喉笛の塔はダミ声で歌う

最終話 自由の翼

 その日の朝、トマが髪を切った。
 腰まである長い三つ編みを、根本からばっさりと。

「トマ、君……」
 シティハウスの書斎のソファに座って新聞を読んでいたオースターは、現れたトマの短い黒髪を見て、言葉をなくした。
 隣にちょこんと座って、一緒に新聞を眺めていたルゥまでが、あんぐりと口を開ける。
「ええと……昨晩、その……、君……、け、結婚したの?」
 ホロロ族が三つ編みを切るのは、婚姻の証だと前に話していた。
 より具体的に言えば、結婚相手との初めての共寝を終えたあとに切るのだ、と。
 オースターの狼狽まみれの問いかけに、ルゥがショックを受けた様子でふらりと体を揺らす。
 トマは頬をわずかに赤らめ、「ちげえよ」と鋭い声で返してきた。
 しかし、全力で否定したわりには理由を話そうとしない。
 トマは困惑するふたりをよそに、視線をオースターの手元に向けてきた。
「新聞、今日はなに書いてある?」
 オースターは眉を持ちあげ、インクの匂いが残る新聞をひょいと掲げた。
「ちょうどルゥにも読み聞かせしてたところだ。君も聞く?」

 トマと共に〈汚染〉を南の果てまで連れていってから、十日。
 今、トマとルゥは、アラングリモ家が所有するシティハウスに滞在していた。
 喉笛の塔が復旧するまで、クラリーズ学園が長期休校に入ってしまったため、オースターがふたりにも声をかけ、共に避難してきたのだ。
 もともとシティハウスに住んでいた母はもういない。侍女とともに療養施設へと移ったのだ。だからここには三人のほか、ラジェがいるきりだった。
 できれば、ほかのホロロ族も住まわせたいのだが、オースターには隠さねばならない秘密がある。少しでも危険を避けるため、ラジェと相談の上、事情を知るふたりだけを呼ぶことにしたのだ。
「十日が経って、〈汚染〉はほぼ完全に動きを止めてるみたい。ペラヘスナの街は、北半分が〈汚染〉の通り道となり、壊滅。南半分はかろうじて影響を受けずに済み、今は機甲師団の新たな駐屯地となっている……」
 記事の内容を、幼いルゥにもわかるよう噛み砕いて解説する。
 トマは相づちをうちながらソファの袖に座り、新聞記事を上から覗きこんだ。

 すべてを見届けた、十日前。
 オースターとトマが機甲師団の電気駆動車に乗って首都に帰りつくと、ランファルドの民は、さながら英雄の凱旋とばかりに熱狂的に出迎えてくれた。
 〈汚染〉が動きを止めたことはすでに大公宮に伝わっており、ルピィの差配で、大々的な広報がされたのだという。
 ホロロ族が監視していた喉笛の塔の〈汚染〉には、結局、大きな動きはみられなかった。帰還してはじめてその事実を知らされ、オースターは心底ほっとした。
 ランファルドは、崩壊の危機を免れたのだ。
 喉笛の塔の〈汚染〉についても、すみやかにトマの声によって遠方に運ばれる計画だった。ただ、今のところは実行に移せていない。
 バクレイユ博士が「そのままに! エネルギー源として活用できるかもしれない!」と息巻いているためだ。
 おかげで、今でも〈汚染〉は塔の底にわだかまったままだ。
 そんな中でも、喉笛の塔は再建に向けての動きを加速させているという。
 塔の〈汚染〉をすぐにどうこうする技術は、さすがにバクレイユ博士にもない。そうとなれば、もちろん塔の再稼働に必要な動力源は、ホロロ族の喉笛ということになる。
 その喉笛のついては、大きな進展があった。
 汚染地帯の問題が一応の解決を見たあと、ルピィがすみやかにホロロ族の長を大公宮に招き、交渉の場を作ったのだ。

「今後、喉笛の所有者は、あなたがた本人となる。だがもし、喉笛の所有権を放棄、もしくはランファルドへの賃貸を望む者があれば、交渉に応じる」

 いったん返却した喉笛を、今度はホロロ族の意思でもって、ランファルドに提供してもらおうというのだ。
 ルピィはランファルド側の交渉窓口責任者として、民俗学の権威であるモーテン男爵を指名した。
 男爵は、もともとホロロ族について知見がある人物だ。一般の民のように「知らないがゆえの恐れ」も持っていない。加えて、コルティスの父親でもある。任命の裏に、「ゆくゆくはコルティスを後任に据える」というルピィの思惑が隠れていることは言うまでもない。

