喉笛の塔はダミ声で歌う

第64話 殻を破る者

 汚染、と名乗った女の目には、どんな感情も宿ってはいなかった。
 ただ、後ずさりしたくなるほどの虚無だけがそこにある。
〈汚染〉の始まりは、科学大国フラジアにある〈北方戦略戦線研究所〉に収容されていた被験者――ひとりのホロロ族の女があげた「叫び」にあった、とオースターは話していた。彼女の悲鳴が、謎の黒いエネルギー体を生みだし、のちに多くの国々を巻きこむ〈汚染〉となり、ランファルド大公国にまで押しよせてきたのだ、と。
 だとしたら、いま目の前にいる女は、そのときの女なのだろうか。

「私にはわからないな」

 ふと、女が言った。
「なぜ、おまえは私を受け入れない。私たちがこれまでどんな目に遭ってきたか、忘れたわけではないだろうに」
 トマの脳裏に、これまで味わってきた、ありとあらゆる苦しみが駆けめぐった。
 だが、それを振りはらうように、トマはかぶりを振った。
「忘れたわけじゃない。けど、おまえを受け入れようとも思わない」
「なぜ」
「だって、受け入れたら、おまえはこの国を滅ぼすんだろう?」
「もちろん。それのなにが問題だ」
 ふいに、白一色だった周囲の景色が一変した。
 頭上には真っ青な空が、眼下には緑の野原が広がっている。まるで空を飛ぶ鳥にでもなったようだ。眼下の景色は次々と移りかわり、緑野は町や村へと、あるいは雲をまとった岩の峰々へと変化し、そしてどこか見覚えのある白い雪原が――魔導大国アモンの景色が広がった。
「すべて、私が滅ぼした」
 女がつぶやいた瞬間、それらの美しい景色は、陽炎のように揺らぐ黒い〈汚染〉に呑みこまれていった。
「あんたが……?」
 やはり女は、科学大国フラジアの研究所に囚われていたホロロ族の女なのだろうか。
「私だけではない。多くの同胞たちが、私の歌に共鳴した」
「……歌」
「そう、歌だ。この世のすべてを滅ぼす歌」
 女は、なんらかの実験を受けたすえに、やむにやまれず悲鳴をあげたわけではないのか。明確な意思を持って、己を傷つける者たちを滅ぼしにかかったのか。
「おまえにも、教えてあげようか」
 色の悪い唇が、甘さを感じさせるほど優しい声でつむぐ。
 トマは眉を寄せて、足元の腐りただれた世界を見つめた。
「……いい」
 かぶりを振って、トマは答える。
「ごめん。その歌はいらない」
 女は長い三つ編みを揺らして首をかしげた。
「どうして」
「前は欲しかった。でも、もういらないんだ」
「どうして」
 繰りかえされる問いには、虚無を隠れみのにして、憤怒と慟哭とが宿っている気がした。
 女が抱える深い憎しみも、重たい怒りも、トマにはよくわかる。それだけに、拒絶するのは胸が痛んだ。けれど――。
(音痴だなあ……)
 トマは遠くから聞こえてくる歌声に意識を向けた。
 ここではないどこかで、誰かが歌いつづけている。
 大勢の声だ。ほとんどが皺がれた声をしている。ホロロ族だろう。その中にとても清らかな声が混じっていた。ただ、音程が外れまくっていて、笑えるぐらいに滑稽だ。
 けれど、不思議と体の奥が熱くなる。
「友達……とかいうやつが、できたから」
 トマはまごつきながら呟く。
「そいつが大切にしている世界はもう壊したくない。守りたいとは別に思わねえけど、この手で壊すのだけはいやだ。だから、その歌はいらない」
 女は押し黙った。傷つけてしまった気がして、トマは首をかしげた。
「おまえ、どうしておれたちについてきたんだ。一緒に南の楽園に行きたかったのか?」
〈汚染〉はずっとホロロ族とともにあった。ラクトじいじたちの「南へ」という声に共鳴し、ずっと、ずっと、ここまでついてきた。
 女は答えるかわりに、ぽつりと問うた。
「楽園は本当にあるのか?」
 ひどく疲れた声だった。途方もなく長い年月を歩きつづけたあとのように、憔悴し、力をなくした声だ。
「……ない。そんな都合のいいもの、きっとどこにもない」
 そう認めてしまうのは、トマにとっても苦しみだった。
 だが、認めなければ。
 ラクトじいじが、残りわずかな命を費やしてまで、トマに教えてくれたのだ。
 ここは、楽園ではなかった、と――。
「でも、おれはもうそれでもいい。楽園じゃなかったけど、おれはこの国にいることにするよ。あいつがいれば多分、そこそこ楽しいと思うから」
「楽園は、目指さないのか」
「そんなごたいそうなもん、もういらない」
 トマは答えて、くっと笑った。それにしても、本当にひどい音痴ぶりだ。どうしたらそこまで下手に歌えるんだろう。トマは笑いながら踵を返し、声のするほうへと歩きだした。
「――置いていかないで」
 背を追ってくる、女の声。
 足を止めて振りかえると、女はすがるようにトマを見つめていた。
 女の瞳から黒い涙が零れおちる。涙は顎を伝い、胸元に落ち、それを皮切りに女の体はどんどんと黒く汚染されはじめる。肉はただれ、腐り、どろどろとした澱となって崩れていく。
「……しょうがない奴だな」
 トマは小さく息をついて、女に、〈汚染〉に語りかけた。
「なら、おれと一緒に行くか?」
 女は戸惑ったように首をひねる。
「どこへ……」
「さあ。けど、おまえが一緒だと、もうこの国にはいられないな。どこに行くとするか……」
 トマはふっと笑む。
「ま、どこでもいっか。どこに行くのも自由だ。おれの首にはもう首輪はないし、ここは檻のなかじゃないんだから」
 答えを待たずに、トマはふたたび女に背を向けて歩きだす。
 足音はしなかったが、女があとをついてくる気配がした。 

