小説(長編小説)金貨と魔人の爪先|第一幕 3



 陸地の大半を砂で覆われた、アブラズニア半島。煮えたつ太陽に支配された、生きるにはあまりに過酷なこの地では、〈渇きの百家〉と呼ばれる百の部族が、満々と水をたたえた天然湖〈水の甕〉を頼りに暮らしていた。
 時は、亡神暦五二六〇年。
 三百年という長きに渡って、アブラズニア半島に君臨しつづけたココリカタリヌ王朝が滅亡し、新たにバレンハク王朝が開かれて、十六年。
 ここは王都ハッサシェラバードから、駱駝の足で五か月の辺境。
 半島の南端にあるアンゴラドン砂漠の田舎町、イスカルダ。
 その、牢獄。


「こんの……っめちゃくちゃカッカああああ!」
 自警団団長アビドバダは、へし折る勢いで格子を掴み、憤怒の雄叫びをあげた。
「偽者カッカ、能なし魔導師、無神経な〈夜の民〉! 毎度毎度、イスカルダに来るたびに騒ぎを起こしよって! いいか、俺はなあ、俺は……新婚なんだぞー!」
 悲痛の嘆きを聞き、格子の内側で失礼にも耳穴に指を突っこんでいた囚人カッカトーランは、慌てて格子に近寄った。
「い、いや、団長殿の甘い夜を邪魔する気は毛頭ないのじゃが、今宵はあのその」
「黙れえ! あの魔除けのランプを作るのに、どれだけ苦労したと思っている。町の婆様が、枯れた脳みそを必死に呼び覚まして作り方を思い出し、町中の職人が夜鍋までしてこしらえたランプだ。それを、全部全部ぜーんぶ、きれいさっぱり消しよってからに……!」
「す、すまぬ。けど、ああも明るくされては魔人が来られんし」
「来られんようにランプを灯したんだ! 馬鹿か、お前は、馬鹿か!」
「い、いた、いたい、いたいいたたた!」
 ばっしばしと格子越しにカッカトーランの頭を叩いて、団長はげっそりとうなだれた。
「いったいなんなんだ。いきなり怪物が町に現れたと思えば、今度は呼びもしないお前が登場し、騒ぎを大きくする。しかもあの巨人が魔人様だって!?」
「呼ばれたぞ! イスカルダの民に魔人を捕まえてほしいと頼まれたのじゃ! それで、」
「嘘こけ! イスカルダの民が、〈夜の民〉になんか仕事を頼むものか! お前が出しゃばらなくても魔除けのランプで十分に対応できていたものを、また余計なことをしてくれたおかげで、壊れなくても良い家が壊れ、地面に大穴が開いた。どう責任を取る気だ、ええ!?」
「家を壊したり、地面に大穴堀ったりしたのは、わしじゃなくて魔人――」
「その魔人様を退けるためのランプは誰が消した!」
「それは、わし!」
 堂々と胸を張るカッカトーランの脳天に、団長は無言で数度目の鉄槌を叩きこんだ。
 今宵、イスカルダにたいそうな被害をもたらしたこの娘は、夜になるとどこからともなく現われ、民を相手に怪しげな商売をしては、夜明け前に姿を消す〈夜の民〉である。
 名をカッカトーラン。通称を〈偽者カッカ〉。
 不敬にも、伝説の魔導師カッカトーランの御名を名乗る、未熟者の魔導師だ。
 彼女が騙るカッカトーランの名は、今から千三百年前、アリアンダル朝アンムラヒ王の時代に名を馳せた魔導師のものだ。カッカトーランは〈呵呵の魔人グァラ・グァーラ〉を従え、王がもたらす残忍な治世から民を守ったとされ、「祖母と母の次に敬愛すべき女性」として、彼女に対する信仰心は、今も変わることなく受け継がれている。
 信仰心。そう、これはまぎれもない信仰だ。
 砂漠の男はみな、カッカトーランを心から崇拝している。――初恋の君として。
 おしめも取れぬ頃からカッカトーランのお伽話を聞かされてきた。星の数ほどもあるお伽話の中でも特に、カッカトーランと魔人グァラ・グァーラが出会い、心を通わせるまでを描いたお伽話〈魔人の爪先と千夜の接吻〉はいったい何億の少年の心を震わせてきたことか。
 魔人の爪先に、千夜の口づけを捧げる美しい魔導師。伏せた睫毛は涙に濡れ、唇は悲しみに震え……嗚呼、もしその爪先が自分のものだったらと、健全な男なら誰もが一度は、いや、二度、三度四度、夢見たことだろう。
「それを……それを……っ」
 内心の葛藤が憤りとなって口から溢れ、団長は堪えきれずに滂沱の涙を流した。
「男の浪漫を木端微塵に打ち砕きよって、この偽者カッカめえ!」
「わしだって、好きでカッカトーランって名前になったわけじゃないわい、うわーんっ」
「あのう……」
 控えの団員が仲裁すると、泣きながら喧嘩していた二人は同時に我に返った。
「のう、団長殿。本当に団長殿は、魔除けのランプだけで十分と思っていたのか?」
 カッカトーランに神妙に問われ、団長は心外なと鼻を鳴らす。
「ああ。言うまでもない!」
「では訊くが、今後はどうするつもりだったのじゃ。まさか一生、ランプで夜を退けるつもりだったわけではあるまい。ランプは一時魔人を追い払えても、魔人そのものを消せるわけではない。明るい夜は人の精神を壊すし、灯油代とて馬鹿にならないはずじゃ」
 痛いところを突かれて、団長は「それは」と言葉を詰まらせた。
「わしのしたことで、確かに町はちょこっと壊れた。けど、死人も怪我人も出てなかろう?」
 町のあの崩落ぶりを「ちょこっと」などと表現してほしくはないが、確かにあれだけの騒動だったわりに、死者は出ていない。怪我をしたのも、目の前の魔導師だけである。
「懸念の魔人もこの通り捕まえた。イスカルダの民が、魔人に怯えて眠れぬ夜を過ごすことはもうない。ほれ、万事解決ではないか! のう!?」
 よかったではないかーっと破顔するカッカトーランをじろりと睨み、しかしどうにも睨む眼に力が籠らず、団長は深々と溜め息をついた。
 悪い娘ではないのだ。〈夜の民〉にしては不気味なところがなく、民を相手に妙な呪具を売ることはあるが、医者すら嫌がる病人も厭わず診るし、当たらない恋占いは現実を見たくない娘たちに評判だ。明るい気性もあって、なんだかんだ彼女を好いている民は多い。
 だが、所詮は〈夜の民〉だ。団長はゆるみかけた心を引き締めなおした。
 ――秩序なき夜の世界を生きる〈夜の民〉。
 太陽と王が支配する昼の世界に背を向け、恐ろしい魔性が跋扈する夜を生きる時刻と定めた、異能を操る者たち。
 彼らの存在は、ただそこにあるだけで、〈昼の民〉を不安にさせる――。