「ホロロ族が地下監獄でどんな生活を送ってきたのか、アモンはどんな国だったのか、聞きたいことが山のようにあるよ!」

 厚い眼鏡の向こうで、知的好奇心に目をギラギラさせながら、コルティスはオースターにそう語った。
 一方、ホロロ族側の交渉責任者にはマシカが就いた。部族の代表して、皆の意見をとりまとめることになったのだが、結果として、多くのホロロ族が喉笛の譲渡を望んだ。
 トマが「ホロロ族の魂」と言った喉笛は、彼らにとってはとっくに魂とは呼べなくなっていたようだ。喉笛を彼らの手に返したときも、誰もが「どこか見えないところに追いやりたい」と言わんばかりの怯えた顔つきをした。
 ともあれ今後、ランファルド大公国とホロロ族は同じテーブルにつき、喉笛の具体的な扱いについて、交渉を進めていくことになるだろう。
 もちろん、もう以前のようにはいかない。
 トマ、アキとロフ、それにラクトじいじの喉笛がなくなったことにより、喉笛の塔がもたらす発電量は激減することになるのだから。

「でも、人間って案外たくましいよね」
 記事を読みおえて、オースターは呟いた。
「この十年で、いろいろなものが電化された。きっと電気がなくなったら、みんな生きていけない……そう思ってた。けど、いざなくなってみたら、案外どうにかなってる。みんなが一丸となって、この苦境を乗りきろうと知恵を絞りはじめてる」
 新聞には、大昔に使っていた機械を倉庫から引っ張りだし、さっそく整備をはじめた老人たちの話が掲載されていた。
 それだけではない。多くの民が自分にできることを探し、動きだしているという。
 電気のかわりに木炭を、かつて使っていた蒸気機関を、あるいは人力を――使える手はなんでも模索していっているようだ。
 もちろん本当の困難はこれからだろう。電気がないという事態は、人々をじわじわと苦しめていくことになるはずだ。それに厳しい冬も間近に迫っている。
 それでも、生きねばならないとなったら、人はなんでもやる。
 やらなければ、息絶えるほかないのだから。
「ホロロ族のみんなも頑張ってるんだろう? 仮設の家を作ってるって聞いたよ」
「うん。長老がみんなに指示を出してる。仕事があるほうが、みんな落ちつくみたいだ。休む間も惜しんで、働いてる」
 ホロロ族は今、工場地帯の空き地に大急ぎで仮設の住居を建設しているという。
 下水道で鍛えられた体を駆使し、簡素で、それでいて冬の寒さに耐えられる頑丈な家を作りあげていっている。
 それらの住居づくりには、ホロロ族だけでなく、北からの難民たちや、ペラヘスナからの流入民も加わっているという。
 今のところ、大きな問題は起きていないと聞く。だが、難民そのものが首都の民にとっては望まざる存在だ。暴動が起きぬよう、目を光らせる必要があった。
 そうした諸問題に対応するため、これから新大公ルピィ・ドファールを中心とし、元老院、貴族は力を尽くしていかねばならない。問題は山積みだ。
 だが、問題に向きあう人々の心持ちは、これまでとは違ったものになるはずだ。
 なにしろ、最大の懸念であった〈汚染〉が動きを止めたのだから。
 これ以上、〈汚染〉が広がる心配はなくなった。その事実があるだけでもだいぶ違う。
 〈汚染〉に怯えぬ暮らしは、人々の心に寛容さをもたらすことだろう。
「……ルゥ、寝ちゃったね」
 オースターは声をひそめて呟いた。
 新聞を読み上げている間にこくりこくりと舟を漕ぎはじめていたのだが、そのうちオースターの膝を枕にして、眠りはじめてしまった。
 すぅすぅと安らかな寝息をたてるルゥの温かな頭をオースターはそっと撫でる。 
 ふと、従者のラジェが銀色のカートを押してやってきた。紅茶と菓子がソファ脇のテーブルに並べられる。
「ありがとう、ラジェ。トマもどうそ」
 オースターはカップを手にとり、茶葉の芳しい香りを鼻で楽しむ。
 トマは胡散臭そうに琥珀色の紅茶を眺めていたが、ゆるゆると手を伸ばし、カップのふちを口に運んだ。慣れない味だからか、あまりおいしそうな顔ではない。
 ラジェが去ったところで、オースターは改めてトマの髪をしげしげと眺めた。
「……なんだよ。じろじろ見んなよ」
 ぎろりとにらまれ、オースターは苦笑した。
「ごめん。だって、ルゥがショックを受けてたのがおかしくて」
 きっとルゥはトマのことが好きなのだろう。幼いながらに、トマが自分以外の誰かと結婚してしまったと思い、打ちひしがれてしまったのだ。
 それは誤解だったわけだが、オースターとしてもトマの思惑は気にかかった。
「で、どういう心境の変化があったの?」
 しつこくたずねてみる。
