『イイ匂イ……欲シイ……』
『イイ香リ……欲シイ……』
白布のそばを離れ、洞の外に出た金貨に気づき、邪霊たちが集まってくる。
くっくっと不気味に笑いながら、金貨を小突き、のしかかり、行く手を邪魔する。
だが、金貨は邪霊たちを無視し、夜空の見えるところまで出てようやく足を止めた。
ぺたりと砂の上に尻もちをつき、膝を抱えて、怖いほど清廉な星空を見上げる。
カッカトーランは、その様子を、洞の際から黙って見つめた。
「空には、水がたくさんあるんだって……」
ふと、金貨が呟く。
自分に語りかけてきたのかと思って、どきりとするが、どうやら邪霊に話しかけたらしい、なんの反応も示さない邪霊をつまらなげに見上げる。
カッカトーランは冷や汗をぬぐう。こっそり見ていたなんて知れたら、金貨のことだ、今度こそ決定的にカッカトーランと距離を置くに違いなかった。
しばらくの間、金貨はどこか焦がれるような瞳で夜空を見つめ、やがて毛布にくるまり、その場に横になった。
どうやら、そこで眠るつもりのようだ。
白布のそばで眠れば邪霊は寄ってこないというのに、どうしてわざわざ外で。そう思うが、思いかえせば金貨は門番塔でも、決してカッカトーランと白布の近くでは眠ろうとしなかった。
もしかしたら、誰かのそばで眠ることに慣れていないのかもしれない。あの他人に対する警戒ぶりを見れば、ありえない話ではなかった。
(孤独な姿じゃの……)
カッカトーランは顔を曇らせた。
〈邪霊の寵児〉は、夜のあいだ、ずっと邪霊に付きまとわれる。幼子らしく誰かと添い寝をするなど、金貨には夢のまた夢だ。
(せめて、わしらと一緒にいるときぐらいは、夜が安らかなものであるように)
カッカトーランは黄金槍を掴み、穂先でもって、洞の外の砂地に〈姿隠し〉の魔除けを描いた。すると邪霊たちは、突然、金貨を見失ったように『イナイ……イナイ……』と砂漠の闇へと消えていった。
ふむ、と息をつき、カッカトーランは洞のなかへと引きかえす。
そのときだった。
(ゆるさない……)
カッカトーランは目を見開き、金貨を振りかえる。
こちらに背を向けて眠る金貨にはなんの異変もない。
だが一瞬、ほんの一瞬だけ、ぴちゃり、とあの水音が鼓膜を打った気がした。
+++
もっとも暑い時間帯を岩陰で眠ってすごし、日暮れとともに目を覚まして、夜の旅を再開する。
荒涼とした岩石砂漠を抜けるのに四日を費やし、やがて、駱駝の足音が礫を踏むじゃりじゃりとした音から、ばふっと砂を踏む音に変わったころ、岩山群の先に、見渡す限りの砂の海が開けた。
「うーん、気持ちのいい朝じゃ」
カッカトーランは砂丘の頂きに立って、地平線に目をやった。
しばらくもせず、砂漠のきわから鋭い光線が放たれ、顔を出した太陽が砂の海を鮮烈に燃やしはじめる。
黄金色のさざ波が、砂丘の傾斜をものともせずに這いあがってきた。波が足元に流れつくと、固く、冷たい砂は軟らかさを取りもどし、裸足の下で、徐々にぬるまっていった。
「今日も暑くなりそうじゃ」
カッカトーランは満足げにひとりごちた。
「スカルトーガまでは、あと一時間ほどじゃ。〈夜の民〉としては、夜に都入りしたいところじゃが、スカルトーガは夜になると門を閉ざしてしまうのでのう、今日はこのまま眠らず、昼に都入りをしようと思う。……まったく、最近の〈昼の民〉ときたら、ちっとも〈夜の民〉に配慮してくれんのじゃからのう! けれど、ぶーすか文句を垂れても仕方ない、それでかまわないか? 金貨」
火をおこし、鍋で煮詰めた甘い茶を木杯にそそぐ。言いながら金貨に手渡すが、金貨は気づかず、砂地に残された蠍の足跡や、とかげの尾が残した線を目でなぞっていた。
「金貨? 聞いているか? おーい」
顔の前で手を振ると、金貨はいま目を覚ましたように眩しげに顔を上げた。
「眠いなら、出発は少し寝てからにするか?」
金貨は黙って首を横に振る。
口数の少なさはいつものことだが、少し様子がおかしい気がして、カッカトーランは渋面をつくる。
