小説(長編小説)金貨と魔人の爪先|第五幕 2



 たっぷり一時間を椰子の影で過ごしてから、騒ぎを起こした東門とは真逆にある西門に向かった。西門でも検問が行われていたが、顔を隠して検問に臨んだカッカトーランとダブゥは、拍子抜けするほどあっさり門を通されることとなった。
「こりゃあ……監視をつけられたかもしれんな」
 門をくぐり抜けながら、カッカトーランは周囲を見渡す。
「監視?」
「タージャ・ミラルカじゃ。あれだけの騒ぎを起こしたというのに、あっさり検問を通された。通れたというよりは、招き入れられたと考えるべきじゃろうなあ」
 ああ、とダブゥは苦い顔で、いやいやする駱駝の手綱を引っ張った。
「いや、多分、俺がいたからだろ。俺とハージブは、ずっとタージャの奴の監視下にある。スカルトーガを出ていくことに警戒はされても、入ってくる分には「どうぞどうぞ」ってことなんだろうよ」
 カッカトーランは首を傾げるが、詳しい話はあとで聞けるだろう。まずは、ハージブと金貨と合流するために、合流場所であるというダマテラ区の隊商宿を目指さなければ。
 西門を抜けた先は、三階建ての絢爛豪華な建物が並ぶ繁華街となっていた。椰子の木が涼しげな木陰をつくり、木陰の下を幅広の水路が通されている。
 人っ子ひとりいないハモド渓谷の闇の中で生活をしているカッカトーランには、久しぶりに目にする大都会の仰々しさに、おお、と目を輝かせた。
「久しぶりのスカルトーガじゃ! でっかすぎて目がちかちかするぞ! それに、相変わらずの活気……でもないかの?」
 門前の繁華街だというのに、あまり活気があるとは言えなかった。
 人通りはあるし、楽しげな店も軒を並べているのだが、誰もが暗い顔をして、むっつりと押し黙っている。
 次いで、通り沿いの水路に目をやったカッカトーランはきょとんとした。
 水路には水辺に張りだす形で露台が設けられているが、普段なら足を浸して世間話に興じる人々の姿が見当たらなかった。
 というよりも水が流れていなかった。
「水門が閉じているのか? 掃除でもする予定なのか。――む」
 どこからか喧騒が耳に飛びこんできた。
 声のする方に顔を向けると、水路の対岸側で、数人の男たちがもめているのが見えた。
「うちの区から水を盗もうなんざ、ふざけやがって! そんなに喉が渇いたなら、ちゃんと税金を納めりゃいいだろう!」
「そうだ! いったい俺たちがどんなに苦労して水税を納めてると思ってるんだ!」
 男のひとりが洗濯物干し用棹を振りあげ、地面に転げた男の体に容赦なく打ちつける。男はうめきながらも、水の入った壺を両腕でしっかと庇った。
「勘弁してくれ、両親が病気なんだ。このままじゃ、病で死ぬ前に、渇きで死んじまう!」
「……病気だあ? 先日、てめえの親を広場で見かけたが、陽気に歌い踊ってたぞ馬鹿野郎が! この……っ屑め!」
「や、やめてくれ、割れちまうよ!」
 棒が振られるたびに乾いた砂が虚空を舞い、金色に光る。通りを歩いていた住民とおぼしき人々は顔をしかめて背を向け、カッカトーランと同様、都入りをしたばかりと見える旅人たちは目を真ん丸にして足を止めた。
「あれはなんの騒ぎじゃ? ダブゥよ」
 ダブゥは怯えた目で周囲を警戒しながら、わたわたと手を振った。
「珍しい光景じゃねえよ。スカルトーガじゃ日常茶飯事だ。それより、早くダマテラ区に行こうぜ。あんまり人の多いところでじっとしてたくねえ。追手に見つかっちまう」
「ふむ……」
 カッカトーランは後ろ髪を引かれながら、物々しい雰囲気の繁華街を後にした。


