娯楽場と蚊取り線香屋
下がるは堤燈、揺れるは風鈴、浮かれる心は人のもの。
裏路地迷町に、夏がきた。
夢と現の狭間にあるこの陽炎のような町にとて、夏は当然のように訪れる。常には閑古鳥の棲家だが、夏ともなれば賑やかだ。
あちこちから下がる風鈴は、ちりりと子鈴のような音をたて、屋根を歩く猫や鳥は、瓦の暑さに悲鳴を上げる。通りの果てに見える山々からは、祭囃子の音がかすかに聞こえ、家々からは家人がバケツに足を突っ込む水音が、ばちゃりと耳に飛び入ってくる。
蝉の声も多種多様で、ジーからミーンと、たいそう賑やかなものだった。
極めつけは、客寄せ声だろう。
「冷たい奴っこはァ、いらんかねぇ! 暑い夏の日に、冷たい奴っこはァ、いらんかねぇ!」
「風鈴、良く冷えてるよー!」
「日傘はさぁさぁ影落とし、安さもやぁやぁ銭落とし!」
夏にあやかった品々を、天秤棒に、屋台車に詰めこんで、朝から晩まで商売人たちが通りを練り歩くのだ。
五月蝿いといえば五月蝿いのだが、不思議と家に入ってしまえば声も遠くに聞こえるもので、苦情はついぞ聞いたことがない。
裏路地迷町、夏の風物詩の一つである。
さてここに、一軒の長屋がある。
屋幅は思わず額に手をかざしてしまうほどに長く、奥行きも相当なものである。
裏路地迷町のほぼ中央に位置するその長屋を、人呼んで「娯楽場」という。
「さあ、曙さんもきれいなことだし、そろそろ店を開けるとしましょうか」
娯楽場の玄関戸をガラリと開けて顔を出したのは、太鼓腹もふくふくとした娯楽場の主人である。
裏路地の住人たちが、夏の訪れとともに自慢するのは空の色だ。朝は曙、昼は瓶覗、夕は深緋、夜は暗紅と、まこと色鮮やかに変化する。
時計の存在しない裏路地では、時の変化は空で知る。見上げて見れば空はすっかり曙色、住人たちの挨拶も「お早う」だ。……もっとも今が朝であるからといって、次に来るのが昼とは限らぬのが、裏路地迷町が夢現の町とあざなされる所以であるが。
軒下に山吹色の暖簾を掛けると、主人は玄関脇で大きく伸びをした。穏やかな恵比寿顔が、曙を浴びて朱に染まる。
そのつるりと艶やかな肌、ふくよかな頬、裕福な太鼓腹を見れば、娯楽場がいかに繁盛しているかが分かるというものだろう。
実際主人は、蔵にわんさと積まれた銭束の話を、出会う人出会う人に自慢している。噂によると、蔵に入りきらずに銭が風呂場にまで溢れているとか。
体に浴びるは銭の湯か、そう、娯楽場は裏路地迷町で最も繁盛している店なのだ。
店を開けるなり、通りのあちこちから人とも獣とも影ともつかぬ住人たちがぞろりと姿を現し、暖簾をくぐって中へと消えていった。
「いらっしゃい」と入り口脇で頭を下げる娯楽場の主人に、次々と小銭が放られる。
娯楽場はたっぷりとした着物の袖に稼ぎを放り入れては、袖を揺すってその音を楽しんだ。
彼は銭稼ぎが大好きな男であった。
それがまた、夏にもう一つの風物詩を生むのである。
「日傘はさぁさぁ影落とし! 安さもさぁさぁ銭落とし!」
通りを天秤棒を背負って歩くのは日傘屋だ。夏になると毎年来るもので、蝙蝠でも売るように日傘を天秤棒から逆さに吊るして歩く姿は、住人にはすっかりとおなじみだ。
「日傘屋さん、可愛い日傘をくださいな」
通りをそそ……と歩いていた娘が、ちょいと日傘屋を呼び止めた。
日傘屋は愛想笑いを浮かべ、天秤棒の日傘をカラリと振った。
「どれにいたしましょ。この裏柳色な日傘は渋すぎでしょか?」
「色は良いのだけど、日はきちんと遮れるのかしら」
「娘さん、それはもうもちろんで。きっちりカッチリ日を撥ねまさぁ。……しかしお疑いならば、ちとばかしお値段差し引きましょ?」
「あら、ありがとう」
銭三枚を日傘屋に渡すと、娘は裏柳色の日傘を差してそそ……と去っていった。
