小説(長編小説)金貨と魔人の爪先|第三幕 2



 半球体型の天井には、天文図が描かれている。
 紺色の下地に、金銀の塗料によって書かれた円や線。複雑に重なりあったそれらは、恒星の座標や、惑星の軌道といった宇宙の神秘を示している。
 その下には、鏡のように磨きあげられた石床。頭上を覆う疑似宇宙を冷たく映して、静謐で、仄暗い空間に、荘厳な雰囲気を生みだしていた。
 床にひざまずいたカッカトーランは、ふっと呼吸を止め、身を屈めた。
 握った右手の拳のなかには、赤銅色の砂。顔をぐっと床に寄せ、小指の間から細く砂を零してゆく。
 壁際には小さなサラードハザが座り、神妙な顔でカッカトーランの成すことを見つめている。
 ――魔人召喚の儀。
 それは、砂で描く召喚陣を用いて、行われる。
 鉱石を砕いて砂粒状にしたもの、あるいは砂漠の砂を染めたものを用い、万華鏡のように色鮮やかで、複雑精緻な円形図面を描くのだ。
 魔導師の中でも、ひと握りの者にしか操れぬ、大魔法。
 幾日、幾十日、幾百日、あるいは幾千日……ひたすら息を殺し、一粒の狂いもない完璧な砂絵を描きだす。
 魔力を流しこむと、砂絵は、異界とこちらとを結ぶ扉となり、魔人が召喚されるわけだが――。
 今、カッカトーランが完成させようとしているのは、両腕を広げたほどの大きさの円形図面。
 陣の外に置いた壺から金色の砂を取りだし、さきほど赤銅の砂で描いた螺旋模様の間を埋める。さらに黒銀色の砂を使ってうねる蔦を描き、紫紺の砂によるつがいの鳥を描いた。
 素早く、正確に、描きだされる召喚陣に、サラードハザは目を見張った。
 思いのほか繊細な指は、最後に、鳥の羽に銀粉を散らす。そして魔導師は幽鬼のようにそうっと立ちあがった。
 槍を右手に掴み、裸足の爪先を、完成したばかりの召喚陣に乗せる。
「――砂に眠る一億夜、この夜に目覚めよ」
 呪文に応じて、砂がぼうっと蒼白に輝く。
「今宵、闇を喰らう月は満ち、闇はまったき眠りに落ちた。されど、我は闇を偽造り、ここに完璧なる夜を乞う」
 カッカトーランはさらに一歩、踏みだした。一歩。もう一歩、召喚陣の上を歩いていく。いつしかそれは、流れるような踊りとなり、カッカトーランは槍を両手に静かに舞う。
 褐色の爪先に踏まれようと、砂絵が無残に崩されることはなかった。
 否、爪先が陣を掻くたび、砂絵は姿を変えていった。色は混ざり、また分かたれ、螺旋は燃えさかる炎に、つがいの鳥は一羽の怪鳥にと、その絵の内容を変化させる。
「夜の帷は開かれた。我が呼ぶ名は、ペルドフーチカ。血のごとき紅の膚と、燃える炎の尾を持つ、灼熱より生まれし焔の嬰児……」
 カッカトーランは踊りながら槍を回転させ、穂先で己の腕や足を傷つけた。鮮血が舞い、召喚陣に最後の模様――血の赤を浸みこませ、そして。
「我は乞う、麗しき乙女。現われ出でよ、〈鮮血の魔人ペルドフーチカ〉」
 あくまでも夜の静寂を乱さぬ、静かな声。それでも、魔力を秘めた声音は、波が広がるように召喚の間に響きわたった。
 だが――。
 サラードハザは眉をしかめ、カッカトーランは顔を曇らせる。
 召喚陣は、なんの反応も示さなかった。
「駄目だったようじゃの」
 カッカトーランは強いて軽く言い、あっさりと槍を下ろした。
 召喚陣から離れ、壁を背に座ると、腕だの足だのから流れる血を、獣のように嘗めとる。
 サラードハザは、カッカトーランのそばに歩み寄り、悄然とうなだれた。
『我にはこの召喚陣、見惚れるほどに美しいものに見えるが……駄目なのか』
 魔人はひとりひとり、固有の召喚陣を持つ。ゆえに、召喚したい魔人がいれば、その魔人の召喚陣を描けばいいのだが、たとえ描けたとしても、かならず呼び声に応じてくれるというわけではない。魔人は「完璧な美」を好む。描いた砂絵にわずかな乱れでもあれば、見向きもされないのだ。
 だが、カッカトーランはかぶりを振った。
「おぬしがそう言ってくれるなら、召喚陣には問題はないのじゃろう。それに、これは魔人に召喚を拒否されたときの反応ではない。応じないのではなく、応じるべき相手がそこにいないという反応じゃ。すでに寿命が尽きたか、あるいは――」
『ペルドフーチカは、我よりも五百歳は若い、魔獣の稚児だぞッ』
