうめいた。
「たった十二の子供だ。あんな幼い子供を拷問にかけ、そのあげくに処刑しろだと? そんな酷いことを君ならできると言うのか」
「ああ。俺ならそうする。この大事な時期に、奴らに失脚の隙を与えるような真似を――」
「仲師の位と、人の命を同じ天秤にかけないでくれ!」
 激しい怒気をはらんだ声に、メラスはびくりと肩を震わせた。
「何故、誰も聞こうとしない。大罪を大罪と自覚しながら、なおも宮廷に侵入した子供の願いがいったい何なのか、どうして誰も聞こうとしないんだ!」
「ガーサ……」
「民は痩せ衰えた下級民に平気で石を投げつけ、死刑執行官は彼らを刑場に引きずりだし、まるで遊びか何かのように首を刈る。どうして、それを笑いながら見ていられる! 何故、誰も下級民の悲鳴を聞こうとしない!?」
 机に拳を叩きつける鈍い音がした。
「生きることが容易な高級民に、必死で生きる彼らを――メラスを死罪を処す権利などない……!」
 悲痛な叫びを聞いて、メラスは扉から手を放した。
 話はそれきり、ガーサの言葉を最後に途絶えた。
 
 それから、どれだけの時間が経ったのか分からない。
 そのまま廊下の隅に立ち尽くしていたメラスは、部屋の扉が開き、かすかな明かりが漏れるのを感じて顔を上げた。
 出てきたのは、ガーサではなかった。逆光ではっきりとは見えないが、先ほどの声の主なのだろう。すらりとした長身の影が廊下に刻まれる。
「あ、――あの」
 メラスには気づかず、そのまま扉を閉めて背を向けた男に、メラスは反射的に手を伸ばした。男は意表をつかれたように顔をめぐらせ、メラスを振りかえった。
 先ほどの激しい口論とは反して、柔和で、風雅な雰囲気を持つ、優しい面容の男だった。
 背中まで伸ばした黒髪を、ゆるく肩口で括っている。顔立ちは息を飲むほど整っていて、長身であることを除けば、女性と見間違うほど美しかった。
 暗がりから歩み出たメラスを見つめ、男は目を見開いた。
 装飾品や立ち振る舞いからも、一目で高級民と分かる男は、しかしメラスを見て嫌悪に顔を歪めることもなく、哀れむような微笑みを浮かべた。
「君がメラスだね? そうか、聞いていたのか……」
 メラスは胸がしめつけられて、息苦しさに胸倉をぐっと掴んだ。
 男は自らを、イスティーノと名乗った。見た目の優美さから、楽師か文官だと思ったのだが、ガーサの同僚だという。
 六人の総師のうちの一人、魔終師イスティーノ=アシュラス。ただ腰に帯びた装飾気のない重たげな刀だけが、彼に軍人としての殺伐とした雰囲気を与えている。


「ガーサ、怒っていた……」
 二人はメラスに宛がわれた部屋に移り、月明かりの中、向かい合っていた。
 メラスの呟きに、イスティーノは曖昧な笑みを作る。メラスは唇をぐっと引き結ぶと、イスティーノに真っ直ぐな眼差しを向けた。
「ガーサが私のことで悩んでいるのなら、話してほしい。私は何か迷惑をかけているんだろう?」
「それは……」
「前に、師武官庁の門兵が、お前のせいだって言ってた。お願いだ、教えてくれ。私のせいで、ガーサに何が起きてるんだ?」
 無意識のうちに手を伸ばし、逃がすまいとイスティーノの服の袖を掴む。それに反して、イスティーノを見つめる眼差しが不安に揺らいだ。
「ガーサは隠しごとばかりで、何も教えてくれない。でも、もしそれが私に関わることなら、本当のことが知りたい。私は、私の責任でここまで来た。誰かに迷惑をかけるつもりはなかった。――お願いだ」
 イスティーノはしばらく黙っていたが、やがてその場に両膝をつくと、目線をメラスの低い視線に合わせた。
「君は聡明で、とてもいい子だ。どうやら君には、聞く権利があるようだね」
 ガーサに少しだけ似た優しい眼差しが、厳しく細められた。
「メラス。皇帝陛下は神にも等しき御方だ。その御所がある宮廷に無断で侵入し、たとえ使われていない古蔵であっても、陛下の財産たる宮廷の建物を爆破した君に待っているのは死刑だった。……いや、君の背後には反乱組織がいる可能性が高かったから、厳しい尋問のすえに、刑を執行する予定になっていたんだ」
 厳しい尋問という言葉に、先ほどのガーサの声が被さった。そう、それはまさしく拷問であったはずだ。神とも言われる皇家に反意を持ち、よりにもよって陛下の宮廷を爆破した罪は、死罪ですら償えぬほどに重い。
「でも……ちっとも厳しい尋問じゃなかったよ」
 拷問という凄惨な言葉とはほど遠い、ガーサの気の抜けた尋問を思い出して、メラスは今更ながらその奇妙さに気がついた。どうしてあの時、気づかなかったのだろう。あれほどの大罪を犯しておいて、メラス自身がガーサに「死罪か」と問いかけておいて。
 イスティーノは悲痛な面持ちをしたメラスの頭にそっと手を置き、自分自身も強張っていた表情を解いた。そして、やれやれと大げさに肩をそびやかして、やるせない溜め息をついた。
「あの男は、知っての通りお人好しだから。ガーサはね、さっさと死罪の決定を下した天議会に、殺しちゃだめ、拷問なんて冗談じゃない、て駄々をこねたんだ」