「これ、具合が悪いなら、ちゃんと言うって約束したはずじゃぞ」
「……ちがう。ちょっと……眠いだけ。朝が久しぶりで」
その答えに、カッカトーランは納得する。
「たしかに、門番塔ではずっとわしらに合わせて、夜の生活をさせていたしなあ」
カッカトーランはふわあと欠伸をして、「わしも眠い」とぼやきながら、足裏を指で揉んだ。
と、足の裏を見て、金貨が驚いた顔をしたので、カッカトーランはにししと笑った。
「石みたいじゃろ。礫だらけの砂漠を歩いたって、血も出ないし、痛くもかゆくもないぞ」
鼻高々に自慢し、カッカトーランは土踏まずをぐいぐいと親指で揉む。
「魔導師は靴をはかない。どうしてか分かるか?」
金貨は目をまたたかせて、ぶんぶんと首を横に振った。
「わしらは血液に流れる魔力を操り、さまざまな奇跡を起こす。普通、その魔力は脳天から放出されるのじゃがの、頭から魔力が出ても使い勝手が良くないので、わしはキャバルで脳天を塞ぎ、爪先と手先、声や目などから魔力が放たれるようにしているのじゃ。靴をはかないのは、爪先からの魔力の放出を妨げないようにするためじゃ。ちなみに、魔力はそのままだと不安定じゃが、黄金を通すと均一になって、制御しやすくなり……」
うんちくを垂れると、意外にも、金貨は興味を覚えたような顔をした。
「興味あるのか?」
答えないかと思ったが、金貨はこくりとうなずいた。
「魔導師は、魔人をどう召喚するの……?」
内心で「お」と思いながら、カッカトーランは足元の砂を握り、地面に円を描いた。
「魔人召喚には、召喚陣と呼ばれる絵を描く必要がある。彩色した砂か、鉱物を砂粒状に砕いたものを用いて、極彩色の絵を描くのじゃ。砂絵ってやつじゃの」
「砂絵……」
「召喚する魔人によって描くべき砂絵は異なるが、総じて美しく描かなければ召喚に応じてくれない。魔人の美意識は、人間よりもずっと高くて、下手くそな砂絵では見向きもしてくれないのじゃ」
理解したのか、していないのか、金貨はあいまいにうなずく。
「どれ、金貨、自分でここに円を描いてみるのじゃ。完全な円を描くのはなかなかどうして難しいぞ」
金貨は言われるままに砂を掬って、砂地に円を描いたが、それは正円とほど遠い、いびつなものだった。
カッカトーランは「難しかろう」と笑った。
「強力な魔人であればあるほど、砂絵は複雑になる。完成までに、数千夜かかる魔人もいる」
「……お伽話では、魔導師が呪文を唱えるだけで、すぐに魔人が召喚される」
反論するように言うので、カッカトーランは笑った。
「何十夜、何百夜とひたすら地を睨み、砂絵を描きつづける物語なんてつまらなかろう? お伽話には、詩人たちの物語を楽しくするための嘘がたくさん散りばめられているのじゃ」
カッカトーランはそこで「ああ、でも」と補足をする。
「時間がかかるのは、最初の召喚のみじゃ。もし、魔人に気に入ってもらえたら、魔人たちは魔導師に秘密の召喚陣を授けてくれるのじゃ」
「秘密の召喚陣?」
「そう。召喚のたび、何十夜、何百夜もかかる砂絵を描いていては、「最近、元気か?」なんて気軽な会話もできんじゃろ? じゃから、魔人は「気軽に呼んでいいぞ」という意味をこめて、気に入った魔導師に秘密の召喚陣を贈るのじゃ。数秒から数時間程度で描ける簡単な陣で、わしらは〈秒刻の陣〉と呼んでいる」
金貨は、自分とカッカトーランが描いた円を見比べ、首をかしげた。
「じゃあ、カッカトーランも、白布から〈秒刻の陣〉をもらったんだね」
カッカトーランは予想していなかった質問に、ぎょっとなった。
「は、白布か。白布はその……事情があって、〈秒刻の陣〉を持っていないのじゃ」
たどたどしい答えに、金貨は不思議そうにする。
「そうなの?」
「う、うむ。それに白布は、わしが最初に召喚してから、まだ一度も異界には帰ってないのでな、今のところ必要もなくて……」
金貨は「そうなんだ」と素直にうなずき、しばらく黙ってから、思いきったように顔をあげた。
