藪椿

03

 香子が言う「上手くいっているふり」は、佐々木の考える「会っているふり」ではなく、どうやら「仲の良いふり」という意味だったらしい。それを実行に移すように、香子は毎日佐々木の家を訪ねた。
 最初は鬱陶しく思っていたのだが、あまりに毎日なので、次第に慣れた。慣れてみると、香子の歯切れの良い物言いは、嘘と丸分かりのお世辞ばかりを耳にしてきた佐々木には、どことなくほっとするものを感じさせた。
 何よりも、香子には遠慮がいらない。毒舌を吐こうが、疑り深い性格を剥き出しにしようが、まるで気にする様子がないのだ。「秋宏さんは偏屈ですね」と言う香子に、「貴女は不躾です」と返すのは、もはやただの挨拶代わりだった。
 香子の開けっぴろげな性格は、東京では珍しくもないのだろうか。少なくとも、佐々木の故郷では異質だった。事前の約束もなく、気安く家を訪ねてくる香子を、母ははしたないと感じているようだ。主人がそうだからか、下働きの者たちまで香子とあからさまに距離を置いた。
「妙ですね」
 小さいが、よく整った自宅の庭を前に、佐々木と香子は縁台に腰かけている。
「家人が、私以外にあのような態度を取るのは、初めて見る」
「私は、少し変わっているようです」
 香子はあっけらかんと打ち明けた。
「東京でもそうですよ。友人と話をしていても、何となく噛み合わないんだそうです。変だと顔をしかめられます。私もそうだなと思います」
「そうですか?」
 佐々木は首をかたむけた。確かに変わっているとは思う。大いに不躾で、あまりに開放的すぎる。だが、家人に自分と同じ扱いをされるほどとは思えなかった。
「私、生まれてくる場所をきっと間違えたんです」
 佐々木は目を見開いた。
 言葉を失っていると、香子は書棚から勝手に取り出した夏目漱石の『こころ』を気まぐれにめくって、「この小説、難解ですよね」と小首をかしげた。
 からかっているのだろうか。疑り深い性分が、香子に用心の目を向ける。何かの拍子に佐々木の心の内を知り、彼を試そうとしているのではないか。
 だが香子は佐々木の薄暗い眼差しに気づいた様子もなく、独り言のように続けた。
「外国に行きたいんです」
「外国、ですか」
「欧州でも、アメリカさんでも、どこでも。きっと私の気質は、海という檻に篭もって、こぢんまりと身を寄せ合って育まれた日本の文化には、合っていないんです」
 確かに、奥ゆかしさとは無縁の香子には、海に押し潰された島国よりも、どこまでも陸地の続く大陸の文化のほうが合っている気はした。
 佐々木はしばらく香子を見つめ、嘘を言っている気配がどこにもないのを見てとり、小さく息をついた。
 まさか、自分と似たような考えを持つ人間が他にもいるとは、思いもしなかった。
 しかも外国とは。そんな考え方もあるのかと内心で驚く。どこかに逃げ出したいと思い続けてきたが、その選択肢に外国があるとは思いもつかなかった。
「だから、見合いを断りたいんですね」
 不思議な直感を覚えて佐々木は訊ねた。香子はうなずいた。
「実は、外国へ渡る資金はもうあるんです。必要な準備もだいたいは。あとは家出でも何でもして、こっそりと旅立つつもりでした。そこへ柴崎教授からお見合いの話が来たので」
 香子は困ったように笑った。
「父はとても乗り気で。私のような変わり者をさっさと片付けてしまうには、絶好の機会だったのでしょう。……あ、すみません」
 よりにもよって当の見合い相手に、見合いは変人処理の絶好の機会などと、さすがに悪いと思ったようで慌てている。佐々木は苦笑した。
「いえ、私の家も同じようなものです」
「……ええ、そういう感じですね」
 彼女は背後の襖を振りかえって神妙に答えた。
 佐々木はぞくりとした。香子の挙動は、まるで襖の向こうに誰かがいるとでも言いたげだった。
 誰だろうか。聞き耳を立てる下働きか。それとも、幼い頃からじっと彼を見つめ続ける、父親だろうか。
