喉笛の塔はダミ声で歌う

第56話 もっとも重い罰

 胸壁からランファルドの街並みを見おろして、ルピィが言う。

「昨晩、おまえから話を聞いたあと、〈喉笛の塔〉に向かった。だが、到着した時点で、塔はあのありさまになっていた。それ以降、だれも近づけていない」

 石づくりの旧市街。戦後に造成された鉄鋼づくりの新市街。
 近年、新たに建造された五階建ての集合住宅群に、錆色の工場群。いつもなら朝から煙を吐きだしている煙突が、今日はなにも吐きだすものなく屹立している。
「電気の供給も止まっている。街にはじわじわと混乱が広がりつつある。停電のせいもあるが……なにより塔があのざまではな」
〈喉笛の塔〉は高台にあるから、市街地の多くの場所から見ることができる。
 朝になって塔の姿を目の当たりにした民の動揺はいかばかりだったろう。
「ぼくは町の様子を直接見たわけじゃないけど、ルピィの話によると、一触即発って雰囲気みたいだよ」
 分厚い眼鏡のフレームを押しあげながら、コルティスが教えてくれる。
「ほら、昔から首都に暮らすひとたちって、まともに〈汚染〉を見たことがないでしょう? だがら、塔のあの姿を見ても、〈汚染〉だとは思っていないみたいなんだ」
「でも、北部からの移民なら、〈汚染〉を知っているだろう?」
「うん。あの塔を見て、すぐに騒ぎだした。あれは〈汚染〉だ、塔が〈汚染〉された、って。けど、根っからの首都っ子はそれを信じない。信じないというか、信じたくないんだろうね。それで、ちょっとしたいさかいが起きてるみたいなんだ。下手をしたら、そのまま暴動にでもなりかねない」
 昔から首都に住む民と、戦後〈汚染〉を逃れて移住してきた民とは、そもそも仲が悪い。人口の急増によって、住居も仕事も不足し、下水道の処理機能もまにあわず「鼻つまみの三か月」が発生したからだ。
 それらの社会問題は、すべて北部移民のせいだと考えた首都の民は、移民に悪感情を抱いた。暴動が起き、多くの血が流された。
 当時芽生えた負の感情は、十年が経ったいまでも根強く残っている。
「待って。じゃあ、トマは? 救いだせてはいないの?」
 オースターはにわかに焦りを覚える。ルピィが首を横に振った。
「救いだせていない」
「バクレイユ博士は!?」
「博士は〈喉笛の塔〉監視所にいる。おまえの言うとおり、トマとやらを使った〈汚染〉の制御実験を行うつもりだったようだが、準備のさなかにあの事象が発生したらしい。いまは監視モニタにかじりついて、原因の解明に挑んでいる」
 
 バクレイユ博士はまだなにもしていなかった。
 なのに、〈喉笛の塔〉はあんな姿になってしまった――。
 なにが起きたのだろう。トマは無事なのだろうか。
 
「もうひとつ。〈北の防衛柵〉でも異変が起きている」
 次から次へと――オースターは動揺をなんとか鎮めて、「今度はなにが?」とたずねる。
「機甲師団からの報告によれば、柵を突破した〈汚染〉が、奇妙な動きを繰りかえしている。急加速と、急減速とを、交互に繰りかえしているようなのだ」
 急に大きく動き、そしてまた急に止まる。
 それを繰りかえしているということか。
「団長の私見ではあるが、その様子はまるで、動こうとする力と、止まろうとする力とが、せめぎあっているように見えたそうだ」
「せめぎあっている……」
「〈汚染〉はすでに、ペラヘスナの目前まで迫っている。今ごろ、機甲師団が民に避難をうながしているはずだ。早ければ、夕刻には大量の避難民が首都に押しよせてくる」
 それは危険だ――とオースターは顔をこわばらせた。
 首都の民はいま、極度の緊張化にある。ここにまたさらに避難民が加わるとなると、ささいなことがきっかけで本当に暴動が起きかねない。