 ――ふっと、白い世界が消え失せた。
 暗い。それに寒い。怪訝に視線を巡らせると、そこは元々いた喉笛の塔の内部だった。
 ただし、場所が変わっていた。たしか自分は塔の中空に伸びる鉄橋のうえにいたはずだ。だが、今いるのはどうやら塔の底のようだ。
 トマは冷たい床に横たえていた身を起こし、周囲に目をやる。
女の姿はどこにもない。黒い手たちもまたここにはいない。
 かわりに、たくさんのケーブルが石床を這っていた。管の先には真鍮製の機械装置が据えてある。その側面からはガラス管が真横に伸び、壁にぶつかったところで壁を這うようにのぼっている。
 そして、それらガラス管の内部には、色とりどりの光を放つ「石」が浮かんでいた。
「……これは――」
 トマは呟き、立ちあがって、ガラス管のほうへと近づく。
 優しい光にまたたく石たちは、ひとつひとつ特徴が異なっていた。大きさも、色も、形も、まばたきの強弱すらも、なにもかもが。
 すべて、ホロロ族の〈喉笛〉だ。
 ガラス管には鉄製のプレートが嵌めこまれ、そこに数字が刻まれていた。トマはそれらをたしかめながら、己の番号である「208」を探した。
 ――見つけた。208。ガラス管の内部には、青く透きとおった〈喉笛〉がおさめられている。
「そうか、ここにいたんだな。おれの魂」
 泣きたいような気持ちで話しかけると、〈喉笛〉が青く明滅する。
 トマは腕を伸ばし、ガラスの冷たい表面を指でなぞった。
「もう、叫ばなくていい。ちゃんと届いてる。……遅くなって悪かった。出ておいで」
 囁きかけると、ガラスの表面にぴしりとヒビが入った。
 小さな亀裂は見る間に広がり、やがて軽い音とともに砕け散った。青い石が中から飛びだし、トマの眼前をゆらゆらと浮遊する。
 両手を胸の前で掲げると、〈喉笛〉はぽとりとその中に落ちた。
 トマはほほえみ、〈喉笛〉をぎゅっと握りしめた。





