小説(長編小説)金貨と魔人の爪先|第一幕 5



 その頃、石造りの塔の一室に、ごとりと固い音が響きわたった。
 雑然とした部屋だ。かび臭い古文書の山。絨毯の模様が分からなくなるほど積まれた魔導具の類。
 その中に、人ひとりが入りそうなほど大きな壺が置かれている。
『ああ、やっと帰ってきたか……』
 蓋の下から声が漏れ出でる。無骨な素焼きの壺には似つかわしからぬ美しい声だった。
『すっかり居眠りしてしまった。あの娘がいないと、退屈で仕方がない』
 壺はがたごと揺れ動くと、ぴょんぴょん跳ねて部屋を飛びだした。まるで、それ自体が生き物であるかのように、壷は螺旋階段を跳ね登って、塔の屋上へと出た。
 吹きつける暴力的な風。しかし、壺は揺るぎなくたたずむ。
「白布!」
 声が降ってきた。
 壺はくるくると歓喜のあまりに回転した。
 上空の亀裂からなにかが降ってくる。
 魔人だ。巨大な魔人が、邪霊の群れと絡み合いながら落ちてくる。
「白布、こやつらを追い払ってくれ! 邪霊じゃ!」
 白布と呼ばれた壺は、不思議な音で鳴いた。
 木鈴を振るったような軽やかな音が空気を震わせ、ただそれだけで、邪霊は魔人と娘の体から千切れるように離れていく。
『オノレ、魔人メ……ッ、オボエテイロ……ッ』
 奇声をあげながら空へと帰っていく邪霊。
 直後、両腕を広げたほどもある巨大な魔人が、どうっと屋上に降り立った。あまりの重量に、魔人の体がばりばりと音を立てて床を突き破る。
 しかし、壺はたじろぐことなく、ただ泰然とその場に鎮座しつづける。
『こんな涸れ谷になぜこんな塔が……聞いていないぞ、距離を見誤ったではないかッ』
 崩れた穴にすっぽりと半身を埋めた魔人が怒声を飛ばした。そして、ようやく目の前の壺に気づき、凶悪なひげ面を無防備に驚かせた。
『ようこそ。御身は豪腕殿に相違なかろうか? 招きに応じていただき感謝する』
 サラードハザは呆気にとられて壺を見つめ、なにかを言いかけ、また口を閉ざした。
『カッカトーラン、無事か?』
「む、むう」
 白布の問いに応じ、巨人の背からにょきりと褐色の腕が伸び上がった。よろよろと魔人の肩にしがみついた腕が、その先にある体をどうにか引きずり上げる。
 ずるりと肩から転げ落ちたカッカトーランは、鼻から地面にぶつかって呻いた。
 白布は魔導師の血と砂で汚れた体に、甘えるように壺の身を寄せた。
『帰りを待ちわびたぞ。本当に退屈だった。お前のせいだ。どう責任を取ってくれる?』
「うう、疲れた、白布。わしも会いたかった!」
 白布は、勢い良く抱きついてきた魔導師にくつくつと笑い、ふと体を傾けた。
『ところで、カッカトーラン。この人の仔はどうしたんだ?』
「おお、そうじゃった!」
 カッカトーランは慌てて顔を上げ、屋上に倒れ伏した木乃伊のような子供を抱き起こした。
「おい、聞こえるかわっぱ! 息をしてるか!?」
 問いかけに反応して、子供のひび割れた唇がぴくりと震えた。
「魔、人……」
 うわごとだ。意識は戻っていない。
 小さな声が途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「も……、願いを……叶え、て……なら……」
 魔人よ、魔人。
 もしも願いを叶えてくれるなら。
 少年が苦しげにそう呻いた瞬間――、


『こんな世界、滅ぼしてしまえ』


 その声は、少年の口から発せられたものではなかった。
 カッカトーランは目を見開き、子供から身を離す。
 子供の体の下に、ぼうっと影が浮かびあがる。
 屋上を覆い尽くす、巨大なそれは――魚の影。
 子供から這いだした魚影は、奈落にいっそうの深い闇を作ると、尾びれを返し、ふたたび子供の中へと消えていった。