 トマは顔をしかめ、短くなった襟足を落ちつかなげに撫でた。
「だって……ランファルドでは男が長髪なのはおかしいことなんだろう?」
「うん? まあそうだけど、でも、君たちの習慣は大事にすべきだよ」
「わかってる。でも、ランファルドでは髪を短くするってのが習慣なら、従う。あんたたちの国に世話になってるのに、少しも流儀に従わないんじゃ、そりゃランファルドの連中だって腹も立つだろうし」
 思いのほか、真面目な理由だった。
 オースターは顔を曇らせ、慎重に口を開く。
「トマ。前にも言ったけど、君をランファルドという新たな檻に閉じこめる気はないよ。トマには心のままに生きてほしい」
 トマは眉を持ちあげ、まじまじとオースターを見つめた。
 そして、ふっと目元を和らげる。
「それもわかってるよ。別に強制されたとかじゃなくて、おれがそうしたいって思ったから切ったんだ。オースターと一緒に生きてく。だから、髪を切ろうって……」
 最後まで言いきらずに、トマは気恥ずかしげに目を泳がせた。
「……別に変な意味はない。もう魂は取りもどした。髪を切ろうが切るまいが、おれがホロロ族であることには変わりはないし、おれはおれのままだ。だろう?」
 オースターはほほえみ、己の短い襟足に触れた。
「そうだね。髪を切ったって、僕は僕だったし、君も君のままだ」
 トマは「そういうこと」と口の端っこで笑って、首をかしげた。
「それで、オースターはこれからどうするつもりだ?」
 突然の問いかけに、オースターは「これから、か」と呟き、天井をあおぎ見た。
「ひとまず、〈汚染〉の動きを止めた功績で、アラングリモ家に公爵位が返還されることになった。半年後には、アラングリモ公爵だ」
 本来ならオースター自身が爵位を継ぐのは成人後のはずだった。だが、当主を代行していた母が病気ということもあり、成人を待たずに爵位を継ぐこととなったのだ。
 もちろんそこにもルピィの思惑がある。理想の国政を樹立するために、一刻も早く、周りを信頼できる者で固めたいのだろう。
「爵位を継いだら、発言力も増すし、できることも増える。やらねばならないことも、やりたいことも、山のようにあるよ。……でもまずは、ホロロ族の立場を向上させるために力を尽くすつもりだ。まだ僕だけの構想だけど、若いひとにはクラリーズ学園の特待生として学びの機会を持ってほしいと思ってる」
 トマは目を丸くした。
「それってつまり、おれたちも学園に通うってことか?」
「そう。一緒に勉強して、同じ食堂でご飯を食べて、談話室で討論をしたりする」
「……んなことできんのかよ。嫌な予感しかしねーんだけど」
「まあ、そうなんだけどね」
 オースターは苦々しく笑った。
 学生の多くは貴族だ。貴族ではない者たちも特待生として受け入れることはあるが、多くはない。爵位を持たないコルティスも入学当時はずいぶんな嫌がらせを受けたというが、ホロロ族の場合がどうなるかは、正直、見当もつかない。
 かといって、中流階級の者たちが通う学校に入れるのはいっそう難しい。貴族よりも彼らのほうがホロロ族は身近な存在だった。「ドブネズミ」という蔑称は、戴冠式の英雄的な演出をもってしても、完全には消せないだろう。
 受け入れるには、まず貴族からだ。
 オースターの目の届く範囲でなら見守ることもできるし、誤解をとくこともできる。そばには、よき理解者となってくれたジプシールもいるし、誤った判断をしたときにはしっかり諫めてくれるオルグもいる。
「詳しいことは今後決めていくけど、のんびり時間をかける気はないよ。来期から実行する。トマも年齢的に対象者だから、いろいろと相談させてね」
 トマは嫌そうな顔をするが、まんざらでもないようにも見えた。
 学びたいという気持ちが、トマの中には隠しようもなくあるのだろう。
「それから、年齢がもっと上のひとたちは職業訓練の場を作るつもりだ。今後は数少ない職を、大勢で取りあう時代になるからね。衛生局のフォルボス局長にも協力してもらうつもりだ」
「あいつが、ホロロ族をまた雇ったりするか?」
「優れた技術さえ身に着けば、局長は雇うよ。下水道のことしか頭にないから」
 ホロロ族にとっては、まったく見知らぬ職業に就くよりも、やはり慣れた職のほうが安心するはずだ。下水道の内部を知り尽くしているという利点もある。
 技術は、学べば身に着く。だが、闇に対する耐性や、ぬめり竜への対処方法は、簡単に得られるものではない。
 ホロロ族にとっては、十年の経歴はうまくすれば得がたい宝となるはずだ。
「そっか。みんな、忙しくなるな」
 トマが呟く。どこか他人事のような声音だった。
 オースターはトマを真摯に見つめた。

