第二幕「人殺しの金貨」
深い深い渓谷の闇を、風がどうどうと唸りを上げながら流れてゆく。
流れを遮るものは何もない。風の精霊たちは悠然と闇を泳ぎ、心地よい夜を満喫した。
その体が、突然なにかにぶつかった。強制的に二股に分かたれた精霊たちは、不満顔で背後の闇を過ぎ去ってゆく障害物を振りかえった。
それは石の塔だった。
垂直に切り立った絶壁に根を喰いこませ、わずかな光を求めて、空に向かって枝葉を伸ばす樹木のような、いびつな形の塔である。
塔の内部に設けられた螺旋階段を、壷が器用に下りていく。
蓋の上に胡坐をかいていたサラードハザは、体を上下に揺られながら、躊躇いがちに壺を見下ろした。
『その……白布殿。貴殿はなぜ壺の中に? この壺は、貴殿の寝床とお見受けするが』
白布は、壷の表面をぽっと赤くして、『お恥ずかしい』ともじもじした。
『私は豪腕殿よりもはるかに格下の魔人。今宵のように月明かりの強い夜は、魔力が衰え、己の形を保つこともできなくなる。ひとたび壺から出れば、実体をなくした私の体は風に流されるだろう。次に形を取り戻したときには、きっと遠い異国の氷山にでも引っかかっている。こちらから招いておきながら、寝床に入ったままで申し訳ない』
同胞の謙虚な物言いに、サラードハザは慌てた。
『い、いや、我こそこのように小さくみっともない姿で……恥ずかしい。どうやらあの魔導師の相手をするのに、魔力を消耗しきってしまったらしい』
サラードハザはもごもごと言い訳して、首をかしげた。
『ところで、白布殿はあのカッカトーランとかいう娘に召喚されたのか?』
『そうだ。カッカトーランは、私の魔導師だ』
『……同情するぞ、白布殿。あのような、めちゃくちゃな魔導師が召喚者とは』
しかも、とサラードハザは嘆息する。
『古に名の知れた麗しの魔導師と同じ名とは。伝説の乙女もさぞ迷惑していよう』
白布は朗らかに笑った。
『確かに、伝説の魔導師カッカトーランとは似ても似つかない。私のカッカトーランはいつもめちゃくちゃで、清楚さの欠片もない。けれど、そこがたまらなくイイ』
壺の中から聞こえる答えはたいそう嬉しげで、サラードハザは顔をしかめる。
『先刻も思ったが、白布殿はずいぶんとあの魔導師を好いているようだ』
『ああ、好きだ。あれがいないと、寂しくて退屈する』
あけっぴろげな返答に、サラードハザはますます渋面になる。
『差し出口を叩くようだが、魔人ともあろう者が、人間ごとき下等な生物を、好きだなどと言うものではない』
白布は立ち止まり、不思議そうに壺を傾けた。サラードハザはいきなり斜面になった蓋の上でじたばたと慌て、取っ手にしがみついた。
『白布殿、気をつけてくれッ。落ちるではないかッ』
『……分からない。私がカッカトーランを愛していたら、なぜ魔人として恥になるのだ?』
『あ、愛……!?』
サラードハザは絶句し、今宵はじめて会った同胞をまじまじと見下ろした。
『まさか白布殿、朋友としてあの娘を好きだというのでなく、よもや……よもや――わッ』
突然、踊り場の壁に開いたアーチから、カッカトーランが飛びだしてきた。
「すまん!」
叫び、階段を駆け下りていく魔導師を、サラードハザは呆気にとられて見送った。
白布はくつくつと笑ってアーチをくぐり、室内に入った。
魔道具や書物などが雑然と積まれた部屋だ。中央には、天蓋付きの寝台が置かれている。
そこに数体の邪霊が群がっているのを見て、白布が喉の奥から木鈴の音を鳴らした。
邪霊は部屋の四方へ逃げ去り、それと同時に、寝台に横たわる少年の姿が露わになった。
サラードハザは、我知らず、息を飲んだ。
『おい。なんだこの……無残な体は……』
下穿き姿になった少年の体は、酷いありさまだった。
干からびていることを除いても、体全体に打擲の痕や、短剣で貫いたような刀傷がある。
両手首、両足首をぐるりと一周する円形の黒ずんだ痣は、枷の痕のようだ。
そしてなによりも、左頬につけられた、あまりに惨たらしい焼き印――。
「そのわっぱは、〈金貨〉じゃ」
