喉笛の塔はダミ声で歌う
第48話 鐙への細工
「お座りなさい」
母が命じる。声にもまた隠しきれない喜びが滲んでいる。
オースターはフードを頭から剥ぎ、コートを脱いで、ラジェに手渡した。短く刈られた金髪や、泥と血にまみれた恰好にようやく気づいて、母の表情に不穏なほころびが生じる。
母がなにかを言いかけた。
それよりも早く、オースターは口を開いた。
「僕は、大公にはなりません」
ラジェと乳母とが、同時に息を飲んだ。
母がソファから立ちあがった。絨毯を踏むひそやかな足音が接近してきて、ピシャッと濡れた音がした。頬を叩かれたのだと気づいた直後、今度はアキに殴られたほうの頬にも衝撃が走った。
オースターは気にせず、ふたたび言葉をつむぐ。
「決意は変わりません。僕は大公にはならない」
「ドファールですね」
端的な問いかけは、怒りと憎しみに満ちていた。
「あの男に殺されかかった。そうでしょう。わかっていますとも。だが、一度殺されかけたぐらいで怖気づくとは情けない。おまえは大公になるべく生まれてきた子なのですよ」
「僕は”大公になるべく生まれてきた子供”ではありませんよ、母上」
オースターは淡々と答える。
「それに、僕がこの決断をしたこととドファール家とは、なんの関係もない。そもそもドファール家に殺されかかったなどと……根拠のない妄想で他家を貶める発言はお控えください。母上」
「妄想、ですって?」
オースター様、とラジェが小声でたしなめてくる。
しかしオースターは首を横に振って見せ、手首に巻いた飾り紐を強く握りしめた。
「ドファール家は無関係です。ただ思っただけです。僕は大公にはふさわしくないと」
母は憤怒に顔を赤くし、うろうろと室内を歩きはじめる。
オースターはそれを見つめながら、先刻フォルボス局長と交わした会話を――あのとき得た「気付き」に思いを馳せた。
フォルボス・マクロイは、この国に必要なひとだ。
あのとき、オースターは体の芯を貫かれたようにそう悟った。
同時に気付いた。
オースター・アラングリモは、この国に必要な人間ではない、と。
――女が残ってもなんの意味もない。
弟が死の床に伏したとき、父は姉である「私」から目をそらして言った。
――女のあなたには、価値などひとつもないのだから。
弟が死に、「私」に「オースター」を名乗るよう命じた母は、そう言った。
立派な男になるべく、オースターは努力をした。副作用と戦いながら薬を打ち、寝る間も惜しんで勉学に励み、男らしさを身に着けるために体づくりにもいそしんだ。
それらの行動は、すべて母に認めてもらいたいがためだった。
フォルボス局長のように、この国をよくしたいという信念もなければ、情熱もない。
アラングリモ家に爵位を取りもどそうとしたのは、母に命じられたから。
大公の座に就けと言われたとき、それに従ったのもまた、母の関心を失いたくないからだ。
そんな自分が大公の座につく? ありえない。
フォルボス局長を失えば、この国は危機に瀕するだろう。だが、オースターがいなくなったところで、いったい誰が困るというのだろう。
自分は無価値だ。
この国に「オースター」はいらない。
――そう悟ったとき、オースターは長年の呪縛から解き放たれた気がした。開かれた胸に優しい風が吹きこんできた気すらした。
自分には価値がない、その事実を認めてしまうのはつらかった。
けれど、気づいたのだ。価値がないのは、決して「女だから」などという理由からではないことに。
ひとの価値を決めるのは性別ではない。
まして、生まれた身分や、生まれた国でもない。
自分がこれまで成し遂げてきたこと。
あるいは、これから成し遂げようとしていること――その結果。
そして、己の価値のあるなしを決めるのは、他人などでは決してなく、ほかでもない自分自身なのだということを。
(僕はこれまでなにも成し遂げてこなかった。母の言いなりになるばかりで、自分を誇れる行動を、なにひとつとってこなかった)
だったら、これからは?
どうやったら、自分を誇りに思ってやれる?
おまえは価値がある人間だ、と豪語してやれる?