「民はまだ大公殿下の逝去を知らない?」

 おそらくは知らないだろう。案の定、ルピィは「まだ知らない」と認めた。
「伯爵位以上の諸侯、主だった機関にはすでに通達がいっている。が、民に対しては緘口令が敷かれている。この状況で大公殿下の逝去を伝えるのは、あまりに危険だ」
 オースターはうなずいた。
「そうだね。大公殿下の逝去を知らせるとしたら、君の即位と同時でないとだめだ」
 ルピィの即位。その言葉に、車椅子の背後に立つラジェ、それにコルティスも、息を詰めてオースターとルピィとを振りかえった。
「君が王座に座り、圧倒的な力を示すことができたら、民は安心するよ」
「言われずともそのつもりだ」
 ルピィは、じつにルピィらしく居丈高に答えた。
「夕刻、戴冠式をおこない、民に新大公誕生の号令を発する。大公殿下の葬儀は内々に済ませ、逝去の事実はなるべく薄めて伝える」
 本来なら、この国を安寧に導いた大公殿下の葬儀は、大々的にとりおこなわれるべきものだ。
 だが、大公の世代交代によって国が乱れたのだと民に認識されることだけは、ぜったいに避けなければならない。
「ルピィならできる。いかにも偉そうだもん。みんな、ほっとするよ」
 あえて軽い口調で言うと、ルピィは舌打ちせんばかりに顔をしかめた。
「風格があると言え。――いずれにせよ、さしあたっての問題は〈喉笛の塔〉だ。いかに私に風格があろうとも、塔があんな異様な姿をさらしていてはな」

 たしかにそのとおりである。
 玉座についた新大公の背後で、〈汚染〉に侵された塔がたたずんでいるとなれば、民は新時代の幕開けより、世界の終わりを確信するだろう。

「言うまでもないけど、見た目だけの問題じゃないよ。おふたりさん」
 コルティスが念を押してくる。
「あの黒い手が〈汚染〉だって言うなら、いつ街に襲いかかってきてもおかしくないんだ。そうなれば、大公も庶民も関係ない。全員、必死の形相で逃げるしかない。もっとも、逃げる先なんかどこにもないけどね」
「そんなことはわかっている、学者風情が。だから、このご令嬢をここに連れてきたのだ」
 ルピィが改めてオースターに視線を向けた。
「バクレイユ・アルバスも、今の〈喉笛の塔〉の状況を理解できていない。モニタに並ぶ数値を眺めて、『なにが起きた。わからん、わからん』と頭を掻きむしるばかりだ。……が、逆を言えば、好機でもある。もし、博士よりも先に、我々が〈喉笛の塔〉の状況を把握できれば、あの男より優位に立つことができる。都合のいい『木偶』には成り下がらずに済むというわけだ。
 ゆえに、おまえに問う。あの塔の状況について、なにかわかることはあるか? オースター」
 オースターは驚き、ルピィをまじまじと見上げた。
「博士にわからないことが、僕にわかるわけない」
「”〈喉笛の塔〉の歌も、〈汚染〉も、すべてひとの心が生みだしたもの”。そうおまえは言ったな」
 ルピィが青い瞳をすがめた。
「そして、私も言った。まったく理解ができないと。心だの、魂だの、魔法だの……とうに私の理解の範疇を超えている。ついでに言えば、バクレイユ博士も根本的な部分ではホロロ族を理解できていないのではないか?」
 オースターは神妙にうなずいた。
 バクレイユ博士が見ているのは「数値」だ。
〈汚染〉に侵され悶絶するラクトじいじを前に、心配ひとつしなかったあの男に、ひとの心や魂だのが理解できるはずがない。
「つまり、いまの状況を理解できるとしたら、君だけってことだよ、オースター」
 コルティスの言葉に、ルピィは「そのとおりだ」と皮肉げに口端を持ちあげた。
「なんでもいい。推測でもいいから、あの状況を打破できる手がかりが欲しい。いま、あの塔ではなにが起きている?」
 オースターは膝掛けの上に乗せた右手首に触れた。
 そこにはまだトマが編んでくれた飾り紐が巻かれている。
「トマは、まだ塔の中にいるんだよね?」
「おそらく。博士は塔の内部にトマを閉じこめたと話していた。準備が整い次第、戻る予定だったが、その前にああなって、締めだしを食ったらしい」
「……締めだされた」 
 オースターは改めて肉眼で〈喉笛の塔〉の変貌を見つめた。

