藪椿

02

 雪解けとともに冬が終わりを告げ、駆け抜けるように新緑の頃が過ぎてゆく。
 そして、初夏と呼ぶには行きすぎた暑さが、路地のあちこちに滞留しはじめていた。
 通りには、両脇に並ぶ家々の塀や、庭木の影が落ちている。それがいかにも涼しげで、佐々木は吸いこまれるように影の内へと移動した。ほっと息をつく。着物の内に入りこむわずかな風が、汗ばんだ背に心地よい。
 どこからか子供の声が聞こえていた。この暑さすら絶好の遊戯であるかのように、下駄を高らかに鳴らして、幾筋か向こうを駆けてゆく。元気なものだ。
 目を閉じると、頭上からの木漏れ日が瞼裏にちらついた。昔、戯れに覗いた万華鏡に似ていた。眩い美しさに、自然と笑みがこぼれる。
 不意に、子供の下駄音が同じ通りに響きわたった。
 佐々木は肩を震わせ、目を見開いた。用心深く周囲を探れば、辻道の先から子供が幾人か飛び出してきた。
 子供が、あ、と声を上げる。反射的に顔をそむけると、子供はためらった様子で幾度か足踏みしてから、逃げるように目の前を急ぎ足に通り過ぎていった。
「人間嫌いの変人!」
 ずいぶんと距離を離してから、子供がわざわざ振りかえってそう叫んできた。眉をしかめて睨みつけると、甲高い悲鳴を上げて逃げてゆく。
 佐々木は鬱屈とそれを見送り、力なく下駄を返した。
 角を幾度か曲がり、四辻を左へ折れると、見慣れた坂道が現れる。家並みはまばらになり、庭木とは異なる太い幹を持つ樹木が頭上に張り出した。木陰が涼しすぎて、ゆるめていた袂を掻きあわせる。
 坂は徐々に勾配を増し、汗ばんだ素足が下駄の上で滑った。最後は転げるようにして登りきると、突然、人で溢れた広い街路とぶつかった。
 流れに上手く乗れず、よろめきながら、辛うじて人の隙間に収まる。
 通りを歩く人々は、皆どこか似通った雰囲気を持っていた。遠出なのだろう、男性も女性も少しばかり仰々しく着飾っている。徒歩でふらりと来たような人間は佐々木以外にいなかった。悪目立ちしているような、あるいは存在が消えてゆくような心細さを覚える。
 誰もの目当てである寺の表門に着くと、拝観料を徴収する係の者に軽く会釈をした。地元の人間からは料金は取らない決まりだ。無反応な係の前を通って、佐々木は門をくぐった。

 あの苔むした石段は、いつもの場所に、いつも通り存在した。
 佐々木は侵入禁止の竹の棒を前に、立ち止まった。
 後ろを歩いていた観光客が、見所など何もない場所で足を止める彼を、不審げに振りかえる。だがすぐに興味を失い、石段の左脇に設けられた新しい階段を登っていった。
 ――これは、石段に立ち入ろうとする人間を、「入るな」と押し留めるものではないのだ。
 佐々木は、すべすべした竹の表面を撫ぜ、思う。ただ、「ここは通れませんよ」と伝えるためだけに架けられているのである。
 それで十分なのだ。厳重な柵など設けなくとも、誰も無理に立ち入りはしない。
 古いだけの石段に立ち入る理由など、誰にもない。
 普通の者には、誰も。
 竹の棒にそっと両手を乗せ、気まぐれに石段の段数を数えてみた。
「三十四……」
 三十四段だ。数え終えた途端、崩れて形を成さない段を数に入れたか忘れてしまったため、正しい数かどうかは自信がなかったが。
 椿は、ない。
 当たり前だ。あれは冬の花だ。
 佐々木はひとり苦笑し、木の方を探してみた。
 すぐに見つかった。石段の中ほどの脇手に、人の背丈ほどの木が生えている。
 先日、植物図鑑で調べたのだが、「藪椿やぶつばき」という種らしい。
 椿と言えば一種類しかないと思いこんでいたが、国内だけでも二千種以上あると言う。一般に椿と聞いて思い浮かべるのは、この藪椿である。
 わずかにほっとする。柴崎とともに寺を訪れたのはもう数ヶ月も前になるが、あの日、佐々木には、石段に落ちた椿が忽然と消えたように感じられたのだ。
 あれは目の錯覚だったのだろうか、思い返すうちに不安になった。そもそも消えたのではなく、最初から椿など落ちていなかったのではないか。
 ――自分は、人の流れから外れている。
 佐々木は棒の感触を確かめるように、掌に力をこめた。
 外れたいわけでは、決してない。
 ただ、共に流れようと思えど、上手く人波に乗ることができない。誰も彼もが何の苦もなく流れてゆくというのに、佐々木だけが取り残されてゆく。
 だから椿が石段にないのを見た時、まさか目に見えるものまで人と異なっているのではと恐ろしくなったのだ。だが木はあった。椿は幻覚などではなく、確かにあそこに落ちていたのだ。冷静になって思い返してみれば、柴崎も「見事な椿だ」と言っていた。
「気のせいだったのか」
 消えたように思えたのは。
 良かった。ささやかなことに安堵する己を馬鹿らしく思いながら、不意に沸きあがるもうひとつの感情に気がついて、ひとり笑いたくなった。
 安堵とともに、佐々木は落胆もしていた。
 椿が消えられるのなら、と。
 自分もこの世界から消えられるのではないか。
「暑いですね」
 物思いに耽っていた佐々木は、最初、その言葉が自分に向けられたものと気づかなかった。数秒を数えて、「え」と振りかえると、背後に若い女性が立っていた。
 白い日傘が眩しい。佐々木は瞼上に掌でひさしを作って、女性が声をかけた相手を探す。
「佐々木さん、ですよね?」
 佐々木は目を見開いた。
「初めまして。安城香子かこと申します」
 香子と名乗ったその女性は、日傘の落とす白い影の下、太陽のように眩しく笑った。

