小説(長編小説)金貨と魔人の爪先|第三幕 3



 厨房から漂ってくる、たまらなく食欲を刺激する匂い。
 金貨が鍋を木べらで掻きまぜるたび、トマトの水分がじゅっと蒸発し、酸っぱさとともに海老の強い香りがたちのぼる。
『魔導師、来タ……』
 先にカッカトーランの来訪に気づいたのは、金貨の足にしがみついていた、赤ん坊ほどの大きさの邪霊だった。
『コレ、僕ノモノ……』
 邪霊がシィシィと威嚇音を発してくるが、金貨自身がそれの存在を怖がっている様子はない。どうやら、まとわりつく邪霊の存在は、金貨には慣れきったもののようだ。
 一匹程度ならば害はないか、とカッカトーランは邪霊を放っておくことにした。追いはらおうとしない魔導師の様子を見て取ってか、邪霊はふっと警戒を解くと、ふたたび少年の長衣の裾をまくったり、下ろしたりをして遊びはじめた。
「おはよう、金貨。今宵も早起きじゃのう。よく眠れたか?」
 金貨は鍋に薫りの強い香菜を放り、塩やサフラン粉、干した実を足す。
 答えはない。
「んーっ、いい匂いじゃ! 白布も料理は得意じゃが、金貨の腕も相当なもののようじゃ。食材は足りているか? 足りないものがあれば、調達してくるが」
 やはり、金貨は答えない。
「……くぅっ」
 カッカトーランは頭を抱え、邪霊が『シシシ』と笑う。本日第一戦目は完敗だ。
 と、不意に、金貨が手を止めた。
 一瞬、虚空に視線を泳がせてから、小さく口を開く。
「もう準備、終わる。……白布は?」
 白布、と名を呼ぶとき、金貨の肩がこわばったのに気付きながら、カッカトーランは首を横に振った。
「まだ寝ているから、そろそろ起こしにいってくる。けど――金貨、その前にちと」


 門番塔にはさまざまな部屋がある。
 稀少本を所蔵した図書室、魔術に使う鉱物や草花の種、生物標本を収めた資料庫、食物庫や、宝石の類を収めた部屋……二人が向かったのは、塔の中腹から渓谷の奈落へと舳のように突き出した、空中庭園だ。
 魔力で編んだ不可視の円蓋によって風から守られた庭園内は、ぷかぷかと浮かぶ魔道具〈沈まぬ偽日〉の穏やかな陽光と、水路を流れる水のちょろちょろという音、数頭の家畜の鳴き声に包まれている。
 庭園の奥にある東屋で、カッカトーランと金貨は向かい合わせに座った。
「順調な回復じゃ。皮がくっついているし、これなら抜糸しても問題なかろう」
 長衣を脱いだ金貨の体を仔細に検分し、カッカトーランはうなずいた。
 怪我の多くはあざや打ち身だが、肩に短剣で貫いたような新しい傷があり、それが一番ひどい怪我だった。
 金貨はどことなく不安げに見えた。カッカトーランは木箱から鋏を取りあげ、金貨に見せてやる。
「この鋏で、糸をちょんちょんと切るのじゃ。ちと痛いが、それが終わればもう安心じゃ」
 金貨はじっと鋏を見つめ、挑むようにうなずいた。
 糸を鋏で切りながら、カッカトーランは抜糸の痛みにじっと耐える金貨を、上目で窺う。
「この怪我、前の主人にやられたのか?」
 答えを期待せずに問うと、金貨は長いこと沈黙したすえに、小さくうなずいた。
 反応があったことに勇気づけられ、カッカトーランはもう少し、踏みこんだことを聞く。
「前の主人は、なぜおぬしにこんな仕打ちを?」
 だが、今度の問いに、返事はなかった。
 ――夜の世界に転がりこむ者は、誰もが秘密を抱えている。カッカトーランのような〈夜の民〉ももちろんのことだ。