 喉笛の塔の周囲で懸命に歌をうたっていたオースターとホロロ族たちは、一斉に歌うのをやめた。
 声がする。塔のほうからだ。なんて優しく、澄んだ歌声だろう。子守唄のように慈しみに満ちている。
(トマの歌だ)
 悟ると同時に、オースターの目からは涙が零れおちていく。
 すすり泣きはあちこちからも聞こえた。マシカも歯を食いしばって泣き、アキですら呆然としながら目元を袖でぬぐっていた。
「……トマ?」
 オースターがおもわず前へと歩きだした、その直後だった。
 すさまじい破裂音をたて、塔の壁面が内側から吹きとんだ。瓦礫が飛び散り、砂煙がもうもうと舞いあがる。
 とっさに足を止めたオースターは、頭を守るために持ちあげた両腕の隙間から、白亜の塔に目を向ける。
 薄れていく砂煙の向こうで、塔を囲っていた黒い手の群れがぐにゃりと左右に割れる。隙間から見えたのは、壁に開いた大穴だ。
 と、内部の闇から、青白い小さな光がふよふよと飛びだしてきた。かつてアラングリモ領の泉に生息していた蛍のように、優しく、淡い存在だ。
(なんだろう、あれ)
 不思議に思っていると、光につづいてトマが姿を現した。
 オースターは息を呑む。トマはふらふらとした足どりで塔の外に出てくる。
 我知らず、オースターは歩きだしていた。本当は走りたかったが、送電ケーブルが邪魔していたし、足がうまく動かなかった。のろのろと歩き、ケーブルを何本もまたぎこして、ようやくトマのそばまでたどりつく。
「トマ。君――」
「あれ、オースター……?」
 トマが澄み切った声でぼんやりと呟き、がくりと膝から崩れた。オースターはとっさにその体を抱きとめるが、支える力はなく、ふたり一緒になってその場に尻餅をつく。
「トマ。トマだ。……よかった。無事でよかった……!」
 力いっぱい抱きしめ、あふれるままに言葉を連ねる。
 トマはオースターの肩に頭を預けて、美しい声で囁いた。
「おれの魂、とりかえした」
「うん。このきれいな子がそうだね。よかった」
 青白い光がふよふよとトマの周りを飛びまわっている。よく見れば光の中心には、宝石のような形状の石――喉笛が浮かんでいた。
「もう、あんたたちには渡さない。ごめん」
「いいよ。約束したじゃないか、僕は君の魂をかならず君の手に返すって。だから、それは君のものだ。持っていって」
 トマの体は冷たかった。オースターは背中を必死になってさする。トマは「くすぐってえよ」と苦笑し、重たげに頭を持ちあげた。
 そして、背後にそびえる喉笛の塔を見上げる。
 塔を囲っている黒い手たちは力なく揺れるばかりで、ふたりに襲いかかる気配はなかった。それどころか、どこか心細そうにこちらに手のひらを向けている。
「大丈夫だ。あいつらは今、おれが抑えこんでる」
 オースターの不安を察知したように、トマが教えてくれる。
「制御できているということ?」
「たぶん。ひとまず、おれに従う気になったみたいだ」
 どういうことだろう。いったい塔の内部でなにが――。
 ふいに、トマの黒い瞳が呆然と立ちつくしているホロロ族たちをとらえた。
 トマは気まずげに目をそむけるが、さまよう眼差しがふとルゥを見つけて和らいだ。
「ルゥ。……あれ、アキ。生きてたのか」
 驚いたように言うトマに、アキは「ふん」と鼻を鳴らした。
 最後に、マシカの存在に気がつく。トマは表情を曇らせるが、決心した様子でオースターの腕の中から離れ、よろめき立った。
「マシカ、おれ――」
 なにかを言いかけるトマを見て、マシカが首を横に振った。
「なにも言うな。……まだ受けとめられない」
 トマは顔をこわばらせ、小さくうなずく。その足元にルゥが駆け寄った。ぎゅっと足にしがみつくルゥのそばにしゃがみ、トマは優しくほほえみかける。
「ルゥの声、聞こえたよ」
 ルゥは目を見開き、誇らしげに胸を張ってほほえんだ。
「マシカの声も、みんなが歌っているのも聞こえた」
 トマはそうつづけながら立ちあがると、へたりこんだままのオースターに手を差しのべた。
「それに、あんたの声もな。オースター」
「僕の声も? ホロロ族じゃないのに……」
「うん。でも、聞こえてた。すっげぇ下手くそだった」
