藪椿

01

 幼い頃から家人と諍いを起こすたび、私はこの古寺を訪れた。
 特別、信仰心を持っていたわけではない。ただ寺に鬱蒼と生い茂った木々は、自分を蔑みの目から覆い隠してくれるようで落ち着いた。鼻先をかすめる濃厚な苔の匂いも、清涼な茶をすする以上に、ささくれ立った心を鎮めてくれた。
 だから私はいつも辛いことがあると、この寺に逃げてきたのだ。
 皮肉にも、他の童が恐れて立ち寄らない場所を心の拠り所としたことが、周囲の評価を下げていたことを知ったのは、「変わり者」という評価が定着して随分と経った後だった。
 だが世は移ろうものだ。
 薄暗いだけの寺だと思っていたが、十一年前、本堂の奥倉の床下から見つかった経文が、歴史的に価値のあるものと認められたのだ。寺は、邪推をするに金回りがよくなったのか、一時にして整備されてしまった。今では観光客が多く訪れる名寺である。
 しかし誰が気づいただろう。
 その変革によって、寺の一角に異次元が生まれてしまったことに。
 気づいた私は、やはり変わり者だったのだろうか。

「佐々木君?」
 名を呼ばれ、佐々木は顔を持ち上げた。振り向けば、恩師の柴崎平蔵が興味深そうな目でこちらを見つめていた。佐々木は少し慌てる。どうやら随分とぼんやりしていたらしい。
「すみません、先生。ついぼんやりと」
「いや、君のぼんやり癖にはもう慣れたがね。その石段がどうかしたのかい?」
 石段。佐々木は目をすがめ、ふたたび彼の前に伸びた石段に目をやった。
 寺の本堂までまっすぐに続く、古い石段だった。人二人が辛うじてすれ違える程度の幅を持つ。どれほどの時を雨風に曝されてきたのだろう、石段は角を失って、丸みを帯びている。あちこち崩落し、階段として用を成していない部分すらあった。雨が降れば足を取られかねぬほど苔むし、石の黒さよりも、鮮烈な苔色のほうが際立っていた。
「いえ。ただ、椿が」
「椿」
 佐々木は骨の浮いた指で、石段の中ほどに落ちた椿を示した。
 苔色の中に、ただ一点だけの、濃紅色。
「ああ、なるほど見事な椿だ」
 柴崎は満足そうにうなずき、石段の脇に設けられた新しい階段を上っていった。歴史に造詣の深い柴崎にとっては、椿よりも、希少価値の高い経文の方が、なお紅色に輝いて見えるのだろう。
 佐々木はほっとする。うまく誤魔化せたようだ。また妙な考えを持っていると思われては苦痛だった。
 目を惹かれたのは、椿のほうではなかったのだ。
 彼が目を留めたのは、何のことはない、ただ眼の前にある石段のほうである。
 石段は、登り口に架けられた竹の棒によって、登り降りを禁止されていた。宗教上の理由か、足を滑らせて危ないという理由からかは分からない。竹の棒が架けられるようになったのは、経文の見つかった十一年前からだから、どちらかといえば後者の理由だろうか。
 ただ、佐々木には不思議でならなかったのだ。
 ほんの一歩先にある石段は苔むし、そこには誰の足跡がついた様子もない。一般の観光客は、閉鎖された石段ではなく、隣に設けられた新しい階段を上る。寺の者もそうだ。となれば、棒から先には、もう十一年間、誰も足を踏み入れていないことになる。
 この石段だけ、時の流れから切り離されている。
 それは、ある種の異次元ではなかろうか。
 ふたたび名前を呼ばれ、佐々木は現実に返って柴崎の後を追った。
 名残惜しげに石段を振りかえると、椿がふっと視界から掻き消えた気がした。