 人の王が支配する昼の世界に背を向け、夜の闇を生きる地と定めた〈夜の民〉。魔人や邪霊といった夜の眷属とかかわることが多いため、彼らに合わせて夜を生きる時刻と定めた……というのが表向き。実際には、昼の世界で「異端」「異形」として迫害を受け、夜に逃げるしかなかったのが〈夜の民〉だ。
 金貨もある意味で、〈夜の民〉と言えるのだろう。ならば、余計な詮索をし、少年が抱えている傷をえぐるような真似はしたくなかった。無遠慮な詮索は、〈夜の民〉がもっとも嫌うことなのだ。だが。
 ――こんな世界、滅ぼしてしまえ。
 あのとき、カッカトーランは金貨の体から、巨大な魚の影が泳ぎでるのを見た。
 そしてその魚は、イスカルダの自警団小屋で、金貨が入った麻袋に触れたときに見たのと同じものだった。
(あれがなんだったのかは分からない。じゃが、たいそう危険なものに思えた。あの魚、このまま放置していてもいいものには思えない……)
 カッカトーランは金貨に顔を向ける。
「もうひとつだけ。どうしておぬし、イスカルダの水汲み場で倒れていたのじゃ? イスカルダから先に町や集落はひとつもない。あるのはただ、ここ、ハモド渓谷のみじゃ」
 金貨はどこか遠くを見つめる眼差しで、東屋の外に広がる渓谷の闇を見つめた。
 だが、やはり返事はなかった。
 やっぱり駄目か。カッカトーランは「とほほ」と落ちこみながら、鋏を木箱に片づけた。
「これで終わりじゃ。もう服着ていいぞ」
 金貨はうんとも言わずに、床に置いた服に手をかける。
「ありゃ? ちと」
 その金貨の頭へ手を伸ばすと、金貨はびくっとして服を取り落とした。
「……葉っぱがついていたのじゃ」
 改めて、金貨の髪についていた葉を掴みとり、見せる。
 金貨はまばたきすら忘れた目で、葉を凝視した。
(やっぱり駄目か、ではすまないな)
 金貨が心を開かないことにやきもきしているのには、もうひとつ理由がある。
 門番塔で目覚めてからの十日間、金貨は一刻とて気をゆるめる様子がないのだ。
 カッカトーランと白布の一挙一動に怯え、今も全身の目を見開き、カッカトーランに注意を向けつづけている。
 あまり眠れていないのだろう、体は順調に回復しているのに、金貨は日に日にやつれていく。傍目に分かるほどの極度の緊張状態、それが衰えた体にいい影響であるわけがなかった。
 カッカトーランは指先で葉をくるりと回し、覚悟を決めた。
「そんな怯えるでない、金貨」
 遠回しな質問をやめ、はっきりと言う。
「前の主人は、とんでもないクズだったようじゃが、わしは決しておぬしを傷つけたりはしない。だから、そんなに怖がるでない」
 金貨は少しだけ驚いたようにカッカトーランを見つめてから、顔をそむけた。
「……怖がってなんかいない」
「そうは、見えんのじゃ」
 黙りこむ金貨の横顔を見つめ、カッカトーランは首をかしげる。
「そもそも、掃除や料理だってしなくてもいいのじゃぞ? 〈金貨〉としてではなく、居候として好きにすごしてくれていいのじゃ。仕事なんてしなくたって、わしらはおぬしを追い出したりしない」
 金貨の双眸は、どこか途方に暮れているように見えた。
「……〈金貨〉でないおれに、価値はない」
 カッカトーランは目を見張る。
「そんなことはない」
「どうしてそう言いきれるの」
「わしは、おぬしのことをまだよく知らない。それは、おぬしとて同じのはずじゃぞ。おぬしは〈金貨〉ではない自分をどれだけ知っている? その可能性や、その価値を。「価値がない」などと言い切るのは、まず、〈金貨〉以外の何者かになってからにすべきではないか?」
「……そんなの、無理だ」
