藪椿

04

 香子との奇妙な共謀が始まり、二週間が経った。
 その日も佐々木は、自室で香子の来訪を待つともなしに待っていた。
 佐々木は少し笑う。香子を待つということが日課になっている今の自分が、可笑しかった。会った当初は水に油とすら思ったが、今となっては変人同士、妙な連帯感を覚えている。
 外では梅雨の気配が、大気を湿らせていた。不穏に葉をざわめかせる庭の木々、雨の予感を覚えて軒の向こうを見上げれば、灰色の雨雲が空に垂れこめていた。
 気だるい蒸し暑さに着物の袂をゆるめて、佐々木は書棚から海外の翻訳物を手にとった。
 ぱらりと頁をめくれば、もう幾度も読み直しているために、結末までが一気に頭に蘇ってきた。
「外国、か」
 香子の口にした響きが脳裏をよぎる。
 佐々木は挿絵のある頁に手を重ね、目を伏せて想像をしてみた。
 外国の乾いた空気。太陽の照りつける道。白い壁、青い屋根、空に高く伸びる煉瓦の煙突。路地から見上げる洒落た窓辺。恰幅のいい人々は、誰もが笑っていた。大きな口をさらに大きく開いて、目尻に皺が出来るほど豪快に。
 香子も笑っている。威勢の良い人々に囲まれて、白い日傘の下、花咲くように笑っている。
 佐々木は目を開け、苦しげに微笑んだ。
 香子が羨ましい。
 すでに自分の居場所を見出している香子が、羨ましかった。
 佐々木はどこかの国の港町を模写した版画絵を、じっと見つめた。
 自分にも行けるだろうか。焦がれるように思う。香子のように外国に行けば、どこかでここが自分の生きる地と胸を張れる場所が見つかるだろうか。
 我知らず、溜息が漏れた。
 その時、玄関口から来客を知らせる声がした。
 佐々木は本を書棚に戻し、廊下への襖を開けた。