 十六年前まで、砂漠を支配していたココリカタリヌ王朝は、〈夜の民〉の力、すなわち魔導によって栄えた王朝だった。
 国の中枢には〈嗤う三日月〉と呼ばれる魔導研究機関が置かれ、機関に属する〈夜の民〉には特権階級が与えられた。最初こそ、力なき〈昼の民〉の生活を豊かにするために機能していた機関だが、二百年の治世のうち、いつしか権力に溺れた〈夜の民〉は、力なき〈昼の民〉を軽んじるようになり、歴代の王らとともに過酷な圧政を敷くようになった。
 そのココリカタリヌ王朝を滅ぼしたのは、〈渇きの百家〉のひとつ、騎馬民族バレンハク族だ。
 バレンハク族は、ココリカタリヌ王朝にかわって「バレンハク王朝」を築くと、〈夜の民〉に頼らぬ国づくりをはじめた。〈嗤う三日月〉は廃止され、民を虐げた〈夜の民〉は処刑、もしくは投獄された。
 こうして砂漠には、粛清から逃げのびた〈嗤う三日月〉の残党と、機関に属していなかった〈夜の民〉ばかりとなり、今では〈夜の民〉と遭遇することはほとんどなくなった。
 だが、〈昼の民〉は、今でも「夜の民」と聞くと不安になる。
 いつか〈嗤う三日月〉の残党が、報復に乗りだし、この平和を壊してしまうのではないか、と。
 かつて、お伽話の中で憧れをもって語られた〈夜の民〉は、もはや敵。バレンハク王朝が支配するこの沙漠においては、無用な異分子なのだ。