 ダマテラ区は、古くから隊商宿が並ぶ地区として知られている。
 だが、区の路地に立ってみると、隊商も騎馬の姿もなく、繁華街よりもさらに殺伐とした静寂に覆われていた。
 目を引くのは、道の隅に座る、痩せ細った人々だ。
 目が合うと、震えた手で皿を持ち上げてくる。物乞いだろう。
「これはいったい、どういうことじゃ……」
 カッカトーランが、以前、スカルトーガに来たのはずいぶんと前になる。記憶にあるダマテラ区は、旅人が笑いながら行きかう賑やかな地区だった。
 少なくとも、物乞いが寄る辺なく座りこむような一帯ではなかったはずだ。
 さすがに後回しにしきれず、カッカトーランは物乞いの前に膝をついた。
「必要なのは、金銭か? 食糧か?」
「み……水……」
「水か。分かった。どこかで買ってくる」
 物乞いは濁った目を上げ、信じられないといった様子でカッカトーランを凝視した。
「おい、門外市場を見たか?」
 そのとき、カッカトーランの背後を、舌打ちまじりに男たちが通りすぎていく。
「こっちは真面目に税金を払ってるってのに、連中、税も払わず、壁の外に天幕で簡易宿を作ってやがる。隊商はみんなあっちに行ってるぞ!」
「馬鹿馬鹿しい。税の増額だなんて……俺たちも払うのやめちまおうぜ!」
「駄目だって。ああはなりたくねえだろ?」
 ちらりと座りこむ物乞いに目をやって、男たちは入り組んだ路地の奥へと消えていく。
 と、左手の路地の先で、ダブゥが「おおい」と声をあげるのが聞こえた。
「俺の相棒、この隊商宿に部屋をとったらしいぜ。あんたの連れは部屋で寝てるってさ」
 袋小路に開いた馬蹄型のアーチの前に、ダブゥと、偏屈そうな顔をした老人とが立っている。
 宿の主人らしき老人は、カッカトーランの前に座る人々に気づくと、嘆息した。
「放っておきな。どうせ明日には死んでる。そしたら、別の連中がそこに座ってるよ」
 カッカトーランは立ちあがり、宿の前まで向かう。
「だが、今日ならまだ助かる。代金は払うから、水と、あと食べ物もやってくれ」
 老人は「物好きだな」とカッカトーランを怪訝に見上げ、肩をすくめた。
「分かった。やっとくよ。……おい、あんたの相棒は隣の浴場だ。あんたも行って、垢を擦り落としてこい」
 老人にぎろりと睨まれたダブゥは、「なんでだよ!」と顔をしかめた。
「そんな体臭ぷんぷんまき散らされちゃ客が逃げちまうんだよ。嬢ちゃんはついて来な」
 カッカトーランはさっさとアーチの奥に引っこむ老人についていく。
 ダブゥは「なんだと! 馬鹿にしやがって!」としばらく抗議の声をあげていたが、振りかえったときには、踊るような足取りで浴場のある方に向かっていく姿が見えた。
 本心では久々の風呂が嬉しかったのだろう。
 宿に入ると獣や飼葉の匂いがした。隊商の騎馬をつなぐ騎馬舎から漂ってくるものだ。部屋の扉の前まで案内されたところで、老人が手を差し出した。
「泊まるんだろ? 宿代が四人で八百リスガル、それから浴場の代金が一千リスガル、さっきの奴らへの水代と食事代を合わせて、二千リスガルだ」
 カッカトーランはまじまじと老人を見やった。
 馬鹿みたいに、法外な値段である。
「ご、ご老人、冗談が下手じゃのう。なんじゃ、その浴場の代金。庶民の日々の楽しみじゃぞ!」
「ああ? なんだ、俺より爺臭い口調だな、あんた」
 老人はふんと鼻を鳴らした。
「外から来た連中はみんなそう言うが、ここじゃ普通の値段だ。嫌なら砂漠で寝るこった」
 カッカトーランが鼻白んだ様子なのを見て、老人は面倒そうに舌打ちする。
「知らねぇのか。ふた月前、領主が水に税金をかけやがったんだ。それもたいそうな額のな。地区ごとに税を払えなきゃ、容赦なく水門を閉ざされちまう。おかげで水が値上がりし、ありとあらゆる物価が高騰してやがる。商売あがったりだよ」
「ああ、門外でもそんな話を聞いたのう。じゃあ、さっきの座りこんでいた者たちは……」
「ヒョド区の連中だ。貧しい区だからな、税を納められずに真っ先に水門を閉ざされ、渇きに耐えかねた連中が、ああしてほかの地区まで出てくるのさ」
 ということは、西門の繁華街も税金を払えずに、水路を閉ざされたということなのか。
 だが、都の玄関口である地区まで水門を閉ざされるとは、尋常ではない。
「あんたの同情も分かるさ。かわいそうな連中だよ。渇きの苦しみは、砂漠に生きる者ならだれもが知っている」
 老人は強面を歪め、投げやりに言う。
「だがな、宿代も、水代も、食事代も、みんな値上がりしたせいで、隊商がダマテラ区まで入ってこねえ。みんな、門の外に作られた簡易宿に泊まりやがる。稼ぎがねぇから、この区もすぐ税を払えなくなる。助けてやりたくてもできねぇのさ」
「領主は、なぜ増税なんかを?」
「さあな。水路を補修する金が必要だとか言っていたが……どうでもいい」
 吐き捨てて、老人はぶっきらぼうに部屋の鍵をカッカトーランに押しつけてきた。
「あんた、旅のもんならスカルトーガには長居しないこったな。こりゃ、近々、暴動がおこるぞ……」
 カッカトーランは仕方なく言い値を支払って、部屋の鍵を受けとった。