『あの娘に、罪はありません』
 半球体型をした天議会の議場に、揺るぎない声が響き渡った。
『罪があるとすれば、それは幼子に金銭とともに爆薬を握らせた反乱組織にあります。ひいては、わずかな金のために罪を犯さなければならないような環境を、下級民に与えつづけた我々にこそ責任があるはず』
 ガーサの厳しい口調に、正面議席に着席した天議長たちは目の端をひくつかせた。彼らの上座にある御簾の向こうで、皇帝が真摯に身を乗り出す気配を感じて、何も言えず扇の端を噛んでいる。
『一連の爆破事件に関しては、現在、私の管轄下にあります。背後にいる反乱組織のことを娘より聞き出し、必ずや捕縛してみせます。ゆえに、反乱分子を捕らえた暁には、有利な情報を提供した娘に恩情をくださいますよう。死罪だけは撤回してくださいますよう、お願い申し上げます』


 天議会での一幕を話して、イスティーノは窓の外に広がる夜闇を見つめた。
「陛下はガーサの提案を認め、彼に猶予を与えた。だが、元から対立関係にある天議長たちはそれが気に食わなかった。そこで陛下が退席された後、議長らはガーサにある条件を叩きつけたんだ」


『有能なる仲師殿には、やっていただきたい仕事が山とあるゆえ、いつまでも反乱分子のことに関わっていてもらっては困る。よって爆破事件の解決に当たっては、ひとつ期限を設けてやろう』
『二週間だ。二週間以内に必ず反乱分子を捕らえよ。それが適わなくば、皇帝陛下の決定如何に問わず、娘を拷問にかけた後、斬首。仲師殿、そちにも陛下より賜りしその地位を、宮廷に返上していただく』


