喉笛の塔はダミ声で歌う

第66話 北の防衛柵

 大広間の近くにある客室のベッドで仮眠をとっていたオースターは、扉を開くかすかな音を遠くに聞いた気がして、ふと目を開けた。
 暗い。まだ夜のようだ。
 身を起こし、重たい体をひきずってベッドから下りる。
 窓から差しこむ淡い月光を頼りに部屋を横切り、手探りで扉を見つけ、廊下に出る。廊下もまた暗い。停電のために電灯は消え、燭台の灯もすでに消えているのだ。
 ただ、廊下の奥にある大広間のほうがぼんやりと明るかった。両開きの扉がわずかに開かれ、中からの明かりが漏れているようだ。
 壁伝いにそちらに向かい、大広間の内部をそっと覗きこむ。
 広間の中にいたのは、トマだった。
 燭台の置かれたテーブルのそばにひとり立ち、なにかをじっと見つめている。
「トマ」
 そっと声をかけると、トマが顔をあげた。
 オースターに気づいて、驚いた様子で駆けよってくる。
「なにしに来たんだ? まだ寝てなきゃだめだろ」
「目が覚めちゃったんだ。トマこそ、まだ寝てないの? みんな、もういなくなったみたいなのに」
 遅くまで入れかわりに会議に参加していた人々は、もういない。すでに動きだしているのか、あるいはオースター同様、どこかで仮眠をとっているのだろう。
「……仮眠室には案内された。けど、あんなきらきらした部屋じゃ、落ちついて寝れねえ」
 気まずそうに呟くので、オースターはつい笑う。地下の監獄に比べたら、大公宮の仮眠室はかなり居心地がいいと思うのだが、トマにとっては別世界すぎて落ちつかないようだ。
 トマに支えられながら、テーブルまでゆっくりと歩いていく。
 会議が開かれていたときには、ランファルドの地図やら、地下道の図面が広げられていたテーブルだが、今そこに置かれていたのは、琥珀色の小さな鉱石がひとつだけだった。
 喉笛だ。
「ラクトじいじの遺した喉笛だね」
 オースターの問いに、トマは小さくうなずいた。

 トマが喉笛の塔から脱出したとき、多くの喉笛と同様、この喉笛がトマの手元に舞いおりてきた。
 触れた瞬間、トマはそれがラクトじいじの喉笛だとわかったという。
 ――おれの声にこたえて、自分で喉を突き破って、地上に戻ってきたんだと思う。
 わずかに血濡れた喉笛を見て、トマはそう言っていた。

「きれいだね。これが人体の一部だなんてまだ信じられないよ。こんな美しい貴石のようなものが……」
 呟きながら、しかしオースターはほほえむ。
「けど、これが人間の魂の形だって言うなら……少しは信じられるかも」
 トマが揶揄するように口角を持ちあげた。
「人間はきれいな心を持った生き物だから、って?」
 まるで「きれいごとだな」と言わんばかりの口調に、オースターはむっつりと顔をしかめた。
「トマはすぐそうやって僕を馬鹿にする。……人の心がきれいだなんて思ってはいないよ。少なくとも僕の心はきれいじゃない。けど、どれだけ心が汚れていても、その奥にある魂はきっときれいだと思うんだ」
 トマは眉をひそめ、「アキみたいな奴の魂でも?」と試すようなことを口にした。
 意地悪な問いだ。けれど、オースターは迷いなくうなずいた。
「アキもだよ。認めたくないけど。彼のロフへの一途な想いはとてもきれいなものだった。……みんな、きれいな魂を持って生まれてくるんだ。でも、生きているとたくさんのことが僕らの魂を壊そうとしてくる。心はきっと鎧なんだ。きれいな魂を守るために、時に心はその形を歪めなくちゃいけない。そうして心が汚れていってしまったとしても、それってもうどうしようもないことだよね。そうしなくちゃ、魂を守れなかったんだから……」
 オースターは、灯に照らされ、美しく輝く琥珀色の喉笛を見つめる。そこに今もラクトじいじの魂がとどまっているのだと思いながら、語りかける。
「だから僕は、みんながきれいな魂のままに生きられる国をつくりたい。誰にも壊されず、奪われず、穢されることのない国を」
 言ってから、オースターは苦々しく笑った。
「……なんて、大公位を返上した人間が言う台詞じゃないけど」
「おれはやっぱり、あんたに大公になってほしかったよ。オースター」
 言葉尻を遮るようにして、トマが言った。
 振りむくと、トマはどこまでも澄んだ瞳でオースターを見つめていた。
「そんな風に言ってくれるのは、世界のどこを探したって君だけだよ、トマ」
「かもな。けど、おれはあんたが思い描く国を見てみたいと思ってる。オースターが作る世界なら、そこにいたい、って思うよ」
 トマの眼差しはこれ以上ないほど真剣で、オースターはなんだか泣きだしたい気持ちになった。
 そこには、たしかな信頼があった。
 その信頼を、オースターはもう二度と裏切らない。
「きっと作ってみせるよ。君とともに」
 トマの顔にふっと翳が落ちた。かすかな恐れをそこに見てとって、オースターはかぶりを振る。
「ちがうよ。君をランファルドという名の新しい檻に閉じこめる気はない。トマはどこに行ってもいいんだ。君の魂は自由だ。ただ、どこへ行ったとしても、君の帰る場所はここにあるってことを忘れないでほしい」
「帰る場所……?」
「そう。どこへでも自由に飛んでいってかまわない。けれどもし、飛ぶことに疲れたら、ここに帰ってきたらいい」
 なんとなく予感があった。すべてが終わったら、トマもアキのように姿を消してしまうのではないかと。いや、トマがそうしたいと思っているというより、そうしなければならないと思っている気がしたのだ。
 トマは優しい。
 きっと、ランファルドが今の窮地に陥ったのは自分のせいだと思っている。
 だから、すべてが終わって自由の身になったとき、トマはきっとオースターの目の前から去ってしまう。人々の目のつかない場所へと姿を隠してしまう。そんな気がしていた。
 どこにも行く場所なんてないはずなのに――。
 それを止めることはオースターにはできない。けれど、居場所をなくしてここを去るのと、ここを帰る場所だと思いながら、どこかへ自由に飛び立つのとでは、きっと心持ちがまったく違うはずだ。トマの胸に消えない自責の念があったとしても、せめてそこに、ひとかけらでもいいから安らぎを加えていってほしい。
 オースターの切実な願いが伝わったのか、トマは柔らかく笑った。
「ほんと、あんた、お節介だよな」
 オースターは眉を持ちあげ、「でしょ」と目を細めた。
 そして表情を引きしめ、オースターは改めてトマを見つめた。
「それで明日のことだけど――実証実験に持っていくのは、本当にラクトじいじの喉笛だけでいいんだね?」