「じゃあ、魔人グァラ・グァーラの召喚陣はどんなの?」
金貨の瞳には、興奮の色が浮かんでいる。
カッカトーランは思わずにんまりした。
「〈呵呵の魔人グァラ・グァーラ〉の召喚陣は、途方もなく美しい」
荷物のなかから魔導書を取りだし、開いた頁を示すと、金貨がはっと息を飲むのが分かった。
描かれていたのは、魔人グァラ・グァーラの姿絵。
一見すると、人間の若者に見える。
異常なのは、その面貌が壮絶なまでに美しく、肌が抜けるように白いこと。瞳の色は、夜になりかけの空を煉ったような青をしていて、たくましい裸の背から、骨でできた翼が生えていること。
だが、常軌を逸しているのは、姿ばかりではなかった。
金貨は、姿絵の横に描かれた召喚陣の見本図に目を奪われる。
まるで、青の波紋。
この世に存在するすべての「青」が、万の花弁を持つ華のように、星々をまとった宇宙座標のように、幾重にも輪を広げている。
「召喚陣の完成までに費やす時間は、一千夜。かつて多くの魔導師が召喚に挑み、成しとげる前に視力を失った」
金貨は驚きのあまりに目を丸くした。
「素材に使うのは、五百を超える青系統の鉱石。「人間ごときが召喚するな」と言わんばかりの拒絶の陣じゃ」
「じゃあ、グァラ・グァーラを召喚したアンムラヒ王の魔導師は、すごいひとだったんだ」
お伽話〈魔人の爪先と千夜の接吻〉では、アンムラヒ王が〈渇きの百家〉を牽制するため、宮殿付き魔導師に命じて、魔人グァラ・グァーラを召喚させたと語り継いでいる。
だが、カッカトーランは首を横に振る。
「いいや。さっきも言ったが、お伽話は嘘だらけじゃ。考えてみよ、ただ〈渇きの百家〉を牽制するためだけに、これほど強力な魔人を召喚するか? 魔人というだけで、〈昼の民〉には十分な脅威になるのじゃから、もっと簡単に呼べる魔人を召喚した方がよい」
カッカトーランは仏頂面で頬杖をつく。
「あのお伽話はいろいろとおかしいのじゃ。そもそも、〈魔人の中の魔人〉と謳われるグァラ・グァーラを、鎖で縛りつけて、塔に監禁すること自体が不可能じゃというに……」
「なら、本当はだれがグァラ・グァーラを召喚したの? カッカトーランがしたの?」
純粋な瞳に見つめられて面喰う。
いつもの無口な金貨とは結びつかない素直さだ。
「もしかして、あのお伽話、好きなのか?」
問うと、金貨はわずかに躊躇ってから、こくりとうなずいた。
「母さんが……好きだった」
「お母上が」
金貨が家族の話をするのははじめてだ。
カッカトーランは内心で驚きつつ、なるたけ軽い口調で言う。
「そうか。もしかして、お母上はグァラ・グァーラが好きだったりしたのではないか? ほれ、砂漠の男の初恋は魔導師カッカトーラン、女ならば魔人グァラ・グァーラって言うじゃろ?」
金貨はまじまじとカッカトーランを見つめる。
無言の仏頂面が返ってくるかと思ったのだが、金貨はふっとあどけない笑みを、その幼い口元に浮かべた。
「……ん」
カッカトーランは、今度こそぽかんとした。
それは十四日間に渡って、金貨の強張った表情を見てきたからそうと分かる、微かな、本当に微かな笑顔だった。
うおおっと歓声をあげたいのを堪え、カッカトーランは不自然に咳払いをした。
「そ、そうか。グァラ・グァーラはたいそうな美丈夫じゃから、お母上が胸を躍らせたのもうなずける」
「うん」
素直にうなずく金貨を見つめ、カッカトーランは少し迷ってから、口を開いた。
「それで、お母上は、今……」
「死んだ。病気で」
カッカトーランは顔を曇らせた。
金貨は淡々としていたが、瞳がどこか寂しげだった。
「……さっきの問いじゃが、たしかに、グァラ・グァーラを召喚したのはカッカトーランだったとする説もある。古い話じゃから、諸説あるのじゃ。真実を知るのは、当事者ばかりというわけじゃのう」
カッカトーランは頁を繰りながら、昨晩、白布のお伽話に出てきた〈水漣の魔人スーラギュア〉や、〈豪腕の魔人サラードハザ〉、そのほか有名なお伽話に出てくる魔人たちの美しい姿絵を見せていった。
