小説(長編小説)金貨と魔人の爪先|第二幕 2


 扉が開いた途端、塔の中に強風が吹きこんできた。
 サラードハザはすがめた目に映った風景に息を飲む。
 右手には、切り立った断崖。垂直な壁には階段が穿たれている。下へ、下へと伸びる石段の先は、完全な闇に呑まれ、見えない。
「この階段は谷底までつづいている。今いる塔は〈門番塔〉という名じゃ」
 門番塔。奇妙な名の由来を考えながら、サラードハザは魔導師の手の上で恍惚となった。
 素晴らしい渓谷だ。おおんと啼く風は、人間には化け物の呻きにでも聞こえるだろうが、魔人にはまどろみを誘う子守唄に聞こえる。感嘆の声も出ないほどの心地いい闇だ。
「永遠の夜。地上が太陽の光に包まれようと、この奈落の闇が明けることはない。さすがに朝になればちょっとは明るくなるけどな。魔人にとっては居心地がよかろう」
 サラードハザは手のひらから身を乗りだして、階段の先の闇をしかと見据える。
 谷底にはなにがあるのか。そう問おうとしたところで、カッカトーランが口を開いた。
「おぬしは百年前、〈嗤う三日月〉によって召喚され、器に封じられた。そうじゃな?」
 サラードハザは開きかけた口を閉じ、吹き荒れる風を見つめた。
 ふと、二人を囲む景色が揺らぎ、渓谷とはまったく関係のない風景が現れた。
 どこか、立派な都の夜景だ。
 焦げ臭く、熱い空気。美しい都は、大火に呑まれている。
 傍らを人々が悲鳴をあげて駆け去っていった。
 足がもつれて転倒した女が、恐怖の眼で逃げてきたばかりの方角を見やった。
 そこに立っているのは、幾人もの巨大な魔人。
「百年前、ココリカタリヌ王朝スィガ王の時代、王は王朝に反意を持つドフ族を根絶やしにせんと魔人を集落に送りこもうとした。じゃが、魔導師に召喚させた魔人たちは、その命を拒んだ上で、王を「魔人を便利な道具などと思うな」と叱責した。怒った王は〈嗤う三日月〉に命じ、魔人を力づくで器に封じさせた。――忌まわしき魔道具〈願望の魔器〉」
 カッカトーランは魔人たちに目を向けた。
 魔人は大木ほどもある腕を振るって家々を薙ぎ払い、落下してきた瓦礫に潰された人々を見下ろしては、眼から滂沱の涙を流した。
「〈願望の魔器〉は、魔人の意思とは無関係に、蓋を開けた者を絶対的な主人とみなし、服従を強いられる。器の蓋は内側からは決して開かず、主人が願いを口にしたときだけ器から解放される。叶えるべき願いは三つ。三つ叶えるまでは、自由にはなれない。そうして多くの魔人が殺戮兵器として使われた。嘆く心だけはそのままに」
 魔人たちの涙に濡れた眼が、宮殿を囲う城壁を睨み据える。
 城壁の上部に設けられた見張り台には、四角い面紗で顔を覆った人物が立っていた。
 熱風に揺れる面紗には、一つ目がにやりと笑ったような三日月が描かれている。
 王立魔導研究機関〈嗤う三日月〉に属す〈夜の民〉がまとう魔装束である。
『……我は、〈嗤う三日月〉の魔導師に召喚されるとすぐに箱に封じられた。そして、それきりだった。百年間、蓋を開ける者は現れず、我が豪腕をもってしても、内から蓋を開けることは叶わず、ただ、外から聞こえる同胞の慟哭ばかりを聞きつづけた』
 歯を食いしばり、サラードハザは己の腕をぐっと掴んだ。
『我は願いつづけた。蓋よ、開けと。同胞を苦しめ、我を箱に封じた魔導師を、懲らしめてくれると。だがどうだ、ついに蓋が開かれ外に出てみれば、ココリカタリヌ王朝はすでに滅亡していた。我を封じた魔導師も……あれから百年だ、生きているわけがないッ』
 魔人の目は怒りに燃え、煮えたぎった憎悪が体から湯気となって噴出する。
『この怒りを誰にぶつければ良い!? イスカルダのあの男は、蓋を開けてこう願ったぞ。金が欲しい、とな。……ゆるせぬ、ゆるせぬッ。そのような下らぬ願いを叶えてやるために、我は百年もの間、箱に封じられてきたというのか。同胞の嘆きを聞きながら、誰も救えぬ我が手を呪い、百年も……なにが〈豪腕の魔人サラードハザ〉だッ』
