都が闇に呑まれると同時に、家の奥で息をひそめていた人々は悲鳴をあげた。
普段ならばとうに寝ている時刻だったが、人々は眠ってなどいなかった。
――巨人が、来るのだ。
八日前の深夜、町に、謎の巨人が現れた。巨人は夜の間、好き勝手に町を闊歩すると、日の出とともに姿を消した。ほっとしたのも束の間、翌日の夜もやってきて、以来、五日に渡って傍若無人にふるまい、人々はすっかり恐怖に震えあがっていたのだ。
「闇の眷属なら魔除けのランプが効くかもしれないよ」
長寿婆の知恵を信じ、ランプを作って灯したのは昨晩のこと。功を奏したのか、昨夜はついに巨人が現れることはなかった。
これでようやく安眠できる。そう思って迎えた今宵、頼みのランプがなぜか消えてしまった。
人々は仰天して窓から顔を出し、通りに人が立っているのを見つけて、ぎょっとした。
「おい、そこのお前さん、早く逃げるんだよ。巨人がやって来るぞ!」
親切な老人の言葉をかき消すように、一陣の風が通りを吹き抜けていった。風はその人物がかぶっていた黒いキャバルを荒々しくなびかせ、隠れていた顔を露わにする。
年若い娘だ。褐色の肌に、アーモンド形の大きな翡翠色の瞳。風になびく髪は濡れたような黒。額には、鎖で吊るした黄金の真円飾り。
人々は一斉に、絶望した。
「に、偽者カッカー!」
人々の合唱を聞いて、娘、カッカトーランはにぃっと無邪気に笑った。
「いかにもわしじゃ、イスカルダの皆々方!」
カッカトーランは右手に掴んだ黄金槍を、右方に薙ぎ払った。
「巻きこまれたくなければ、窓を閉めておとなしくしておれ。今宵はちと荒れるぞ!」
言い終わるよりも早く、町にずしんと重たい音が轟いた。視線を巡らせると、東の方角に、天を突かんばかりの巨大な人影が立ち上がるところだった。
厚い鋼の胸板、盛りあがった鼻、豊かなひげを蓄えた口、そして、目の洞で煮えたぎる憎悪の炎。
ひとりの悲鳴を皮切りに、人々は錯乱状態に陥った。巨人が歩くたびに地鳴りがし、「ひぇえ!」だの「ぎょあ!」だの、普段の生活ではそう聞かない類の悲鳴があがる。
「落ち着け、ここはわしに任せるのじゃ!」
カッカトーランが勇ましく吠えると、人々がどうっと泣いた。
「頼む、なにもしないでくれ偽者カッカ! あんたが手を出すとろくなことにならねぇ!」
「そうだ、ここは自警団に任せておとなしく去れ! 騒ぎを大きくするな!」
「魔人よ、魔人様! どうか我らをお助けくだせぇ……!」
降りそそぐ懇願の中から「魔人」という言葉を拾い、カッカトーランは眉を持ち上げた。
「今、そこにいるのが、その「魔人様」なのじゃがの」
カッカトーランはふっと膝を沈めて空高く跳躍した。
狂乱する窓辺の人々を尻目に、露店の布張りのひさしで反動をつけ、さらに家の屋上へと飛びうつる。
平らな屋根に立って見ると、巨人は筋肉から憤怒の蒸気を上げ、ある屋敷へと身を屈めるところだった。
「偉大なる魔人よ。御身を〈豪腕の魔人サラードハザ〉とお見受けする!」
魔導師の言葉が不思議な反響を得て、空気を震わせた。
窓越しに声を聞いた人々は、「ま、魔人様?」「お伽話に出てくるあの魔人様?」と顔を困惑に引きつらせる。
「おぬしに暴れるに足る理由があるのは承知の上。が、先に話を聞いてくれんか!」
魔人はちらりと横目でカッカトーランを観察すると、ぷいっと顔をそらし、足元の屋敷の屋根を丸めた指で弾いた。屋根は弩弓を受けたように吹っ飛び、悲鳴があがる。