「もしかして、トマが塔のなかでなにかしているのかも」

 オースターは思いつくままに口にする。
「気になっているんだけど、あの黒い手、ずいぶん動きが弱々しくない?」
 双眼鏡をルピィに回すと、ルピィはすかさず〈喉笛の塔〉を観察した。
〈喉笛の塔〉に襲いかかっているかのごとき黒い手の群れだが、よくよく見るとその動きは、行動の凶悪さに反して、ひどく弱々しく見えるのだ。
「僕が〈喉笛の塔〉で見たとき、黒い手はやっぱり弱々しげだった。いま見えるあの黒い手も同じだ。塔のなかで見たときから、そんなに変化がない。ということは、力そのものは強まってはいないということだ」
 バクレイユ博士は、塔のなかの〈汚染〉を見て、憤っていた。
 みみっちいほどに微弱な力しかない、と。
「あの〈汚染〉には、すぐさま街を襲うだけの力はないと思う。どうして塔の外にあふれでてしまったのかはわからないけど、少なくとも力が強まった結果、外に出てきたってわけじゃなさそうだ。もしかしたら……バクレイユ博士がされたみたいに、塔から”締めだされた”のかも」
 その表現が適切かどうかもわからなければ、ただの推測でしかないのだが――そう的を外してはいない気がした。
「〈汚染〉が力を強めるためには、トマの歌が……叫びが必要だ。でも、〈汚染〉が力を増した様子がないなら、トマは歌ってもいないし、叫んでもいない」
 オースターは祈るように塔を見つめる。
「トマはこらえているんだ、きっと。黒い手に力を与えまいとして、声を殺している。ううん、それだけじゃなくて、自分に近づけないよう〈汚染〉を締めだした……どうやってるかまではわからないけど、きっと戦っているんだと思う。塔のなかで。ひとりきりで」
 ルピィは苦々しげに手を額に押しあてた。
「その話、どれほど根拠がある? オースター」
「ごめん。ほとんどない」
「心もとないな……」
 だが、取るに足らない意見と唾棄はせず、ルピィは険しい顔で〈喉笛の塔〉をにらみつける。
「もしトマが〈汚染〉に屈したら、〈汚染〉は力を得て、首都になだれこんでくる可能性もあるわけだな」
「……そうだね。そういうことになる」
 オースターは顔を曇らせる。
「〈北の防衛柵〉の〈汚染〉も心配だ。なんだか僕には、あちらの〈汚染〉と塔の〈汚染〉が、よく似た動きをしているように思えるんだ」
 ルピィは空をあおぎ、思考をめぐらせる。
「トマがこの事態を制御していると仮定して、どれぐらいもつと思う?」
「そんなにはもたないと思うよ」
 答えたのは、コルティスだ。
「魔法使いだろうがなんだろうが、トマ君は人間だ。食事をとらず、睡眠もとらず、塔のなかに閉じこめられていたら、いずれ肉体が疲弊してしまう。水もとらずに人間が活動できるのは、せいぜい数日……」
 コルティスは懸念を顔に浮かべる。
「トマ君が力尽きたあと、制御を失った〈汚染〉がどうなるか、まったく想像がつかない。そうなる前に、なんとかしなくちゃ」
「それでは遅い。夕刻の戴冠式の前に”なんとかしたい”、最低でも”なんとかできる”という確証をもっておきたい。それでなければ、民に安心を与えることはできまい」
「そうは言うけどさあ……」
 ぼやくコルティス。オースターは改めて〈喉笛の塔〉に目をやった。

「ホロロ族のみんなにも話を聞いてみるのはどうかな」

 怪訝そうにするルピィに、オースターは視線を向ける。
「みんななら、今の塔の状況を理解できるかもしれない」
 ホロロ族が知っていることもごくわずかだろう。〈汚染〉の正体については、みなの長、祭祀承継者であるラクトじいじですら気付いていなかったのだ。
 だが、ホロロ族が二百人近い人数がいることを思えば、誰かしらに気づいたことがあるかもしれない。それに、ラクトじいじのほかにも、たしか三人、長老である祭祀承継者がいたはずだ。
「ホロロ族のひとたちは、互いの声を聞きとる力に長けている。塔や〈北の防衛柵〉の〈汚染〉が、ホロロ族の声による産物なら、僕らでは察知できないなにかを感じとっているかも。話を聞いておいたほうがいい」
 ルピィは顎に手をあてがい、うなずく。
「では、それはおまえに任せる。コルティスをつけるから、おまえがホロロ族から話を聞いてこい。私はほかにやることが山積みだ」
 オースターは車椅子のうえで凍りついた。
「それは……僕にできることならなんでもするよ。けど、僕は罪人だ。軟禁もされているのに、そんな権限を与えていいの? それどころじゃないって言うなら、もちろん従うけど――」
 
