第一幕「偽者魔導師カッカトーラン」
ああ、喉が痛い。
容赦なく突き刺さる陽光に、体の末端から干上がっていく。
思考回路は役に立たず、どこへ向かっているのか、自分が誰なのかすら思い出せない。
絶望的な渇きが体をむしばみ、ただひたすら脳裏にひとつの言葉を弾きだす。
水が欲しい。水が、欲しい。ミズ、ガ、ホシイ。
(ならば我を求めよ)
少年は朦朧とした意識の奥に聞こえる声に惹かれて、目を開ける。気づけば熱い砂の上に横たわっていた少年の目の前には、チカリとまたたく藍色の小瓶が転がっていた。
水だ。瓶の中に、いかにも冷たそうな水が入っている。
(願え、乞うがいい。貪欲に)
少年は震える手で瓶を掴み、そして……。
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砂まじりの風が、砂漠の上空を絶えることなく流れていく。
夜空には、半月より少し丸みを帯びた月。雲はない。遮るものなく地表に降りそそぐ月光は、人口六百人の町イスカルダを静かに照らしだしていた。
じゃり、と裸足の爪先で砂礫を踏みしめ、娘は顔をあげた。
見上げた先には、夜の来客をぴしゃりと拒む閉ざされた門扉。
流麗な飾り文字で描かれた町の名は〈イスカルダ〉。
娘は軽く助走をつけて軽やかに跳ねあがり、壁を一、二度蹴って壁の上部に着地した。
「ほう、これはこれは……」
娘は眼下の町を見下ろし、その幼い顔を笑わせた。
町は深夜とは思えぬほど明るかった。あちこちにランプが灯され、まるで祭の夜のようだ。
にもかかわらず、通りは閑散とし、町全体に異様な静寂が横たわっている。
「なるほど、魔除けのランプか。〈昼の民〉にしては悪くない手じゃ。けどこれでは……」
娘は呟き、ふと視線を目抜き通りに向けた。
びんっと弦を爪弾く音。通りの一角に、琵琶を抱えた男が座っている。
ターバンの色は、赤。吟遊詩人だ。
娘は翡翠色の瞳を輝かせ、身の丈の八倍はあろう壁から、町の内部へと身を躍らせた。
詩人が、瓜型の胴体に張られた三本の弦を巧みに操る。
瀟洒な口ひげの下から紡ぎだされるのは、お伽話〈魔人の爪先と千夜の接吻〉の一節だ。
――千三百年前、砂漠はひとりの残酷な王アンムラヒによって支配されていた。王がもたらす治世は残忍きわまりないものだったが、百の部族〈渇きの百家〉に反旗を翻す気概のある者はなかった。
恐れたのだ。王を、ではなく、宮殿付き魔導師が、王の後ろ盾にと異界より召喚した魔人を。魔人の中の魔人と謳われる〈呵呵の魔人グァラ・グァーラ〉を。
ある日のこと。王が〈渇きの百家〉に命じて曰く「各々、ひと月のうちに、部族でもっとも見栄えのする処女を献上せよ。守れぬ部族は魔人の餌となれ」と。
百家は急ぎ準備を整え、美しい処女と山のような財宝を駱駝に乗せ、王都へ送りだした。
だが、〈渇きの百家〉のひとつ、へき地に住む部族タジ族は頭を抱えていた。村から王都までは、駿馬の足でも四月かかる。「ひと月のうちに」など、実現不可能な命令だったのだ。
そこでタジ族は知恵を求め、ハムンバール山に住む女魔導師カッカトーランを訪ねた。
心優しい魔導師は「ならば私がタジ族の処女を装い、王のもとへ参じましょう」と言い、庵の裏手にある胡桃の枝を取ってくると、見事な刀さばきで小さな木馬を彫りだした。
ふっと息を吹きかけると木馬はたちまち命を持ち、娘がまたがるやいなや勇んで岩山を下りていった。
さて宮殿では、先んじて到着した九十九人の姫とアンムラヒ王が賭けをしていた。
「卑しいタジ族は期日に間に合うのか、いったいどんな醜女を献上するのか」と。
すると約束の日、タジ族の処女が木馬に乗って現われた。
ひと目その姿を見た王は、九十九人の美姫などすっかり忘れ、その姿に見惚れた。
ああ、なんと美しい娘。夜露に濡れた黒髪、とろけんばかりの飴色の肌、憂いを帯びた翡翠の瞳、不安に震えるか細い肩。
王はさっそく娘を褥に引き入れたが、これに憤慨したのは寝所より叩きだされた九十九人の姫である。
姫らは宮殿付き魔導師を唆し、扉越しに嘯かせて曰く「王よ。魔人が娘を所望しております。怒りを買う前に、娘を贄となさいませんと」と。
王といえども、魔人の要求には逆らえない。
かくして王は渋面ながら、娘を魔人の居塔に送りこむのだった。
その夜、カッカトーランは恐るべき魔人グァラ・グァーラと対面した。
しかしどうしたわけか、偉大なる魔人の両足首は鎖によって地面につなぎとめられていた。