 オースターは顔を赤らめる。トマの手をとって立ちあがりながら、ひとこと言ってやろうと口を開くが、零れでたのは文句ではなく笑い声だった。
「ほっといてよ」
 そして表情を改め、オースターはトマを見据えた。
「トマ。詳しい事情を話してる時間はないんだけど、いろいろとまずいことが起きてるんだ。それで、どうしてもトマの力が必要だ」
「おれにできることがあるなら、なんでもやるよ。なにをしたらいい?」
 あっさりとした言葉に、オースターは息を呑みながら口を開いた。
「ひとまず――あの黒い手たちを、塔の内側に戻すことはできる?」
 麓では戴冠式が行われている。舞台上ではホロロ族が歌っているはずだ。彼らの歌声によって〈喉笛の塔〉の黒い手が消えてなくなる……そういう演出をしなければならない。
 トマは首をかしげ、ふたたび半壊した喉笛の塔を見上げた。
「――おまえら、塔に戻れ。あとでまた話を聞いてやるから」
 ぶっきらぼうだが、労わりに満ちた声で、トマが黒い手に語りかける。
 すると、すぐさま黒い手たちは反応を示した。塔の壁に開いた大穴の内側へとするすると引っこんでいったのだ。
 あっという間の出来事に、オースターが呆然とする。気づけば黒い手の群れはひとつ残らず消えてなくなり、あとにはただ、白亜の色を取りもどした喉笛の塔だけがそそりたっていた。
「魔法みたいだ……」
 オースターが呟いた直後、断崖の麓から大きな歓声があがった。
 戴冠式の会場までは距離がある。だが、停電によって静寂に包まれたランファルド大公国に、市民の歓声は驚くほど大きなうねりとなって響きわたっていた。
「おい、オースター!」
 ぺたりとその場に尻餅をつくオースターに、トマがあわてて身を屈める。ラジェやコルティスまでが駆けつけてくるが、オースターは笑いながら首を横に振った。
「大丈夫。ほっとして、腰が抜けちゃっただけ。トマ、ありがとう」
 トマは困惑した様子で、気恥ずかしげに「べつに」ともごもご言う。
 これで最初の難関はクリアできた。あとはもうひとつ――最大の難局が待ちうけている。
「トマ。北の防衛柵の向こうに広がる〈汚染地帯〉だけど……あちらの〈汚染〉たちも、今みたいに意のままに操ることはできると思う?」
「〈汚染〉を動かす?」
「うん。北の防衛柵の向こうにいた〈汚染〉がどんどんこっちに迫ってきてるんだ。このままじゃ、近く、首都は〈汚染〉に呑まれる。どうにかして、それを避けたい」
 トマの顔がぽかんとなる。
「まじか」
「うん。どう……だろう?」
 トマは眉を寄せて思案げにした。
「わかんねえ。喉笛の塔の〈汚染〉は動かせるけど……北の防衛柵の向こうにいる汚染って、これの比じゃねえだろ?」
 多くの国々を丸ごと飲みこんだ〈汚染〉だ、塔のものとは規模が違う。ランファルド大公国は〈汚染地帯〉の全容すら掴めていない。
「けど、オースターが試してみたいって言うなら、やってみたい。どっちみち、塔の〈汚染〉もどこかに連れていくつもりだったし……けど、どこへ?」
 問われ、オースターは首を横に振った。
「それはまだ。ルピィが専門家たちに話をまとめてもらってるけど……トマにはなにか考えがある?」
 駄目もとで訊ねると、トマは一瞬考えてから、「ある」とうなずいた。
「えっ?」
 オースターは面食らって、トマを見つめる。
「あるの? それはどこ?」
 トマはすっかり日が暮れて星々を灯しはじめた南の空を見つめた。
「南の楽園」
 皮肉げに口にするトマに、オースターは眉を寄せる。
「南って……でも、ここより先には海しかない」
 それも断崖絶壁のはるか下方に海があるだけだ。
「なら、海へ」
 きっぱりと言って、トマはオースターを見つめた。
「前に言うかどうか迷ったことがある。あんまり自信なくて、言わなかったんだけど……いや、今も自信ないし、たしかな話じゃなくて、だからほかの連中にも訊いてみてほしいんだけど……」
 直前のはっきりとした口調から一転、言葉を濁しつつ、トマは思いがけないことを口にした。

「汚染は、もしかしたら水に弱いんじゃないか、って思うんだ」

第65話へ続く…

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