 サラードハザは憎らしげに、悲しげに、魔導師を睨みつけた。
『なぜ我を止めた、魔導師。あの男を殺してやりたかった。イスカルダごと滅ぼしてやりたかった。憎むべき相手を失った我の無念が、貴様に分かるか……ッ』
 すでに燃えさかる都はどこにもなく、景色は、元の風吹く渓谷に戻っていた。
「わしと白布は、おぬしがそうすることを案じていた。イスカルダを木端微塵に破壊して、あの男を殺してしまうじゃろうと。百年のうちに、心を狂気に蝕まれ、もはや何者の声も聞くことはないと。……じゃがおぬしは、ぎりぎりのところで心を失わずにいてくれた」
 カッカトーランは魔人を地面に下ろし、サラードハザの前にひれ伏した。
「心から感謝申しあげる。偉大なる魔人。おぬしは躊躇ってくれた。イスカルダ程度なら楽々壊滅させられる力があったのに、あの男の屋敷の屋根を吹っ飛ばすに留めてくれた」
『力が足りなかっただけだ。長年、封じられていた体はろくに動きもしなかった。貴様に容易く捕まるほど、我は無害な生き物と成り果てた……ッ』
「それでも感謝する。……イスカルダの民は根が優しくてな。〈夜の民〉であるわしが怖いくせに、めちゃくちゃカッカなんて愛のある名で呼んでくれる。町を襲ったおぬしのことだって「魔人様」と様付けじゃ。純朴で可愛らしい人たちなのじゃ」
『力が、足りなかっただけだ……』
 悲しげにもう一度繰りかえし、サラードハザは悄然と頭を垂れた。
『だがそれももうどうでもよい。我の魔導師は、我を裏切り、死んだ。我はもう、故郷に帰れぬのであろう? 魔導師』
 苦しげに問う。カッカトーランの肩が震えた。
「……そうじゃ。魔人は、魔導師が描いた〈召喚陣〉を消すことで、異界に帰ることができる。仮に消さなくとも、召喚主たる魔導師が死ねば、魔人の体は強制的に異界へと引き戻される。が、万が一、魔人が〈願望の魔器〉に封じられているうちに魔導師が死ねば、魔道具にかけられた魔術が鎖となり、おぬしたちを異界へと引き戻す強制力が働かなくなる。そしてそれきりこちらに取り残され、二度と異界には戻れない」
 サラードハザはくしゃりと顔を歪めた。
『助けるとはこういうことか、魔導師。この身が朽ちるまで、我の故郷に似たこの永遠の夜の中で、せいぜい心安らかに暮らせとそういうことか』
「――違う!」
 勢い良く顔を上げるカッカトーランに驚き、サラードハザはその場で飛び上がった。
「おぬしは、必ず異界に帰す」
 凛と響く決意の声。サラードハザは目を見開く。
「実は白布とともにずっとその術を探っているのじゃ。未熟で、まだ見つけてはいないが」
 カッカトーランは宝石のように輝く翡翠の瞳を、サラードハザに向けた。
「時間はかかる。幾万夜か、幾億夜か。それでもわしは必ず、おぬしを異界に帰す術を見つけだす。だからそれまで、この奈落で待っていてほしいのじゃ」
 サラードハザは言葉を失い、理解できずに眉間に皺を寄せた。
 それを見て、カッカトーランは神妙さをかなぐり捨て、サラードハザに詰め寄った。
「あああ居心地のよさは保証するぞ! そうじゃ、毎晩、珈琲を淹れよう。おぬし、なんかのお伽話で珈琲が好きだとか語られていたから。あ、あと、人間の美姫が好みなのであったか? 今からどっか行って、魔人好きな娘を見繕ってくる!」
『……なぜ、貴様が。今宵会ったばかりだ。なぜそこまで……』
 カッカトーランは、ぱあっと顔を綻ばせた。
「昔、白布に願われたのでな」
『願われた?』
「そうじゃ。封じられたままの我が同胞たちを助けてほしい、と」
 魔導師のあまりに嬉しそうな表情に、サラードハザはたじろぐ。
『嬉しいのか。魔人に願われて』
「嬉しい! 白布がわしに願いごとをしたのじゃ。なにがなんでも叶えたい。そりゃ、わしができることなんて魔人よりもはるかに少ないが、白布のためならどんなことだって!」