両手に大きな籠を抱えたカッカトーランが息せき切って戻ってきた。天井から吊るされた薬草をぶちぶち引っこ抜きながら、書物の林を身軽によけて、寝台の側に跪く。
少年の口をこじ開け、舌の色味を診て、脈をとり、顔を曇らせた。
「生きているのが奇跡じゃな。体中から水分が抜けている」
サラードハザは、魔導師の顔を覗きこんだ。
『〈金貨〉というのはなんだ?』
「砂漠に捨てられた子供のことじゃ。親や親族が、捨てる子の手に金貨を握らせ、砂漠に置き去りにする。「誰かが金貨を代価にこの哀れな子を拾って育ててくれますように」。そんな残酷な願いをかけながらな」
淡々とした説明に、サラードハザはますます困惑した。
『なんだそれは。捨てる仔の手に、なぜ大金を握らせる?』
「子捨ては天に背く大罪じゃ。けれど、その罪は金貨一枚で贖われると言われているからじゃ。……正確には、砂漠に捨てられた子すべてを〈金貨〉と呼ぶわけではない。もともとは間引きの風習での、子供の多くは無人の砂漠に捨てられ、渇きに苦しみながらのたれ死ぬ。が、ごくまれに、旅人や隊商に出くわす者もいてな――風習として、金貨を握った子を見つけた者には、金貨を代価に子供を育てる義務が生じる。けれど、親が大金を投げ打ってまで捨てるような子じゃ、不吉ないわくを抱えているに違いないと、たいていの者は子供を奴隷商人に預けてしまう。子供は市に出品される前に、背や胸に、金貨と同じ図柄の焼き鏝を押される。つまり、その焼き印を持つ奴隷が〈金貨〉と呼ばれるのじゃ」
カッカトーランは翡翠色の瞳を、物陰に張りついたままの邪霊に向けた。
「そしてあれが多分、このわっぱのいわく」
「……み、ず」
少年が呻いた。
浅く速い呼吸をしながら、苦しげに眉間に皺を寄せている。
『助けてやれるか? カッカトーラン。これではあまりに哀れだ』
白布が壺の中から悲しげに訴える。
「脱水を治すには、水を与えるしかない。それでだめなら、もう手遅れじゃ」
サラードハザが冷淡と思うほどの淡泊さで答えたカッカトーランは、しかし、少年の頬の焼き印をそっと撫でると、祈るように囁いた。
「踏ん張れ、わっぱ。おぬし、死ぬには、あんまりに早いぞ」
水瓶の水を口に含み、少年の体に噴きつける。次いで、岩塩を乳鉢に入れ、すりこ木を使って砕く。水を垂らし、塩と混ぜ合わせたものをぐいっと呷って、カッカトーランは少年のひび割れた唇に己の唇を宛がい、口伝えに塩水を流しこんだ。
カッカトーランは指先で少年の乾いた喉を、鎖骨を、胸の中央をなぞる。誤嚥せぬように、魔力でもって水に正しき行先を示しているのだ。
こくり、と少年の喉が動いた。
「よし、飲んでくれた!」
ぱっと顔を明るくし、カッカトーランは身を起こした。
「あとは、これをひたすら繰りかえして様子を見る。内臓が干上がっていなければ、あるいは助かるやも……む?」
だが、そのときだった。目を見張る三人の前で、驚くべきことが起こったのは。
カッカトーランが喋るわずかな間に、少年の干からびた皮膚が急速に瑞々しさを取り戻しはじめたのである。
カッカトーランがぽかんと見守るうちに、木乃伊のような子供は、ごく普通の――というにはあまりに痩せ、惨たらしい傷が全身を覆ってはいたが、それでも普通と言える姿へと戻っていった。
『お、おお、なかなかやるではないか、ちんくしゃ魔導師!』
サラードハザは思わず感心し、
『すごいな。カッカトーラン、いつの間にこんな魔術を習得したんだ?』
白布は驚いた声をあげ、
「えっ? い、いや、まだなにも……ただ単に、塩水を飲ませただけで」
当のカッカトーランはもごもご言いながら、少年の手首に触れた。脈を診て、怪訝に眉を寄せる。
「不思議じゃ。もうなんともない。……驚いたのう。もしや〈邪霊の寵児〉であることと、なにか関係があるのか?」
『……ええい、なんだ、その〈邪霊の寵児〉というのは!』
また新しい言葉が出てきたのでサラードハザがげんなりすると、カッカトーランは床に積まれた書物から一冊を抜きだし、どんっと床に広げた。
まきあがる埃を手で払いながら、ある頁を開く。