 カッカトーランは、幼い少年の頬に残された、無残な〈金貨〉の烙印に目を留める。
「そうじゃの、きれいごとを言う気はない。確かに、昼の世界では難しいじゃろう。けれど、ここは夜の闇の中じゃよ、金貨」
 夜は、すべてを闇の中に隠してくれる。
 異形も、異端も、心に受けた傷も、金貨の頬に残された烙印もすべて。
「夜の世界では、誰もが等しくただの闇なのじゃ、金貨」
 金貨は顔を曇らせる。唇を噛みしめると、身を固くしてうなだれた。
 カッカトーランはわずかに躊躇ってから、ふたたび口を開いた。
「金貨。十日前、わしに問うたな。「あなたの魔人はおれの願いを叶えるか」と」
 途端、金貨のまとう空気が痛いほどに張り詰めたのが分かった。
 その反応を注意深く観察しながら、カッカトーランはつづける。
「わしは答えた。「それは白布に聞いてみないと分からない」と。もう、白布には聞いてみたのか?」
 これまでも、多くの人間たちが白布の前にひれ伏し、「魔人よ、魔人。どうか願いを叶えておくれ」と懇願した。だが、白布にひとの願いを叶えられるほどの魔力は存在せず、悲しげにうなだれる白布に対し、人間たちは「魔人のくせに」と冷やかになじった。
 カッカトーランは毎度、身勝手な人間たちに腹を立てたが、白布は違った。
『私は、ひとがなにかを願う姿が好きだ。願いごとを口にするとき、ひとは優しき者も、悪しき者も皆、等しく子供のように純粋な目をする。私は、それをとても尊く、愛しいと思うのだ』
 どうやらカッカトーランでは金貨の心を開くことはできなさそうだ。だが、白布ならば……そう思う。
 たとえ、金貨の願いを叶えてやれなかったとしても、白布ならきっと、その願望を抱くに至った理由ごと、一緒に背負ってくれる。
(白布は、優しい)
 愛しい魔人のことを想うと、いつも気持ちが暖かくなる。
「白布は、おぬしが話しかけてくるのを待っている。気軽に、話しかけてみるといい」
 カッカトーランは呟き、柔らかな笑みを金貨に向けた。
「魔人に願いなんかない」
 カッカトーランは最初、それが金貨の答えだとすぐには気づけなかった。
 目をぱちくりさせ、金貨をまじまじと眺める。
「あれ。そうなのか? なんじゃ、わしはてっきり……」
「魔人は、願いを叶えたりなんかしない」
 カッカトーランは眉をしかめる。
「ええと……それはつまり、願いはあるが、魔人は願いを叶えないから願わないという意味か? それとも、もともと願いはないし、そもそも魔人は願いを叶えたりしないと言いたいのか?」
「そうだ、そう言っただろ。――早く魔人に願いを叶えさせろ、魔導師!」
 いきなり金貨は激昂した。
 憎悪に燃える目がカッカトーランを睨みつける。
 カッカトーランはその明らかな異変に、目を鋭く細めた。
「おぬしの願いはなんじゃ、金貨」
 金貨は顎を引き、魔導師を上目で睨みつける。
 食いしばった歯の奥から獣のような呻き声が零れた。
 呼吸が浅くなり、金貨は苦しげに喉を押さえ、そして絞りだすように言った。
「願いなんか――ない」
 なにかに抗っているかのような声だ。
 カッカトーランはふと、喉を押さえる金貨の手が、指先が、枯れ枝のように干からびていることに気づいた。
「金貨。指が」
 金貨は己の手を喉からはがし、指を見つめ、はっきりした恐怖を顔に浮かべた。
「大丈夫じゃ。待っておれ」
 平静を装って東屋を出て、水路の水を杯に汲んで戻る。
「飲み干せ。それで良くなる」
 金貨は理解できていない顔でカッカトーランを見つめるが、震える手で杯を受けとり、一気に水を飲み干した。
