喉笛の塔はダミ声で歌う

第67話 楽園の涯

 櫓のそばに、最新鋭の電気駆動車が五台、横付けされる。
 バクレイユ博士から預かり、馬車に積んできた蓄電池が次々と運び出され、各車両に分配された。電気駆動車の動力源であるという。
 わずかな時間で出発の準備が整い、団長が十数人の機甲師団の団員たちを前に、口を開いた。
「聞いてのとおり、〈汚染〉の実証実験は中止だ。このまま、任務遂行に移行する。アラングリモ殿下の乗られる一号車を先頭に出陣し、残りの四台はその背後に従え。もし〈汚染〉が襲いかかってきた場合には、身を挺して一号車をお守りせよ!」
 ためらいもなく応じる声が次々と上がった。
 オースターはちらりとかたわらに立つトマに目をやる。
 トマの顔はこわばっていた。きっと自分の肩に、大勢の人々の命が乗っていることを、肌で実感したのだろう。
 だが、トマはひとりではない。
 同じだけの命を、自分もまた背負っている。
「大丈夫だ、トマ。僕もいる。だめならそのときは、僕も、君も、みんなも、いっしょに汚染に呑まれるのみだ。……ひとりで生き残ることは絶対にない。死ぬときは全員一緒だ。だから、安心して。罪悪感を抱えて、ひとり生きるようなことにはならない」
 なぐさめともつかない言葉だったが、小刻みに揺れていたトマの眼差しは、それでスッと定まった。
「わかった」
 用意された電気駆動車には屋根がなかった。噂に名高い、変異体の化け物と戦うための大型銃火器も備えつけられていない。先頭に運転席があり、後部にふたり掛けの座席がついただけの簡素なものだった。心もとない印象ではあるが、余計なものを搭載していない分、速度は出そうだ。
 団長が運転席についた。トマが後部座席に乗る。オースターもトマの助けを借りて、その隣に腰かけた。
 車の外では、北の防衛柵に残ることになったラジェが祈るような眼差しでオースターを見つめていた。
「いってらっしゃいませ。オースター様」
 失敗すれば、これが永遠の別れになる。
 けれど、別れの挨拶は必要ない。オースターが汚染に呑まれて死ねば、彼もまたすぐさま後を追うだろう。
「いってくる。ラジェ」
 やがて電気駆動車が車体を軋らせ、ゆるやかに動きだした。
 舗装されていない草地に車輪をとられ、車体ががたんと揺れる。座り心地の悪い後部座席の上で、オースターの体が無防備に跳ねる。
 車はそのままゆっくりと走行し、〈汚染〉の先端部へと接近していった。
 やがて、肉眼でも黒い手の動きがはっきりと見えるほど近づいたところで停まる。
 トマが無言のままに車からおりた。
 まだ汚染されていない草地を踏みしめ、一歩、二歩と、汚染に近づいていく。
 その足が止まる。
 トマはどこまでも黒い大地を見渡し、口を開いた。
「約束、果たしにきたぞ」
 そして、はっきりとした口調で命じた。

「南へ」

 その直後だった。
〈汚染〉の先端部がぞわぞわと蠢いた。
 黒い手たちが一斉に大地に爪をたてる。
 そして同時に、オースターの想像をはるかに上回る猛烈な勢いで前進をはじめた。
「トマ!」
 オースターが叫ぶとともに、トマが〈汚染〉に背を向けて、車に向かって駆けだした。
「団長、走れ!」
 走りながらのトマの声に、団長は車のアクセルを踏みこんだ。
 ふたたび車が走りだす。トマが動きだした車両の後部に向けて腕を伸ばす。オースターも後方へと腕を伸ばし、トマの手首を掴んで、ぐっと手前に引っ張った。
 車体に接近したトマはもう一方の手で車のへりを掴むと、速度をあげる車の後部座席に素早く飛びのった。
「総員、一号車を先頭に、第一ルートで南下開始!」
 団長が車の前面にあるパネルを操作して叫ぶ。おそらく通信装置だろう。
 すると即座に、一号車を先頭にして、四台の駆動車が両翼を広げたような配置に展開した。
 五台の電気駆動車がぐんぐんと緑野を進む。
 町中では決して味わうことのできない速度だ。
 だが、その速さに高揚感を覚えることはない。

(覚悟を決めていたのに)

