藪椿

05

 佐々木の手には一冊の本が乗せられていた。数日前、彼を外国の世界へと誘った、海外の書籍だ。
 表紙をそっと撫ぜてみる。だがあの日のように、外国の風景が頭をよぎることはなかった。
 佐々木は頭がずきりと痛むのを感じて、額に手を押し当てた。梅雨が近いこの時期は、いつも体調を崩す。
 何を、夢見ていたのだろうか。
 痛みに耐えかねて吐き出した息の下で、彼は自問した。
 安城氏との話も、大学院の研究生の話も、どうでもいい。
 だが、外国に行ってみようかなどと、よくも夢見られたものだ。
 佐々木は目の奥から痛みの塊を取り出すように、目蓋越しに右目を強く握った。
 気づいてしまった。自分の行く末をまるで見ていない己自身に。
 いつの間にか、香子の夢に乗ることで、自分も逃げられる気がしていた。
 何て愚かな勘違いをしていたのだろう。
 自分は外国になど行けない。
 外国に行くのは香子だ。
 自分はここに取り残されるのだ。
 再び、見えぬ未来を暗中模索して、佐々木の家名を継がせんと持ち込まれる見合い話から逃れ、古寺に駆けこんでは、また変わり者と詠われる。逃れられなどしないのに。決して、逃れることなどできはしないのに。
 その時、彼は背筋に視線を感じた気がして、身を震わせた。
 ぞくりとした。顔から血の気が失せる。
 息を殺して肩越しに背後を振りかえると、白い襖がぼぅっと浮かび上がった。
 あの日、香子が襖を振りかえったことを思い出す。そして今、佐々木は襖の向こうに父の気配を感じた。冷たい目が全身に絡みつく気がして、戦きにじりりと後ずさる。
 確かめなければ。襖の向こうに、本当に父がいるのかどうか。
 佐々木は懸命に身を起こして、崩れ落ちそうになる両足で襖の前に立った。
 恐ろしかった。襖自体が生き物であるかのように脈打っている気がする。
 いや、実際襖の表面に、青い血管が浮かんでいるのが見えた。どくり、どくりと脈打つに合わせて、血管の中を血の濁流が流れていった。襖の中央に横一文字の亀裂が走り、切り口から血が溢れ出す。亀裂はやがて巨大な唇となり、佐々木を呑みこもうと涎を垂らしながら牙だらけの口を開いた。
 声にならない悲鳴を上げ、両腕で顔を隠した。背後に逃げようとして、己の足に絡まって背中から転倒する。まともに背を打ちつけ、一瞬、呼吸が止まった。
 ――自分は逃げられない。
 ――たとえ外国に逃げたとしても、いったい何が変わるというのだ。
 顔を覆う両腕の下で、佐々木は歯を食いしばった。
 ただ海を越えるというだけだ。漂う空気はどこに逃げても同じだ。佐々木家に滞留する冷たい空気は、外国に漂うそれと同じではないか。
 逃げ出して、見知らぬ海岸で吸う空気はどこから流れてきたのか。それは、いつか父が吐き出した空気の一欠片ではないのか。どこに逃れても、自分は父の吐いた空気の中にいて、父の吐いた空気を吸い続けなければならない。
 極端な妄想に苛まれて、佐々木は息苦しさに喘いだ。脂汗が浮き上がり、吐き気に襲われる。気づけば襖の化物は消えてなくなっていたが、それは安堵をもたらすより、幻覚まで見始めた己の奇怪さを自覚させ、深く心を傷つけるだけだった。
 息が苦しい。袂を握りしめ、浅い呼吸を繰りかえすが、上手くいかない。夏の暑さに苦しむ犬のように、口を開いて空気を求めるが、身体が吸い込むことを拒否している。
 ああ、この世界から、逃げ出したい。
 苦しさのあまり、目尻に涙が浮かぶ。
 生まれる場所を間違えたのは、きっと香子。
 けれど佐々木は、生まれる世界を間違えてしまった。
 香子が羨ましい。逃げ場所を見つけた香子。間もなくそれは成功する。
 何故、協力などしているのだ。
 香子が逃亡に成功するのを見て、自分は何をしようというのか。
 船に乗り込むその袖を惨めに掴んで、自分も連れて行ってくれと泣き叫ぶのか。
 香子の逃亡は、自分がここに残ることで初めて成功するというのに。
 佐々木は固く目を閉ざした。
 涙が頬と伝うとともに、意識が急速に、見知らぬ闇へと落ちていった。