 部屋は寝台が四つ置かれただけの簡単な部屋だった。
 窓は開いているが、獣の匂いと熱気とが充満し、床には蠅の死骸や鼠の小さな糞が転がっている。
 カッカトーランは、寝台のひとつに金貨が横たわっているのを見つけ、胸をなでおろした。
 寝息が聞こえる。どうやら本当に眠っているだけのようだ。
 そうっと寝台に腰を下ろすが、よほど疲れていたのか、起きる気配がない。
「昼にここまで深く寝入ってしまうなんて、なんだか魔人みたいじゃのう」
 思いのほか、あどけない寝顔だ。
 金貨は、カッカトーランと白布の前では決して眠ろうとしないから、思えばちゃんと寝顔を見るのがこれが初めてである。
 目を覚ましているときには、大人びた、荒んだ顔をしているが、寝顔ばかりは子供らしい。
「今朝は、お母上のことも嬉しそうに語っていたな」
 どういう経緯で捨てられたのかは分からないが、金貨にもほかの子と同じ、母のお伽話を聞いて眠りについたという温かな思い出があるとしたら、嬉しいことだった。
「それに、あのちょびっとばかりの笑顔! 白布に見せたかったのう」
 カッカトーランはにまにまし、にまにまし、にまにましてからガクリと肩を落とした。
「白布、無事にスカルトーガに来れるといいのじゃが。白布に会えないなんて、わし、もうどうやって生きていけばいいか……っ」
 めそめそしながら、金貨の癖のある黒褐色の髪を撫でる。
 だが、その手はすぐに止まった。
 金貨の固く閉じた目尻から、つい、と一筋の涙が零れ落ちたのだ。
 カッカトーランは、金貨の焼き印のある頬から、涙を拭いとる。
「……どうして泣くのじゃ、金貨。話してくれねば、なにもできないではないか」
 囁きかけたそのとき、くっと服の腹のあたりを引っ張られる感触がした。
 見下ろすと、眠ったままの金貨が手を伸ばし、カッカトーランの服を掴んでいた。
 まるで、助けを求めるかのように――。
 カッカトーランは目を伏せる。
 脳裏によぎったのは、片時たりとも忘れたことのない光景だった。

 そうだ、忘れたことなどない。
 古代の王たちの墓廟に描いた、あの召喚陣も。
 陣の中心から溢れだした、神々しいまでの青い光も。
 感嘆、恐れ、悲しみ、戦き……感情の渦に呑まれ、我知らずひれ伏し、額を打ちつけた石床の冷たさも。
『なぜ泣く、娘?』
 これ以上なく優しい、あの問いかけも。