金貨はひとつひとつを熱心に見つめ、頬を紅潮させる。
(不思議じゃのう)
これまでにない姿だ。子供らしい素直さでもって、お伽話や魔人、魔導師への興味を露わにしている。
昨晩までと今朝と、いったい金貨にどんな心情の変化があったというのだろう。
「ほかに知ってる魔人はいるか?」
カッカトーランは、金貨ともう少し話をつづけたくて、問う。
夢中になって魔導書に魅入っていた金貨は、しかしなぜか強い緊張を顔に宿した。
「赤い……醜い魔人」
「醜い? なにを言う、魔人はみな美しいぞ」
金貨は、眉根を寄せた。
その表情がひどく深刻だったので、カッカトーランは眉を寄せる。
「おぬし……前にもどこかで、魔人に会ったことがあるのか?」
金貨は答えず、ふたたび無言で砂の上の蜥蜴の足跡を睨みつけた。
それきり会話は途絶え、カッカトーランはがっくりしながら、ぬるくなった紅茶を口に運んだ。
+++
広大な砂漠の中に忽然と現れる岩の塊――カララック山。四段の階段状になったカララック山の斜面に築かれたのが、人口およそ二万人の交易都市スカルトーガである。
山麓には、民と旅人が行き交う賑やかな市街が。
階段斜面の一、二段目には、官僚居住区と政府機関が。
三段目には、領主の住まう黄金宮が置かれ、太陽の光を浴び、黄金の大円蓋を燦然と輝かせている。
別名を〈水道橋都市〉。
その由縁はスカルトーガの象徴ともいうべき水利設備にある。
麓からは見えないが、カララックの四段目、すなわち山頂は深い窪地に満々と水をたたえた〈水の甕〉になっているのだ。
甕の水は、人工の滝によって地上に落とされ、水路を伝って都の各区に恵みをもたらしたのち、東西南北にある四つの貯水池に集められる。
貯水池からそびえるのは、巨大な水道橋。橋を支える橋脚の内部は空洞となっており、揚水機が池に集まった水を上部の橋まで引き揚げる。
そうして水は、山頂の〈水の甕〉に向け、わずかに傾斜しながら下る橋を通り、ふたたび甕へと戻されるのだ。
〈嗤う三日月〉がまだこの世界に君臨していたころに作られた、大規模魔導装置である。
その東の貯水池の近く、トンカラ広場を望む路地裏に隠れていたダブゥは、そこらの食堂の裏口で手に入れた生臭い残飯を手でかきこみながら、げっそりとして呟いた。
「偽者魔導師様は来たか。ハージブ。今日で五日だぜ。本当に来んのかよ」
ハージブからの答えはない。黙々と、というより苛々と、残飯を喰らっている。
「本当にあんな詩人信じて大丈夫だったのか? 偽者カッカのお伽話は評判が良いからぜひとも第二弾を作りたい、そのためには協力を惜しみませんよ、だとよ。他人事だと思ってよー!」
「…………」
「だいたい、カッカトーラン様の偽者だなんて、ふざけてるとしか思えねぇ! そもそも、俺は〈夜の民〉ってのがうさんくせえと思うんだよな! もし〈嗤う三日月〉の生き残りだったらどうすんだ? 婆ちゃんが言ってたけど、あいつら、今でも砂漠のどこかに身をひそめ、虎視眈々とバレンハク王朝の転覆を狙ってるって話なんだろ。なあ!」
ダブゥは、反応のないハージブをうるさく突いて、しかしいきなり鼻の下をでれっと伸ばす。
「でも、カッカトーラン様って名前はやっぱり浪漫を掻きたてるよなあ。どんな美女だろう。カッカ様を騙るぐらいだから、偽者っつってもすっげえ美女なんだぜきっと」
「……ダブゥ」
「あ?」
「そろそろ黙らないと馬鹿みたいに低いその鼻肘でへし折りますがかまいませんか?」
ハージブは、震えあがるダブゥを横目に、皿を持って立ち上がり――ふいに身を屈めた。
「”奴ら”です。一度、広場を離れた方が良い」
「え、じょ、冗談だろ。いつ魔導師様が来るか分からないってのに!」
「捕まっては元も子もないでしょう。早く!」
ハージブは皿を投げだし、ダブゥの襟首を掴んで立ち上がった。
ダブゥが自分の足で走りだすうちに、背後から怒声がし、二人は路地の暗がりへと駆けこんだ。