+++

 安城香子。冬に柴崎から打診のあった、見合いの相手だった。
「すまない。君の都合を聞いて、先方と改めて調整してからというつもりでいたんだが」
 目の前に座した柴崎が、恐縮して首を縮めた。
「会ってみての通り、なかなか開放的なお嬢さんでね。東京暮らしが長いのだよ。止める間もなく一人でこちらに来て、さっさと君に会ってしまった…いやあ、参った」
 急な話を嫌う佐々木の気質を知っている柴崎は、本当に参った様子だった。
「いえ、いずれ会うのならば、いつ会っても同じことですから」
 佐々木は後ろめたい思いに駆られて、躊躇いがちに首を振った。佐々木にしてはずいぶんと前向きな台詞に思えたのだろう、柴崎は目を丸めた。
「良いお嬢さんだろう?」
 戸惑いを滲ませながらも、安堵してか、丸めていた背を伸ばして言う。
「前にも話したかな、香子君の父上とは旧知でね、東京大学の理事を務めている」
「はい、話は安城さんからも伺っています」
「これは驚いたな! どうやら若者同士、すっかり話が進んでいるようだ。これは私の出る幕はないかな?」
「……いえ」
 どこかぼんやりと沈黙する佐々木に、何を勘違いしたのか、柴崎は満足気にうなずくと、もう一度、言った。
「良いお嬢さんだろう?」