「聞く耳を持たぬか。仕方ない。――鉄を火にくべ、叩いて鍛えるは鎖」
呪文を耳ざとく聞きつけ、人々が「やめてくれーっ」と叫んだ。
「夜の覇者すら捕らえうる、金剛よりなお堅き戒め」
カッカトーランは勢いよく槍を投げ飛ばした。
槍は回転しながら空を切り裂き、魔人のぐるりを一周、二周すると、再びカッカトーランの手に戻ってきた。
「鎖せ」
最後の呪文が囁かれた直後、槍の飛んだ軌跡が紅蓮に輝き、一条の鎖となった。
赤く輝く鎖は魔人の胴体を両腕ごと縛り上げ――そこに至って、魔人はついに魔導師を無視することをやめた。
『そこのちんくしゃな魔導師。魔人を鎖で縛り上げるとはいい度胸だ……』
低い、地の底を這うような低音が魔人の口から絞りだされる。空気が震えるとともに、全身の皮膚が粟立ち、カッカトーランは本能的に歯の根を震わせながら、勇んで笑った。
「束縛しようというのではないぞ。ちと、こちらに来てもらいたいだけじゃ」
『貴様がこちらへ来ればよかろうッ』
「おぬしの巨体なら、イスカルダなど五歩でまたぎ越せようが、わしがそっちまで走るとなると数分はかかるのでな。その間に、わしの客の家がすっかり破壊されそうじゃ」
『客、だと?』
魔人はいじくっていた屋敷を見下ろし、怒りに燃える眼で魔導師を睨んだ。
魔人の睨みは、激しい衝撃波となって、カッカトーランに襲いかかる。だが、カッカトーランが槍を振るうと、穂先から迸った黄金色の光が、襲い来る衝撃波を霧散させた。
と、魔人が鎖の巻きついた胴体をぐんっと力強くひねった。
鞭のようにしなった鎖が、その先にある槍ごとカッカトーランを空中に引き上げる。魔人はさらに腰を振るい、魔導師をそこらの壁に叩きつけた。
「……っ」
壁から地面に落下したカッカトーランは、背中に走る激痛にうめきながら、根性で手放さなかった槍を支えによろめき立った。
「い、たた……。女子にも手加減なしか。公平公平。……じゃが」
槍から伸びる鎖は、いまだ魔人の胴体に巻きついている。
カッカトーランは、黒い瞳を安堵に細めた。
「――まだ狂ってはおらんかった。ぎりぎりで間に合ったようじゃ、白布」
「おい、めちゃくちゃカッカ! また巨人……い、いや、魔人様が!」
民の言葉にとっさに槍を掲げるが、紙一重で間に合わず、魔人の衝撃波がもろにカッカトーランを直撃した。通りにどっと砂柱が上がり、人々が悲鳴をあげて逃げ去っていった。
「大丈夫ですか、偽者カッカ様」
地面に突っ伏したまま、砂埃に咳き込んでいると、すぐ側の路地に身を隠していた詩人が声をかけてきた。
カッカトーランは、力なく笑った。
「今宵のことをお伽話にするなら、今のはなかったことにしてくれんかのう、詩人よ」
「今の場面があった方が、偽者魔導師カッカトーランの痛快劇としては、数段面白いですよ。――あの巨人、かの名高き魔人〈豪腕の魔人サラードハザ〉なのですか?」
カッカトーランは立ち上がり、額から流れる血を甲で拭ってぺろりと舐める。
「そうじゃ。その豪腕、ひとふるいで大地をも切り裂くと言われる、伝説の魔人じゃ。……〈昼の民〉は日頃、散々、魔人のお伽話を聞いているくせ、いざ本物を前にすると、ほかの魔性との区別すらつけられんのじゃから、困ったものじゃ」
カッカトーランは詩人に懐から取りだした銅貨を一枚放った。
「詩人よ、一曲買おう。こう戦意がぐわーっと湧く曲を頼む」
