小説(長編小説)金貨と魔人の爪先|第六幕 1



第六幕「領主の邪霊使い」

 ――ひとりはいやじゃ……。
 寂しかった。心細かった。たまらなく孤独だった。
 人の笑い声にあふれた昼の世界で生きられたなら、どれだけよかっただろう。
 けれど、化け物のようなこの身には、「〈昼の民〉とともに生きたい」などと分不相応な願い。
 わかっていた。わかっているのに、夜の砂漠をひとりさまよい歩くのは、たまらなくおそろしかった。
 ――ひとりはいやじゃ……!
 翡翠色の瞳からあふれる涙。
 優しく拭ってくれたのは、眩しいぐらいに白く輝く、魔人の指だった。
 ――ならば、願え。私が欲しい、と。
 ――さすれば、命が尽きるそのときまで、私はお前とともに生きよう。


 白布……。


 愛しい魔人の名が、唇から零れる。
 そのみずからの寝言によって、カッカトーランは眠りから目覚めた。
 ぼんやりした視界。目元をこすると、乾いた涙で目の周りがひりついていた。
「はあー……」
 嘆息。白布の夢を見てしまった。重症だ。
 今晩のうちに帰ってこなければ、これから夜毎、こんな胸苦しい気分で目覚めなければならないのか。
「はああー……」
 カッカトーランはもう一度溜め息をついて、自分の現在地を確認した。
 隊商宿の一室だ。窓から差しこむ夕暮れの光が、それぞれの寝台で眠るタジ族と金貨の寝顔を、茜色に照らしている。
 金貨も、今日合流したタジ族も、微動だにせずに熟睡している。よほど疲れていたのだろう。
 カッカトーランは枕元に立てかけられていた黄金槍を掴み、部屋の外に出る。静かな廊下を歩き、階段をのぼって、建物の屋上に出た。
 カララック山の斜面を真っ赤に染める、太陽。
 見ているあいだに、砂の海へと沈んでいく。
 夜が、来る。
 太陽に嫌われた魔性と〈夜の民〉が跋扈する、恐るべき夜が。
 カッカトーランは、太陽が完全に沈みきったのを見てとり、黄金槍を屋上に積もった砂のうえに突きたてた。
『白布――』
 魔力をのせた言葉を放つ。
『わしはここにいるぞ――』
 砂を介し、言葉は遠く、遠く、地の果てまで伝播していく。
 答えはない。
 気配も感じられない。
 カッカトーランは唇を引き結び、黄金槍に籠めていた力を解放した。
 そして、そのまま部屋に戻ろうと階段まで歩きかけた、そのときだった。
「――!」
 足元から、身を震わせるような殺気を感じた。
 息を呑み、とっさに自分のはだしの両足を見下ろす。
 そこにはなにもない。なにもないが――。
(なんじゃ、この禍々しい魔気は……)
 あの魚の気配だ。不気味なほどにそう直感する。
 だがその力は、これまでの数日と比べても、桁違いにまで増幅していた。


 ――ゆるさない。人間ども……。


 魔気が爆発的にふくれあがった。漆黒の闇が巨大な波紋を広げ、スカルトーガを飲みこんでゆく。波紋に触れた人々は、断末魔をあげる間もなくどろどろに溶けていった。わずか数秒で死に絶えた都は、砂漠にぽっかりと開いた闇の奈落へと落下してゆく……。
「ぎゃああああああ!」
 カッカトーランははっと我にかえる。
 ダブゥの悲鳴。階下の隊商宿からだ。
 カッカトーランはかぶりを振って幻覚を打ち消し、黄金槍を片手に階段を駆け下りた。


