スカルトーガ周辺は、東西南北見渡す限りの砂の海だ。昼には、砂地でパンが焼けるほどに気温が上昇し、夜には凍えるほどの寒さが襲ってくる。
そんな過酷の砂漠を越えてきた人々を迎えるのは、都から引かれた水路の水で育った椰子の森である。
「旅の疲れに、トマトと鶏肉の煮物をどうだい。滋養たっぷり岩鬼の肝が入っているぞ!」
「城門の外と内とじゃ値段が違うんですよ。ここで買っておいて損はないと思いますがね」
椰子の下では、凄まじい数の露店が、木陰を奪い合うようにひしめいていた。
喧嘩腰の客引きの声。金属の鍋が鳴らされ、チャルメラが高々と吹き鳴らされる。音、音、音。圧倒的な音の渦が、旅人を否応なくスカルトーガの熱気に巻きこんでいく。
しかしカッカトーランは露店を覗くのもそこそこに、駱駝を近くの木陰まで連れていった。
尻を叩くと、二頭の駱駝は前肢を折って器用に砂地に身を伏せる。
鞍にまたがっていた金貨が駱駝から下りようとする。足がぐらつき、危うく落下しかけた金貨を抱き留め、カッカトーランは少年を椰子に寄りかからせた。
水筒を手渡すと、金貨は朦朧としながら首を横に振った。
「渇いて……ない」
手指や爪先を確認し、カッカトーランは難しい顔をする。
「確かに、「干からび」を起こしかけているわけではないようじゃが……具合が悪いわけではないのか? 気持ち悪くはないか」
「……ただ、眠、い……だけ」
金貨はうめくように呟いた。
早朝、珍しく素直な様子を見せていた金貨だが、日が高くなるにつれて歩くのもままならなくなってしまった。駱駝の手綱を引きながら、しまいには砂漠に倒れてしまい、カッカトーランが駱駝の背に乗せてここまで連れてきたのである。
「朝も「眠い」と言っていたな。無理をさせてしまったようじゃ」
金貨はカッカトーランを苦しげに見つめる。
「ごめ……なさ――」
「なにがじゃ?」
「おれは〈金貨〉だ。なのに、こんな……面倒を」
カッカトーランは胸を衝かれ、言葉を失う。
「おや、どうしたね、坊主。具合悪いのかい?」
背後の露店にいた店主が、金貨に気づいて心配そうに近づいてきた。
カッカトーランは我に返って、無意識に詰めていた息を吐きだした。
「店主殿。なにか美味いものをくれ。塩気のあるやつが欲しいのじゃが」
「暑さにやられたのかい? かわいそうに、ちょっと待――」
カッカトーランの爺臭い口調に面喰いながらも言いかけた店主はしかし、金貨の左頬にある焼き印に気づいてぎょっとなった。
「き、〈金貨〉……」
不吉そうに顔をしかめる店主に気づいて、金貨は無理やり立ち上がろうとする。それを手で留め、カッカトーランは店主に多めの小銭を押しつけた。
「なんでもいいから持ってきてくれ。釣りはいらん」
店主は金貨をちらちら気にしながら露店に戻る。
カッカトーランはキャバルを脱ぎ、金貨の頭にすっぽりとかぶせてやった。
「すまぬ、迂闊じゃった。あとで頬を隠せるようなターバンを買うから、しばらくは女物で我慢してくれ」
金貨は定まらない視線をカッカトーランに向け、どこか困惑げにする。
カッカトーランは店主の露店に行き、湯気を立てる鍋を覗いた。羊肉と青唐辛子、玉ねぎ、干しぶどうを一緒に炒めた炒飯に、とろりと発酵乳をかけたものだ。
「ふむ、うまそうじゃ。腕がよいな、店主殿」
「……困りますよ、お客さん。〈金貨〉は不吉だ。呪いがふりかかる。ただでさえ、スカルトーガはおかしな状況なんだ、これ以上の面倒はちょっと」
「おかしな状況?」
ぼそぼそと言われた言葉に、カッカトーランは首をかしげる。
ふと視線を感じ、隣の露店に目をやると、ひげ面の店主が嫌な顔でカッカトーランを見ていた。先ほど店主が上げた声を聞いていたのだろう、隣の店主は金貨に視線を移し、鼻を鳴らして大鍋のふちをコン、ココンと蓋で叩いた。山岳のファッガ族が「災い除け」として使う音呪いだ。
カッカトーランはむかっとして、大仰な仕草で「災い除け無効」の手印を切った。隣の店主が鬼の形相を浮かべるのをにやりと見てから、顔を戻す。
「スカルトーガがおかしな状況とは、どういうことじゃ?」