 団長は手にしていた箱を牢に放り入れた。カッカトーランは中身を確かめ、ぱっと顔を明るくした。
「薬ではないか、団長殿! 優しいのう……っ」
「うるさい。……それで。万事解決と言うが、本当にこれで解決したのだろうな、〈夜の民〉。俺たちにはそもそも、なぜ魔人様がイスカルダを襲ったのかも分からないんだぞ」
「そうじゃろうのう。おぬしらときたら、巨人と魔人の区別もつかんぐらいじゃし」
『――巨人のような愚鈍な生物と我を見誤った、だと? 馬鹿にしよってッ』
 突然、カッカトーランの胸元から甲高い声が聞こえてきて、団長はぎょっとした。
「魔人様!? おま……まさか魔人様をそんな平たい胸の中に押しこんでいるのか!?」
「そ、そこそこはあるぞ、そこそこは!」
 そこそこもない魔導師の胸を無遠慮に眺め、団長は恐れながらも口を開いた。
「お許しください。イスカルダではこの十数年、魔人様をお見かけしなかったものですから。……しかしなぜ御身は、イスカルダを襲うような真似をなさったのでしょう」
『なぜ、だと? 呪われろ、人間どもッ。語るに堪えぬわ、醜悪な生き物めッ』
 団長は困り果て、助けを求めるようにカッカトーランに視線を送る。だが。
『貴様が何を知っているのか知らんが、無用な話をしたら、その喉笛千切り取ってくれるぞ、ちんくしゃ魔導師』
 口を開きかけていたカッカトーランは、ぱくりと口を閉じて、「うむ」とうなずいた。
「だそうじゃ。本人が嫌がるから、わしもなにも語らんが……」
 団長は納得いかずに身を乗りだすが、カッカトーランはそれを手で押し留める。
「町を壊したことは、本当にすまんかった。けど、魔人は夜の領分にあるものじゃ。おぬしら〈昼の民〉の手には余る。これ以降のことは、魔導師であるわしに任せてくれんかの?」
「……魔人様をどうする気だ。二度とイスカルダを襲わぬ保証はあるのか」
「保証しよう!」
『ふん、また何度でも襲いに来てやるッ』
 団長が恨めし気な視線を向けると、カッカトーランは明後日の方角を見てそれを流した。
「……分かった。俺も夜の世界に足を踏み入れるのはまっぴらごめんだ。だが壊した家の修理費は出してもらうぞ。そうだな、ざっと見積もって十万リスガルといったところか」
「え!」
 絶望の声をあげる魔導師の貧乏臭い装束を見下ろし、団長は嘆息する。
「それが無理なら考えろ。ほかにどうすればイスカルダの民の溜飲を下げられるかを」
 カッカトーランは「自分で考えるのか」と腕組みし、真剣な面持ちで団長を見上げた。
「便所掃除とか……」
「町を壊しておいて、便所ひとつで済ます気か、おい」
「あの、団長。私からひとつ提案が」
 団員に耳打ちされた団長は思案げにひげをしごき、魔導師に複雑な視線を送った。


 牢屋から出されたカッカトーランが、ナツメヤシが疎らに生えた中庭を抜け案内されたのは、団員のための雑魚寝部屋だった。
 入れと促がされ、足を踏み入れて、きょとんとする。
 色褪せた絨毯の上に、人間の子どもならすっぽり入る大きさの麻袋が転がっていた。
「一昨日、女連中が水汲みに出かけたときに拾ったものだ。これをなにも言わず、無報償で引き取ってほしい。依頼主は、我らイスカルダの民全員だ」
 麻袋の表面に、〈姿隠し〉と呼ばれる魔除けが施されているのが見える。
「見ての通り、夜の領域にあるものだ。これと魔人様、それからお前自身を持って姿を消してくれれば、それを賠償金がわりとしてやる」
「どっかの隊商の落し物か? 中身はなんじゃ」
 跪き、カッカトーランは麻袋に手を伸ばす。
「待て」という、団長の制止は間に合わなかった。指先が袋の表面に触れた刹那、どす黒い水が、袋を突き破って噴きだした。水は見る間に激流となり、カッカトーランの体を腕から呑みこんでいった。
 水の勢いに四肢が千切れそうになる。
 鼻腔、口腔いっぱいに広がる強烈な腐った味。
 喉が痛む。
 息ができない。
 ごぼりと口から息が漏れ、息苦しさに頭が白んだ。


(ゆるさない……)


 カッカトーランははっと目を見開く。
 丸めた眼の前を、巨大な魚の影が、尾を打ちながら横切っていき――、
「おい!」
 カッカトーランは夢から覚めたように我に返った。気づくと、団長が彼女の腕を力任せに掴み、麻袋から引き離すところだった。
「なにも言わずにと言ったはずだ。なにも言わずに、この麻袋を引き受けてほしい」
 カッカトーランは団長の顔をまじまじと見つめた。
「今の、見たか?」
 団長は怪訝そうに眉を寄せる。
 カッカトーランは己の腕と、麻袋を見比べた。
「……ううむ。どうも割に合わん予感がする」
「ほう。では、覚悟を決めていただきましょう、魔導師様」
 団長は恐ろしい微笑を浮かべ、丁重に腰を折った。
「我ら砂漠の自警団。渇きの民の誇りにかけて、ありとあらゆる手段を用い、武力行為すらも辞さずに、魔導師様の賠償金回収に尽力するといたしましょう」
 自警団は精鋭ぞろいの武力集団だ。残虐非道の野盗から町を守る、筋骨たくましい男たちである。カッカトーランはふらりと目を泳がせ、
「仕方ないのう。約束した手前じゃ。なにも言わず引き受けよう」
 なんで偉そうなんだと口を引きつらせる団長の肩を、カッカトーランは気楽に叩いた。
「これで無罪放免じゃな。また来るからな、団長殿!」
「もう来んな」