小説(長編小説)金貨と魔人の爪先|第三幕 4



 ――ああ、なんて気持ちの悪い子。邪霊なんか手懐けて、いったいなにをする気なんだ。
 ――あと少しの辛抱だ。バッハードがもうすぐ金貨を工面し終えるよ……。
 ――醜い化け物……我が部族の恥……。


 天幕に映った邪霊たちの影が、奇声をあげながら、楽しげに踊っている。
 こわい。こわい。四隅に施した、部族に伝わる魔除けの印のおかげで、邪霊が中まで入ってくることはないけれど、いつまでも外を徘徊して離れようとしない。
 こわいこわい。こわい。こわい。
「泣かないで、可愛い子」
 涙でぐしょぐしょに濡れた頬を、母の手のひらが優しく包みこんだ。
「恐れることはないわ。邪霊はあなたが好きなだけなのよ」
 いやだ、こわい、夜はきらい。みんながぼくをこわがる。邪霊がいっぱいだからだよ。
 ぼくも邪霊がこわい。とってもおそろしいお顔をしていて、ひっついてはなれないんだ。
「じゃあ、母さんがお伽話を聞かせてあげる。あなたが邪霊をこわいと思わなくなるように」
 細い指が髪を優しく梳き、柔らかな声が耳元でそっと囁く。
「昔々、といっても、砂漠の砂が岩に還るほどには遠くない昔のこと。カッカトーランという名の美しい魔導師と、彼女に仕えるグァラ・グァーラという名の魔人がいました……」
 母が語りはじめると、天井が星空へと変わり、物語に登場する夜の砂漠が天幕いっぱいに広がった。外の邪霊たちまで声を殺し、母の語りに耳を傾けているようだ。
 母が語るのは、カッカトーランに一目惚れした邪霊が、『俺ノ嫁ニナレ』と願い出て、怒った魔人グァラ・グァーラに懲らしめられる話。最後には改心した邪霊の『伴侶ガ欲シイ』という願いを叶え、魔人が「邪霊と一緒になりたい」という奇特な人間の娘を見つけだして、添い遂げさせる喜劇だ。
 邪霊、こわくないね、と呟くと、母は愛しげに頬を撫でて言った。
「愛しい、私の輝く子。魔人様はどんな願いごともかなえてくださる。もしも魔人様と出会えたなら、あなたはなにを願う? どんな素敵なお願いごとを、魔人様にするの?」
 願い。素敵な、願いごと。
 もしも、魔人様が願いを叶えてくれるというのなら、ぼくは……、


「みんなみんな死んでしまえ」


 はっと顔を上げると、母は微笑みながら、もう一度、同じことを繰りかえした。
「みんな、みんな、死んでしまえ」
 おののく子供の目の前で、母の笑顔がぼろりと崩れ落ちた。
 見開いた眼窩からは目玉が零れ落ち、ぽっかりと空いた黒い穴に、不気味な赤い火がぼうっと灯る。
 気づけば、優しい母はどこにもおらず、そこにいたのは、木乃伊のように枯れた姿をした、ぼろぼろの赤い袈裟をまとった老人だった。
『願え』
 低く、皺枯れた声。
 干からびた指が伸びてきて、子供の、金貨の口を強引にこじ開けてきた。
『乞うがいい、金貨』
 開いた口の洞に、どろどろとした闇が流しこまれる。
 苦く、悲しく、苦しみに満ちた味が、喉を抜け、全身を駆けめぐる。
 ぼこり、と口から溢れたのは水泡。
 苦痛に顔を歪めて、見つめた先にはもう、あの木乃伊のような老人はいない。
 ただ、闇が。
 汚れ、淀んだ、黒い水が。
 どこまでも、どこもまでも、絶望的な無限でもって広がっている。
『どんな醜い願いも、思いのままに叶えてやろう』
 真円の形をした紅蓮の目がぱかりと開かれ、怯える金貨をひたと見つめた。
『忘れるな。いつも、お前を見ているぞ――』