「これまで、総師全軍を上げても捕らえることのできなかった反乱分子を、たかが二週間で捕らえろなど、明らかな嫌がらせだ。だが、もともと無理を通したガーサは、要求を断ることなどできなかった。陛下の寵愛のみを頼りに政に携わっている総師にとって、これ以上、天議会の感情を逆撫でするわけにはいかない。要求を呑むほかなかったんだ」
 イスティーノは苛立たしげに唇を噛みしめた。
 メラスはじっとそれを聞いていた。
「ガーサは有能な軍師である以上に、国の中枢を司るにふさわしい議員だ。……天議会の腐敗はもう末期に入っている。私利私欲に動く議員ばかりで、まともに機能していない。この腐敗を止められるとすれば、総師だけ。そして総師を率いるに相応しいのは、ガーサだ。正義を求めて宮廷に入った者たちは、彼を慕い、全てを捨てる覚悟で尽くしている」
 メラスは門兵に投げつけられた「お前のせいで」という言葉の意味をようやく理解する。これまで彼らは必死になって、ガーサを支えてきたのだろう。国の腐敗を止めるために、下級民を救うために。それをメラスが邪魔した。ガーサを窮地に追いこんだ。
 イスティーノが、メラスを射抜くように見据える。
「だから、俺は忠告に来た。仲師の座は絶対に手放すなと。いざとなれば、君を犠牲にしてでも反乱組織の情報を手に入れ、二週間以内に壊滅してみせろ、と。……俺はガーサに、君のことを見捨てて、殺せと言ったんだ」
 その忠告の結果が、先ほどのガーサの激昂だったのだ。
 眼前にいる人間から「死ね」と言われたようなものなのに、メラスは少しも傷つかなかった。それよりも、ガーサが笑顔の下に隠し続けた真実を、率直に話してくれたイスティーノに信頼が芽生えた。
 きっとそれは、誠意のためだ。自身も感じているだろう痛みを押し殺し、痛烈に、容赦なく事実を伝えるイスティーノからは、メラスに対する確かな誠意が感じられた。
 メラスは真っ直ぐにイスティーノを見つめ返して、しっかりとうなずいた。
 その思いが通じたのか、イスティーノが優しく微笑んだ。
「……イスティーノ、まだ分からないことがあるんだ」
「なんだい?」
「ガーサは、家では書類を眺めてばかりで、私には何も聞こうとしなかった。私が最初に何も話す気はないと宣言したからかもしれないけど……ガーサは仲間のことは一言も訊ねなかった」
 それどころか、メラスの要求に応えて宮廷に案内までしてくれた。
 不思議だった。一つ屋根の下にいたのだ、ガーサにはメラスを尋問する時間はたっぷりとあったはずだ。なのにガーサは一度たりと反乱組織のことを訊ねはしなかった。
「それは多分、早い段階で見抜いていたからだろうね」
「見抜いていた?」
「そう。君のちょっとした嘘を。確信はなかったかもしれないが、我々総師は、尋問において相手の嘘を見抜くことが得意でね」
 イスティーノは言葉を失うメラスに、優しく問いかけた。
「メラス。君は、単独犯だね?」
 メラスは目を見開き、やがて小さく肩を落とした。
「そっか。ばれてんたんだな……」
 ――そう、メラスは単独犯だ。
 ガーサが追っている反乱組織とは、まったく関係がない。
 下町から宮廷に向かうまでの間、爆破事件に関する噂話を聞き、それに便乗しようと思った。古代の英雄「朱燬媛士」を名乗り、それが反乱組織の名前だと偽り、あたかも自分が彼らの仲間であるよう演じた。単独犯だと分かれば、大して重要視されず、あっさりと処刑されてしまう。そう思ったのだ。
 ガーサは信じきった様子だったが、とっくにばれていたのだ。
「そうである以上、君に聞くことは何もない。尋問しなかったのはそういう理由だろう」
 メラスは足元を見つめ、素朴な疑問に眉を寄せる。
「じゃあ、そしたら……どうしてガーサは私と一緒にいたんだろう。二週間っていう期限があって、でも私からは何の情報も得られない。なのに、ガーサはずっと私と一緒にいた。屋敷にいるときも、宮廷を散策するときも、ずっとだ。それは何のために?」
 イスティーノはそこではじめて躊躇った。
「ガーサが夜に仕事をしていたのは知っているかい?」
 予想外の問いかけに、メラスは首を振る。
「知らない。……そうなの?」
「ああ。昼間に仕事をできない分、夜に働いていた。部下とともに反乱分子の居場所を洗い出すために方々を駆け回り、書類や文献、地図を広げて、情報を探してまわっていた。そうまでして、昼間、君と一緒にいる時間を作ったのは、何故だと思う?」
「……何故?」
「ただ君を、天議会から守るためだった」
 言葉を失うメラスに、イスティーノは溜め息をつく。
「天議会がどんな手段に出るか、予測がつかなかった。君を攫い、拷問にかけ、ガーサより先に反乱組織の情報を得て、手柄を横取りするとか、あるいはさっさと君を処分して、ガーサに反乱組織の情報を与えないよう仕向けるとか。連中に道義はない、総師を貶めるためなら何でもやる」
「……守る、ため? それだけ?」
「それだけだ。宮廷を歩いていた時、気づかなかったかい? 人が全くいないことを」
 絶句したまま、メラスは思い出す。
 確かに宮廷には門兵以外の人間がいなかった。ガーサは午後の仕事の最中だから静かなんだと言っていたが――。
「師武官庁に願い出て、宮廷の一区画から完全に人払いしたんだ。……紅千柱大廊で、君たちが天議長たちと出くわしたのは、想定外の出来事だった。人払いの話をどこからか聞きつけたんだろう。普段、議員はあんな宮廷の隅にある廊下など使わない」
「どうして……そこまでして、私に宮廷を案内したんだ」
「多分、君がどんな行動を取るのか知りたかったんだろう。反乱組織のこととはまったく無関係に、ガーサは君自身の望みを知りたがっていた。君の力になりたいと、君を助けたいと。それどころじゃないってのに、まったく底なしの馬鹿だろう?」
「私の、願いを……?」
 思ってもみなかった真相を聞き、呆然とするメラスを気遣って、イスティーノが肩に手を置いた。
「……メラス」
 そのとき、どこからか物音が耳に飛び込んできた。
「なんだ?」
 物音──それはまるで、人が倒れるような。
「……!」
 メラスは反射的に駆け出していた。静まりかえった廊下に飛び出し、ガーサの部屋まで来ると、躊躇いも振り捨てて扉を勢いよく開け放った。
 そして硬直する。
「ガー、サ……?」
 椅子から半ばずり落ちる形で、ガーサが倒れていた。
「ガーサ……!」
 イスティーノが一歩遅れて部屋に踏みこむ。事態に気が付くと、素早い行動でガーサの様子を窺った。口早に指示が出された。メラスはそれに従った。
 周りの音が、全て消えていた。