「……わしは話したぞ、金貨」
 カッカトーランは金貨の痩せ細った手に触れる。
「話し、そして得た。わしのような化け物には叶えられるべくもなかった幸福を――」

+++

 汚れきったターバンを、丹念に湯で洗い流したダブゥは、鮮やかさを取り戻した見事な青を誇らしげに見つめた。
「うひょー、この青こそタジの誇りよ!」
 濡れすぼった黒髪を振るい、裸の上半身を固い麻布でぐいぐいと磨く。
 垢とも泥ともつかぬ赤黒い水が、どんどんとタイル貼りの床を流れ、排水溝に抜けて行った。
「いやあ、まさか湯を浴びられるなんてな。宿の主人にゃあ腹が立つけど、人の金で浴びる湯水の心地良さときたら……ったまんねぇ!」
「その心地良い湯水のおかげで、わしの財布はすっからかんじゃがの」
「お。いいねえ。すっからか……イヤーッ!?」
 年頃の乙女な悲鳴をあげ、ダブゥはとっさに自慢のターバンで股間を覆い隠した。
「な、ななな、男湯でなにしてんだよ、あんた! てか、いつからいたのー!」
「さっきじゃ。くそう、わしも入りたかったのに……しかし本当にきったないのう!」
「仕方ねぇだろ! 五日も虜囚の塔に閉じこめられた上、今日までずっと汚ぇ路地を駆けずり回って、糞溜めやら、排水溝やらの陰で仮眠とって、ほんっともう……」
「虜囚の塔? おぬしら前科者か」
「違……っていうか、いつまで覗き見してるんだよ!」
 カッカトーランは床の濡れていない場所に座り、片膝をたてて頬杖をついた。
「よいではないかよいではないか、ほかに客もいないことじゃし。それに早いところ話をしたい。わしもそろそろ眠気が限界でな」
「そろそろって、まだ真昼……」
「〈夜の民〉だからですよ。我々とは生活の時間帯が違うのです」
 ダブゥの隣でなにを隠すでもなく堂々と裸体を晒しているもうひとりが、苛立ったように溜め息をつく。
 目や鼻、眉はすべて、一本線で描けそうなほど単純な顔立ちの男だ。
 男は水気を絞ったターバンで股座を隠し、カッカトーランを食い入るように見つめる。
 品定めされているとはっきり分かる、恐ろしい目つきだ。
「ご挨拶が遅れました。私の名はハージブ・ダロ。ブゥードル・ダロの息子。詩人に乞い、貴女をお呼びしたのは私です。遠路はるばるお越しいただき、感謝申しあげます」
「わしのことはカッカトーランか、カッカでいいぞ」
「失礼ですが、本名ですか?」
 ざっくりと聞かれ、カッカトーランはがっくりと肩を落とし、「本名じゃ」と答えた。
「そうですか……では、カッカトーランと。あの〈金貨〉の名前はなんと言うのです?」
 金貨の話題を出され、カッカトーランは首をかしげた。
「名前はちと事情があってな、わしはそのまま金貨と呼んでいるが……」
「貴女がお買いになった〈金貨〉ですか」
「いや。便宜上、わしが主人ってことになっているけど、買ったわけではない」
「頬に焼き印とは、ずいぶん珍しいですね」
「……そうじゃのう。普通は、背や胸に印をつける」
 それはカッカトーランも門番塔で最初に金貨を見たときに思ったことだった。
 奴隷商人は奴隷に鏝を当てるとき、苦痛の少ない背や胸などを選ぶ。
 商人たちとて悪人ではない。商売として成り立つからこそ、〈金貨〉を売買しているにすぎない。過度な苦痛を与えることは、端から発想のうちにないだろう。
 だが、金貨の焼き印は、頬。
 人目につく上、皮膚の薄い頬では激痛を伴ったはずだ。
 奴隷商人が大切な商品をそんなぞんざいに扱うとは思えず、ずっと違和感を覚えていた。
(金貨は、一般的な〈金貨〉とはずいぶん様子が違う)
 しかしなぜ、ハージブがそれを気に留めるのだろう。
「いえ、不躾な質問をしました。……お願いしたい件についてでしたね」
 ハージブは誤魔化すように言って、先をつづけた。
「単刀直入に申しあげます。貴女には、領主の宝を盗んだ咎により、虜囚の塔に囚われている、我らが族長バサド・アルハキカを救いだしていただきたいのです」