藪椿
06
それから一週間が経ち、佐々木はようやく床から上がれるようになっていた。
外では鬱蒼と降り続ける雨が、激しさを増して地面を打っていた。時折、轟と風が吹く。遠くでは雷雨となっているようで、ぞくりとするような空の唸りが微かに聞こえてきた。梅雨入りしたのだ。
佐々木は文机にもたれ、手元を見つめた。
そこには、三日ほど前に届いた手紙が置かれている。香子からだ。
失礼な方法を思いつきました、と相変わらず取り留めない文章で書かれていた。
今日は約束の日だった。この日を境に、香子と佐々木は見知らぬ他人に戻る。いや、最初から見知らぬ他人同士だったのだが。
気持ちは、落ち着いていた。
熱の引いた今となっては、あの日の取り乱し様が恥ずかしかった。
香子には可哀相なことをした。いつも佐々木がいくら毒舌を吐こうと、香子は気にした様子ひとつ見せなかったが、あの日はきっと傷つけた。もっと他に言い様があったはずなのに、余裕がなく、鋭い刃で斬りつけるしかできなかった。
できることなら頭を下げて謝りたかった。
だが、その機会はもう来ない。
今日、香子は例の失礼な振る舞いを佐々木にする。自分にはあの日の言い訳をしてみせる時間などないだろう。
だがそれを除けば、少しだけ楽しみでもあった。ただでさえ失礼な香子が、どんな失礼は方法を思いつくのか。香子の言葉を借りるならば、それはとってもとっても失礼なことらしいから、置き去りにされる共犯者として、それぐらい楽しみに思っても良いはずだ。
佐々木は口許に微かな笑みを浮かべた。
上手く行くといい。
今は素直に、ただそう思う。
役割上、笑って見送れないのが残念だ。
夕刻が過ぎた。雨雲に隠された太陽は、もう山縁に沈んだ頃だ。
雨音が増してゆく。佐々木は手紙を文箱に置くと、立ち上がり、庭に面した襖を開けた。途端に吹きつける霧雨交じりの風に、腕を持ち上げ顔を隠す。
約束の時間はとうに過ぎていた。
香子は、現れない。
佐々木は口元に拳を当てて、眉間に皺を寄せる。
これもすでに「失礼なこと」の一環なのだろうか。巌流島の戦い、馬鹿らしいことを思いつく。小次郎と武蔵の決戦の舞台、巌流島。武蔵はわざと遅れて、小次郎を苛立たせることでその太刀筋を乱れさせた。そういえば小次郎の姓は佐々木だ、と彼は首を傾げる。
だが、そんなことなのだろうか。
胸騒ぎを覚えていた。それはどこか予感にも似ていた。
そして夜の帳が庭先に下りた頃、庭の闇にちかりと何かが瞬くのが見えた。塀を挟んで向こうの通りを走る、自動車の前照灯だ。
佐々木は気づけば身を翻していた。
玄関に滑りこんだ佐々木は、そこに人影を見つけて、息を呑んだ。
三和土に濡れすぼった姿で立っていたのは、柴崎だった。
「柴崎先生」
柴崎はぎくりと顔を上げた。
彼は佐々木の顔を認めるなり、転げる勢いで玄関の板間に膝を折った。極度の混乱状態に目を剥き、立ち尽くす佐々木の足首を掴んで、額を床に叩きつけるように頭を下げる。
「佐々木君、すまない……!」
ぞっとするほど切羽詰ったその声音。
佐々木は棒を呑んだように立ち尽くした。
「すまない……!」
柴崎の到着を遅ればせながら知った下働きが、廊下を歩いてくる。騒々しさに、母までが奥間から顔を出した気配がした。その間も、佐々木は身動き一つできなかった。
柴崎が衝動に任せて佐々木の足首を強く揺さぶる。
列車がどうのと言っている。東京からの列車が脱線事故を起こしたのだと。
それには、香子が乗っていた。
香子が乗っていて、そして――。
背後で母が息を飲むのが分かった。下働きたちが慌しく廊下を駆けて、柴崎のために乾いた布を用意する。柴崎は人の好い顔を雨と涙で濡らして、きっと自分でも何に謝罪しているのか分からぬまま、自分のせいではないことを繰り返し、繰り返し、詫びていた。
何故、柴崎が詫びているのだろう。
詫びる役は、自分のはずなのに。
佐々木は霞がかった意識の向こうで、思う。
震える手で顔を覆う。指の間からは、なおも柴崎が泣きながら謝る姿が見えていた。
背後の母が気遣うように、背を撫でた。
刹那、佐々木はそれを振り払った。
柴崎が呆然と顔を上げる。足首を掴む恩師の手を強引に引き剥がして、裸足のまま三和土に下りる。柴崎の脇を通り過ぎ、閉ざされた玄関の引き戸を開け放った。
「佐々木君!」
柴崎が声を上げる。
「佐々木君――!」
佐々木は引き戸を乱暴に閉めると、降りしきる雨の中へと飛び出した。
凶暴な雨だった。町を押し潰さんと低く垂れこめた暗雲に、時折、稲妻が閃く。冷たい雨は地面をぬかるみに変え、走るたびに足の爪に土が食いこむのを感じた。
香子はやはり失礼な女だ。
雨を切って走りながら、思う。
ひどく失礼な上に、大嘘つきだ。
外国に行くと言った。そのために見合いが上手く行っているふりをするのだと言った。今日は佐々木に失礼を働くのだと、そう言ったくせに。
踏み散らした水たまりが跳ねて、着物の裾を汚す。幾人か、傘をさした人々とすれ違うが、彼らはいつもの蔑みの目を向けてくることもなく、ただ足早に過ぎ去っていった。
