喉笛の塔はダミ声で歌う
第63話 祈りの歌
白一色であるはずの監視所の内部は、赤かった。
左へと向かってゆるやかに弧を描く廊下、その中庭を向いた左側の壁が全面ガラスになっており、斜陽がさしこんでいるのだ。
オースターはガラスの前で立ちどまり、茜色に染まった中庭を見つめる。
背筋が凍りつく。
中庭には、喉笛の塔がそびえたっている。
前にもここから塔を見た。職場体験学習の一環で、監視所の内部を案内してもらったときのことだ。濃い霧が風に流れた一瞬の間に、塔が姿を現したのだ。
だが、塔の姿はそのときとはまるきり異なっていた。
外壁から溢れでた無数の黒い手が、蠢きながら塔にしがみついているのだ。
〈汚染〉だ。いつ、こちらに向かってきてもおかしくはないほど間近にある。ガラス越しであっても、尋常ではない恐怖心が体をがんじがらめにしてくる。
あれに触れれば、生きながらに腐り、そして死ぬ――。
「ようこそ、オースター・アラングリモ! そして私の可愛い鳥たちよ」
甲高い声が聞こえ、オースターはびくりと肩を震わせる。
廊下の奥から、バクレイユ博士がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
オースターが背後に従えたホロロ族たちが一斉にたじろぐ。ホロロ族にとっては、南の楽園を与えてくれた恩人であり、彼らの喉から〈喉笛〉を取りさった残酷無比な科学者でもある。
オースターは博士をホロロ族に近づけまいとして、みずから車椅子を前に進めた。
「博士。すでにお聞き及びと思いますが……」
「もちろん。塔のなかの小鳥に呼びかけようなんて、若く、みずみずしい脳は斬新なことを思いつく! 中庭に通じるドアを開放してさしあげよう。どうぞ、塔の近くから呼びかけを」
オースターは息を呑んだ。たしかに塔の外から〈喉笛の塔〉の中にいるトマに呼びかける心づもりでいた。だが、できるなら監視所の室内から、伝声管などを使って呼びかけをおこなうつもりでいたのだ。
かたわらのコルティスに視線をやると、小さく首を横に振る。コルティスが先に〈喉笛の塔〉監視所に来ていたのは、監視所の所員に、塔の内部と通じる伝声管の有無をたしかめるためだった。その彼が首を振るなら、きっとそういうものはないのだろう。あるいは、バクレイユ博士に「ない」と言われたのか――。
(どちらでもいい。どうせやるなら、より塔に近いほうがいいに決まってる)
博士はオースターの葛藤など意にも返さず、ガラス窓のほうに近づくと、根本にある金具をいじった。やがて、ガラスの壁の一部が、手動で引きあけられる。
コルティスがそっとオースターに耳打ちをする。
「今は手動で開けるしかないけど、ちゃんと通電してたら、スイッチひとつで簡単に開くらしいよ。……こんな風になってたとはね。前に探索したときは気づかなかったよ。――どうする、オースター。ここから先は車椅子は無理そうだ」
たしかに中庭には、塔を中心として太い送電ケーブルが何十本と放射線状にのびている。監視所と塔とを結ぶそれらのせいで、車椅子が入れるスペースはない。
「歩くよ」
オースターは答え、車椅子の手すりを掴んで、よろめき立った。
「トマが塔のなかで戦ってるんだ。ひたすら声を殺して、〈汚染〉に力を与えまいとしている。僕もしっかりしなくちゃ」
ふらつく足で中庭へと踏みだす。ルゥがその右手を握った。逆の手をラジェが支える。背後にはコルティス、それにマシカやアキ、大勢のホロロ族が従った。
「果たしてなにがどうなるのか……楽しみにしていますよ、公爵」
浮かれきったバクレイユ博士の声がオースターの背にかかった。
オースターは、大木ほどもある太い送電ケーブルの隙間に空いた狭いスペースに立った。電気は通っていないので、アキなどはケーブルのうえに立ち、皆よりも少しだけ高い場所から塔を見あげる。マシカとルゥ、それにコルティスと従者のラジェはオースターのすぐそばに。そのほかのホロロ族は思い思いのスペースを見つけて、不安げにたたずんだ。
「みなさん。戴冠式に出ているホロロ族の歌声が聞こえたら、こちらも歌いはじめます」
ただ呼びかけるのではなく、歌によってトマに声を届ける。
そう決めたのは、トマから聞いた言葉がきっかけだった。
『母親が小さい頃に教えてくれたんだ。歌はホロロ族の魂だって。檻に閉じこめられてたって、魂だけはだれにも侵せない。歌だけはおれを自由にしてくれるって』
(トマは、歌だけは自由だと言っていた)
喉笛をとられたことで、もう自由に飛べなくなった、と言っていた。それでもきっと歌ならば、塔のぶ厚い壁も、〈汚染〉も突破して、トマへと届く。
強烈な光を放っていた太陽がゆるやかに落ち、塔の背後に隠れる。麓の戴冠式の会場からは、きっと塔は黒い影となり、よりいっそうその異形を露わにしていることだろう。
ふと、マシカが顔をあげた。
「オースターさま。歌が聞こえます」
オースターはうなずき、周囲にたたずむホロロ族たちを順繰りに見つめた。