詩人は笑み、答えるかわりに琵琶の胴を叩き、早い調子の旋律を奏ではじめた。
騎馬民族バレンハク族が、新年や結婚式などの吉事に奏でる曲〈我が勇ましき愛馬〉だ。
「さて、そろそろお伽話を締めるとするか」
見上げると、魔人はもはやこちらに注意もくれていない。
それを油断ととるほど生易しい相手ではないが――。
カッカトーランは槍を両肩に担ぎ、静かに舞いを舞いはじめた。
「砂に眠る一億夜、この夜に目覚めよ。今宵、闇を喰らう月は半分に欠け、光は半身、眠りに落ちた。ゆえに半弦の闇は我に作用し、我は半弦の闇の力をここに借りん」
動きに合わせ、キャバルが重たげに翻り、娘の周囲に風が巻き起こる。
「東、西、南、北、あらかじめ蒔かれた種は囚われの網となるべく蔦を成す」
軽やかに舞う娘の褐色の爪先が、砂に不可思議な紋様を描きだしていく。
翼を広げた鳥、鳥を捕まえんと枝葉を伸ばす蔦、絡めとられてもがく鳥……爪先が砂を撫でるたび、軌跡が淡い金色に輝く。
魔導師の血に宿る「魔力」と、砂漠に夜ごと降り積もる自然界の力「夜の力」を結びつけることにより、強大な魔術の発動を可能とした、必勝の魔法〈砂の魔術〉だ。
カッカトーランは輝く砂の上を舞い、流れの最後に槍の石突きを地に突き立てた。
「芽吹け」
直後、イスカルダを囲う四方の砂漠から、幾筋もの光が迸った。
『まだ懲りぬか、魔導師……ッ』
気づいた魔人が三度、目を赤く光らせた。
だが、それだけだった。先ほどのように衝撃波は放たれず、当の魔人が訝しげにする。
四方から迸った無数の光の帯は、魔人の頭上で格子状に絡み合い、巨大な網の天蓋を形成した。魔人が顔を上げた直後、光の帯の根元がぷつんと切れ、巨大網が落下する。
立ち尽くす魔人に覆いかぶさった網は、もがく魔人をくるりと包みこみ、内へ内へと縮小をはじめた。それと一緒に、魔人の巨体も見る間に縮んでいく。
「そうれ!」
カッカトーランは、掛け声とともに、槍をぐっと後ろに引いた。
網に封じられた魔人は、釣られた魚よろしく引っ張られ、空を一直線に飛んでくる。
その姿はもはや片手で掴めるほど小さく、カッカトーランはひょいと跳びあがると、小さな魔人を両手に掴みとった。
「捕まえたぞ、サラードハザ!」
『な……、な、な、な……ッ』
カッカトーランはにっと笑い、網の中の小さな魔人は唇をわななかせた。
『我をこのような姿に……なんたる侮辱、なんたる屈辱ッ。――おい、それはなんだ』
カッカトーランの懐から小箱が出てくるのを見ると、魔人はさっと目の色を変えた。
『嫌だ……やめろ、魔導師、また貴様らは我を裏切るのか……ッ』
悲痛な叫びを聞き、カッカトーランはふと真摯な眼差しになって魔人に囁いた。
「怖がるな、わしはおぬしを助けに来たのじゃ」
『助け……? あッ』
動きを止めた魔人を、網ごと箱に閉じこめて蓋を閉じる。魔人が喚くのも無視し、さっと懐にしまったところで、カッカーランはようやくの息をついた。
「やれやれ。これで一段落……ん?」
ふっと顔を上げると、周りに人だかりが出来上がっていた。
「おお安心しろ、イスカルダの民よ。魔人はもう捕まえ……て、どうした、怖い顔して」
砂埃をかぶった男たちは、額のど真ん中に怒りの青筋を浮かべて微笑んだ。
「さて、どうしたんですかねえ、めちゃくちゃカッカ様?」
ぽきり、と拳を鳴らす音が、イスカルダの町に虚しく反響した。