「……っ」
 金貨は目を見開いた。
 まばたきも忘れた瞳から涙が一筋流れ落ちる。
 どくり、どくり。心臓が喉の辺りで脈打ち、今にも吐きだしてしまいそうだった。
 ここは、どこだ。暗い。時間の流れが分からない。暗い。こわい。怖い!
『イイ匂イ、イイ匂イ……』
 だしぬけに邪霊の気配をすぐ近くに感じた。耳に馴染んだその声もする。
 ――では、夢だったのだ。
 金貨は震える息を吐きだし、後から後から涙を流す両目を、腕で覆って隠した。
 呼吸を整えながら、首を回して周囲を見ると、そこは厨房だった。
 そうだ、と思いだす。カッカトーランが白布を起こしにいったので、改めて夕餉の準備を終わらせるために厨房に戻ってきたのだった。いったい、いつ居眠りなんてしてしまったのだろう。
 金貨は、邪霊が遊んだ拍子に消してしまったのだろうランプに火を灯しなおし、不意にぎくりとした。
 明かりに照らされた指の先が、また、干からびていたのだ。
『泣イテル? ドウシテ、泣ク……?』
 不安でいっぱいになり、身を丸めて泣く金貨の背をよじのぼり、邪霊がぼさぼさの黒髪を引っ張ってきた。
 金貨は涙をがむしゃらに拭い、先ほどカッカトーランがそうしたように水甕まで這っていって、柄杓にすくった水を一気に飲み干した。
 恐々と手を見れば、それだけでもう干からびは収まっていた。


 ――なんでもいい、心当たりはないか? 触ってはいけないものに触れたとか、呪いがかかるようなことをしたとか。


 先ほどカッカトーランに問われたことを思いかえし、金貨は水甕のふちに額を押しつけた。
「きっと呪いだ」
 またこみあげてくる涙を、歯を食いしばって堪える。
「呪われて……当然だ」
 そのときだった。遠くの方で雷鳴に似た音がし、金貨ははっと天井を見上げる。
 ぱらぱらと天井から砂礫が落ちてきて、邪霊が首をかしげた。
『ナニカ、来タ……?』