これを見て大仰に眉を持ち上げたのが、娯楽場である。
売り買いの一部始終を見ていた娯楽場は、買ったばかりの日傘をさして、目の前をしずしずと歩き去ってゆく娘を見送って、「これは稼ぎ時」としたり笑みを作った。
「これ、日傘屋」
呼びかけると、日傘屋は客寄せの声をぴたりと止めて、浮かぬ足取りでこちらへとやってきた。愛想笑いが引きつっているのは、はてどんな理由からであろうか。
「娯楽場の旦那、日傘がご入用で?」
「安ければ一つ欲しいものです。あの娘さんの裏柳、いかがで売りました?」
裏の読めない笑顔をした娯楽場を、日傘屋はついと見ぬふりをして答える。
「銭三でさぁ。旦那にも同じのを売りましょか」
「さてさて! 色褪せた日傘にしては、銭三枚はいかにも高い!」
日傘屋はぎくりと天秤を揺らし、しかし笑顔を張り付かせたまま揉み手をした。
「色褪せた?あの一級品の裏柳を、褪せ色と?」
「裏柳とは良く言ったもの。娘さんには見えなかったようですが、一部見事な麹塵色が、斑にポツポツ残っておりましたよ」
「ああ、それは模様でさ」
「模様にしては、趣味の悪い」
「今年の流行りでして。流行りとはしばし、理解しがたきものです旦那」
「流行りと言うわりに、天秤にぶら下がる日傘には、もう流行り模様は残っていない様子」
「全てすっかり売れてしまいましてねぇ」
「ではそれらは全て売れ残りと、そういうわけですね?」
「まあ、そういうことになりますな」
しどろもどろと答える日傘屋に、娯楽場はあのしたり笑顔を再びふいと浮かべてみせた。
「さて、売れ残っては日傘屋もお気の毒。ではではどれどれその日傘、全てこの娯楽場が買い取りましょう!」
言うなり娯楽場は、袖内から銭を五枚ばかりを抜き取って、日傘屋の天秤を奪うかわりにそれを放って寄越した。
「娯楽場の旦那! 日傘五本で銭五とは、それは……それはあまりに!」
「御婦人方は流行に敏感ですからね。流行り遅れのこの日傘、もう一本とて売れますまい。いくらこの娯楽場とて、流行りでなしの日傘を高値で買うはアレ……。しかし日傘屋とは昔からの縁……出しすぎかとも思いますが、売れ残りを哀れんで、銭五で買い取ってやりましょう。やれやれとんだ、銭失いです」
「な、な!」
言葉を失う哀れな日傘屋に、娯楽場はふと思い至って、日傘を一本差し出した。
「さ、これでも差して、お帰んなさい」
そう、これぞ二つ目の風物詩である。
金を儲けるが趣味の娯楽場に、口駆け引きで勝てる者はない。毎年娯楽場と商売人とが繰り広げる銭争いを、住人たちはケラケラと笑いあって見物するものだ。
金儲けの種を得た主人は、娯楽場の軒下に傘を並べ、「一本銭ニ」と立て札を刺した。これらはすべて、今年の流行りもの。布地も色合いも一級品とはいかぬまでも、大変質の良いものである。イカサマをしたばかりに、一等品の日傘をあんまりな値段で買い叩かれるはめになった日傘屋の日傘は、あっという間に売れに売れ、娯楽場の袖はいよいよ鳴った。
この所業は、商売人にとって大変ありがたくないものである。
だがイカサマ商売を控えるのも、馴染みの商売人ならばの話である。
「さぁて、賑やかな町に出たものだ」
裏路地迷町の入り口に立つなりに、愉快そうな声を上げたのは一人の少年である。
この少年、ただの旅人ではないようだ。笑みを浮かべる口端には、長い煙管が食まれている。いや、煙管ではない、ただの棒らしい。ただし棒の先から、渦を巻いた蚊取り線香がゆらりと吊るされている。
なるほど、どうやら蚊取り線香屋のようである。
少年は満足そうにうなずくと、懐より大きなハリセンを取り出した。それと一緒に取り出したマッチで、吊るされた蚊取り線香の一つに、ボッと火をつけ煙を起こす。
蚊取り線香を口に吊るして売るのは、何とも奇妙。
