「な、なにをするんですか、それは大切な売り物で……!」
城門の手前に伸びる検問の列。その最後尾に並んだところで、悲鳴のような金切り声が聞こえてきた。
見ると、数人の兵士が商人の駱駝から荷を丸々奪いとり、どこかへ運び去ってゆくところだった。
「盗品なんかじゃありません、煉瓦の都ベルフェデの工芸品だ、ただの香水瓶ですよ!」
「は、口ではどうとでも言える! いいから持っていけ!」
「そんな……底面を見てください、ちゃんと契約工房の印が押されて……!」
「ええい、うるさい!」
炎天下、長時間並びつづけている旅人たちは苛立ってざわめき、場の雰囲気に呑まれた家畜たちが興奮した鼻息をあげる。
カッカトーランは足踏みする駱駝の腹を撫でながら、「ふむ」と顎に手をあてがった。
「領主の宝物庫からひとだけ盗まれたとかいう宝は、あれに似た感じのものなのか。高価な香水瓶……古代王朝の稀少な硝子工芸……それとも宝玉が嵌められてでもいたか?」
言いながら、周囲の騒々しさに顔をしかめる。
「しかしこれじゃあ、いつになったら都に入れるのか……む?」
ふいにその背に重たいものがぶつかってきた。カッカトーランは目をまたたかせ、背後を振りかえる。
「金貨?」
金貨は、カッカトーランの背に額を預けて、ずるずると膝から崩れ落ちる。とっさに体を支えると、カッカトーランの上衣を握りしめたまま、地面に額づくように深くうつむいた。
「どうした、気分悪いか? 気持ち悪いか」
かぶせたキャバルの下を覗きこんだカッカトーランは瞳を見開く。
「おぬし、泣いて――」
そのときだった。
カッカトーランの体内を巡る魔力を秘めた血が、己のものとは異なる魔力を感知し、煮えたった。
息を詰めて周囲に視線を走らせたカッカトーランは、城壁の上部歩廊に、奇妙な人影を見る。
召使のさしかけた日傘の下に立つ、長身の人影。薄くたっぷりとした布を頭からかぶり、砂漠の風に美しい裾飾りが揺れている。
顔は、見えない。
薄紫色の面紗をおろし、わずかばかりの皮膚すら布の内に隠している。
だが、分かる。あの人物がカッカトーランを見ていることが。
「おい、なんだあれ……」
不意に、周囲で声があがった。
カッカトーランはとっさに上空を見上げ、それを見つける。
鳥。眩しさに細めた目が、一瞬、そう見まごう。
「ありゃ……なんだ?」
「ええ? 鳥じゃないのか」
「いや――あれは……まさかこんな真昼に」
「よ、夜の怪物だあ!」
誰かひとりが悲鳴をあげた途端、またたく間に恐怖が伝染していった。列を作っていた人々は荷物も放りだして逃げだし、ただカッカトーランだけが金貨を抱いたままその場に留まる。
夜の怪物――間違いない、その通りだ。
上空を旋回しているのは、駱駝ほどもある翼を持った竜。だが、その翼は無残にやぶれ、顔面や体躯の皮は真っ黒に焼けこげ、筋肉組織が剥きだしになっている。
目は、紅蓮。首と足、翼の先端についた前肢からは、途中で切断された三条の鎖がむなしく垂れ下がっている。
「邪霊、しかも〈鎖付き〉。ということは、あやつは邪霊使い――」
カッカトーランは目を細め、城壁の上の〈夜の民〉を見やった。
邪霊使い。それは、邪霊を己の支配下に置き、自由自在に使役する〈夜の民〉のことだ。本来、邪霊は夜にしか行動ができないが、魔力で編んだ鎖で縛ることで、太陽の下でも強制的に活動させることができるのだ。
「スカルトーガに〈夜の民〉がいるとはのう。さて、狙いはなにか」
金貨の顔を覗きこむと、その目は固く閉じられていた。どうやら眠っているようだ、脈は穏やかで、瞼は夢を見ているかのように震えている。