「トマはどうするつもりでいるの?」

 トマは小首を傾け、遠くを見る眼差しで窓の外に目をやった。
「まだちゃんと考えてるわけじゃねえけど……北の防衛柵でなにかできないかなって思ってる」
「北の防衛柵……てことは、汚染地帯で?」
 ペラヘスナの南部まで後退した北の防衛柵では、今なお、機甲師団が動きを止めた汚染地帯を監視している。
「うん。機甲師団の団長に、ぬめり竜と素手で戦ったことがあるって話したら、なんか面白がってくれて……」
「それって、機甲師団の団員になるってこと!? 最高だよ、トマ!」
 だが、トマは「団員というか」と言葉を濁した。
「おれの声で、〈汚染〉を操れるどうかを、もう一度、試してみたいんだ。動きを止めることはできたけど、〈汚染〉そのものは消えちゃいない。今も北の大地に横たわってる。その〈汚染〉をどうにかしたい。できれば、汚染地帯を切り開いて、道を作りたいんだ」
 オースターは目を見張った。
「トマは大地を動かす気でいるの?」
 なんて壮大な話だろう。だが、もしもそれができたら、壊滅したと言われる北の諸国がどうなっているかを確かめにも行ける。
 無事な国があれば、交流を持てる。
 物流が回復すれば、確実に今よりも生きやすくなる。
 なによりも閉ざされた大地から外に出ていける。
 世界の片隅に閉ざされてしまったランファルドから出ていくことを想像するだけで、目の前がすっと開け、頭上に青い空が広がっていく気がした。
「……いいね、それ。とても」
 オースターは目を細めて呟く。
 トマはほっとしたように、うなずいた。
「まあ、仮に道が作れたとしても、土壌は汚染されたままだろうから、すぐに外に出ていけるって話にはならないだろうけどな。なあ、アラングリモ公爵家って農業王だか、農耕王だかって呼ばれてたんだろう? 土の汚染をどうにかする方法、なんかないのか?」
「うーん、どうだろう。普通の汚染とは違うからなあ。でも、かつての領民たちに声をかけたら、協力してくれる人たちが現れるかも。けどそれって、もはや国家事業だよ」
 予算もしっかり立てて、人員もそろえて、綿密な計画のもと、なるべく大勢でやったほうがいいのではないか、とつい心配が先に立つ。
 だが、そんなオースターに対して、トマは明るく笑った。

「そんなの知らねえよ。おれはおれで好きなようにやる」

 そうしてトマは、とうとうと夢を語りだした。
 黒き大地を開いて、道を作ること。
 その道を行き、どこまでも旅をすること。
 目で見て、耳で聞き、肌で感じて、たくさんのことを学びたいということ。
 オースターは眩しいものを見るように、トマの生き生きとした横顔を見つめた。
「そのうち、ご先祖さまが作ったっていう海辺の国を探してみるのもいいな」
 楽しそうに笑うトマの目から、こびりついた悲しみが消えることはない。
 けれど、トマはこれからも悲しみを大切に抱えて、生きていくだろう。
 翼を持った魂を喉に宿して、どこまでも、どこまでも、飛んでいくのだろう。
 彼の首にはもう首輪はない。



 自由だ。






終わり






あとがき・参考文献

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