「おかしな状況といったら、おかしな状況ですよ。説明はしにくい。見てごらんなさい」
店主は屋台の群れの先、スカルトーガのぐるりを囲う城壁を指さした。巨大な城門の前には旅人たちが長蛇の列をつくり、不満顔で怒声をあげていた。
「なんの列じゃ?」
「検問待ちの列です。いま、スカルトーガでは東西南北の門すべてで検問が行われているんですよ。領主は筋金入りの財宝好きさァ。けれど足りない、ひとつだけ、ってね」
いきなり歌いだした店主はカッカトーランの怪訝な顔を見て、得意げに身を乗りだした。
「二十日前の晩になります。どっかのこそ泥が領主の宝物庫に盗みに入ったんですよ。けれど、盗人も、盗まれた宝もいまだ見つからないってんで、領主は泣き寝入りしてるって話です。おお、かわいそうに」
かわいそうにと言いながら、ちっともそう思っている口調ではない。
領主バンドール・ドバルは、十六年前、ココリカタリヌ王朝転覆の混乱に乗じ、金に物を言わせて領主の座についた元豪商だ。
軍事都市だったスカルトーガを、東の船舶都市ブレマンと西方の水上都市クックールとを結ぶ交易都市に変えた功績は悪くなかったが、スカルトーガでの商業権を得るため、商人が都に賄賂を贈ることを是としたため、政治が腐り、身分格差が広がって、治安が悪化した。だが、それでも民の困窮に目もくれず、趣味の「宝物蒐集」に明け暮れるばかりで、民からは〈強欲領主〉と揶揄され、大いに嫌われていた。
「そんなわけで、最近じゃあ旅人の荷まであさって、消えた宝探しをしてるってわけです」
「ほーう、それはなんとも迷惑な話じゃのう」
カッカトーランは顔をしかめる。駱駝の背には、魔術に使う道具や、なによりも白布が眠る壺が積んである。白布の壺をうっかり開けられでもしたら、昼の間は気体となっている魔人が、ふわふわと飛んでいってどこかで迷子になってしまう――。
「お客さん、もしかしてお金持ち?」
きょとんとすると、店主はちらりと金貨に目をやってから、カッカトーランに顔を寄せた。
「それとも名家のお嬢様かね。……見えないけど」
カッカトーランは目をぱちくりさせる。
「ふむ、見た目通りの貧乏人じゃが、なぜじゃ?」
「スカルトーガじゃ、めったに〈金貨〉を見ない。これみよがしに連れてちゃあ、よほどの金持ちと勘違いされ、スリが寄ってきますよ」
カッカトーランは金貨をひそかに振りかえった。
スカルトーガでは〈金貨〉は珍しいのか。
「これまでに〈金貨〉の噂を聞いたことはあるか? スカルトーガ、もしくはこの近隣で」
店主は顎に手を宛がい、「そういやあ」と顔をしかめる。
「どっかの盗賊団が〈金貨〉を連れてるってんで、噂になったことがありましたね。〈金貨〉はともかく珍しいから、どこで手に入れたんだろうか、と噂になったんです」
「なんという盗賊団か覚えていないかのう?」
言いながら、カッカトーランは懐から取りだした包み紙を店主に握らせる。〈昼の民〉が日常的に用いる呪物の一種だが、最近ではこれを作れる〈夜の民〉がいなくなったせいで、値段が吊り上がっている。
店主は喜びをあらわに、熱心に虚空を睨んだ。
「覚えてます、覚えてますとも。なんだったかな、ええと……ここまで出かかっているんだが。そう! 四尾だか、三尾だか、その……蠍がどうとか!」
「何尾かの蠍、みたいな名前か」
「ええ、ええ、そうでした。いや、イモリだったかな。ヤモリだったかな」
だめだこりゃ。カッカトーランはとりあえず、尾っぽがいっぱいあるなにか、と記憶する。
「ともかく用心を、お客人」
さすがに申し訳ないと思ったのか、店主は隣の店主を見やり、カッカトーランの耳元に口を寄せた。
「城壁の内側に入れば分かることですがね、スカルトーガは今、治安が最悪だ。領主の馬鹿めが、いきなり水に税金をかけたもんだから……」
「水に税?」
「ええ。城壁の中だけですがね。そのせいで、みんなぎすぎすしてる。喧嘩や殺しもあっちこちで起きてる。物乞いや〈金貨〉みたいな奴隷、それに金持ちは標的になりやすい――ああ、ほら、見てくださいよ、まったく」
店主の嘆きを掻き消すように、喧嘩腰の声があがった。