 大公宮での会議によって、ひとつ、大きな決定がなされた。
 夜明けとともにトマは北の防衛柵へと向かい、ある実証実験を行うのだ。
 すなわち、トマの呼びかけによって、本当に〈汚染地帯〉の〈汚染〉が動くのかどうか。動かせたとして、その動き方はどんなものとなるのかを見極めようというのだ。
 当初、その実験には塔から回収したすべての喉笛も持っていく予定でいた。塔の〈汚染〉は喉笛から生じたものだ。北の防衛柵でのトマの呼びかけによって、喉笛からまた新たな〈汚染〉が生まれる可能性があったからだ。
 だがそれを告げると、トマは「おれと、ラクトじいじの喉笛だけでいい」と言った。「塔の〈汚染〉は、おれの言うことをよく聞いてる。多分、大丈夫だよ」と。
 かわりに、すべての喉笛をホロロ族に返し、彼らに塔の〈汚染〉を監視してもらうことにした。
 塔の〈汚染〉をどうするかは、〈汚染地帯〉の〈汚染〉をどうにかしたあと考えることになった。だがもし実証実験により、塔の〈汚染〉が予期せぬ動きをとった場合、ただちにホロロ族がそれをトマに伝達する手はずになっている。
 伝達の手段は、もちろん「声」だ。
 ホロロ族の「声」は、遠くにいるトマにも共鳴反応によって伝わる。もしそうなった場合、トマはすかさず北の防衛柵における実証実験を中断することになる。

「ああ。おれとラクトじいじが〈汚染〉を連れていく」
 オースターの問いかけに、トマは改めてそう答えた。
「汚染はずっと『南へ』と叫ぶラクトじいじの声に共鳴して、ランファルドまでついてきた。だから、ラクトじいじの喉笛と、おれがいれば、汚染はきっと応えてくれる。……それに」
 トマは瞳を曇らせ、ラクトじいじの喉笛を見つめた。
「汚染を南の楽園に連れていくのは、ラクトじいじの役目だ。だから、それをまっとうさせる」
 神妙な口ぶりに、オースターは黙ってうなずいた。
 そのときふと、オースターは室内の闇がわずかに薄らいでいることに気づいた。大広間の天井窓を見上げると、夜の闇はいつの間にか薄らぎ、澄んだ深い紫色に変わりつつあった。夜明けが近いのだ。
「もうすぐ出発だ。眠れないなら、出立の準備をしておこう」
 オースターはそう言って、テーブルのそばを離れようと踵を返した。
 その腕を、背後から掴まれる。
 振りかえると、トマが不安そうにうつむいていた。
「……あんたは残ったほうが……」
 オースターがトマの実験に付きそうことは、会議の中で決まったことだ。
 もちろん「危険だ」と反対の声はあがったが、オースターが強く「国家の危機に立ちむかうのが貴族の役目だ」と主張してそれを退けた。
 オースターは最初から、トマと最後まで一緒にいるのだと決めていた。
「この期に及んで、そういうことを言うのはなしだよ、トマ。それに約束したじゃないか、僕を南の楽園に連れていってくれるって」
「……そんな約束したっけ」
 トマが怪訝そうに首をひねる。そういえば、その約束はトマが熱に浮かされていたときに交わしたものだったか。
 だが、オースターは「約束したよ」と笑った。
「だから、僕も行く」
 トマは不安そうな顔をしながら、小さく息をついた。