「おお、美しき魔人様。どうしてあなた様は鎖に囚われておいでなのでしょう」
問えば、魔人はこう答える。
『騙されたのだ。我は魔導師の召喚に応じ、異界より参じた。だが、王が「醜い魔人は鎖につないでおけ」と命じると、我が友たる魔導師は躊躇いもなくそのようにした』
「御身の魔力をもってすれば、人間の魔導師がこしらえた鎖など簡単に打ち砕けましょう」
『鎖は砕ける。だが砕けたとて、友に鎖でつなぎとめられた我が心は癒えはせぬ』
カッカトーランは悲しみに涙し、魔人の白き爪先に、許しを乞う口づけを捧げた。
その夜から、カッカトーランは献身的に魔人に尽くした。荒れ放題の部屋を整え、汚れきった魔人の体を柔布で拭い、そして眠りにつく前には、必ずその爪先に口づけを贈った。
魔人の憂いは深く、冷え切った心は解ける気配を見せなかったが、百夜、また百夜と、親愛の口づけを受けるうち、魔人の眼には少しずつ情愛の火が灯っていった。
そして一千夜が過ぎた新月の晩、魔人はついに鎖を自ら打ち砕くと、ひれ伏す魔導師を抱き寄せ、耳元に、こう囁きかけるのだった。
『願うがいい、魔導師よ。どんな望みも叶えてやろう。
乞うがいい、カッカトーラン。
すべての夜を集めた夜に、我が爪先に恋をした娘よ。
これよりお前を我が主とし、いまひとたび人間に、心よりの信頼を捧げるとしよう』と――。
詩人の歌声は素晴らしかった。深みのある声は情熱的な琵琶の旋律と交わり、夜の静寂を華やがせる。
だが詩人の前に客はいない。詩人は通りに落ちた自らの影を相手どり、あたかも百万の聴衆を前にしたかのような情熱をもって、声を響かせるのみだ。
「寂しいのう。こんな見事な歌声に、ひとりの客も集まらぬとは」
突然聞こえてきた声に、詩人は琵琶を奏でる手を止めた。
見ると少し離れた民家の陰に、小柄な人影が立っている。
詩人はにこやかに頭を下げた。
「こんばんは。良い晩ですね」
「ふむ、実に。風の心地よい夜じゃの」
返ってきたのは、やたらと元気の良い、そのくせ妙に年寄りめいた言葉だった。
声の柔らかさから察するに若い娘のようだ。断言できないのは、顔や体型が、外套の役目も兼ねたキャバルという頭飾りによって、すっぽり隠されてしまっているからである。
「しかし、今宵のイスカルダは明るすぎる。せっかくの優しい夜が台無しじゃ」
娘の視線につられ、詩人は頭上に灯されたランプを見上げた。
太陽の図案が透かし彫りされたランプで、詩人の柄のない衣服の上に、美しい光の華を咲かせている。
「ええ。それにこの張り詰めた空気……実に気になりますな」
詩人の来訪にはふたつの意味がある。
ひとつは、人々に娯楽を与えるため。いまひとつは新しく生まれくるお伽話の種を探すため。
詩人が来たのに観客がいないなら、つまりは後者。
今宵この町で、詩人が目をつけるほどのなにかが起こるということだ。
「そういえばご存じですか。ここ数年、イスカルダに妙な魔導師が出没するという噂」
詩人の問いに、娘は「はて」と首をかしげた。
「まだ年若い娘といいます。褐色の肌に、翡翠の瞳。ゆるやかに波打つ髪は夜風のごとく黒く、頭にかぶったキャバルもまた黒。額には、夜を照らす満月に似た黄金の額飾り……」
娘は翡翠色の瞳を輝かせ、小さな体を覆う漆黒のキャバルを楽しげに見下ろした。
「つづきは知っているぞ。その娘、なんとも不届きなことに、かの伝説の魔導師カッカトーランと同じ名を名乗っているとか」
「偽者カッカ。そう呼ばれているそうですな」
「どちらかというと、めちゃくちゃカッカと呼ばれる方が多いけどな」
娘はくつくつと笑って、ふっと夜空を見上げた。
「さて、そろそろほどよい時間のようじゃ。隠れておれ、詩人よ」
詩人の答えを待たず、娘は踵を返して、無数の光の華が踊る道の中央に立った。
背負った鞘から、身の丈ほどもある黄金の槍を引き抜き、穂先を筆がわりに、砂地に絵を描く。
迷いのない線で描かれたのは、目。爛々と見開かれた、一つ目の絵である。
「血を循環する魔力は夜に目覚め、爪先より出で、黄金を媒体に発現する」
唇から零れる呪文に呼応し、目玉が黄金色に輝いた。
娘は裸足の爪先で、目玉の黒目部分をさっと消すと、目の縁どりのみとなったそこに一本の横線を引いた。
まるで先ほどまで開いていた目が、今、まさに閉じたかのように――、
「眠れ、昼」
直後、都に灯った幾百ものランプから、一斉に火が消えた。