それ以上に、右手に持ったハリセンが、いささかばかり気にかかる。
しかして少年は自信たっぷりに、裏路地迷町の賑やかな通りへと足を踏み入れた。
「蚊、蚊、蚊ぁ取り線香! 蚊ぁ取り線香だよォ!」
遠くから徐々に近づいてくる客寄せ声。
娯楽場の主人は過敏に反応して、にこやかに顔を持ち上げた。
「蚊、蚊、蚊ぁ取り線香! おどろくほどにィ、よぅく落……っちるぅっとィ!」
風に乗るその声は、幼いながらに良く通り、耳にどこか心地よい。去年の夏には一度とて聞かなかった客寄せ口上だ。この土地には新しい商売人とみえる。
風鈴も驚く美声に、住人たちはしばし足を止めて聞き入った。
「蚊、蚊、蚊ぁ取り線香! 蚊ぁ取り線香だよォ!」
陽炎立ち昇る通りの向こうから、やがてふらりとやってきたのは、商売人にしては齢のいかない一人の少年だった。
娯楽場はぴくりと眉を持ち上げた。
少年の奇妙な出で立ちに、何とも怪しげなものを感じたのである。
イカサマ商売人ではあるまいな。
なにやら臭いものを感じた娯楽場は、少年がいかな商売をするものかと、その動向に注視することにした。
「蚊取り線香屋さん、お一つくださいな」
裏柳の日傘を差した娘さんが、すかさずそそ……と手を上げた。
線香屋はすかさず足を止め、口角に棒を銜えたまま、明朗な笑顔で娘に応えた。
「蚊取り線香を一つでよろしいですかい?」
「ええ。いかほどかしら」
「一巻き、これっぽっちで」
これっぽっちと、蚊取り線香屋は指を五本立てて笑った。
「まあお高いこと。去年来た蚊取り線香屋さんは、一巻き一銭で売っていたわ」
娘の不満げな声に、蚊取り屋はただただ笑みを浮かべるばかり。
「娘さん、うちの蚊取りは特別に良く蚊が落ちるんで、他の蚊取り線香屋よりも高くなってるのでさぁ」
それはいかにもイカサマな売り口上である。
疑わしげな娘の顔に、蚊取り線香屋はならばとばかりに背筋を伸ばした。
「威力のほど、まず御覧じてから、買うもよし」
日に焼けた手が腰にかけた小袋の紐をついと解いた。
途端飛び出したのは、三匹の蚊。
悲鳴を上げる娘をにこやかに見つめ、蚊取り屋は蚊が十分に飛び回るのを見てから、口に銜えていた棒をぐんと上向きに持ち上げた。
吊るされた蚊取り線香がぶらりと揺れて、煙がゆらりと空を薙いだ。
するとなんと、飛んでいた蚊三匹が、あっという間、ひゅるると地面に落ちていったではないか。
「まあ、早い」
思わずついついサクラのような驚嘆をする娘である。
蚊取り線香屋はにっと快活な笑顔を浮かべ、すかさず「今ならば」と付け足した。
「四銭にまけときましょう」
「三つほどくださいな!」
娘は蚊取り線香の威力と、蚊取り線香屋の笑顔にすっかりやられたようである。三巻きの蚊取り線香を受け取ると、少年にはにかんだ笑顔をちらりと向けて、軽い足取りで去っていった。
その様子を見ていた娯楽場は、たいそうなイカサマ臭さに眉をしかめた。
あんな強力な蚊取り線香など、聞いたことがない。いくらなんでも効き過ぎではないか。そもそも消耗品に五銭とは、あまりに高い。
これは暴いてやるしかあるまい。
娯楽場はいつものふくふくとした笑顔を浮かべると、蚊取り線香屋が手前に来るのをじっと待った。
「これ、蚊取り線香屋」
長屋の前にちんたら現れた少年を、主人はにこにこと手招いた。
「へい旦那。蚊取り線香屋でございやす」
どうやら読み通りに新しい商売人のようだ。娯楽場を知る商売人ならば、たいてい笑顔に歪みが走るものだが、少年はあっけらかんとした笑顔で首を傾ぐばかりだ。
娯楽場は少年の出で立ちをちらりと見回し、眉根をはてと、こっそりひそめた。
口にくわえた棒に、吊るし線香はともかく、右手に持った用途の不明なハリセンがどうにも気になった。
怪しい。
「一巻き欲しいのですが、威力のほど、今一度見せていただけませんか」