 振りかえれば、今にも追いすがらんばかりの速度で〈汚染〉が迫ってきている。
 地面そのものが大きくせりあがっているようだ。途方もない質量の物体に追われる恐怖は尋常ではなかった。
 体がこわばる。指一本、動かせない。いや、動かそうという発想すら湧いてこない。思考が奪われ、ただ迫りくる光景に視線が釘付けになる。
 黒い手の群れが、その指で触れた緑野を一瞬にして腐らせていく……。
 不意に、車輪が石にでもぶつかったか、車体が大きく跳ねた。
「……っ」
 オースターは息をつめ、へりにしがみつく。
 それによって、止まっていた思考も戻ってきてくれた。
(ああ、本当にちゃんと追ってきてる)
 〈汚染〉はたしかにトマの声に共鳴して前進してきていた。それも団長が話していたとおりに、先端部分を頭にして向かってきているのがわかった。
 おそらく後ろの〈汚染地帯〉も、先頭に引きずられるようにしてついてきているはずだ。その様子は車上からでは確認できない。後方の動き方によっては、すでにペラヘスナは〈汚染〉に呑まれているかもしれないが、それももうわからない。 
 そのときだ。
 突然、黒い波頭が高波のようにそそりたった。
 すかさず後方に展開していた車両のうちの二台が、一号車と波頭の間に躍りでる。一号車を守る壁となるために――。
 オースターは知らず悲鳴をあげた。
 黒い手の群れが、後方車両に乗る機甲師団団員の頭に掴みかかる。

「やめろ……!」

 トマが叫んだ。
「もう誰かを傷つけたりするな。そんなことしたって、おまえらの魂が癒されることはない!」
 声に反応したように、ぴたりと〈汚染〉が動きを止めた。波頭は高々とそそりたったまま、完全に停止する。
 その隙に、後方の車両も波頭の下から離脱し、走行しつづける一号車をふたたび追いかけはじめた。
 トマは後部座席から身を乗りだし、〈汚染〉をまっすぐに見つめた。
「わかるよ、理不尽だよな。なんで、おれたちがって思うんだろう? なにも悪いことなんかしてない。悪いのは全部、人を人とも思わずに傷つけつづけてきた奴らだって、そう思ってんだろ。でも、もうどうしようもない。全部、終わったことなんだ。あんたたちが自分の手で終わらせたんだろう!?」
 胸が痛くなるほどの、悲痛な叫びだった。
 オースターは呆然としてトマを見つめる。
 トマの眼差しは悲しげに揺れ、けれど、強い決意を剥きだしにしていた。
「あんたが憎んだ奴らはもういない。全員、死んだ。憎んだ国はもうどこにもない。あんたたちが全部壊して、滅ぼした。だったら、もう終わりだ。……なあ、頼むから、とっくの昔に死んだあんたらが、必死に生きようとしてる子孫の邪魔するなよ! 憎しみを捨てる勇気を持て。憎しみなんか、いくら背負ったって、あんたの心を癒やしはしない。そんな苦しいもので、いつまでも自分を縛ったりするな……!」
 その瞬間、〈汚染〉がすさまじい咆哮をあげた。
 それは、嘆きの声だった。
 憎しみの叫びだった。
 捨てる勇気など持てない、持つ気もない、決して尽きることのない重たい怨嗟のこもった絶叫だった。
 大地を震動させるほどの力の放出に、オースターの鼓膜は破れそうなほどの激痛を覚える。耳の穴から入りこんだ音の塊が、全身の皮膚を裂かんとして体の内部で暴れまわる。
 同じ痛みをトマも感じているのだろう、車のへりを掴む手が震え、甲には青筋がくっきりと浮き上がった。
 だが、トマは決して〈汚染〉から目をそむけなかった。

「自由になれ」

 そして、トマの喉の奥から、まるで子守歌のように優しい歌声が溢れだした。
 体中の痛みを必死にこらえていたオースターは、呆然として顔をあげた。
(ああ、トマ。君はなんて悲しい声で歌うんだ……)
 それは、痛みを知る歌声だった。
 だからこその、いたわりに満ちた声だった。
 気づけば、涙が頬を伝っていた。感情が高ぶり、止めようとしても止めることができない。
 トマの歌が、声が、心の奥深いところまで入りこむ。