露店商らしき男たちと、都の民と思しき男たちが、顔を突き合わせて揉めはじめたのだ。
「調子に乗るのもいい加減にしろよ。城壁の外に、こんなわんさと露店を開きやがって……だいたいなんだ、その値段は。商業組合が定めた最低価格を下回ってるじゃねぇか!」
「そうだ。そんな安値で商売されちゃ、客が都まで入ってこねえ。すぐ露店を撤去しろ!」
都の民が声を上げれば、露天商たちが群れを成して、拳を振りあげる。
「ああ? だったらあんたらも値下げすりゃいいだろうよ。客は、安い方に群がるぜ」
「水税が高いんだ! 壁の外は税がかからねぇからって、好き放題しやがって!」
興奮した民のひとりが露店商に殴りかかった。それを皮切りに、あっという間に殴り合いの喧嘩がはじまり、客まで混じっての大乱闘になる。
そのときだった。
男のひとりが、どん、と椰子の根元に座る金貨にぶつかった。
男は舌打ちして金貨を突き飛ばした。
「邪魔だ、ガキ! ぼうっと座りこみやがって……あ?」
どっと地面に倒れた金貨の頭から、キャバルが落ちる。
男は、金貨の頬に焼き印があることに気づき、数歩後ずさってから、ふいの怒りを爆発させた。
「くそ、呪い子じゃねえか。呪いを振りまきに来たか、忌々しい! ご主人様はどこにいった、ああ? 奴隷がこんなところで座りこんでるたあ、まったく!」
男が金貨に唾を吐きかけた。
カッカトーランは目を見開き、無言で店主に受け取ったばかりの皿を突きかえすと、背から槍を引き抜き、駆けだした。
「え、ちょ、お客さん、や、やめ――」
「ん?」
慌てる店主。不審げに振りかえる男。
カッカトーランは砂を蹴ると、裸足でもって、男の後頭部に強烈な飛び蹴りをかました。
「ちょ、お前……っい、いて、おま……いて! いてえ!」
地面にうつぶせに転倒した男の背中を、さらにげしげしと踏みつけにする。
若い娘の突然の暴走に、露天商たちはぽかんと喧嘩の手を止め、慌ててカッカトーランを押さえにかかるが、カッカトーランは槍を振りまわして露天商たちを牽制し、さらに男に殴りかかった。
「お、おい、お嬢ちゃん、そこまでに……鼻血が出てるじゃないか!」
「鼻血い? 鼻血ってこれかのう。これのことかのう、ああん?」
「ふがぁあ!」
「ちょ、お嬢さん、そんな鼻の穴に指突っこんで……って、いやーっそこは蹴ったらいかんよー!」
「ええい、離せ! 離さんか!」
ついには露天商に取り押さえられたカッカトーランは、無理やりに男から引きはがされ、悔し涙を目尻に浮かべた。
「なにが「そこは蹴ったらいかん」じゃ、こんな男の金玉なんぞ潰れて当然じゃ! 貴様なんぞ、そんなもんをぶら下げる価値もないわー!」
「お嬢さん、そこまでにー!」
カッカトーランは羽交い絞めにしている露天商たちを振り払い、槍を背に戻した。
むっつりと押し黙って露店まで戻り、絶句している店主から皿を受けとる。
金貨の前にとって返して、どっかと腰を下ろし、皿を少年に押しつけた。
「食え。ちょっと塩分を取った方がいい」
金貨はなんとも言えない顔で、おどおどと散会する男たちに目をやった。
「……今の、なに」
「なんの話じゃ。いいから食え」
「おれは、〈金貨〉だ。あんなの、慣れてる……」
「慣れてる、じゃと!?」
カッカトーランは憤慨して、金貨の頬を両手で掴んだ。
「あんなもんに慣れるな! 第一、おぬしのどこがあれに慣れているというのじゃ。わしがこうして触れるだけで、こんなに怖がるくせに!」
「怖がってない。前にも……そう言った」
カッカトーランは視線の定まらない金貨の目を覗きこんだ。
「おぬしがこれまでどんな人生を歩んできたのかは知らない。触れるだけで震える理由も察してやれない。けれどわしは、おぬしがあんな非道を受けることを許してはおけない」
金貨は顔を上げ、魔導師の顔を見つめかえした。
カッカトーランは震える息を吐きだし、真っ直ぐに金貨を見つめた。