 予想通り、干からびた指はあっという間に元に戻ったが、カッカトーランは顔を曇らせた。
「おぬしを預かり受けたときも、おぬしの体はその指のように干からびてしまっていた。そのことを、覚えているか?」
 金貨は目を見開き、首を横に振る。
(干からびを知らない? ならば、〈邪霊の寵児〉と干からびにはなんの関係もない)
 別の原因があるのだ。
 そう思った瞬間、脳裏によぎったのは、屋上で見たあの不気味な魚の影だった。

+++

 夜も深まってからようやく、白布は目を覚ました。
 魔導師の声がする。
 目覚めとともに愛しい娘の声を聞いた喜びに浮かれながら、暗闇の中で辛抱強く待っていると、やがて天に丸い穴が開き、ひょいと魔導師の顔が現れた。
『カッカトーラン、私の愛しい魔導師! おはよう』
「おはよう、白布っ」
 壺の内側へと顔を突っこんできたカッカトーランが、ちゅっと音だけの口づけをくれる。
「今宵は、調子はどうじゃ?」
『ああ。まだ実体化はできないが、声は出せるようになったようだ』
 魔人の魔力は、月の満ち欠けによって増減する。
 数日前から空には満月が輝き、もともと力の弱い白布は、壺も動かせず、声すら出せないほど弱っていた。
 だが、今宵で満月期も終わりだ。あと三日もすれば、半月にまで欠ける。そうなれば、今は煙でしかない体を実体化させられる。
『金貨の様子はどうだ?』
 ここ数日、声も出せずに訊ねることすらできなかった心配ごとを口に上らせると、カッカトーランは「ごんっ」とすごい勢いで壺に額を打ちつけた。
『ど、どうした。痛々しい音がしたぞ、カッカトーラン』
「……まるで成果がないことを、心から詫びたい、白布!」
 めそめそと泣きながら、先ほどの出来事を語りだすカッカトーラン。
 詳細まで聞いた白布は、思案気に壺をぐるぐると回転させた。
『そうか。また、干からびが起きたのか』
「二度起きたなら、三度目もあるじゃろう。あんなわけのわからない現象、何度も繰りかえしていたら、金貨の体がどうにかなってしまう。けれど、原因が分からない」
『金貨に心当たりはないのか? 誰かに呪いをかけられたとか、触れてはいけないものに触れたとか』
「聞いてはみたのじゃが、途端にだんまりを決めこんでしもうたのじゃ。……わし、そんなに頼りないかのう? しばらく、立ち直れなさそうじゃよう……」
 翡翠の瞳をめそめそとさせるカッカトーラン。だが、白布もまた声を低める。
『……お前だけではない。打ち解けられないのは私も同じだ』
 満月期に入る前の、まだ壺を動かせていた頃、白布もまた金貨に無視されっぱなしだった。
 目を合わせようともせず、少し近づくだけで、後ずさって距離を置く。そのわりに、時おり探るような視線を感じ、気づくと目の届く場所にいることも多かった。
『カッカトーラン。最初の晩、あの仔は、怖い、眠りたくないと言って、私に縋ってきた。あの仔は確かに、私たちを怖がっている。だが同時に、助けを求めているようにも見える』
 白布は、壺の内側から、カッカトーランを真摯に見つめた。
『私は、金貨の力になってやりたい。カッカトーラン、力を貸してくれ』
 カッカトーランは壺のふちに顎をのせ、ふと、優しく目を細める。
「うむ。白布なら、そう言うと思っておったよ」
 二人は笑って顔を見合わせ――直後のことだった。
 落雷に似た爆音が轟き、塔全体が激しく震えた。壺がぐらりと揺れ、カッカトーランもまた尻もちをつく。
 二人は同時に、ぱらぱらと砂礫を降らす天井を見上げた。
「な、なんじゃ?」