「みなさん、お願いします」
ホロロ族が、おそるおそる歌いはじめる。
聴いたことのない歌だ。童謡のように、素朴なメロディラインだった。
それは決して、聴き心地のいいものではなかった。
声帯を傷つけられ、枯れてしまった声は、音程をうまくとることもできず、痛ましいほどに苦しげだ。
なによりも、彼らの声には恐怖がにじんでいた。
(これ、大丈夫なのかな)
オースターはにわかに焦りを覚える。
ホロロ族にトマへの呼びかけをしてもらうという案は、時間がない中で思いついたにしては、それなりに名案に思えていた。さっきまでは。
だが今、ホロロ族の恐怖に満ちた歌声を聴き、オースターの自信はすっかり揺らいでいた。
弱々しい歌を耳にした黒い手たちが、手のひらをぐるりとホロロ族に向ける。まるで塔に絡みついた蛇が、はるか高みからホロロ族を威嚇しているようだ。
(怒っているみたいだ……)
なにに対して。
「は。いらだってやがる。よりにもよってオレたちが、あいつらの目的を妨げようとしてるから」
太いケーブルに座り、ひとり高みの見物を決めこんでいたアキが嘲笑した。
その言葉に、オースターははっとなる。
黒い手は、喉笛の塔におさめられた〈喉笛〉から生みだされたものだ。それらの〈喉笛〉は、ほかでもないホロロ族自身のもの。
(黒い手はトマに悲鳴をあげさせることで力を得ようとしている。なのに、自分自身であるはずのホロロ族がそれを阻止しようとしている。だから怒っているのか)
いま、ホロロ族はオースターが与えた未来への希望だけを頼りに、己のなかにある矛盾と戦っているのだ。決して消えない怒りや憎しみ、絶望に抗い、前を向こうとしている。
(だったら、僕もみんなに加勢しなくちゃ)
オースターは拳を握りしめ、すう、っと息を深く吸いこんだ。
そして――。
「オースター様!?」
ホロロ族がぎょっとなった。
当然だろう、オースターがいきなり大声で歌をうたいはじめたのだから。
オースターの歌声は彼らに比べれば澄んでいたが、音程が少しばかりお粗末だった。知らない歌だし、そもそも「脳筋ちび」と揶揄されるぐらい、オースターは芸術面に自信がない。
それでも、思いをこめて歌う。
ホロロ族ではない自分の歌声が、トマに届くことはないだろう。
けれど、「ともにいる」という決意を、「ともに戦う」という意思を、この場に集まってくれたホロロ族に伝えたい。
きっと歌なら伝わる。理想にまみれた言葉よりも強く心に届くはずだ。
アキがあきれた顔をした。
「へったくそ……」
目を丸くしていたマシカが、ふっと笑った。
「オースターさま、音痴ですねえ」
気まずさに顔を熱くして足下を見下ろせば、ルゥが歯の抜けた口を大きく開けて笑っている。首を巡らせれば、ホロロ族のみんなもまた笑っていた。
オースターは口元をほころばせ、やけくそになって声を張りあげた。
コルティスが合唱に加わる。従者のラジェまでが小声で参戦する。乳兄弟の思いがけない朗々とした歌声に、オースターは危うく噴きだしそうになる。
百人近いホロロ族の枯れた歌声と、三人のランファルド人の歌声とが混じりあい、監視所の中庭に高らかに響きわたった。
(届いてくれ。みんな、君を待ってる)
心のなかで祈る。
(塔から出てきて、トマ)
――……
――――…………
――――――…………
――声がする。
膝を抱えて内なる殻にこもり、深い眠りのなかにいたトマは、ふっと目を覚ました。
――だれかが歌っている。
声の出所を探し、まわりを見わたして、すこし驚く。
そこは喉笛の塔の中ではなかった。トマが自分自身をとじこめた闇の底でもない。
真っ白な空間だ。
ただただ広くて、白くて、明るくて、なにもない。
地面もなく、天井もなく、檻もなく、ただ白だけがある。
――いや、ちがう。だれかいる。
トマはゆっくりと身を起こして立ちあがった。
近づいてみると、それは見知らぬ女のひとだった。
こちらに横顔を向けて立ちつくし、白いばかりの天を見上げている。
足首まである黒髪は美しく三つ編みにされ、頬やこめかみには、トマとおなじ蔦のような模様が描かれていた。どうやらホロロ族のようだ。
「おまえ、だれだ?」
トマは問う。女は静かにこちらを振りかえり、口を開いた。
「同胞」
女の答えは端的だった。
ただ、その声ははっと胸をつかれるほどに美しく、この広い空間にあまねく響きわたるほどに透きとおっていた。
「どうしてここにいる?」
「おまえこそ、なぜここにいる?」
トマと女の声はよく似ていた。
どちらの声が己の声かもわからないほどだ。
トマはみずからの喉をおさえて、顔を曇らせる。
今、トマの声は枯れてはいなかった。喉笛を失う前とおなじ、アモンの貴族どもが鳥のさえずりに喩え、貪欲なまでに欲した声だ。
「ここは……おれの心のなかだ。おれがここにいるのは当然だろう?」
「そうか。だが、ここは私の心のなかでもある」
「……おまえ、名前は?」
女はさえずるように答えた。
「汚染」