 夜明けが近づき、空が白みはじめた頃、オースターとトマは大公宮に横づけされた馬車の前に立った。
 旅立つふたりを見送ってくれたのは、コルティスやジプシール、オルグといった、ごくわずかな仲間たちだけだ。今回の実証実験は秘密裏に行われる。民は知らない。多くの貴族もまた知らない。だから、世界の滅亡を止めに行くというのに、その出発は静かなものだった。
「いってらっしゃい、オースター。それから、トマ君も」
 コルティスが力強い声で送りだしてくれる。オースターは笑顔でコルティスの肩を掴んだ。
「ありがとう。ホロロ族のみんなのことは任せたよ、コルティス」
 コルティスはにっと笑って、オースターの肩をしっかりと掴みかえした。
 トマが先に馬車に乗りこむ。次いで、オースターも従者ラジェの手を借りて、ステップに足をかけた。
 馬車の中に入る前に、オースターはふと大公宮を振りかえった。
 高い位置に廊下の窓が見える。そこにはいつもと変わらず、平静な顔つきをしたルピィが立っていた。
 目が合うと、ルピィは小さくうなずいた。
 オースターもまた深くうなずきかえした。
 座席につく。扉が閉じられる。御者台についたラジェが鞭をふるう。車輪が軋んだ音をたてて動きだし、馬車は大公宮と仲間を背にして走りだした。
 途中、隣接する喉笛の塔の監視所にも寄った。出入り口に馬車を寄せると、苦々しげな顔をしたバクレイユ博士が待ちかまえていた。
 博士は無言のまま、背後に控えた研究員たちに目配せする。すると研究員たちは用意してあった四角い箱を次々と馬車の内部に積みこんだ。
 それなりに広かった車内は、あっという間に箱だらけになる。
「貴重な蓄電池なんですよ。無駄にしたら……」
 甲高い声で吐き捨て、博士がじろりとオースターとトマをにらんでくる。
「実証実験へのご協力に感謝します、バクレイユ・アルバス博士。それではまた」
 オースターは笑顔で答え、博士の鼻先でぴしゃりと馬車の扉を閉ざした。
 そして、馬車はふたたび走りだした。

