小説(長編小説)金貨と魔人の爪先|第二幕 3


 ふぅ、と細い息が漏れる。
「やっと、サラードハザを見つけることができたのう」
 カッカトーランはひとりごち、明け方の屋上に大の字になって寝転がる。
 百年前から行方不明になっていた〈豪腕の魔人サラードハザ〉を、ついに〈願望の魔器〉から解放することができた。
 だが、安堵はあれど、達成感はあまりない。
(いったいあと、どれほどの魔人たちが、魔器に閉じこめられたままになっているのか……)
〈願望の魔器〉は、今から二千年前、狂魔導師スルによって生みだされた魔道具だ。
 スルは、盟友であった魔人を実験台に、最初の〈願望の魔器〉を完成させ、それを世に発表した。
 超大な魔力を持った魔人を意のままに操ることのできる画期的な魔道具――スルはそう言って、唖然とする魔導師たちの前で高笑った。
 魔人は、魔導師のかけがえのない盟友だ。大半の魔導師は、スルの行いを「魔人の尊厳を踏みにじる、下劣な魔術」と罵った。
 だが、超大な魔力を秘めた魔器の存在は、脆弱な人間にとって、あまりに魅惑的すぎた。
 スルが死したのちも、誰かしらの手によって〈願望の魔器〉の開発はつづけられた。
 そうして、現在までにつくられた魔器は、カッカトーランが確認しただけでも三二○個にも及ぶ。
 すべての魔人を解放するには、まだまだ莫大な時間がかかる。
(時間がどれほどかかろうと、わし自身には苦ではないが……)
 カッカトーランは沈鬱な気分で目を伏せる。
(魔器に封じられた魔人たちは苦しみつづける。それを思うとつらい)
 魔人たちの苦難を思って、悲しげにする白布の背を見るのは、なおいっそうつらい。
 カッカトーランは「ぬぅぬぅ」と唸りながら屋上を転げまわり、不意に目を見開いて、ぱっと身を起こした。
 振りかえると、背後の階段から、白布の壺が上がってくるところだった。
「白布! まだ起きていたのか? もう夜が明けてしまうぞ」
 瞳を輝かせて言うが、すぐそばまでやってきた壺は、無言だ。
 かわりに、壺の蓋が内から開かれた。中から伸びてきたのは、真っ白な腕。
 白く溶けた手が、カッカトーランの頬に触れる。
 夜明けが近い。夜の生き物である魔人には、もう言葉も発せられないのだ。
 だが、カッカトーランには白布の言葉がちゃんと聞こえた。
 ――大丈夫か、カッカトーラン。落ちこんだ顔をしている。
 カッカトーランは苦笑し、ぼんやりと輝く手に触れる。
「大丈夫じゃ。ちょっと疲れただけでの」
 嘘をついたところで、白布にはすぐに気落ちの原因がばれてしまう。
 だが、白布は問いを重ねるかわりに、愛しげに耳を撫で、別のことを囁きかけてきた。
「む、わっぱが? ……そうか、わかった。あとは任せてくれ。うん。おやすみ、白布」
 指が名残惜しげに顎を撫でてから、壺のなかへ消えていった。
 眠たげに、ふらふらと階段におりていく壺を見送ってから、カッカトーランは屋上の胸壁に寄って、塔の根元を見下ろした。
 一階の扉が、軋んだ音をたてて開かれた。
 しばらくもせず、小さな人影が惑うように出てくる。
 風に足をとられ、慌てて扉にしがみついた少年は、谷底へと伸びる階段をぼうっと見つめた。
「もう起きて歩けるのか? 驚いたのう」
 少年が肩を震わせた。戦いた様子で、ゆっくりとこちらに顔を向けてくる。
 カッカトーランは、視界にその姿を捕えて、目を見開いた。
 なんて危うげな少年だ。
 吹きつける風に揺れる、か細い体。
 黒い瞳は闇よりも深くかげり、子どもらしい生気は欠片も宿していない。
 死の淵からよみがえったはずなのに、少年は今なお、ただの死体のように見えた。