「君たちが仲良くしていると聞いて、我が事のように嬉しいよ」
 道で偶然会ったのだと言って、香子とともに現れた柴崎は、本当に嬉しそうだった。
 柴崎の言葉を受けて、佐々木は当然のように隣に座っている香子に横目を向けた。香子は遠慮もなしに、柴崎持参の栗きんつばを頬張っている。
 どちらかと言えば、恩師を前に礼儀作法も忘れて菓子を食らう姿に呆れていたのだが、柴崎は彼の目線を違う意味に取ったようで、むず痒そうな笑い顔になった。
「いやあ、まいった。嬉しいねぇ。嬉しいじゃないか、佐々木君!」
「はぁ」
「美味しいです、柴崎教授」
「それは良かった! 実に良かった、香子君!」
「はい、教授」
 心なしか、会話の方向性がずれている気がしたが、当の本人たちは気づいた様子もない。
 楽しげに手を打つ柴崎を見て、佐々木はわずかに良心の呵責を覚えた。こんなにも手放しで二人の行く末を喜んでくれているというのに、佐々木と香子は二人揃って柴崎を騙そうというのだ。
 だがそう思いながらも、佐々木はどこか可笑しさも覚えていた。
 恩師や周囲の人間に、かつてこれほど大胆な嘘をついたことがあったろうか。いつも人の顔色を伺っては、従順に従ってきた自分が、誰かを騙すなど。
 申し訳ない。だが、隠しようもなく楽しい。
 佐々木はゆるむ口許を隠して、軽く咳払いをした。
「秋宏さんは、変わった方ですよ。毎日、とても楽しいです」
 柴崎と話の途中だったのか、我に返った時には香子がそんなことを口にしていた。
「学内でも評判の変わり者だよ」
「町中でも評判のようですけど」
「真性の変わり者ということだね」
 口を挟まずにいると、好き勝手に言いだした。香子につられてか、柴崎も普段、佐々木とだけ会話をする時より、はるかに舌先がゆるんでいるようだった。だが嫌な気はしない。町中で子供に「変わり者」と指をさされるだけで、気を塞いでいた自分が嘘のようだ。
 柴崎がクツクツと丸い肩を震わせた。
「いやしかしね、変わり者と言うのは、時に思わぬ発想を生むものだよ、香子君。先日の研究会の資料作成を手伝ってもらっている時にもね、随分と勉強させてもらった」
「そうですか。すごいですね」
 佐々木は恩師の突然の賛美を受けて、言葉に窮した。
「あ、いえ、あれは……先生が」
「照れているんですか、秋宏さん?」
 香子の指摘に耳まで熱くなるのを感じて、佐々木は顔を背けた。
「……君は、」
「香子、です」
「か……」
 出会ってからさすがに二週間だ、最初に言われた通り、普段は香子を名前で呼んでいる。だが普段通りに「香子」と口にしようとした途端、柴崎と目が合った。微笑ましげにうなずかれ、佐々木は口を開閉させた。
「佐々木君」
「は、はい」
 いつになく動揺している佐々木を見つめ、柴崎は笑んだまま、真摯に目を細めた。
「安城氏が、君に会いたいと言っている」
 その瞬間、隣にいる香子が肩を震わせたのが、わずかに触れあった衣服を通じて分かった。
「それは、見合いの件ででしょうか」
「いや、香子君との話もそうなのだがね。前に話したろう、研究生に推薦したいのだと。酒の席で、安城氏に軽くその話をしたのだが、興味を持ったようでね。固い話は抜きにして、一度、東京の方に顔を出さないかとのことだった」
 佐々木は戸惑った。確かに柴崎は大学院の研究生に佐々木を推薦したいと、以前に話をしていた。
 忘れていたわけではない。いや、自分は忘れていたのだろうか。
 そもそも柴崎が安城との縁談を薦めたのは、佐々木に学界で名を上げる機会を与えるためだった。
 ひそかに香子に目を向けると、香子は正座の上で拳を固め、目を見開いたまま小さく震えていた。
「その件ですが、少し、考えさせていただけませんか」
 香子を視界に捕らえながら、佐々木は躊躇いがちに断りを入れた。柴崎は意外そうな顔をした。
「それは構わないが、どうかしたかね?」
「いえ、少し、色々と話が急で」
 言葉を選んで慎重に答えると、柴崎は疑いを持った様子もなく、ああ、とうなずいた。
「君は急な話が嫌いだからね。分かった。だが研究生の件は、気があるならば少し急ぐ必要があるが」
「はい、すみません……」
 謝罪を口にした途端、佐々木は混乱した。
 ほんの数ヶ月前、見合い話を持ち出されたとき、佐々木は幾度も柴崎に「すみません」と頭を下げた。見合い話から逃れたいがために、幾度も幾度も。まるで見逃してほしいと言わんばかりに。
 一体いつの間に、これほどこの見合いを、いや、香子と共謀して見合いを潰す計画を、楽しんでいたのだろう。
 佐々木は心の奥深くで、何かが軋むのを感じた。何かは分からない、ただそれはひどく心をざわつかせた。深く考えてはいけない。正体の分からぬその何かはきっと、佐々木を闇へと呑みこむ類のものだ。
 視線を隣へと移せば、うなだれた香子の顔からは血の気が引いていた。
 香子は知らなかったのだろう。この見合い話の側面に、佐々木の研究生昇格の話が隠されていたことに。そして柴崎の話を聞き、きっと気がついた。
 己の提案が、香子に輝く未来をもたらすのと同時に、佐々木の未来を潰すのだという事実を。
 佐々木は、小さく震える香子を哀れに思った。柴崎がいなければ、そうではないとすぐにでも言ってやりたかった。佐々木は学界に関心があるわけではない。そのために見合いを受けたわけでもない。ただ逃げたかった。逃げたくて逃げたくて、逃げられなかっただけだ。本当にそれだけだったのだ。
 そう。自分の行く末など、少しも――。
 佐々木は目を見開いた。
 呼吸が止まる。
 今、触れるまいとしていた何かに、触れた。
「まあ、何にしろ急な話だった。少し時間を置こうじゃないか。おっと、すまない。今日のところは僕はこれで失礼するよ。もう一軒寄るところがあってね。すっかり話が弾んでしまった、間に合うかな…」
 柴崎は懐中時計の蓋を慌しく閉じ、鞄を取りしな立ち上がった。香子が慌ててよろめき立つ。
「あ、お送りします、教授」
 か細く言って、香子は部屋を去る柴崎の後を追った。
 佐々木は中途半端に腰を上げたまま、震える唇に拳を押しつけていた。
 香子が半ばまで廊下に出たところで、足を止めた。
 物言いたげに口を開き、また閉じる。
「私も、一緒に失礼しますね、秋宏さん」
 ようやく漏れた言葉は、彼女の細い肩と同じく震えていた。
 黒髪を揺らして襖の向こうに消える香子を見送り、佐々木は深々とうな垂れた。

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