「どうしたのじゃ!」
「あ、あああ、あれ、あれ!」
 部屋の扉をあけると、尻餅をついたダブゥがなにかから逃げるように壁に背中をこすりつけ、震える指で寝台のひとつを指さしていた。
 踏みこんだ瞬間、屋上で感じとったあの強烈な魔気が、カッカトーランの体を通りぬけていった。
 だが、屋上で感知したときに比べ、格段にその力は弱まっている。
 不審に思いながら、カッカトーランはダブゥが示したほうに目をやり、そして拍子抜けした。
「なんじゃ、邪霊ではないか」
 金貨が眠っているはずの寝台のうえで、五、六体の邪霊が折り重なり、こんもりとした小山をつくっていた。
『アァ……アア、イイ……匂イ……』
『イイ匂イ……』
 邪霊たちがうめき、ダブゥが「ひぃっ」と身をすくませる。
「白布がいない弊害がさっそく出てしまったのう。……これこれ、離れよ。それでは金貨が息ができんぞ」
 黄金槍でもって邪霊の山を払う。邪霊たちは忌々しげに『邪魔スルナ、魔導師メ』と文句を垂れながら、壁を這いのぼって天井の隅で身を縮める。
 しかし、邪霊が退いて露わになった金貨を目にした瞬間、カッカトーランは息を呑んだ。
 ダブゥもまた口に手を突っこんで、あわあわ、と言葉にならない動揺を口にした。
 寝台に横たわっていた金貨の体は、いつかのときのように極限まで干からびていた。
「……み、ず……」
 目は覚めているようだ、視線だけを動かしてカッカトーランを見つめる金貨。
 カッカトーランはあわてて枕元の水筒を掴み、金貨に駆け寄った。
 金貨は黒ずんだ腕を持ちあげようとするが、力が入らないのか、ぴくりと痙攣を起こしただけだった。
 カッカトーランは水筒を自分の口に運び、一口含んで、金貨の顎を掴んで唇を重ねる。
「うわあ、勘弁してくれよお……っ」
 床に転がったままのダブゥが悲鳴をあげる。
 口移しで慎重に与えた水を、金貨がかろうじて嚥下する。それを何度か繰りかえすうち、金貨の乾ききった体は見る間にもとの瑞々しい張りを取りもどし、今度はダブゥも言葉もなく目を見開いた。
「大丈夫のようじゃの……ふぅ、焦ったのう! 部屋を出るまえはなんともなかったのにな」
 金貨はどこか呆然とした様子で身を起こし、震える自分の手を見つめた。
「ごめんなさ……」
「謝る必要はないと言っているじゃろうに。この水筒は、金貨が持っているといい。あとで水も買い足しておくからの」
 カッカトーランは自失状態に陥っている金貨の背を撫で、ふと、ダブゥの傍らに立つハージブに視線をやった。
「――ハージブ。大丈夫じゃ。刀を納めてくれ」
 尻もちをついたままのダブゥの横で偃月刀を構えていたハージブは、金貨を睨みすえていた。
「ですが」
「おぬしが刀を振りまわせば、部屋中にいる邪霊たちが一斉におぬしに攻撃を仕掛けてくるぞ」
「なぜ――」
「あれらは金貨のことを食べちゃいたいぐらい好いているのでな」
「……なんですかそれは」
 カッカトーランの能天気な言葉に、ハージブは拍子抜けした様子で構えをといた。
 カッカトーランはほっとしつつ、屋上で感じた禍々しい気配がすっかり消えていることに気づく。
(いったいなんなのじゃ、あの魚は)
 カッカトーランは眉間にしわを寄せた。少年との因果関係を見出そうとするが、やはり金貨に関する情報がそもそも少なすぎる。
「ひとり感慨にふけってねえで、今のがなんなのか、俺たちにもわかるように説明してくれよ!」
 ダブゥがかわいそうなぐらい狼狽して叫ぶ。
「邪霊って言ったよな。邪霊って、あの夜になると砂漠をうろうろほっつき歩いている悪霊のことか? じゃ、さっきの魚みたいなでっかい影も邪霊なのか!?」
「――魚を見たのか?」
 はっとして問うと、ダブゥは「見たよ!」と半泣きで答えた。
「黒いどろどろしたもんに呑みこまれる気持ちの悪い夢を見て、目を覚ましたんだ。そしたら、床をでっかい影が泳ぎまわってた。ときどき、真っ赤な目玉が俺のことを睨みつけてきて……あんなおぞましいものを見たのは初めてだ!」
「目玉……。ハージブも見たのか?」
「ええ。魚が現れ、窓から邪霊たちが入ってきて……ダブゥが無様な悲鳴をあげると、魚はどこかへ消えてしまいましたが」
「無様ってなんだよ、余計な形容つけんなよ、ちくしょう!」
 カッカトーランは思案に顔をくもらせる。
(ダブゥが悲鳴をあげて、魚が消えた。……待てよ。わしが魚を見たのはどんなときじゃ?)
 すべて、金貨が眠っているときではなかったか?
(もしかしてあの魚、金貨が寝ているときにだけ姿を見せるのか?)
 ダブゥが悲鳴をあげたことで金貨が目覚めた。それで魚が消えた。
 あれほどの強烈な魔気を放っておいて、今はその気配をほとんど感じない。
 それは金貨が目覚めたから、なのだろうか。
(わからん)
 だが、魚の正体はひとまず置いておくとしても、問題なのは魚の影から感じる魔気が、ここにきて各段に強まっているように感じたことだ。
 スカルトーガに来ることを望んだ金貨。
 スカルトーガに来てから一気に増幅した魚の気配。
(まずいな。わしひとりでは手に負えないかもしれん)
「白布は……?」
 ふと、金貨がつぶやいた。
 まさに白布のことをまたも思い出していたカッカトーランはがっくりと肩を落とした。
「門前市場ではぐれてしまったのじゃ。いずれは戻ると思うが、いつになるかは――」
 金貨は驚いたように顔をあげ、暮れゆく窓の外を見つめた。
「そう……」
 その横顔はどうしたわけか安堵しているように見えた。
(安堵? なぜじゃ。白布がいたほうが安心じゃろうに)
 カッカトーランはぐるぐるする思考にうんざりする。
「考えても仕方ないことは後回しじゃのう。――ふたりとも、改めて紹介する。金貨じゃ。おぬしらと同じ〈昼の民〉じゃが、見てのとおりで色々と問題を抱えているもんで、わしが魔導師として預かっている」
「ざっくりした説明で終わらせるなよ、おい!」
「生まれついて邪霊を呼び寄せる体質なのじゃ。夜になると、ああして邪霊が群がってきてしまう」
「邪霊を呼び寄せる、体質?」
 ダブゥは目を丸くして、金貨と、部屋の隅っこで金貨を愛しげに眺めている邪霊たちとを見比べた。
「そりゃあ……難儀なこったな……」
 金貨がダブゥを振りかえる。ダブゥはぎくりとしたように目を背けた。
 カッカトーランは目を瞠り、ふっと口元に笑みを浮かべた。
(難儀、か)
 あのおぞましい光景を目の当たりにした直後に、金貨の側に立った物の見方ができるとは。
「大した男じゃの、おぬし」
「ぅえ?」
 カッカトーランは「なんでもない」と笑い、おもむろに伸びをした。
「さあて! 睡眠もたっぷりとったし、自己紹介も終わったところで、そろそろバサド族長の救出作戦といくかの!」
 ダブゥとは対照的に、警戒の眼差しを金貨に向けていたハージブが「おお!」と身を乗りだした。
「もうなにかお考えが? どんなことでもやりますから、どうかご指示を」
「うむ。とりあえず……」
「「とりあえず!?」」
 声をそろえるタジ族ふたり。
 カッカトーランはにぃっと笑って簡潔に言った。
「タージャ・ミラルカに会いに行く」