『白布殿の願いを、なぜそこまでして叶えたがる』
 低く訊ねると、カッカトーランはきょとんとした。
「好きだからじゃ」
『好き、だと?』
 身を震わせ、サラードハザは左顔面を引きつらせた。
「それでは理由にならんか? 大切なひとの願いは、叶えたくなるものではないか?」
 カッカトーランはぐっふっふっと楽しくて仕方ないといった笑い声を零した。
「わしは、白布の喜ぶ顔が好きじゃ。……っ思い出すだけでもにやにやしてしまう!」
『……白布殿には、ほとんど魔力がない』
 それは最初に白布を見たときに気づいたことだった。
 白布にはほとんど「ない」と表現しても差し支えないほど、ささやかな魔力しかなかった。「魔人」と呼称するのもはばかられるような――身に宿した魔力の大小だけを見れば、いっそ目の前の魔導師の方がよほど優れて見えるほど、小さく、弱い魔人だったのだ。
『お前の願いを叶えるほどの力はないぞ。人間たちは、己のあくなき欲望を叶える道具としてしか、我らを見ていないはずだ。お前もそうだろう、魔導師。だが白布殿には、貴様の欲望を叶える力など――』
「側にいてくれる」
 カッカトーランはあっさりと答えた。
「眠れぬ夜には、傍らに添い、寝物語を聞かせてくれる。あの美しい声で」
『それだけか』
「そんなにもじゃ」
 カッカトーランは笑った。
「故郷に帰ることもなく、ずっとわしの側にいてくれるのじゃぞ? あの美しい魔人が」
 カッカトーランは満足げに息をついて、上空の亀裂に見える蒼い星々を見上げた。
「でも、白布が願いを叶えてくれるから、わしもその礼に願いを叶えようってわけではないぞ。ただ、白布が愛しいのじゃ。愛しいから、白布が喜ぶことをしたい。それだけの話じゃ」
 サラードハザはどうしようもなく切ない気持ちになった。
 その感覚を、サラードハザは知っている。彼もまた、かつては人間に対して純然たる友情を抱いていた。ただ会いたくて、魔導師の召喚に応じた。紅茶や珈琲を飲み、クッキーをかじりながら、他愛もない話をした。
 そんな素晴らしいひとときが、確かに彼にもあったのだ。
「だから、わしは白布の願いを叶えたい。白布を喜ばせたい。もちろん、〈嗤う三日月〉が作りだした悪しき魔道具を葬り去りたい気持ちもあるが……それでずっと〈願望の魔器〉を探し、各地を彷徨っている。実は助けた魔人は、おぬしで六人目でな」
『そうか。六人……六人!?』
 いきなりとんでもない暴露をされて、サラードハザは仰天した。
「五人の魔人たちは、この階段の先で好き勝手に暮らしているぞ。近頃は東方の囲碁とかいう遊びにはまっているらしい。たまに誘われるが、負けっぱなしで、借金まみれじゃ」
 サラードハザは愕然と同胞がいるという闇を見つめる。
 その闇は、故郷を失った魔人をそっと優しく迎え入れるように穏やかに見えて――豪腕の魔人は目を伏せた。
『我の魔導師は……〈嗤う三日月〉はともに酒を呑もうと言って我を召喚した。馴染みの魔導師であった。よく下らぬ遊びをした。箱に封じるときも新しい遊びを思いついた、と』
 サラードハザは先の言葉を呑みこみ、カッカトーランを真っ直ぐに見つめた。
『我は貴様になにかを願うほど親しくはない。もちろん今後も親しくなるつもりはないから、一生なにかを願うこともない。……だが、約束しろ。貴様は、決して白布殿を裏切るな』
 カッカトーランはしっかりとうなずいた。
『……ふん。人間ごときが、魔人の願いを叶えるだと? ハッ』
 サラードハザは文句を垂れ、いきなりカッカトーランの額に飛び蹴りを喰らわせた。
「う、ち、ちっこいわりに……なかなかの蹴りじゃ」
 サラードハザは軽やかに地面に着地し、腕組みしてふんぞりかえった。
『そら。その魔人どもの元へとっとと案内しろ、このちんくしゃッ』