「ライエニー嬢。あなたが女である事実を知っているのは、私とこの学者馬鹿を除いてほかにはいない。今後も誰にも明かすつもりはない」
 
 想像だにしていなかった言葉に、オースターはつかのま放心した。
「元老院には、あなたが大公の座につけぬほどの大病を患っている、と伝えてある。それゆえに、継承権を放棄したのだと。用意した車椅子は、そのためのものだ。あなたが体調を崩していたことは、学園のだれもが知っている。無理のない理由だろう。体調がよくなっても、当面はそのまま車椅子を使って、病人を装うように」
 秋の冷たい風が吹く。揺れる銀色の前髪の向こうで、ルピィの青い瞳に影が射す。
「大公殿下の死去、〈北の防衛柵〉の危機、北からの移民、地下水道の〈汚染〉、そして〈喉笛の塔〉のあの姿……民も、元老院も、諸侯もみな激しい緊張下にある。これ以上の混乱を与えれば、だれも予想のできない不測の事態が勃発しかねない。
 特に、問題は諸侯だ。馬鹿ほど、そんな場合でないときに、無意味な権力争いをはじめるからな」
 嘲る口調だが、そこには深い憂慮がにじんでいる。
「ドファール家は味方も多いが、それ以上に敵が多い。手段を選ばず、権力を追いもとめてきたツケだろう」
 下水道での脅迫、暗殺。それだけを見ても、ドファール家に反感を持つ諸侯は少なくはないだろう。
「そうした敵の寄りつく先は、いつもアラングリモ家だった。歴代のアラングリモ公爵は、ドファール家に敵対する者たちの不満をくみあげ、声高に物を申してきた。無論、ドファール家も同じようにアラングリモ家に意見をぶつけ、対立を演じてきた。そうすることで、有象無象の諸侯をふたつの派閥にわけ、統率してきたのだ。
 だから、アラングリモ家は存続させる。あなたはアラングリモ家次期当主として、新大公への支持を表明し、穏便な譲位であったことを示すんだ。そして、私の戴冠後はかたわらで我が治世を見守り、諸侯の意見をくみあげ、私に口やかましく意見をしつづけてほしい」
 オースターは拳を膝のうえで握りしめた。
「それは……つまり」
「死罪にはしない。軟禁もこれで終わりだ。今後、どんな法的罰を課すこともない。そのかわり、あなたはこれからも男として生きつづけなければならない」
「男として――」
「そうだ。アラングリモ家の正当な嫡子として、いずれ当主となり、公爵に復位し、大公家となるドファール家に生涯、忠誠を誓いつづけるんだ」
 厳格に告げたルピィの眼差しに、ふと、深い慈しみの光が宿った。
「……あなたにとっては、死罪よりも重い罰になるかもしれない。これからも男として生きるということは、女性ならば誰もに等しく与えられる権利を――結婚し、夫君に守られ、子をなすという当たり前の幸福を、すべて捨て去るということだ。女だとばれる危険がある以上、今後、家族を得ることはない。本音で語りあえる友を得ることも、決してない。嘘を背負い、孤独に生き、孤独に死んでいく……その罰を、受け入れることはできますか。ライエニー」

 これからも嘘を背負って生きていく。
 男としてふるまい、誰とも睦むことなく、孤独に生きていく……。
 嘘をつきつづける苦しみも、友達をあざむく苦しみも、よく知っている。
 嘘から解き放たれた喜びも、軽やかな気持ちで迎えた朝の光の美しさも、もう知っている。

 たしかにそれは、死罪よりもよほど重い罰かもしれなかった。

「孤独じゃないよ。ぼくがいる」
 とつぜん、コルティスが声をあげた。
 驚いて顔をあげると、すかさずラジェが首肯した。
「無論、私もおります、オースターさま」
 オースターはどうしていいかわからず、言葉を詰まらせた。
 ルピィを振りかえると、かつての友は胸が痛くなるほど優しい眼差しでオースターの答えを待っていた。
 うつむき、唇を噛みしめる。
 震える息を吐きだし、オースターはふたたび顔をあげた。

「ご恩情、ありがとうございます、殿下。――アラングリモ家の次期当主オースター・アラングリモは、これからも誠心誠意、あなたに忠義を尽くす。そして古き盟友として、あなたの御代を見守りつづけます」

 ルピィはしばらく押し黙り、やがて小さくうなずいた。
 オースターもまたうなずきかえし、強いて明るく「それじゃあ」と声をあげた。
「僕はさっそくホロロ族から話を聞くことにするよ。すぐ下水道に」
「なりません。そのお体で下水道に行くなどと」
 さっきからの泣きそうな顔のまま、ラジェが言う。オースターは苦笑した。
「わかってるよ。僕が行くって話じゃなくて、下水道に使いをやってほしいんだ」
 オースターはルピィを見上げた。
「ルピィ、さっそくだけど許しを得たいことがある」
「言ってみろ」
 ルピィが顎をしゃくって先をうながす。

「ホロロ族をクラリーズ学園の講堂に呼びたいんだ。君の権限で、彼らに地上にあがる許可を与えてほしい」

 ルピィは「衛生局に話を通し、学園長にも融通をつけておく」と言った。
 コルティスはにいっと意味ありげに笑い、オースターの肩を軽く小突いた。
「いいね、ついにホロロ族が地上にあがってくるってわけか。なら、ぜひともジプシールとオルグたちも講堂に呼ばないと。ね、オースター?」

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