角を幾度か曲がり、四辻を左へ折れると、見慣れた坂道が現れる。家並みはまばらになり、庭木とは異なる太い幹を持つ樹木が頭上に張り出した。枝々は雨を遮るどころか、膨れ上がった雨粒を地上へと撒き散らしていた。やがて人気のない、雨に霞んだ街路とぶつかるが、今日は日曜日だというのに観光客の姿はなかった。こんな雨では当たり前だ。いや、すでにもう夜なのだ。そんなことすらまともに分からない。
時間の感覚が失せてゆく。
体に当たる雨すら感じない。
佐々木は目を閉じる。
目蓋を閉じたまま、闇の中を駆けてゆく。
次に目を開けると、目の前には苔色に濡れた石段があった。
雨飛沫が石段を真っ白に煙らせている。苔の間を雨水が滔々と流れる様は、まるで岩清水のようで美しかった。
佐々木は竹の棒にしがみつき、そのまま泥の中に膝から崩れ落ちた。
「あの、嘘つきめ……っ」
涙が止め処なく溢れ、雨と混じって頬を流れ落ちてゆく。堪えきれずに上げた嗚咽は、濁流に似た轟音に掻き消され、自分の耳にも届かない。
香子はただ、外国に行きたかっただけだ。
違う世界を望んでいたのは、自分の方だったのに。
香子はどんな失礼な方法を考えていたのだろう。あのとびきり突飛な共謀者が考え出した、佐々木を憤慨させるほどの失礼とはいったい何だったのだろう。
知りたかった。教えてほしかった。たとえ置いてゆかれても。それでも香子が外国のどこかで笑っていられるのなら。香子が、この世界のどこかで笑っているのなら。
もう、それでいいと思っていた――。
『潔い花だとよく言われます』
記憶の向こうで、香子が笑った。
『花びらを散らすのではなく、一番美しい時に、花の形のまま落ちるので』
佐々木は涙を流したまま、雨に濡れた石段を見つめた。
真っ白に霞む視界の向こうに、ぼんやりと何かが浮かびあがる。
椿だ。
目を見開く。思わず手を伸ばし、指先が竹の棒に触れて、我に返る。
詰めていた息を吐き出すと、季節外れの白い息が漂った。まさかという思いに息を詰める。それでも目を眇め、吐き出した息の向こうに目を凝らすと、石段の中ほどにはやはり椿が落ちていた。
――それとも。
佐々木は見開いていた目を、涙で滲ませる。
――それとも、香子は成功したのだろうか。
椿が散るがごとく、鮮やかに、潔く、この世界から去ってみせた。
『ほとり、と落ちるんです』
軽やかに回る白い日傘。羽のように軽い香子。
ほとり、と、優しく散っていった。
佐々木は立ち上がった。
顔を上げれば、苔むした石段が闇空に向かって伸びている。
異次元だ。
十一年前、たった一本の棒によって封鎖されてから、誰一人足を踏み入れぬ異空間。
椿は、やはりあの時、消えたのだ。花の形のまま散り、そして異次元へと落ちていった。そして今また何処より現れて、ぼうっと紅色に輝いている。まるで、佐々木を誘うように。
――柴崎は、悲しむだろうか。
佐々木は椿を見つめたまま、透明になってゆく心の片隅で思った。
――思いがけず優しく肩に触れた母も、あるいは父もまた、最後まで期待に沿えなかった息子のために涙を流すだろうか。
そうでなければいい。自分などのために、彼らが悲しむ姿など見たくはなかった。
それは最後の願いで、そしてもう、未練はそれしかなかった。
佐々木は目の前を遮る竹の棒をぐっと持ち上げると、傍らの闇へと投げ捨てた。
思わず、笑い声が零れた。あっさりと外れた竹の棒は、やはり石段に立ち入ろうとする人間を、「入るな」と押し留めるものではなかった。ただ、「ここは通れませんよ」と伝えるためだけに架けられていたのである。
それで十分なのだ。最初から、誰も押し通ろうなどと考えない。自分以外には、きっと、誰も。
やはり自分は、変わり者だったのだ。佐々木は笑った。
石段に足を踏み入れると、雨に濡れた苔が裸足の足裏にひどく滑った。
二段目に片足をかけた途端、丸みを帯びた段に足を取られ、危うく爪を剥がしかけた。
三十四段だ。思い返して、佐々木は天を仰いだ。この石段は、三十四段ある。
闇空から白い水滴が無数の線となって降り注ぐ。それは身を貫かんとする幾億もの矢に見えた。
五段、六段、七段。
十一段、十二段、十三段、十四段。
石段の傍らを見ると、雨の中でも不思議と存在感のある低木が彼を迎えた。藪椿。今は花の咲かぬ、椿の樹。戯れに葉を茎の根元から千切って弄ぶ。指先でくるりと回すと、香子の日傘が脳裏で回った。
段を数えて登る佐々木の前には、闇にぼんやりと灯った紅提灯。
いや、あれは――藪椿。
二十三段、二十四段、二十五段、二十六段。
古びた石段の崩れる音がした。
登る先から足元が崩れ、後にはもう引き返せない。
佐々木も、振り返りはしなかった。
二十八段、二十九段、三十段、三十一段。
彼は微笑んだ。
三十二段。
闇に灯る藪椿に、両手を差し出す。
三十三段。
椿がぼうっと輝いた。
三十四段。
石段が崩れた。
ぽっかりと、闇が口を開く。
落ちる
椿を、
捕まえた。
散ってゆく
花の形のままに。
そして、
足裏には、
存在しないはずの、
三十五