娯楽場の穏やかな声音に、少年は商売人の笑顔を浮かべて、腰袋に手をかけた。
娯楽場は袋から蚊が飛び出す様に、じっと神経を集中させる。さあどんなイカサマが見れることやら。いっそ胸の躍る娯楽場である。
そして、まさに蚊が飛び出した、その瞬間であった。
蚊取り線香屋は先ほど同様に、口に銜えた棒をくいっと持ち上げてみせた。
同時に聞こえてきたのは、すぱんっという小気味の良い音。
その瞬間見たものに、娯楽場は驚きを通り越して、呆れ果ててしまった。
「この通りでさ」
蚊が三匹ひゅるると落ちる。蚊取り線香屋はにこりと笑って、娯楽場を振り返った。
「……これ、君」
娯楽場はすっかり気が抜けて、ぽりぽりと呆れた様子で頭を掻いた。
蚊取り線香屋は愛嬌深々首を傾げた。
「今、君、そのハリセンで蚊を叩きませんでしたか?」
あまりに分りやすいイカサマぶりに、娯楽場は遠まわしに言うのも馬鹿らしいと、直接的な突っ込みをしてやった。
棒を持ち上げると同時に、右手のハリセンを素早く一閃させ、三匹の蚊を討ち取ったのを、娯楽場はすっかりと見てしまったのだ。
確かにハリセンの素早さは、目にも止まらぬ妙技である。客の意識を棒にやって、その隙にイカサマをやる手際も見事といえば見事だ。常人ならば、蚊は蚊取り線香によって落とされたと思っても不思議ではないかろう。事実裏柳の娘は露とも気づいた様子がなかった。
しかし娯楽場の鍛えぬかれた目と耳は騙せない。
「へ? 何のことでしょ?」
しかし蚊取り線香屋は、笑顔のまま問い返してきた。
それどころか、堂々とこう言ったのだった。
「これは、扇子でさぁ」
いや、確かに扇子ではあるが。
大した面の皮である。笑顔が少しも引きつらぬのを見て、娯楽場は言葉を失ってしまった。戦う前から戦意消失だ。どうやら巧妙な言い逃れすら出来ぬ、新人中の新人らしい。
まだほんの子供、軽く説教してやるかと、娯楽場はつまらなげに説教を始めた。
「ほう、それは大きな扇子ですね。しかし扇子だと言いますが、その白い扇子の先についた、赤い点々は何でしょう?」
「模様で」
いけしゃあしゃあと、日傘屋と同じ言い訳をする。相変わらず少年はにこやかだ。
娯楽場は溜め息一つを落として、では、と地面に視線をやった。
「今落ちた蚊は、どこですか?落ち具合を見てみたい」
蚊取り線香の威力で落ちたと白を切るなら、蚊が潰れて血だらけなのに、言い訳が立つまいと思ったのだ。
しかし途端、少年は笑顔を娯楽場に向けたまま、地面に落ちた蚊を足で踏みにじった。
「これはこれはこれは、何のつもりでしょう?」
堂々とした証拠隠滅に、旦那はもはや失笑気味である。商売人の風上にも置けない奴だと、軽蔑に近い様子だ。
蚊取り線香屋はしかし、主人の剣呑な表情に気づいた様子もなく、にこりと笑って言い放った。
「や、これは足が滑った。旦那、先ほど水巻きでも?」
一体面の皮は、どれほどの厚みをしているのか。少年が退けた足の下には、きっちり蚊が赤く潰れていた。
「で、一巻きでよろしいですかい?」
冗談だろう。
ここまであからさまにイカサマをやっておいて、それを見破られておいて、あくまで笑って訊ねる蚊取り線香屋に、娯楽場は癖々してしまった。馬鹿なのか、こいつは。馬鹿に違いない。
だが馬鹿ほど厄介なものもないもので、娯楽場はどう懲らしめたものかと、低く唸り果てた。
「蚊取り線香屋さん」
そこへ、である。
小鈴をちりりと鳴らすような、美しくも軽やかな声がどこからともなく聞こえてきた。
二人が視線をやると、一人の美女が笑顔を浮かべ、通りをこちらへと歩いてくるところだった。
娯楽場はつい笑顔を浮かべ、彼女に丸々とした手を上品に振ってよこした。
「これは懐古堂さん。朝も早うございます」