 一人、佐々木は闇の内に立っていた。
 光の点らぬ瞳で足元を見つめる。
 何もない世界。夢だろうか、現だろうか。いずれにしても、ここにはただ闇しかない。
 静かだった。ここには佐々木の家も、厳格な父も、蔑みの目をした家人も町の者もいない。恩師であるがゆえに気を使わねばならない柴崎もまた、いないのだ。
 だが、これが自分の居場所だろうか。
 こんなにも寂しい場所が、自分の居場所なのだろうか。
 佐々木は闇を見つめ、安楽と空虚を同時に覚えた。
 自分は、人の流れから外れている。
 外れたいわけでは、決してないのに。
 置いてゆかないでくれ。
 佐々木は心細さに顔を歪め、子供のように涙を流した。
 置いてゆかないでくれ。
 不意に目の前に、ぼんやりと小さな明かりが灯った。
 鮮烈な紅色をした、小さな提灯だ。
 いや、違う、あれは――藪椿。
 藪椿の濃紅色が、闇に金粉を散らして、くるくると回転している。
 いや、それとも白い日傘だろうか。眩しい太陽光を弾いて、美しく回っている。
 苔むした石段が、目の前に伸びていた。
 藪椿は石段の中ほどにいる。
 佐々木は走り出した。途端に竹の棒に遮られ、立ち往生する。
 目の前で、石段が音もなく崩れ始めた。石の欠片を撒き散らしながら、ゆっくりと足元の闇へと落ちてゆく。
 一緒になって、日傘が、椿が、回りながら落ちていった。
 手を伸ばした。竹の棒が邪魔で、まるで届かない。
 椿が、落ちてゆく。
 自分を一人、こちらに残して。
 置いてゆかないでくれ。
 佐々木は叫んだ。情けなく悲鳴を上げて、椿に両手を伸ばす。
 椿の明かりが消えて、再び闇が佐々木を覆い始めた。
 佐々木は必死に泣きながら、もう一度叫んだ。

 置いてゆかないでくれ!

 何かを掴んだ。その実感を左手に覚えて、佐々木は目を見開いた。
 熱に眩む目を傍らに向ければ、自分を見下ろし、驚いた顔をした香子がいた。
 雨の音がした。強い湿気と畳の香りが鼻先をかすめ、佐々木はようやく自分が自室に敷かれた布団に寝かされていることを理解した。
 相変わらず、左手には何かを掴んだ感触がある。目で辿れば、自分の左手は、畳に押しつけるように強く、香子のか細い左手を掴んでいた。
「よかった、目を覚ましたんですね」
 硬直していた香子が緊張を解いた。佐々木は不鮮明な視界の中で、それを見つめる。
「秋宏さん、倒れていたんですよ。さっきまでお医者さんもいたんです。高い熱が出て、ずいぶんとうなされて」
 香子は言いながら枕元の水桶に手を伸ばそうとして、気後れした様子で口を開いた。
「あの、秋宏さん。手を……」
 ――これも、「ふり」なのか。
 佐々木は熱のためか、散り散りになる思考の片隅で思う。
 外国に行くため、香子は見合いが上手くいっているふりをする。今、また臥せった佐々木の枕元に座して、手拭いを水桶に浸そうと手を伸ばす。これも全てふりなのか。
 何かが堰を切って溢れそうになる。
 佐々木は苦しさから逃れるように、掴んだままの香子の手を、尚のこと強く、握った。
 香子が戸惑いに眉を下げた。白いうなじが、頬が、耳の縁が仄かに朱に染まる。
 香子は悲しげに顔を背けると、消え入りそうな声で言った。
「……佐々木さん。痛いです」
 佐々木さん。その呼び名に何故か打ちのめされた。
 激しい羞恥と、相反した空虚な感情が襲ってくる。香子の手を離すと同時に、佐々木は身を反転させて背を向けた。
 閉ざした襖の向こうから聞こえる微かな雨音が、室内の静寂を引き立てる。
「あの、私、あれから考えたんですが……」
「いつ、思いつくんですか」
 香子が何かを言おうとした。佐々木は突き放すような険しい声音で彼女の言葉を遮った。
「え?」
「失礼な方法、早く考えてください。貴女の身勝手に付き合って、いつまでこんな茶番を続ければいいんですか」
 張り詰めた沈黙が下りた。
 背にして見えないはずの香子は、どこか泣いているように感じられた。
 けれどそれは幻想だ。全てが嘘で塗り固められた縁談、変わり者を聡明な子と誉めそやした大人たちと同じだ、真実などどこにもない。
 これ以上、惨めな勘違いをするな。
「……分かりました」
 す、と香子の立つ気配がする。
「一週間ください。一度、東京に帰り、準備を整えます。……また来ますから」
 何も答えぬ佐々木の頭の上を、衣擦れの音が去ってゆく。畳の上を静かに歩いてゆく足音。雨の音に似た静けさで、香子は去ってゆく。
 やがて襖が開かれ、また閉ざされて、部屋には本当の静寂が残された。
 佐々木は布団の中で身を丸め、力なく目を閉じた。
 これで、いい。
 彼女が口にしかけたことなど、聞かなくていい。
 香子は、自分を置いて、外国へ行くのだ。
 あの光に溢れた、海の向こうの大陸へ。
 白い日傘を楽しげに回し、太陽のような眩しい笑顔を浮かべて。
 それでいい。
 そして自分は、佐々木の家を継ぐ。

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