 佐々木は不意の息苦しさに見舞われた。父の目はいつも佐々木を追い詰める。期待に沿わぬ子供を責めているようで、それでいて、なおも執念深く期待を続けるねっとりとした目だ。
 正気を保とうと拳を固く握り、自分自身に言い聞かせる。馬鹿なことを考えるな。休日でもないのに、父が家にいる訳はない。襖の向こうに立っているはずがない。
 香子は佐々木の狼狽には気づかず、先を続けた。
「父には外国に行きたいとは言っていないんです。絶対に反対しますから。父にとっての理想の女性は、名家に嫁ぎ、黙って主に仕えることなんでしょうね。だから家出をするつもりでいたんですが…お見合いの話が入ってしまったので。お気づきですか? この縁談、本当はもう確定したようなものなんです。私にも、きっと秋宏さんにも、断れる話ではないんです」
「それはそうかもしれません」
 薄々と感じてはいた。柴崎から打診があったのが冬、実際に香子が来たのは初夏だ。ずいぶんと時間が開いている。恐らくは両家の間で、本人たちを無視した話し合いが行われていたのだろう。だとすれば見合いは形式的なもので、結婚はもはや決定事項である。
「そんな中で家出なんてしたら、私はともかく、父や柴崎教授、秋宏さんの世間体も悪くなってしまいます。私が家出した原因は、佐々木家にあったのではと邪推する人もいるでしょう」
「それで、上手くいっているふりをして、どうしようと?」
 佐々木は問いかけた。もう幾度も会っているのに、ようやく「ふり」の理由に興味が湧いたのだ。
 香子がどのようにしてこの世界から逃げてゆこうというのか、その手段を知りたかった。
「見合いは順調、父も柴崎教授も、佐々木家の皆さんも安心。そんな中で、私は秋宏さんに何か失礼を働きます。それは本当にとってもとっても失礼なこと、の予定です」
 まだ思いついていないようだ。
「秋宏さんは憤慨して、あんな女と見合いなどお断りだ、と宣言します。父は娘の愚かさに激怒するでしょう。きっと事態を収拾するため、…というよりは自己保身のために、私を勘当するはずです。それで佐々木家は溜飲を下げ、父も何とか面子を保ち、柴崎教授は被害者ということで片付きます。そして勘当された私は、安城の名を捨て、外国へ。世間の人は、香子はやっぱり変人だったと罵って、秋宏さんに同情するはずです」
 ずいぶんと大雑把な計画だった。佐々木の役どころにしても、彼の性格を考慮に入れて考えた計画ではなかったのだろう、ずいぶんと勇ましい設定になっている。
 だが上手くやれば、そういう流れになるだろうことは容易に想像がついた。
 香子もまた、安城家の名を背負っているのだ。
「秋宏さんにはご迷惑をかけますが、ごめんなさい」
「いえ……」
 佐々木にも見合いを上手く断りたいという打算があるのだ。それに今の話ならば、世間の注目が薄れるまで、次の見合い話は来ないだろう。それは決して悪い流れではない。
 ――それに何より、香子が逃亡に成功するかどうかを見てみたい。
「上手くいきますよ、きっと」
 佐々木は気づけばそう口にしていた。
「はい」
 香子は素直な喜びを、顔に咲かせた。

 香子はそれからも頻繁にやって来た。たいていは部屋で本などを読み交わしていたが、時には外に出て、映画や博物館などを渡り歩くなどして、せいぜい「ふり」を楽しんだ。
 人嫌いの佐々木が、香子を連れてあちらこちらと出歩くことに、家人はずいぶんと驚いたようだった。だが佐々木の態度から、香子がゆくゆくの女主人になるのだと認識したのか、とりあえず表向きは頭を下げるようになった。
 周囲を欺いているという感覚は小気味良かった。それに「ふり」を続けることも、思ったほど苦痛ではなかった。むしろ共犯者を得たような不思議な心地よさを感じている。
 人の目から逃れ、光から顔を背け、薄暗い古寺にばかり篭もって生きてきた佐々木にとって、それは初めての感覚だった。

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