 どこがだ。
 佐々木は鬱屈とした気分で、柴崎の言を全面的に否定した。
「先日はごめんなさい。突然あんなお願い、驚かれましたよね」
 数日もせず、再び佐々木の元を訪ねてきた香子は、言葉のわりには気にした風もなかった。
 家人の目を気にして、家の外へ出た佐々木は無言で歩き続ける。数歩先を歩いていた香子は、白い日傘を手の内でくるりと回すと、体も一緒に反転させて佐々木に向き直った。
「気、悪くしました?」
 動作のひとつひとつが羽のように軽い。重石を負ったような自分とは正反対の、今にも飛んでゆきそうな香子の挙動に、佐々木はたじろいだ。
「いえ……」
 声が低くなる。出会って間もない相手と打ち解けて話すことが、佐々木は苦手だ。巧いことなど言えはしないのに、相手の目がそれを期待しているようで胃が縮まる。
 顔をうつむけると、香子が軒下に燕の巣でも見つけたような按配で、下から覗きこんできた。
「……やめてくれませんか」
 声に険が篭もった。突き放してからはっとする。自分の悪い癖だ。距離を置きたいがために、無意識に言葉で突き放してしまうのだ。
 だが香子は、やはり気にした様子もない。
「秋宏さんは人嫌いって噂ですね。変わり者なんだって」
「人嫌いなわけじゃない」
 失礼な物言いをする香子の脇を通り抜け、地面に向かって吐き捨てる。
「苦手、ですか?」
「貴女のような人間は、特にね」
「秋宏さんて、言ってみてから、自分で傷ついた顔をするんですね」
 絶句する佐々木に、香子は勝ち誇った顔で笑ってみせた。
 不快だった。先ほど感じた申し訳なさや、遠慮が、堪えがたい不快感に塗り潰されてゆく。柴崎は何を思って「これ」を良縁だと判断したのか。
 いや、そもそもこれは見合いですらない。
 佐々木は苦々しい思いで、初対面時のやり取りを思い起こした。
 先日、突然佐々木の前に現れた香子は、思いもよらぬことを口にした。
「この見合い話、上手くいっているふりをしてもらえませんか?」
 日傘の落とす白い影の下で、香子は真面目にそう頼んできた。
「一月後に、私、秋宏さんに失礼を働きますから。あ、まだその失礼の内容は考えてないんですけど…。秋宏さんは、それを理由にお見合いを断ってください」
 その時、佐々木は動物園の珍獣でも見るような目つきをしたように思う。まさか変わり者と名高い自分が、他人をそんな見る目で見る日が来るとは思いもよらなかった。
「いいですよ」と答えたのは、奇妙な提案であれ何であれ、それを拒むほど、見合いに乗り気でなかったためだ。破談にしてくれと言うなら、喜んでする。しかもその理由を安城側にあるとできるなら、願ってもない申し出だ。これで自分は柴崎の面子を潰すことなく、縁談を反故にできる。断る理由などどこにあろうか。
「……じゃあ、私は本屋にでも行きますから」
 分かれ道にぶつかったところで、佐々木は香子にそう告げた。
「え? 今日は町を案内してくれるお話ですが」
「それは「ふり」の話です。家人の手前、そう言っただけです。もう家からはだいぶ離れましたから、「ふり」を続ける必要はありません。四時に駅前で…じゃあ」
 見合いが上手くいっている「ふり」、それは香子の一番目の要求だ。難しい注文ではない。出かけるふりをしてみせて、あとは道を違えればよい。夕刻にでも待ち合わせて、香子を宿泊先だとかいう親戚の家まで送り届ければよい。
 返事を待たずに身を翻すと、香子の日傘が隣についてきた。
「本屋、私も用事があったんですよ」
 頭を抱えたくなる。
「この間、何を見ていたんですか?」
「何がですか」
「あのお寺で。あそこに、何かあったんですか?」
 佐々木は鬱屈と溜息をついた。女だからなのか、香子だからなのか、話が飛躍しすぎである。
 どうせ見せかけだけの見合いだ。開き直りに似た気持ちが湧いた。
 そう、どうせ断る縁談なのだ。相手に気を使う必要などなかった。
「何もなかったのを、見ていたんですよ」
 一切飾らぬ無愛想な声で教えてやると、香子は首をかしげた。
「何もない?」
「あるいは、石段を見ていました」
「はあ……」
 わざとの不親切な物言いに、案の定、香子は途方に暮れた顔をする。彼女はしばらく首を捻らせてから、「詩吟のようです」と、的外れな愛想を打った。
「詩吟じゃありません。ただ、」
「藪椿がありましたね」
 言葉尻を遮って、香子が出し抜けに言った。
 不覚にも、驚いてしまった。
 藪椿。それは石段脇に植わっていた椿の名だ。意地悪な謎掛けに、正解を叩きつけられた気がした。佐々木は確かに、「石段に椿がない」のを見ていて、そして「椿のない石段」を見ていたのだ。
「椿って、二千種類以上あるんですよ。私たちがよく見かける椿は、藪椿という種です。散るときは、花びらを散らすのではなくて、花ごと、ほとり、と落ちるんです」
「知っています」
 思わず口を挟むと、香子はきょとんとして、軽やかに吹き出した。
「そうですね。秋宏さんはいかにも本の虫です。植物図鑑、お宅にありますか?」
 馬鹿にされたようでむっとするが、幼い頃から人よりも書物に親しんできた佐々木は、確かに本の虫と言えた。溜息をついて、佐々木は渋々とうなずいた。
「何冊か」
「何冊も?」
 香子がまた笑った。
「潔い花だとよく言われます。花びらを散らすのではなく、一番美しい時に、花の形のまま落ちるので。でもちょっと笑っちゃいませんか?」
「笑う?」
「落ちている姿は、そのまま髪飾りにできそうなほど美しいけれど、落ちる瞬間は急落下ですもの。ひらひらとか、ふわふわとかじゃなくて、ぼと、って」
「さっき君は、ほとり、と言いませんでしたか?」
「本当は、ぼとって言いたかったんですけど、せっかく綺麗なのにあんまりだから、新しい擬音を作っちゃいました」
 佐々木は顔をしかめた。
「実際、ぼとと落ちるものを。それが藪椿の有り形でしょう」
「有り形、ですか」
「ほとり、では、椿の落ちる速度や、地面に重々しく散ったさまが表現できない。あれはぼとと落ちるから椿なんです。安易に、優しいだけの、誤った表現を使う必要などない」
 だからと言って、ぼとと表現するのが良いというわけではないが。
 香子はしばらく考えこんで、「なるほど」とうなずくと、やはり脈絡なく続けた。
「秋宏さん。君じゃなくて、香子と呼んでください」
 ついてゆけそうにない。

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