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 少年は、熱に揺らぐ砂漠を歩いていた。
 思考を根こそぎ奪う暑さだ。
 日差しをさえぎる樹木は一本もなく、あるのは煮えたぎる砂だけ。
 顔の皮膚はただれ、すでに噴きだす汗もなく、喉は息を吸うだけで焼けつくように痛む。
 動物の骨を見かけるたび、立ち止まった。身に迫った死を察し、握りしめた金貨を袖で磨く。
 金貨が太陽よりも強くまたたけば、きっと誰かが見つけてくれると信じて。
 ――馬鹿みたいだ。
 目を閉じ、閉じていた目をまた開くと、熱い砂漠が視界から消え、漆黒の闇が広がった。
 少年は、闇の中に横たわっていた。
 いや、闇ではない、水底だ。
 暗いのに、呼吸をするたび吐きだされる細かな泡が、踊りながら昇っていくのが鮮明に見えた。
『馬鹿な金貨』
 少年は朦朧とする意識を声の方に向けた。
 しかし闇があまりに濃く、水は体に絡みつくようにどろどろと濁り、何者の姿も見えない。
『金貨など磨いてどうする。どうせ、お前のような醜い化け物を拾う者などいはしない』
 少年は悲しみに顔を歪める。
 けれど、本当のことだとも思った。だって――。
『だってお前は醜い。忘れたわけではないだろう。あの晩、お前がなにを願ったのかを』
 すぐ耳元で声がした。
『みんなみんな、死んでしまえ』
 直後、少年の体はどんっという衝撃とともに、さらに深い闇へと突き落とされた。
『ああ、なんて醜い願い! 願いは叶った、望みは叶った。……ざまあみろ!』
 底なしの闇に落ちながら、少年は驚愕のあまりに口から水泡を吐きだした。
『金貨、次はなにを願う! 人殺しの後は、どんな醜い望みを乞う!?』
 眼前に紅蓮に燃える一対の眼。
 真円の形をした眼球が、少年を至近距離から睨みつける。
『恥じることはない。願え、乞うがいい。無様なほど貪欲に! みんなみんな死ねばいいとお前は願った。だったら、みんなみんな生きている者を殺し尽くそうか。お前を化け物と侮る者たちも、すべてすべて、すべて!』
 目の前の闇にひそんだ誰かが狂気を剥きだしに叫んだ。
『いっそ、こんな世界など滅ぼしてしまえぇぇえええ!』
 強烈な悪意が濁流となって押し寄せてきて――


 ――少年は悲鳴をあげながら覚醒した。
 見覚えのない、幾何学模様の天井。周囲に垂れ下がった薄い紗幕。体の下に敷かれたたくさんのクッション。ああ、埋もれる。溺れる。溺れる!
 額になにかが触れた。
 つんざくような悲鳴をあげて、それを死に物狂いに跳ねのける。
『怯えることはない。人の仔よ』
 思いがけず穏やかで、柔らかな声が少年の思考を止めた。
 その隙をついたようにひんやりとした手が額に触れた。
 心地いい、その感触。
 呆然と見上げると、傍らに、眩しいほどに真っ白な姿をした人が座っていた。
「だ、れ」
 喉の奥が渇ききっていた。張りついた皮が千切れたような痛みを放ち、むせかえる。
『私に名はない。お前の爪先に名がないのと同じこと。必要ならば――そう、白布と』
 意味が分からない。だが悪夢に溺れかけていた少年はその名に必死ですがった。
「白布……白布――」
 真っ白な姿は輪郭がはっきりとしなかった。顔立ちも分からなければ、体格すら分からない。
 けれど、美しかった。
 顔も姿も少しも見えないというのに、はっきりと分かった。
 ああ、なんて美しい魔人――。
『眠るがいい。まだ明け方まで間がある。今は目覚めずともよい』
「いやだ、こわい、こわいんだ……っ眠りたくない!」
 ふたたび恐怖に襲われて、白布にしがみついた。
 白布は弱った獣の仔を労わるように、身を屈め、優しく囁いた。
『恐ろしいことなどない。今宵は、私が側にいる』
 少年の目に涙が滲む。
 ふっと意識が遠のいた。
 持ち上げていた頭が落ちるのを、真っ白な手が優しく受け止めるのを感じながら、少年はふたたび眠りの底に落ちていった。