無様な鳥鳴く茶屋

 目を開くと、そこは茶屋だった。
 壁一面に掛けられた無数の時計。年代物だろう、磨きを重ねられた飴色の光沢がとろりと美しい。形は様々で、時計の窓が六角形になっている物から、四角形、円形と賑やかだ。三角形という奇妙なものもあったし、いかにも鳩の飛びだしそうな可愛らしい扉のついた時計もあった。
 部屋は円筒形をしていた。円形の地面から伸びた壁が、真っ直ぐに、天へと伸びてゆく。
 万華鏡の底にでもいる気分で、頭上を見上げてみるが、天井はない。
 いや、あるのだろうが、壁はどこまでも伸び、およそ天井らしきものが見当たらない。
 そんな無限の壁回廊に、時計は無秩序に、それでいて不思議な調和を感じさせる並べ方で掛けられているのだ。
 この世に時計の巣があるならば、こんな部屋かもしれない。
 それにしても、私は何故、こんな時計だらけの部屋を、茶屋だと思ったのだろう。
「茶の味は、口に合いましたでしょうか?」
 あんぐりと口を開け、首を仰け反らせて時計の巣を見ていた私は、問いかけられて正面を向いた。点てたばかりの抹茶色の着物を上品に羽織った、妙齢の女が立っていた。
「ああ、好い味だ。なんという茶ですか?」
 女はうっとりするような微笑みを浮かべ、「ロク」と答えた。
「陸の茶にございます。お客様をお迎えするにあたり、六番目に立てる茶ゆえ、陸、と」
「陸ですか」
 そうか、ではこの茶屋に来て、すでに六杯も茶を飲んでいるのか。
 可笑しなものだ。まるで記憶にない。しかし不思議と居心地のよい。
 壁の時計はあべこべの時間を指している。窓一つないため、時の感覚が狂ってならない。いつここに来て、どれほどここにいるのか。そして――いつ出るのか。
 ガチリ、ガチリ、ガチリ。
 時計の針が秒を刻んでいる。円筒形の部屋に反響したそれは、数が数だけに耳に痛いほどだ。ああ、一秒とはかくも重たい音がするのか。
 私は陸の茶を飲み乾し、空いた茶杯を女に返した。
「ここは茶屋ですね」
「はい。ここは懐古堂にございます」
「まるで時計の巣だ。ガチリ、ガチリと、時告げ鳥が無様に鳴いている」
「貴方さまのように、でございますか」
 思わぬことを言われた。私はしかし不快には思わなかった。その通りだと思ったのだ。
「ああ。……何故だろう、聞き覚えのある音だ。けれど時計の音ではない」
「さようにございますか」
 女は空の茶杯を大事そうに押し抱き、部屋の隅にある平卓に腰かけた。平卓には、茶器が置かれている。手のひらに乗るほどの茶壺や茶匙、その他、名も分からぬ細々した道具類。
 女は平卓の端に並べた茶筒から、「漆」と書かれた物を取り上げた。では、七番目の茶を点てるのだ、この美しい女主人は。
 茶盤に置いた茶壺に、優しく湯を注ぐ。順繰りに名も分からぬ道具に、湯を移しかえてゆく。茶壺や道具は湯気をたて、いかにも旨い茶を点てそうだった。
 白く細い指が、蓋を開けた茶筒から細い茶葉を摘み、茶壺に落としいれた。人の手で、一葉、一葉、丹念に縒った茶葉なんです、とは誰が言った言葉だったか。
 ガチリ、ガチリ、ガチリ。
 時計の音を聞きながら、茶が上がるのを待つ。
 ああ、なんと至福の時だろうか。何ひとつとしてしがらみもなく、一秒の重きを、一秒の長きを噛みしめながら、茶の点つ様子をただただ眺めている。悩みらしきものもなければ、物思いに耽ることもなく、ただただ茶の湯気の揺らぐ様に魅入っている。
「漆の茶にございます」
 差し出された茶杯を左手で受け取ると、茶の温かみが伝わり、心地よい眠気を覚えた。
 一口、啜る。利き手でもない手、それも片手で茶を啜る礼儀の知らぬ私を、女は特に咎めない。旨い。ほっと安堵の息が洩れる。
 並べられた茶筒は、壱に始まり、漆で終わっていた。ではこれが最後の茶なのか。
 こんなに旨いのに、壱の茶をまるで覚えていない。弐の茶も端から記憶にない。続いての茶はもちろんのこと、すでに陸の茶の味も記憶に残っていない。いや、そもそも陸の茶など飲んだろうか。
 ガチリ、ガチリ、ガチリ。
 時計の音がする。あんぐりと口を開いて、見えない天井を見上げると、円筒形の部屋の壁には無数の時計が無秩序に、それでいて調和を持って並べ掛けられていた。
「茶の味は、口に合いましたでしょうか?」
「ああ、好い味だ。なんという茶ですか?」
 点てたばかりの抹茶色の着物を着た妙齢の女は、そっと微笑み、「シチ」と。
「漆。最後の茶にございますよ」
 ガチリ、ガチリ、ガチリ。
「すみません、では私はもう七杯も茶を?」
「さようにございます」
「ああ、記憶にない。残念だ。こんなに旨い茶なのに」
「さようにございましょう」
「そうだ。申し訳ない、最後の茶と言いましたね。私は財布を持っていたろうか」
「すでに最後のお代も頂戴しました」
「そうか、そうか、そうか……」
 ガチリ、ガチリ、ガチリ。
「ここは茶屋ですね」
「はい。ここは懐古堂にございます」
「まるで時計の巣だ。ガチリ、ガチリと、時告げ鳥が無様に鳴いている」
「貴方さまのように、でございますね」
 私は顔を上げた。思わぬことを言われた。だが少しも不愉快ではない。
「ああ。何故だろう、聞き覚えのある音だ。けれど時計の音ではない」
 ガチリ、ガチリ、ガチリ。
 ガチリ、ガチリ、ガチリ、ガチリ、ガチリ、ガチリ。
 女は空になった茶杯を私から受け取った。大切そうに押し抱き、着物の袂に仕舞う。
 そして、おもむろに私の前に跪き、私の右手を取った。
 ガ、チッ。
 茶に温められた女のか細い両手が、右手を包みこむ。氷のように冷たく強張った指先が、ほんのりと柔らかな体温を感じて、痙攣する。
「はい。時の音は、かように無様な音ではございませんゆえ」
「そう、かい?」
「もう、ようございますね」
 女は、指から零れ落ちた冷たい何かを取り上げた。黒光りした筒のようなもの、あれは何だったろうか。名前が思い出せない。
「……思い、出せないんだ」
 立ち去りかけていた女は、時計だらけの茶屋をぼんやりと見上げる私を振りかえった。
 艶やかに、微笑する。
「なれば、思い出す必要はございません」

 円筒形をした茶屋の中央に置かれた椅子から、男の姿がしゅるりと掻き消える。
 女は優雅な物腰で床に座り、空になった七つの茶杯を椅子の前に並べ置いた。
「多喜川忍様。最愛の奥様を、些細な誤解から銃で撃ち殺しておしまいに。後に事実を知り、ご自身も後追い自殺を図るも、弾はすでに撃ち尽くしていたため死に切れず。銃の引き金は、引いても悔いても、ガチリと無様な音を立てるばかり」
 七つの茶杯は、女が静々と語るたび、ひとつ、またひとつと割れてゆく。やがては細かな砂となり、女の差し伸べた空の砂時計に流れ入って、時を刻みはじめた。
 さらさらと、清い声で鳴きながら。

「お客様の記憶、確かに頂戴しました」


おわり

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