+++

「過度の過労でしょう。まったく、倒れるまで無茶なさるとは。数日は絶対安静にさせてください」
 真夜中、突然呼び出されたというのに、高級街専属の医師は嫌な顔もせずそう告げた。イスティーノもメラスもほっと息を吐いた。
 もう夜明けが近い。まだ外は暗いものの、宮廷の方角は焚かれた灯火ですでに明るい。宮廷の朝は早いのだ。夜明けより前にほとんどの機関が目覚める。
 ずっとメラスに付き添ってくれていた魔終師だったが、医者が出てゆくと、彼もまた立ち上がった。
「メラス。俺はこれから朝議に行かなくてはならないからもう行くけど……あとでまた、俺からの使いをよこすから。メラスはこいつが寂しくないよう、ついててやってくれ」
 気の抜けた冗談を言って、イスティーノは床に座るメラスの頭を軽く叩いた。
 膝を抱え、顔を伏せるだけのメラスに、イスティーノはあえて何も言わずに部屋を出た。


 屋敷を出て、イスティーノは宮廷までの道のりを急ぎ足で歩く。わずかの間に空は明るみ、透き通った空をゆく雲が、朝焼けに色づいていた。
 監視もつけずにメラスを放って出てくるとは、我ながらガーサの甘さに感化されている、とイスティーノは苦笑する。
 ガーサの目がなくなった今、メラスは自由だ。どこへ行こうとも巨大な壁が邪魔をするが、それでも下町から宮廷にまで侵入した少女になら不可能ではないように思えた。
 だが、そうはしないだろう。
 目を伏せると、あの時、真っ直ぐに自分を見返した緑色の眼差しが脳裏をよぎった。
 透き通った瞳には、ガーサの身をただただ案じる、痛々しいほどの一途さが灯っていた。
 逃げはしない。推測などではなく、それは魔終師として抱く確信だった。
 思わず、微笑んだイスティーノだったが、彼は不意に「おや?」と首をかしげた。
 緑豊かな高級街の小道を、こちらに向かって歩いてくる人影がある。
 あれは、もしや──。