「お早う、娯楽場の旦那さん」
女は裏路地迷町の東にある「懐古堂」と言う名の時計屋の女店主であった。
襟元が涼やかな薄手の着物を、品良く羽織った懐古堂は、誰もが美女と称える女性だ。揺れる袂からは、茶葉に似た懐かしい香り。儚い笑顔はまるで露草のよう。結い上げた髪のちらりと解けたうなぢの白さは、年のいった娯楽場でも思わず息を呑んでしまう。
若き蚊取り線香屋も、どうやらそのようであった。
「これは美しきお嬢様、蚊ごときにお困りとはお気の毒」
たいそうな口調の変わりように、娯楽場はげんなりと肩を落とした。客を選り好みするのは、商売人としてあるまじきことである。
懐古堂は蚊取り線香屋の側までやってくると、胸元から小鈴のついた織りも美しい財布を取り出した。
「一巻きくださいな」
慌てたのは娯楽場である。
「懐古堂さん、この蚊取り線香屋は……いえ、蚊取り線香の威力をまずは見てから買われては?」
イカサマであると公言するのは、同じ商売人としてさすがに気が引ける。仕方なく娯楽場は、言葉を曖昧に濁してそう忠告した。
しかし懐古堂は華やかな微笑を浮かべると、なんとも優しげに首を振った。
「先ほど日傘の方を見ておりました。素晴らしい威力ですわね」
柔らかな笑顔を受け、しかもそうも褒められれば、蚊取り線香屋の頬が赤くなったのも責められまい。線香屋はややや……と頭を掻くと、落ち着かなげにへへと笑った。
娯楽場は唇を噛んで思案する。無理やり止めるのも可笑しな話だ。しかし懐古堂がイカサマな蚊取り線香を買わされるのを、黙って見ていたのでは商売人の沽券に関わる。
どうしたものかと思慮していると、蚊取り線香屋は思いもよらぬ行動に出た。
「一巻きですね? 一つおまけ、しときましょう」
イカサマに何がおまけだ。そう肩を怒らせて少年を振り返った娯楽場は、またもぽかんとさせられた。
蚊取り線香屋は、背中に背負った袋から、わざわざ新しい蚊取り線香を取り出して、懐古堂に手渡したのである。
「あら? 先ほどの方には、こちらの棒の線香を渡していたようだけれど……」
「へぇ、棒のよりも威力が更に強いのでさぁ」
娯楽場が思わず首を伸ばして覗き見ると、それは棒にかかった線香とは、明らかに質の違いが分かる一級品の蚊取り線香であった。これならば、蚊取り線香屋のハリセン並みに、蚊も良く地に落ちるだろう。
「お値段もそのままで、どうぞちょいと貰ってくだせぇ」
「まぁ、いいのかしら。どうもありがとう、これからもご贔屓にさせていただくわ」
懐古堂は蚊取り線香を受け取ると、嬉しそうに小さく頭を下げて去っていった。
あんまりなイカサマ商売である。
「君、私にもその蚊取り線香を一巻きください」
娯楽場は試しに引きつり気味の笑顔で言ってみた。
「へぇ、旦那。ありがとうございます」
蚊取り線香屋はにこりと笑い返して、蚊取り線香を取り出した。
口に下げた棒から。
「いやいや、その線香ではなく、袋の線香が欲しいのです」
笑って訂正する娯楽場に、蚊取り線香屋は飄々と首を傾げてみせた。
「へ? 何のことでしょう?」
娯楽場は眉根を寄せて、袋を指差した。
「いえ、今、懐古堂さんに売った蚊取り線香の方を、私にもくださいと言ったのです」
「懐古堂さん? どちらさんで?」
「今貴方から線香を買った女性です」
娯楽場は辛抱強く説明する。しかし蚊取り線香屋は、怪訝そうに首を傾げた。
「アタシはさっきから、娯楽場さんとしか話しておりませんがねぇ?」
娯楽場は唖然として言葉を失った。
「今、来たではないか、世にも美しい女性が」
「そんな美女がここにいらしたと? 残念、それはちらとでも見たかったものですな」
「な、な」
まかり通るはずもない大嘘である。
しかし娯楽場は、何の反論一つすらも唱えることができなかった。反論すれば「へ?何のことでしょう?」と返ってくるのは、あんまりにも明らかだったのだ。