 沈鬱な空気に包まれた首都ランファルドを出て、朝霧に包まれた街道を行く。無言で揺られるうち、東の方角にある丘の端から太陽が顔を覗かせた。鋭い光が放たれ、朝霧はあたたかな乳白色へと変わり、四方には金色の平野が広がった。
 まばらに生えた木々の根元には、秋の野花が色とりどりに咲き誇っている。黎明の空には鳥が飛びかい、窓を開けるとひんやり冷たい朝の空気が入りこんできた。
 オースターは窓枠に頬杖をついて、久しぶりに見る郊外の景色に目を細めた。
「きれいだね……」
 世界は終わりに向かっているのに、空の美しさはなんら変わりはない。
 地上にへばりついて生きる人間の苦悩にも、広大な大地を腐らせ尽くした〈汚染〉の存在にも頓着しない。
 ただ、人間ばかりが、人間自身がもたらした災いによって右往左往している。
 隣に座ったトマはちらりと窓の外に目をやるが、緊張しているのか、なにも答えずに馬車の床へと視線を戻した。
 馬車はいくつかの街や村、丘を越え、現状ではランファルド最北端にある街ペラヘスナに入った。
〈汚染〉が街の北部まで迫り、すでに住民の多くは首都への避難を終えている。だが、居残る覚悟を決めた者たちもいるようだ。目抜き通りを走る馬車の存在に気づいて、数人の住人が怪訝そうに顔を覗かせていた。
 閑散とした街を北へ抜けると、しばらくもせずに木製の簡素な櫓が目に飛びこんできた。櫓の周囲には、駆動車が幾台も停車し、機甲師団の制服を着た男たちが物々しい様子で立っていた。
 馬車が停まると、御者台のラジェよりも早く、機甲師団の団長を名乗る男が扉を開けてくれた。
「お待ちしておりました、アラングリモ卿」
 オースターは団長の手を借りて、馬車から降りたった。
 トマも遅れて馬車をおり、ラジェもそこに加わる。
「急造ではありますが、こちらが現、北の防衛柵です」
 団長が櫓を手で示して教えてくれる。
 本来の北の防衛柵はもっと北にあったが、先日の〈汚染〉の襲来により、急きょ、ペラヘスナの北端ぎりぎりまで後退したのだという。
 団長の案内で、オースターとトマ、ラジェは、櫓の簡素な階段をのぼった。
 柵の前に立ったオースターは息を呑む。
「これが、汚染地帯……」
 ほんのわずかな距離を置いた先に、黒々とした大地が広がっている。
 草木はすべて立ち枯れ、土は腐り、溜まり水は黒く淀んでいる。最近になって〈汚染〉に呑まれた一帯のためか、あたりには生々しい腐敗臭がただよっていた。
「長年の機甲師団の絶え間ない研究により、〈汚染〉には『先頭』と呼べる部分が存在することがわかっています。こちらを」
 団長が双眼鏡を渡してくる。オースターは双眼鏡を覗きこみ、示された方角、汚染地帯の先端の一部をレンズ内に収めた。
 そこには、数百、数千という数の黒い手が、襞のように蠢いていた。
(本当に、手の形をしていたんだ……)
 だが、黒い手が生えているのは、のごく一部だった。波打ち際のように広がる〈汚染〉の一角がわずかに三角の形に張りだしており、その突端のみに黒い手が集合している。
「どうやら汚染地帯は、あの先端を起点として、ずるずる前進をしているようです。ちょうど布を引っ張ったように、後ろの〈汚染〉がついてくる……そんなイメージです」
「布を引っ張る……なるほど」
「推測が正しければ……いえ、正しいと信じたいのですが、そちらの少年が呼びかければ、おそらくあの先頭を起点として、全体が前に動きだすはずです。その動き方を確認次第、海へと向かうルートを割りだします。候補はすでにいくつか」
 オースターはうなずき、双眼鏡から顔を離して、トマに差し出した。
 しかしトマは受けとらず、「見えるよ」と言った。
「そんなもんなくても見える。あの女が這いずってる」
「女?」
「喉笛の塔の底で、おれの前に姿を見せたホロロ族の女。多分、〈汚染〉のおおもとになった女だ。狭い下水道管の中を這うみたいにして、腕を地面に這わせて、こっちに向かってる。力ない動きだけど……じっとおれを見てる」
 ぞくりとする。オースターにはその女の姿は見えない。ただ、無数の黒い手が見えるだけだ。
 どうやら、トマにはまったく違うものが見えているらしい。
「そっか……。汚染地帯ってのは、女がまとった黒いドレスみたいなもんなんだな。スカートが地の果てまで続いてる。あれじゃ重いだろう」
 トマの言葉には、どこか憐れみが含まれているようだった。
「実験、うまくいくと思う?」
 オースターは問うた。それは、いざ〈汚染〉を目の前にして、トマの中に恐怖が生まれていないかを確認するための問いかけだった。
 だが、トマはどこか当惑した様子だった。
「多分、うまくいかない」
 思いがけない返答に、オースターは「え」と言葉を詰まらせる。
「オースター。今、〈汚染〉がおれの声に反応してるの、見えるか?」
 オースターは急いで双眼鏡をのぞきこむ。
 トマが軽く声を発すると、汚染の先端にある黒い手たちが痙攣を起こしたように蠢くのが見てとれた。
「うん。動いてる」
 顔を強張らせて伝えると、トマは眉を寄せた。
「だとしたら、実験はうまくいかない。こんな囁き声にも反応するぐらいだ、あれは早く動きだしたくて焦れてる。いったん動きだしたら、もう止まらないはずだ」
 オースターは息を呑み、同時に目を鋭くした。
「つまり……ぶっつけ本番ということだね?」
 ひとたび始めてしまえば、もう誰も〈汚染〉を止めることができないのだろう。
「――団長。僕の一存ですが、実験はなしで、このまま始めます」
 そばに立っていた団長の表情に緊張が走る。だが、さすがは十年もの間、汚染や、汚染がもたらした変異体の怪物たちと戦いつづけた猛者だ、すぐさま「御意に」と言った。
「大公閣下からは、詳しいことは現場で判断するよう命じられております。すぐに始められますか?」
 オースターは、トマに視線をやった。
 トマはこくりと喉を上下させ、うなずいた。
「すぐに」
「承知しました。おふたりは駆動車の一号車に乗りこんでください。運転は私が。〈汚染〉の動きを見て、ルートの候補から最適なものを選び、おふたりを南の海までお連れします」
 オースターは緊張に震える手を握りしめ、汚染地帯をまっすぐに見据えた。

「お願いします。――さあ、始めよう、トマ」

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