 だが――。
「だれ」
 はかない印象とは裏腹に、少年の口から発せられたのは警戒に満ちた声だった。
 声変わりもまだのいとけなさ。なのに、相手を突き殺さんばかりの険が篭められている。
(人を睨むだけの元気はあるということか)
 カッカトーランは、その不躾を不快に思うより、いっそ頼もしく思って、にっと笑った。
「わしの名は、カッカトーラン。魔導師じゃ」
 少年が目を丸くした。
「カッカ……トーラン?」
 カッカトーランは不承不承うなずく。
「分かるぞ、麗しの魔導師様の名を騙るなと言いたいのであろう。けど、誰がなんと言おうと、わしはカッカトーランじゃ。文句があるなら、お伽話の魔導師様に言ってくれ!」
 少年はとらえどころのない眼差しで、渓谷の闇に首を巡らせた。
「ここは――」
「ハムンバール渓谷の断崖にある、わしの居塔じゃ。門番塔という。おぬし、イスカルダの水汲み場の近くで倒れていたらしい。自警団が保護していたが、そのう……」
 カッカトーランは「ごにょごにょあって」ときわめて適当に濁し、
「……つまり、結論を言うと、わしがおぬしの身柄を預かり受けることになったわけじゃ。覚えているか?」
 少年は、心許なく首を横に振る。
「そうか」
 カッカトーランは気を取りなおし、少年に笑いかける。
「詳しい話はあとにしよう。なんにしても目が覚めてよかった! 白布も……あ、白布っていうのはわしの魔人なのじゃが、すごく心配していたぞ。わしは白布の悲しげな顔に弱くてなあ……」
「白布――」
 少年は不意に、恐れと期待の入り混じった目をカッカトーランに向けてきた。
「あなたの魔人は、おれの願いを叶えるか」
 唐突な問いだった。
 カッカトーランは翡翠の目を細め、眼下の少年を見つめた。
 こんな世界など、滅ぼしてしまえ――。
 あのとき、この屋上で聞いた謎の声。
 奇妙なあの声のことを思い出しながら、カッカトーランは慎重な面持ちで胸壁に頬杖をつく。
「さて、それは白布に聞いてみないと分からないが。なにか願いごとがあるのか? 言うてみよ」
 試すように問う。
 だが、少年は口を噤み、闇をじっと見据えるばかりだ。
「おぬし、名はなんと言う?」
 仕方なしに話題を変えると、少年は迷うように視線を泳がせ、やがて呟いた。
「金貨」
 カッカトーランは眉を寄せる。
「それは、名ではなかろう?」
「あなたはさっき、おれのことを「預かりうけた」と言った。だったら、あなたはおれの主人で、おれはあなたの金貨だ」
 吹き荒ぶ風に身を揺らしながら、少年は闇を孕んだ眼を、深い、深い奈落の底に向けた。
「人殺しの、金貨だ……」
 カッカトーランは首をかしげ、懸念に顔を曇らせた。
 呟く少年は、今にもその闇に身を投げてしまいそうに、脆く見えた。

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 ぐらぐらと煮えたつ灼熱の大地に、ひとりの老人が立っている。
 ぼろぼろの赤い袈裟をまとった老人だ。
 首と手足から鎖を垂らしている。突き刺すような陽光を浴びて、しなびた皮膚から、瘴気のような靄を立ち昇らせている。
 どれだけの時間が経ったか、太陽が急速に地平線の下へと沈んでいった。
 東の空が星散る藍へと沈み――それとともに、老人の眼球のない眼窟に、ぼうっと不気味な赤い光が灯った。
『ァ、ァァ……』
 老人は手足の鎖をじゃらりと鳴らし、呻く。
『子供……あの子供を……見つけねば……ァァア……ッ』
 一歩、また一歩。
 歩きはじめた老人の足跡が、砂に描かれた風紋に、醜い痕跡を残す。