必死に額を押さえて考え、娯楽場ははっと意気揚揚顔を持ち上げた。
「その袋の中をちょいと見せてくれませんか? 他の蚊取り線香を見てみたいのです」
背負った袋の中身を見れば、質の良い蚊取り線香が隠しようもなく出てくるはずである。何か焦りを感じている娯楽場は、自分自身を必死で宥めながら、これでどうだと内心で胸を張った。
「他の蚊取り線香とは何のことでしょ?」
案の上白を切る蚊取り線香屋に、娯楽場は商売人たちが恐れてやまない、柔らかで穏やかな微笑みを浮かべて言った。
「いえね、棒の蚊取り線香はこの夏天ですから、多少なりと日に褪せていましょう? うちはこの通り商売をやっているものでね、お客様の目につくところには、出来れば色の良い蚊取り線香を置きたいのです」
「ははぁ、なるほど。たかが蚊取り線香」
「されど蚊取り線香」
「というわけですかい。これは蚊取り線香屋冥利につきるというもの」
蚊取り線香屋はさも嬉しげにうなずいて、背負った袋をひょいと地面に下ろして見せた。
予想に反して、あっさりと荷を下ろした少年に戸惑いながら、娯楽場は身を屈めて袋の口に注目した。
蚊取り線香屋は袋の口をそっと開くと同時に、銜えた棒から一巻き線香を抜きとって、ひょいと娯楽場に渡してみせた。
「これなんていかがでしょ?」
怒髪天を衝くとは、このことである。
馬鹿にしているとしか思えない単純なイカサマぶりに、これまで耐えてきた娯楽場もとうとう声を荒げた。
「それは棒から外した蚊取り線香ではないか!」
「へ? 何のことでしょう?」
「もう一巻き、袋から出すんだ、君!」
すっかり怒り心頭の娯楽場は、もう一度蚊取り線香屋に袋から出すよう念を押した。
蚊取り線香屋は「毎度」と笑って袋を開き、棒から蚊取り線香を抜き取って、娯楽場に手渡し、また袋を閉じた。
あんまりである。
「イ、イカサマ!」
娯楽場はついに耐えかねて、思わずそう叫んでいた。
通りの人間が、珍しい娯楽場の怒号に、なんだなんだと目を向けてくる。
これで蚊取り線香屋の信用は、地に落ちたはず。少年もさすがに声を荒げて反論してくることだろう。娯楽場は引きつった笑い声をたてて、少年の慌てぶりを見てやろうと目を爛々と輝かせた。
しかし。
蚊取り線香屋は、にこりと一つ微笑むと言ったのである。
「へぇ。ニ巻き合わせて、十銭でございやす」
裏路地の住人たちが、夏の訪れとともに自慢するのは空の色だ。朝は曙、昼は瓶覗、夕は深緋、夜は暗紅と、まこと色鮮やかに変化する。
時計の存在しない裏路地では、時の変化は空で知る。
空は色を変え、昼を一足飛び、「深緋」色へと変色した。住人たちの挨拶は「今晩は」だ。
あちこちの店々は開いたばかりの暖簾を、さっさと片付け店じまい。
いつしか通りは閑散とし、気づけば娯楽場の暖簾ばかりがいつまでも風に揺らぐのみだ。
暮れ始めた赤い空を、娯楽場の主人はただぽかんと見つめていた。
その手には、ニ巻きの蚊取り線香。
通りの向こうには、真っ赤な夕日に向かって歩いてゆく蚊取り線香屋の小さな背姿がある。
日傘は全て売り切れて、娯楽場の袖はちゃりちゃりと良い按配だ。
しかし十銭足りないのだ。
今日の儲けより、十銭ばかりも足りないのである。
「お、覚えておれ、蚊取り線香屋……」
娯楽場は歯軋りを立てて、安物の蚊取り線香をぎりりと握り締めた。
「覚えておれよー!」
果たしてその声が聞こえたかどうか、蚊取り線香屋は沈む夕陽に顔を輝かせながら、
「懐古堂さんか」
と、娯楽場のことなどすっかり忘れて、ハリセンで蚊を叩き落としながら、楽しげに今日の宿を求めて歩き始めたのだった。
下がるは堤燈、揺れるは風鈴、浮かれる心は人のもの。
裏路地迷町の夏は、暮れなずむ。