 そこは、オースター自身すら助けの手を差しのべてやれないほど、深い、深い、闇の底だった。


 底にいるのは、ひとりぼっちで泣く「私」だ。


 十年もの間、誰にも気づかれず、闇の中で泣いてきた。
 誰にも気づかれないとわかっているから、悲しくて苦しくて、泣きつづけてきた。
 そこに、あたたかな光が差しこんだ。
 涙に濡れた顔を明るく照らしだす。
 歌が聞こえる。
 傷ついた心をそっと包みこむような、優しい歌声が。
 少女は顔を上げた。
 ふらりと立ちあがり、ふと、そばに立つオースターを見つめる。

「もう大丈夫よ」
 少女が囁く。
 オースターは顔をゆがめ、無理やり笑みを浮かべてうなずいた。
「うん、もう大丈夫だね」

 ありがとう。ライエニー・アラングリモ。
 そして、さようなら。今度こそ、本当にお別れだ。
 自分がライエニーと名乗ることは、もう二度とない。

 オースターはかつての自分に別れを告げた。
 少女の姿は、朗らかなほほえみを浮かべ、光に溶けて消えていった……。


「すげえな、オースター」

 ふと、意識が駆動車の上に戻った。
 涙のにじんだ目をぼんやりと上げると、トマがかたわらで笑っていた。
 激しく揺れる駆動車の上にすっくと立ち、黒い三つ編みを風になびかせて、見たことがないほど清々しい笑顔で、真っ青な空を見上げていた。
「まるで、飛んでるみたいだ」
 いつの間にか、〈汚染〉は叫ぶことをやめていた。
 走りつづける車の後方に目をやれば、また静かになってトマについてきた。
 オースターは瞳の表面にたまった涙をこぼし、トマが見つめる空を見上げる。
 白い雲の浮かんだ秋の空は、どこまでも澄みわたっている。
「うん、本当だ。飛んでる……」
 南の楽園に向かって、飛んでいる。
 多くの嘆きをひきつれて。
 完全には消えることのない憎しみを引きつれて。
「団長、もっとはやく走ってくれ。鳥が飛ぶように!」
 トマが笑いながら、ハンドルを操る団長に叫ぶ。
 電気駆動車が、限界まで速度をあげる。
 舗装されていない荒野に、無骨な軍用車の車輪が轍を刻んでいく。
 トマは興奮したように笑って、また歌った。

 南へ。
 南へ。


 南へ――。


 やがて眼前に地面の切れ目が見える。南の果ての断崖だ。その先に海が見える。青く輝く、どこまでいっても陸地ひとつ見えない大海だ。
 駆動車は、断崖に横づけするようにして、ゆるやかに停止した。
 振りかえれば、背後に従っていた〈汚染〉はのろのろとした動きに変わっていた。
 長い旅をつづけてきて、どこか疲れきってしまったような憐れな姿だった。
 トマが腰の工具鞄に手をかける。取りだしたのは、琥珀色の喉笛だ。
「ここから先、あいつらを導くのはあんたの仕事だ、ラクトじいじ」
 トマは祈りを捧げるように喉笛に囁きかける。
 そして、車のへりから身を乗りだすようにして、喉笛を断崖の先へと放りなげた。
 小さな琥珀色のきらめきが、音もなく絶壁の下に消えていく。
 それが海面に届くさまは、駆動車の上からは見ることができない。
 けれどきっと、その小さな魂は、南の海へと届いたことだろう。
 ――それを最後に、トマはいっさいの口を閉ざした。
 少しでも声を発すれば、〈汚染〉がトマのほうを追ってしまう。だからただ黙って、しばらく崖の先の海を見つめていた。


 ふたりを乗せた電気駆動車と、それに続く四台の車両が、断崖のふちをたどるようにして〈汚染〉から遠ざかる。
 〈汚染〉はもうトマを追わなかった。
 海へと消えた喉笛を追うように、まっすぐに断崖へと向かう。

 〈汚染〉は、黒い指先を海面に向けて精一杯に伸ばした。
 海の底に沈んだ喉笛を掴もうとするように。
 黒い手の群れが、次から次へと崖下に落下しはじめる。まるで粘液が垂れるように、黒い糸を引きながら垂れ落ちていく。そして、それに引っ張られるように、〈汚染〉そのものが崖下へと落下しはじめた。

 黒い指先が、水面に触れた。
 青い波が、その手を濡らす。

 それを皮切りに、ゆっくりと。
 息絶えるように。

 〈汚染〉はその動きを止めた。




 それが、北からやってきた〈汚染〉の終着点だった。

最終話へ

close
横書き 縦書き