 魔終師が出て行ってから、ほんの数刻。
 こつこつ、と扉を叩くような音を聞いて、メラスは伏せていた顔を重たげに上げた。
 来客だろうか。だとしたら侍女長のマイサが応対に出るだろう。メラスは再び抱えた膝に顔を埋め、――もう一度、今度はより強い叩音がした。それも、思いもよらぬ方向から。
 メラスは庭園に面した窓に目をやり、まさか、と眉根を寄せた。
 ここは二階だ。だが今、音は確かに閉ざした窓板の向こうから聞こえた。
 しばらく困惑して窓を見つめていたが、いつまでも叩音が聞こえてくるので、仕方なく立ち上がる。鳥でもいるのだろうかと、何気なく窓を開けたメラスは絶句した。
 窓まで枝葉を伸ばした大木の幹に、見知らぬ少年が子猿よろしく腰かけていた。
 少年は呆気にとられた少女の顔を遠慮もなしに眺めると、にっと快活な笑顔を浮かべた。
「いよっ」
「……」
「て、閉めるな閉めるな!」
 反射的に閉めかけた窓を手で押さえて止めると、少年は軽々とした体さばきで窓を越え、室内に入りこんだ。
「あの……」
「ん?」
 メラスの不審感たっぷりな声に、少年は飄々と振りかえった。
 年齢は、十代後半といったところだ。特徴のある顔立ちではないが、人に好かれそうな明るい表情をしている。灯りを極微量に落とした室内でもくっきりと浮かび上がる黒い髪。同じく漆黒の目は、不思議な存在感に溢れている。
 だが、衣服が簡素にすぎた。街の武術道場で練習生が着ていそうな、動きやすさ重視の、装飾品など一切なしという代物だ。
 格式高い宮廷の者の装いとはとても思えない。メラスは警戒を強めた。
「あんた、誰だ」
 険しい声音に、当の本人は無警戒に目をまたたかせる。
「え? あれ、そっか、初対面だっけ。俺の方はガーサから聞いて知ってたけど。何度か姿も見かけてたから、もう挨拶済ましたつもりでいたよ」
「……ガーサの知り合い?」
 知り合いというのは、年齢が離れすぎている気がした。
 だが得体の知れない少年は、嬉しそうにうなずいた。
「そう。昔からのね。じゃあ改めて、初めまして。俺の名前はフォレス。見えないだろうけど、一応宮廷の人間だから警戒しないでいいよ」
 軽快に自己紹介をして、少年フォレスは気持ちの良い笑顔を浮かべた。
 しかしメラスは警戒をむしろ強めた。宮廷の人間は、名乗る際には略称を用いず、必ず家名から始める。「フォレス」は明らかに略称で、庶民がやったのなら親密感を覚えるだろう名乗りではあるが、仮にも宮廷の人間がやるといかにも胡散臭かった。
「もしかして、イスティーノの使い?」
「いや、違うけど、さっきそこで偶然会って、ガーサが倒れたって聞いたもんだから。見舞いに来たんだよ」
 では、誰なんだと言いかけて、やめる。
 フォレスがじっと自分を見ていることに、気づいたからだ。
 メラスはたじろいだ。
「……な、なんだよ」
「お前、何歳?」
「……は? 十二ぐらい、だけど」
 妙な質問に気圧されて思わず答えると、フォレスは神妙な面持ちでうなずいた。
「六歳違いか。まあ、大した差じゃないな」
「だ、だから何だよ」
「いや。お前、将来いい女になるよ」
「………。……だから?」
「いやいや、今のうちに将来の約束でもしとこっかなーと」
「――っな……!?」
 恐ろしく唐突な爆弾発言に、メラスは顔を真っ赤にし、髪の毛まで逆立てた。
「あ、赤くなった! 可愛いなぁ、宮廷の連中ってこういう反応してくれねぇもんなー!」
「……!?」
「なぁなぁ、メラスって呼んでもいい? それともメラスちゃん!? メラぷー!?」
「……っっ!?」
「俺、フォレスね、フォレス! よろしくな! あ、もう言ったっけ?」
 脈絡がない上に、途方もなく横にずれたことを言うフォレスに、メラスは唇をわななかせた。
「み、みみ見舞いに来たんだろ!? 見舞い、さっさとしろよ……!」
「しー、病人の側で大きな声はだめだぞ」
「な!? あ、あんたがはじめに……!」
 メラスは言いかけて、ハッと口を閉ざした。フォレスが急に真顔になり、ガーサの眠る寝台へと向かったからだ。
 メラスは口を両手で押さえ、フォレスが寝台の横に膝をつくのを見守る。
 フォレスはガーサの青白い顔を覗きこみ、悲しげに目を伏せると、両手を顔の前で合わせて頭を垂れた。
「ご愁傷さま……」
「――おいっ!!」
 素晴らしく切れの良いメラスの踵落としが決まった。