そこには、無数の邪霊に圧しかかられ、地を這う人間の絵が描かれていた。
邪霊を招く体質の持ち主――邪霊の寵児。
細密画の側には、そんな短い説明書き。
『つまり、邪霊使いのようなものか?』
カッカトーランは首を横に振った。
「いいや、邪霊使いというのは、魔力を用いて邪霊を使役する異能者のことじゃ。わっぱは違う。このわっぱには、魔力はない。邪霊にしか分からん甘い体臭を放っていて、本人も知らぬうちに邪霊を招き寄せてしまうのじゃ」
そう説明して、カッカトーランは瞳を輝かせた。
「めったに現われぬ特異体質じゃぞ。症例が少なく、詳しいことはなんにも分かっていない。となれば、さっきの急速な回復も、〈邪霊の寵児〉と関係あるのやも……すごいのう、ぜひとも体を調べてみたいものじゃ」
サラードハザは、「起きたら聞いてみよう」と不穏に笑う魔導馬鹿と、細密画と、少年の満身創痍とを見比べた。
『……魔導師。さっきこの仔が〈金貨〉となったのは、邪霊が原因だろうと言ったな』
「うむ。あくまで想像じゃが」
サラードハザは魔導師をきっと睨みつけた。
『邪霊など、白布殿が息を吹きかければそれだけで散るような無害な者らだ。たかがそれしきのことで、こんな幼子を灼熱の砂漠に捨てたというのか。渇き死ぬと分かった上で、拾われても奴隷にさせられると知っていて……親が仔を捨てたと!?』
答えを待たず、白布の壺から寝台へと飛び移り、少年の耳元に座る。
『こんな世界、滅ぼしてしまえ――そう願いたくなるのも無理はない』
それは先ほど塔の屋上で聞いた台詞。
『我にも理解できる。この世界の人間どもときたら、背筋が震えるほどに醜悪な連中ばかりだ。人間は我を奴隷のように扱った。同じ人間であるはずのお前まで容赦なく虐げる。物のように捨てられ、奴隷とされ、イスカルダでは満身創痍にもかかわらず袋詰めにまでされた。さぞこの世が憎かろう。滅ぼしたくもなろう。……哀れな仔どもよ。その願い、我が叶えてやろうか』
壁に映るサラードハザの姿が、燭台の火に照らされ、むくむくと不気味に膨れ上がった。
カッカトーランは感心した様子でうなずいた。
「ほほう! サラードハザ、おぬし、この世界を滅ぼすほどの魔力があったのか!」
サラードハザはぴくりと眉尻を揺らし、おつむに花が生えたみたいな魔導師を睨んだ。
『できるか痴れ者! 弱る前からそのような超大な魔力などないわッ。もしも我にグァラ・グァーラ大公ほどの力があれば、誰に願われるよりも先に人間を誅殺してやるものを』
人の世に名を残した、〈呵呵の魔人グァラ・グァーラ〉。
吐息ひとつで世界を消滅させられるほどの力を持ち、魔人たちの間でも伝説的な存在として語られ、神聖視されている。
魔導師カッカトーランを愛し、人の世に留まった魔人。カッカトーランが、魔人にとってはあまりに短い生涯を終えたとき、彼は愛しい魔導師の亡骸を砂漠の果てに埋葬し、ともに二度と目覚めぬ眠りについたとされる。
それゆえに、サラードハザはグァラ・グァーラに会ったことはない。
だが、もしも自分に、グァラ・グァーラほどの強大な魔力があれば。
せめて、爪の先ほどの力でもあれば――自分は。
『だが、かつては豪腕殿も人を好ましく思っていたからこそ、召喚に応じたのだろう?』
白布の物静かな問いに、サラードハザはぐっと喉を詰まらせ、悄然とうなだれた。
『……騙されたのだ』
そんなサラードハザの様子を無言で見つめていたカッカトーランが、不意に姿勢を正し、深々と頭を下げてきた。
「〈豪腕の魔人サラードハザ〉。強引な手を使ったが、ここまで足を運んでくださったこと、深く感謝申しあげる」
『な、なんだ、だしぬけに』
カッカトーランは、少年を守るように寝台の側に座した白布の壺に目をやった。
「本当は、白布から話をすべきところじゃが……」
『私は邪霊が寄ってこないよう、この仔の側にいよう』
「というわけじゃ、サラードハザ。わしと一緒に来てくれないか?」
カッカトーランは手を差し伸べる。
サラードハザは苦い顔で白布に目をやり、白布の壺がうなずくように前傾になるのを見ると、渋々と魔導師の手の上に乗っかった。