「覚えていてほしい、金貨。おぬしがこれまで見てきた世界は、この世界のほんの一部でしかない。世界はもっとうんと広い。うんと、うんと広いのじゃ、金貨。じゃから、虐げられるのが当然などと思うな。自ら〈金貨〉を名乗り、世界を閉ざしてはならない。この世には、おぬしがおぬしのままに生きられる世界がある。おぬしを〈金貨〉としてではなく、ただの友として受け入れる者たちがたくさんいる。わしが――白布と出会えたように」
一瞬、カッカトーランの脳裏に暗い記憶がよみがえった。
乾いた砂漠。歩き通したせいで、燃えるように痛む足。投げつけられる石。震える手でめくった、ぼろぼろの魔導書――。
目を伏せ、溢れかえりそうになる記憶を封じなおし、カッカトーランは金貨の額に己の額を押し当てた。黄金の額飾りがちゃりっと音をたて、二人の間で揺れる。
「わしと白布は、おぬしの味方じゃ。金貨が望むのなら、わしらはいつだっておぬしに広い世界を見せよう。手を貸してほしいことがあるのならば、いくらだって助けよう。おぬしは決してひとりではない。そのことを、忘れるな」
カッカトーランは唇を引き結び、金貨の頬をぽんと叩いて立ち上がった。
「……すまん。気分が悪いというのに、いらぬ説教をした。――飯を食ったら、検問を抜けて、宿をとろう。もう少しの辛抱じゃぞ、金貨」
+++
昼の光がひどく眩しい。金貨はくらくらする頭を下に向ける。
強すぎる白光は物の形まで消失させ、人々は陽炎のように揺らめきながら、周囲をどんどんと過ぎ去っていく。
――き、〈金貨〉……。
――くそ、呪い子じゃねえか。呪いを振りまきに来たか、忌々しい……。
額から伝い落ちた汗が左頬をすっと通り、何年も前の焼き印がちりちり疼く。
ふと、痛みに疼く頬を、優しく、温かな空気が触れた気がした。
母の手だ。
邪霊が怖いと言って泣く金貨の頬を、いつも優しく包みこんでくれた。
たったひとりきりの、金貨の味方だったひと……。
――わしと白布は、おぬしの味方じゃ。
――おぬしは決してひとりではない。そのことを、忘れるな。
金貨は先ほど頬に触れた、母の手よりも熱い、魔導師の手のひらを思い出した。
顔を上げると、すこし前を歩く魔導師の背が、視界に飛びこんでくる。
金貨はくしゃりと顔を歪めた。
ふいに涙が溢れだし、頬を伝って、顎の先から雫となった落ちる。
(ちがう。ごめんなさい。おれには、そんな優しい言葉をもらう資格はない)
涙をがむしゃらに腕でぬぐって、嗚咽をいっしょうけんめい殺す。
(けれど、……それでも、もしも……)
金貨はもう一度、魔導師の背を見つめる。
優しい背中だ。力強い背をしている。
(もしも、助けを乞うていいというのなら――)
金貨は震える手を魔導師へと伸ばした。
「いかがですか、タージャ様。検問の様子は」
城門の上に設けられた歩廊から、検問の様子を見下ろしていたタージャ・ミラルカは、日傘をさして立つ召使の問いかけに、嘆息を返した。
「くだらないわあ。眠い目を擦ってまで見に来る必要なんてなかったわね。こんなのただの、兵士どもの「領主様、ぼくら宝探してますアピール」じゃない」
慎ましく欠伸をし、なにかに気づいて「あら」と身を乗りだす。
「へえ、珍しいこと。しかもこんな真昼に……」
「なんです?」
「〈夜の民〉。あたしのご同業」
タージャは薄ら笑い、ふと目を眇める。
「後ろに、妙な子供がいるわね」
「あれも〈夜の民〉ですか」
「いいえ、違う。魔力は感じない。ただ……なにか――」
眼下にいるのは、検問待ちをする二人連れ。二頭の駱駝を連れた〈夜の民〉らしき娘と、女物のキャバルを頭からかぶった背丈の小さな子供。
見下ろした子供の影は、波紋を広げるように揺らぎ、時折、不安定に形を変えている。
「なにかしら。よく分からないけど、たいそうおぞましい……」
顎に手を宛がい、タージャは眉間に皺を刻む。
「いいわ、少し様子を探ってみるとしましょう」
タージャは微笑み、懐から鎖で縛った獣の頭蓋骨を取りだした。
「可愛いあたしの邪霊。あの子供をちょっと突いてきなさい」
途端、頭蓋骨から黒い煙が立ちのぼり、翼を持った巨大な竜の姿を形作った。
醜く爛れ、首と四つ肢に三条の鎖を巻きつけた竜は、甲高い奇声を上げながら胸壁を飛びたった。