カッカトーランは金貨を肩に担ぎ、落ちつかなげに鼻を鳴らす駱駝の手綱から手を離して、背から黄金槍を引き抜いた。くるりと槍を回転させ、竜の動きを目で追った直後、竜が滑空を開始した。
翼を畳み、体を錐のように回転させながら超高速で落ちてくる竜の目は、カッカトーランを真っ直ぐに睨み据えている。
「よく手懐けられている。ここまで太陽を嫌がらぬ邪霊も珍しい」
カッカトーランは竜を迎えうつべく槍を構え、迫りくる竜の睨みを真っ向から受け止めた。
だが――。
『ア……ァア……ッ』
竜が苦悶のうめきを上げた。あと一秒足らずでカッカトーランを喰らえるという距離まで迫ったところで、突然、その身を強引にひねって魔導師の真横をすり抜けた。
一瞬のすれ違い。
紅蓮の目が見つめた先には、金貨。
カッカトーランは、背後へと飛び去り、ふたたび上空に舞いあがった竜を目で追って、槍の構えをといた。
一瞬きょとんとするが、すぐに「そうか」と納得する。
金貨は、邪霊たちが無条件で心惹かれる〈邪霊の寵児〉。
邪霊使いに支配された〈鎖付き〉であろうとも、〈邪霊の寵児〉を傷つけることまではできないようだ。
「なんじゃ拍子抜けじゃのう、邪霊使い」
カッカトーランはにししと笑いながら、城壁の上に立つ邪霊使いを振りかえった。
果たしてその挑発が聞こえたのか、邪霊使いがふいに右手を高々と掲げ、指をぱちんと鳴らした。
「――もっと縛られたいの? いけない子」
力ある声とともに、竜の体に巻きついた三条の鎖が、その体躯をきつく締めあげる。
竜が吼える。眼窩に熾火のように揺れていた紅蓮の光が、激しく燃えあがる。両翼が大きく広げられ、はるか上空で振るわれたそれが、一瞬にして、地上に巨大な竜巻を発生させた。
「……っ」
眼前に見えていた城門が、巻きあがった砂塵によって掻き消される。とっさに金貨を抱きしめた瞬間、叩きつけるような強風が体を殴打し、そして――。
両足が浮きあがる。まずいと思う間もなかった。強烈な風圧、耳は轟音に潰れ、皮膚には砂礫が突き刺さる。体が千切れとびそうな衝撃に襲われ、意識が飛びそうになり……ふいに、そのすべてが途絶える。
青い。
視界いっぱいに広がるのは、空だ。
カッカトーランは、抱きかかえた金貨と、勇敢にも逃げずにとどまった二頭の駱駝とともに、真っ青な空の中いた。
「ちょ……っこれは――卑怯じゃ!」
竜巻によって上空まで運ばれ、そして弾きだされたらしい肉体は、いまだ天頂めがけて上昇を続けていた。
だが、すでにその速度は落ちかけていた。上昇の頂点に到達したとき、二人も、二頭の駱駝も、重力に引っ張られて地上へ落ちはじめるだろう。それも容赦のない速度で。
事実、体がゆるやかに地上に引っ張られはじめた。カッカトーランはぐっと歯を食いしばり、体をよじって地上に向きなおると、右手に掴んだ黄金槍を眼下めがけて投擲した。
「砂塵は形を持たぬ……っ、如何様にも姿を変え、人の夢想を自在に具現化する!」
頭を下に落下する体。詠唱の声は風圧に歪む。急速に接近する砂の大地。槍は地面に突き刺さり、呪文に反応して黄金色の波紋を砂地に広げる。
「現われ出でよ、砂塵の拳骨……!」
直後、途方もなく巨大な拳が、砂の中から出現した。
砂でできた拳だ。拳は五本の指をぐわりと広げると、落下してきた二人をその手のひらに受け止めた。
追突の衝撃は、柔らかな砂によって相殺され、カッカトーランと金貨は手のひらの上に転げる。
「た、助かった……ぎりじゃぞ、ぎり……」
心臓がばくばくしている。無茶な魔術行使のせいで、体中の血管が悲鳴をあげていた。
「お前たちも無事か、……ぅあ!?」
駱駝の無事を確認しようと身を起こしたカッカトーランは、興奮に足踏みする駱駝の背から、固定綱から外れた白布の壺が転げ落ちるのに気づいた。