 門番塔の屋上に飛び出した金貨は、上空を見上げて目を見開いた。
 ハモド渓谷の闇に呑まれた空を、真っ赤に燃える炎の塊が飛んでいた。
 屋上にはすでに、カッカトーランと、白布の壺がいた。カッカトーランが胸壁にしがみつき、興奮した様子で炎を見上げている。
 炎は不思議なことに、鳥の形をしていた。燃える両翼を悠々と広げて、ゆったりと旋回をしている。
『金貨』
 白布が金貨の存在に気づき、優しい声を発した。
 その愛情に満ちた声に胸を衝かれ、金貨は――思わず顔をそむける。
 直後、翼を畳んだ怪鳥が降下を開始し、胸壁すれすれを滑空していった。
 巻き起こった突風をしゃがんでやりすごし、ふたたび立ち上がると、もうどこにも鳥はいない。
 カッカトーランが「金貨、こっちに来るのじゃ! すごいぞ!」と破顔して叫んできた。
 ためらいよりも好奇心が勝った金貨は、おずおずと二人に近寄り、胸壁から身を乗りだして下方の闇に目をこらした。
 鳥は、渓谷の風の中を遊ぶように飛びまわっていた。しばらくすると、突然、顔をこちらに向け、素晴らしい速度で三人の目前を垂直に飛び抜ける。
 金貨は目を丸くした。顔の前すれすれを抜けて行った怪鳥は、鋭い爪を持つ両肢に、なんと二頭の駱駝を掴んでいたのだ。
 振りかえると、鳥は見惚れるほど優美に屋上に降りたった。砂が巻きあがって、紅蓮の炎が闇を赤々と照らしだす。
 なんて巨大な鳥だろう。炎でできた翼はばちばちと火花を散らしている。だが、ちっとも熱くない。鳥は翼を優雅に畳み、琥珀色のつぶらな瞳を細めた。その足元には、先ほどの二頭の駱駝が何食わぬ顔で立っていた。もごもごと口を咀嚼させ、大人しくしている。
「バムレックじゃ」
 カッカトーランがはしゃいだ声で、金貨に説明をした。
「運がよかったな、金貨。〈昼の民〉がバムレックとまみえる機会は滅多にない」
 手招きされるままに、金貨はカッカトーランのそばに寄り、背丈よりもずっと大きな炎の鳥を見上げた。
「遠い昔、魔導師が吟遊詩人たちに与えた魔道具じゃ。普段はただの赤いターバンじゃが、詩人の声に反応して怪鳥に変身し、荷物の運搬や、遠い地にいる知人への伝言を運ぶ。こんなすごい魔道具をつくれる職人は、今じゃなかなかいない。見よ、この勇壮な炎の翼を。素晴らしいのう!」
 バムレックがくちばしで炎の翼を啄む。翼から、火の滴が零れおちた。それはたちまち蛇に姿を変え、地面を蠢き、焦げ跡で文字を書いていった。
「詩人からの伝言じゃ。ええと……偽者カッカ、急ぎ来られたし……ああ、待て待て!」
 読み終えるよりはやく、鳥は花が萎むように縮まっていった。最後には、ただの赤いターバンとなって、ふわりと舞いおちる。
 カッカトーランはターバンを拾いあげ、失われた光源のかわりに、背負っていた黄金槍を地面に突き立てた。槍の柄が優しい光を灯し、焦げ跡を照らしだした。
「水道橋都市スカルトーガの東の貯水池の側、トンカラ広場にて、二人のタジ族が魔導師の来訪を待つ。……なんとまあ、タジ族が魔導師カッカトーランに助けを求めるとは、どっかで聞いたような話じゃの!」
 カッカトーランが笑いながら、金貨を振りかえってきた。
「金貨、知っているか? タジ族は力の弱い部族での、お伽話のなかでは困ったことがあるといつも、伝説の魔導師カッカトーラン様に助けを求めていたものじゃ。タジ族ときたら、わしの存在を聞きつけて、お伽話の再現をしようという考えらしい……どうした?」
 立ちすくむ金貨の強張った表情に気づき、カッカトーランが訝しげにする。
 金貨はなにも答えられずに、緊張で狭まった視野を、カッカトーランから、魔導師の手の中の赤いターバンへと移した。
 血のような色だ、とふと思う。
「……スカルトーガに、行くの?」
 もつれた舌で問うと、カッカトーランは首を傾げた。
「ことわる理由はない。近ごろでは、〈昼の民〉が〈夜の民〉を頼ることも稀になっての、それだけでも行く価値はあろう。そもそも詩人のこの呼び出し方って、ターバンを返しに行かないとならないから、ものすごい強制力があるのじゃ。こっちの都合は完全無視なのだからひどい話じゃ」
 ひどいと言いながらも、カッカトーランは楽しげだ。
『スカルトーガか。あの水道橋都市に行くのは、久しぶりだな。あそこの仙人掌漬けうまい』
 白布もまた弾んだ声で言いながら、しかし蓋をぱかぱかと上下させた。
『とはいえ、金貨をここに残していくわけにはいかない。満月期に入れば、邪霊の活動も活発化する。私は金貨と留守居をするから、カッカトーラン、ひとりで行ってきたらいい』
「……なんと! 寂しいことを言うではないか、白布ーっ」
 カッカトーランが悲しげに泣き伏し、白布が詫びるように魔導師に壺をすり寄せる。
『私も寂しいが、タジ族を無視するわけには――』
「おれも行く」
 とっさに呟くと、カッカトーランが驚いたように翡翠の瞳を見開いた。白布もまた沈黙する。
 金貨は二人の視線から逃げるように目を伏せた。
「おれも……一緒にスカルトーガに行く」
 スカルトーガ。
 その都の名を口にした途端、体の奥から無数の水泡が湧きあがってくるのを感じた。
「スカルトーガに興味があるのか? それともおぬし、スカルトーガと縁故があるのか、金貨」
 鋭い問いを投げかけてくるカッカトーラン。
 金貨は答えず、静かに両の拳をかためる。
 口から零れた震える吐息が、白く漂い、闇に融けて消えていった。