裏路地迷町小噺
「藪椿」



「見合い、ですか」
 佐々木の戸惑った声に、柴崎は「うん」と大らかな笑顔を浮かべた。
「知り合いの娘さんに君の話をしたら、是非会いたいと言われてね。いや、もちろん娘さんにではなく、その父親になんだがね? ……ああ、ありがとう」
 店の者が卓に乗せた茶に礼を言い、柴崎は一口啜って満足気に息をついた。
「旨い茶だ。静岡の茶かな? はは、単純か。ほら、君もかしこまってないで」
「……すみません、柴崎先生。私は見合いは」
 茶を啜ってからでは断れない。そう感じて性急な返答をすると、柴崎は草食動物を彷彿とさせる穏やかな顔を苦笑させた。
「そう言うと思ったよ」と、また茶を啜る。
「あの、父に何かを言われたのでしょうか」
 佐々木はきちりとした正座の上で固く拳を握り、搾り出すように問いかけた。
「うん?」
「この度、私の故郷にまで足を運んでいただいたのは、寺巡りのためではなく父の計らいだったのでしょうか、本題はその見合い話だったのではありませんか、父に何か言われてのご配慮なら私は、」
「佐々木君」
 堰を切ったように溢れだす言葉を、柴崎が穏やかに、しかし力強く、たしなめた。
 極度の緊張から狭まった視界を恩師に向けると、柴崎は少し苦笑気味だった。
 衝動的に己を見失った自分を恥じて、佐々木は額に手を押し当てうなだれた。
「君はどうも被害妄想に憑かれやすい」
「……すみません」
「いや、分からんでもないのだがね。君には、佐々木の家名は重すぎるのだろう。…確かに私は君の父上とは昔馴染みだ。今でも懇意にしておる。奥方の佐代子さんと結びつけたのも実は私でなぁ」
「……」
「御両親の昔話に興味はないかな?」
「……すみません」
 柴崎は髭を幾度か撫でると、長々と溜息をついた。
「まぁ、疑われて、違うと否定できるわけでもないのだがね」
 それはどういう意味だ。
 柴崎の曖昧な台詞回しに、佐々木の心臓がじくりと痛んだ。

 父である佐々木高雄は、佐々木の名を一代にして政界に知らしめた男である。
 厳格な父だった。時代遅れと言われる古い風習を頑なに守り、下働きのみならず、家族にも徹底してそれを守らせた。いわゆる旧家の人間たちに混じってそれなりの地位を得るには、旧家がすでに打ち捨てた古習すらも取り入れねば追いつけぬと、父なりに感じたのかもしれない。
 一人息子である彼には、それが息苦しかった。
 やがては家名を背負って同じ政界に立つのだと、幼い頃より厳しく育てられた。だが身も蓋もなく言ってしまえば、佐々木には才覚がなかった。そして致命的なことに、幼い頃より、何故か人と触れ合うのが苦手だった。
 父の期待に応えたい。身を切るように願い続けたが、いくら努力すれど報われない。無慈悲なほどに、努力が結果を伴わなかったのだ。
 不甲斐ないと責められ続けた佐々木の心は、いつか口に含んだ角砂糖のように脆くなった。一方で、父を訪ねて屋敷を訪れる人間たちは、口を揃えて佐々木を聡明な子だと誉めそやした。誉めた者も、誉められた者も、それを嘘だとはっきり認識している。臆病な子供は、自然、用心深く、また疑り深い性格になった。
 意固地な人嫌い。人と関わることを恐れ、父から逃げては薄暗い古寺などに通うようになった佐々木を、誰もが変わり者と軽んじるようになった。
 それでもなお、父は形だけの期待をする。
 今また見合い話などを持ってきて、佐々木の家名を強引に背負わせようとする。
 いっそ突き放してくれればいい。佐々木は思う。期待しても無駄なのだから、もうお前はいらないのだと突っぱねられた方が幾らか増しだ。