「うぎゃあああああ!」
悲鳴をあげるカッカトーラン。駆けだそうとした瞬間、砂の手がざらざらと崩れだし、カッカトーランと金貨、二頭の駱駝は、残りわずかな高さから地上へと落下する。
ぼすっと砂漠に落ちたカッカトーランは慌てて身を起こして、壺の行方を方々に探した。
そして、見つける。
ほんのわずか向こう、木端微塵に割れた壺から溢れる、白い靄を。
「あ、ああ……なんてことを……」
呆然とするうちに、白い靄――白布は風に溶けてその姿を消した。
「白布……」
力なく膝をついたそのとき、誰かが名を呼ぶ声が聞こえた。
ぼうっと顔を上げ、ぼけえっと辺りを見渡す。
人気のまるで失せた城壁の向こうから砂煙が近づいてくる。よく見ると、砂塵の中に、貧民窟の住民もかくやというほど汚れきった男が二人、こちらに向かって走ってくる。
否、二人だけではない、背後からさらに別の男が五人ほど、「待てこの野郎!」と追ってきていた。
「今のわけわかんねー魔術、あんた偽者魔導師様だろ!? カッカトーラン様だよな!」
二人の男のうち背の低い方が叫んだ。カッカトーランは男二人のターバンに目を留め、それが目も醒めるような青色であることを確認し、「あ」と口を開けた。
「おぬしら、わしを呼んだタジ族――」
「駱駝を返していただきますよ!」
長身の男の方が脇をすり抜け、見事な体さばきで駱駝の瘤に飛び乗り、二頭を連結する綱を短刀で切った。駱駝は不満げに足を踏み鳴らしたが、巧みな手綱さばきにすぐに大人しくなる。背の低い男も素早くもう一頭に飛び乗り、
「あんたらも乗れ! ぶっ殺される、早く!」
カッカトーランはとっさに意識のない金貨を抱えあげ、長身の男の方に預けた。
男の目が、ずり落ちたキャバルの下から覗いた〈金貨〉の焼き印に気づく。だが、彼はなにも言わずに金貨を懐に抱いて手綱を振るった。
カッカトーランは黄金槍を地面から引き抜き、もう一頭に飛び乗って、男の背にしがみつく。同時に駱駝が勢い良く駆けだした。
「ダブゥ、二手に!」
カッカトーランの乗る駱駝が、城門を離れる方角へと鼻面を向けた。
もう一度、背後の砂地を振りかえると、割れた白布の壺が巻き起こる砂煙の先に消えていくところだった。
「な、なんだったんだ……」
「今のは……いったい」
城門から遠く、椰子の木陰に隠れて騒動を見守っていた人々は、呆然自失の状態で呟いた。
そして、城門の上部歩廊に立つタージャは、駱駝に乗って去っていった〈夜の民〉の姿を見つめていた。
「今のは逃がしたタジ族ですね、タージャ様」
竜巻で吹っ飛んだ日傘の行方を目で追いながら、召使が唖然とした口調で呟く。
タージャはしばらく黙ったままでいたが、やがて低い声で答えた。
「……ええ。どうやらタジ族は〈夜の民〉を頼ったようね。それにしても……」
見渡した門前に、竜と魔導師による魔導合戦の痕跡はすでにない。ただ、多少ばかりうねった砂地があるだけだ。
「とんでもない化け物が来たものだこと……」
ひっそりと呟き、タージャは手にした獣の頭蓋骨を見つめる。竜はふたたび黒い靄に返し、すでに頭蓋骨の中へと戻してあった。
「なぜ邪霊はあたしの命令に背いたのか……どうやら、もう少し探る必要がありそうね」
タージャは頭蓋骨を薄布の内にしまい、今度は別の獣の頭蓋骨をとりだした。
「可愛いあたしの邪霊。あの娘を追い、どこの〈夜の民〉なのかを探りなさい。それからあの少年を監視すること。手は出さなくていいわ」
頭蓋骨からあふれ出た黒い靄は、やがて大型の犬の姿を形作る。
焦げてただれた体に巻きついた鎖をじゃらりと鳴らしながら、犬は燦々と太陽の照りつける歩廊の上をひどく苦しげに這いずり、胸壁の隙間から飛び下りた。