 カッカトーランは、床に広げてあった『召喚の書』に目を留める。
「ならば、ペルドフーチカも〈願望の魔器〉に封じられ、そのままになっているということじゃ」
 開かれた頁に記載されているのは、〈鮮血の魔人ペルドフーチカ〉に関するありとあらゆる情報。
 長い耳と、長い体毛をもつ、愛らしい獣の細密画が、こちらを見つめるように描かれていた。
 サラードハザは憎らしげに唇を噛みしめた。
『我を召喚した魔導師が、同時期に、ペルドフーチカを召喚したのを見たのだ。だから……もしやと思ったのだが』
「その推測は正しかった。つらい結果じゃが、おぬしのおかげで、それを確かめられたのじゃ、あんまり落ちこむのではないぞ」
『我は怒りに震えているのだッ。いまだ三百を超える魔人が、〈願望の魔器〉に封じられたままになっているだと? しかも、お前が確認できただけでその数。ならば……ペルドフーチカのように、不在すらも確認できていない魔人は、いったいどれほどの数いるというのか――もがぁ!』
 サラードハザの口に、いきなりクッキーを押しこんで、カッカトーランはにっと笑った。
「白布がつくったクッキーじゃ。うまかろう?」
『はにふぉひへ……ッ』
「落ち着け、サラードハザ。〈願望の魔器〉の解決には、気を長くして向き合わねばならない。どれほどの年月がかかるか、想像もつかないのじゃからの。そんなに自分を追いつめていたら、すべての魔人を助けるより先に心を病んでしまうぞ」
 サラードハザはごくりとクッキーを飲みこみ、その甘さに少しだけ顔を和ませつつ、口端をひん曲げた。
『だが、人間の寿命は短い。お前は、数十年もすれば死ぬ。焦るなと言うほうが無理だろう』
 カッカトーランは目を丸め、ふっと微笑んだ。
「谷底の魔人たちが、白布に言っていたそうじゃぞ。「サラードハザ殿はいつまでも我らに心を砕いてくれん。厳しい顔をして虚空を睨むばかりで、一緒に囲碁もしてくれん」と。まずおぬしは、谷底の魔人たちに心を許してやることじゃ」
『遊興にふけるなど……我にはできん』
 サラードハザは呟き、ふと白けた半目でカッカトーランを見上げた。
『それより貴様こそ。ここ数日、浮かぬ顔をしてばかりではないか』
 途端、カッカトーランは悲愴な顔をして、ガバッと床に突っ伏した。
「なにをどうしたら心が浮き立つというのか! 満月期に入って、白布はずーっと壺の中で眠ったまま! 寂しくて吐きそうじゃ!」
『お、おお』
「しかも、もう十日も経つのに、金貨がちっともなついてくれんー!」
『金貨? そういえば、我も十日前からこっち、一度も会っていないが』
 サラードハザは溜め息をついた。
『白布殿は、今宵にも目覚めるのだろう? それに、貴様の厚かましさをもってすれば、仔供一匹、簡単に懐柔できるだろうに。なにを手間取っている』
 カッカトーランは情けなく涙を零しながら、サラードハザを縋るように見つめた。
「わし、人間と喋るのが苦手なのじゃ。厚かましさは、人外の生き物にしか発揮できんのじゃあっ」
『なんと情けのない。我には谷底の魔人たちと仲良くしろと言っておいて』
 サラードハザは呆れはて、カッカトーランの足元に置かれた袋からクッキーを取りだし、魔導師に放った。
『そら、白布殿のクッキーだ。これでも喰らって、さっさと金貨を手懐けてこい、ちんくしゃ』

(そうは言ってものう)
 カッカトーランは門番塔一階の廊下をひとり歩きながら、どんよりと打ちひしがれた。
「サラードハザは、事の難しさを分かっていないのじゃ……」
 この十日間で、嫌というほど理解したことなのだが、金貨はとんでもなく無口な少年だった。
 なにを話しかけても返答に乏しく、特に、金貨自身のことをたずねると、岩のように黙りこんでしまう。おかげでこれまでに分かったことといえば、少年が〈金貨〉であること、〈邪霊の寵児〉であること、「人殺しの金貨だ」と呟いたこと、その三つだけ。
(無口なのはもともとの性格か、それとも「話したくない」という意思表示なのか。それすらも分からないのじゃからのう)
 廊下を歩くうち、カッカトーランはふと、厨房から明かりが漏れていることに気づいた。
(けれど確かに、いつまでもこのままでは困る)
 カッカトーランは意を決し、厨房を覗いた。
 中では、金貨がかまどの前に立ち、夕餉の準備をしていた。