「佐々木君?」
 再び名を呼ばれ、佐々木ははっと我に返った。また意識が飛んでいたようだ。寝ていたわけでもないのに、まるで今眠りから覚めたような眩しさを覚える。柴崎の不審げな視線から逃げるように目を伏せ、辛うじて言い訳を口にする。
「すみません、少し……眩しくて」
「ああ、君。襖を閉めてくれるかな? 今日は日差しがきつい」
 丁度良く現れた店の者が庭に面した襖に手をかける。ゆっくりと狭まってゆく障子に目をやり、佐々木はようやくそこに、美しい庭園があることを知った。
 椿が咲いていた。
 緑と黒の絵の具を念入りに混ぜたような濃緑の葉に、鮮やかな紅色が良く映える。
 しかしそれを楽しむ間もなく襖は閉ざされ、椿は姿を消した。
「君の父上に、縁談を薦めてほしいと頼まれたよ」
 柴崎は先ほどの言に説明が必要だと感じたようで、口調を改めた。
 やはり。恩師にまで裏切られた心持ちがして、佐々木は奥歯を噛んだ。
「君もそういう年齢だ。気持ちは分かるが、そろそろ家のことを真剣に考えねばならん。逃げてばかりではいられんよ?」
 そんなこと、分かっている。
 柴崎は無言の佐々木をじっと見つめ、「ふむ」とうなずいた。
「だがねぇ、政界とは……どうだい、惜しい話じゃないか。私は君を大学院の研究生に推薦するつもりでいたのだよ。君の父上は、縁談相手に政界と繋がりのある人間を考えていたようだがね、色々と口うるさく意見して、そちらは諦めてもらった。代わりに、佐々木の名に恥じず、父上も満足する相手を考えさせてもらったよ。東京大学の理事と教授とを兼任している安城氏の娘さんだ。安城氏の人脈の広さは、帝都きってと言われていてね。まだまだ現役の父上にとっても、佐々木家にとっても、損をする相手ではなかろう。もちろん、君にとってもね」
 あまりいじめては可哀相だと言わんばかりに、柴崎は結論を一気に言い切った。目だけで「どうだ?」と水を向けられて、佐々木はとっさに答えを返すことができなかった。
 混乱する頭の中で、柴崎が自分を研究生に推薦する気でいたことを知り、驚く。
 柴崎平蔵は学内外で評判の高い教授だった。学の高さを感じさせぬ屈託ない性格は、変人扱いの佐々木にも分け隔てることはなかった。むしろ父が旧友と知ったからか、研究会に助手として付き添わせるなど、何かと目をかけてくれた。そんな柴崎は、佐々木にとって生まれて初めての理解者と言える。
 だが評価されたことへの喜びは、すぐに冷えこんでいった。
 柴崎は、政には向かぬ彼のため、政治以外で佐々木の名を上げる手段を講じてくれたのだ。それは分かっている。だが――そうではないのだ。佐々木は政界が嫌なわけではない。政界であれ、学界であれ、ただ家名の重石を背負いたくないだけなのだ。
 いや、それも違うだろうか。
 佐々木には分からない。ただ幼い頃より、自分は違うのだと感じていた。
 自分は、生まれる場所を間違えてしまった。
 そんな漠然とした思いが常に身を食らい、時折、全てを捨てて逃げ出したくなる。
 だが、どこへ?
 それが分からない。
 佐々木は苦痛に身を硬直させた。柴崎の計らいとなれば、父の縁談以上に、断るなどできなかった。ここまで親身になってくれる恩師の顔に、どうして泥を塗れるだろうか。
 先方とはどれほど話が進んでいるのだろう。
 何か理由を見つけて、柴崎の面を潰すことなく、婉曲に断ることはできないだろうか。
 目の前の柴崎は、自分がこの良縁を喜ぶものと思っている。無心の好意を素直に喜べない己の有様に、佐々木は身を貫くような懺悔の念を覚えた。
「ほら、旨い茶だ。冷めないうちに呑んでごらんなさい」
 閉じた襖の向こうの庭木が、濃い影となって畳の上に伸びている。
 そこに椿の姿を無意識に探し、佐々木は震える手を湯気の立つ茶器に伸ばした。

次へ

close
横書き 縦書き