「友だちを助けたいんです」
オースターは言う。
「この国の人々を導くよりも、この国に見殺しにされてきた友だちを救いたい」
トマや、ホロロ族のために〈喉笛の塔〉に侵入し、〈喉笛〉を盗みだす画策をした。あのとき、ジプシールやオルグを説得することはできなかった。コルティスですら、オースターの考えに全面的に賛成したわけではなかったろう。
思えばあのとき、すでに答えは決まっていたのだ。ジプシールの言うとおり、オースターは国の平穏を捨て、ひとりの友のために動こうとしていたのだから。
「僕は大局を俯瞰できる人間じゃない。友達を助けたいなんて小さな望みしか持てない、そんな人間です。でも、僕はそれでいいと思っている。そうありたいと思っているんです。――民よりも友を優先する人間が、大公になってはいけない。だから、僕は大公にはなりません」
「おまえは……なにを言っているの? 友だちですって? 友?」
理解を超えた話だったのだろう、母は頭を抱えながら後ずさる。
「ならば、どうすると言うのです。まさかルピィ・ドファールに大公の座を譲りわたそうと言うのですか」
「もともと彼が正当な皇位継承者です。アラングリモ家とは違い、ドファール公爵家には元老院での経験も、後ろ盾もある。ルピィ自身も大公になるべく長い時間をかけて準備をしてきた。大公殿下を突然失ったこの国には、準備万端整った大公こそが必要でしょう。そして、〈汚染〉という危機に瀕したランファルドには、強い力と信念を持った大公が必要だ」
「愚かなことを! あんな不具、大公にふさわしいわけがない!」
不具――その言葉に、オースターは顔を険しくした。
「侮辱はおやめください。ルピィは片足こそ不自由ですが、今でも乗馬は得意で、なんの不自由もなく装甲機を操縦できます」
「ああ……なんてこと! 誰もわたくしの苦労を理解しない。手塩にかけてきた息子さえも! わたくしがおまえのためにどれだけのことをしてきたと思っているのですか。それを……よくも!」
「奥様、そのように気持ちを乱れさせてはお体に障ります」
髪を振り乱して体を揺らす母を、乳母が抱えこむように宥めた。
「うるさい! ラジェ。ラジェはどこ!」
オースターの背後にたたずんでいたラジェが「ここに」とひざまずく。乳母が母の腕を支えながら言った。
「ラジェはおそばにおりますよ。奥様、どうかお座りください。オースター様も……あたたかい紅茶をお淹れしましょう」
「こんな夜更けに紅茶なんて、みっともないことを言わないでちょうだい! 誰になにを言われるか……ラジェはどこなの!」
「奥様、こちらです。ラジェはここにおります」
ラジェが立ちあがって、母のかたわらに立つ。
だが、母の視線はその姿が見えないかのようにラジェを素通りした。壁に向かって、ラジェの名を叫びつづける。
オースターは半狂乱になった母の姿を、途方に暮れて見つめた。
――いったい、いつからなのだろう。
五歳で「弟」になりかわった。十二歳でクラリーズ学園に入寮し、それきり母とはろくに顔を合わせていなかった。いや、ともに生活をしていたときですら、母とはめったに顔を合わせなかった。
長年の無茶な不妊治療と心労のせいで伏せがちだった母は、オースターが面会を求めても拒絶し、すべての伝達をラジェに任せていた。
いったいいつから、母はこんなにも心を壊してしまっていたのだろう。
「やはり鐙に細工をするぐらいでは手ぬるかったのだ!」
動揺のさなかにあったオースターは、危うくその言葉を聞き逃しかけた。
母は親指の爪を噛みながら、ふいにラジェの存在を認知した様子で、壮絶な顔つきで彼をにらみつけた。
「ラジェ、おまえがあのとき躊躇しなければ、大公の座はとっくに息子のものになっていた! 貴重な資産を投げうつ必要もなかった! おまえのせいだ。……ああ、ドファールめ、我が子を暗殺しようなどと卑劣な真似を! 許さない、許さない!」
「――鐙に、細工?」
オースターは愕然と反芻する。ラジェが顔色を変え、乳母が口元を押さえた。
「それは、春の乗馬大会のお話ですか?」
母は答えなかった。ぶつぶつ言いながら、ソファの前を行きつ戻りつする。
「どうして……いつの間に母上は、分不相応にも大公の座まで求めるようになっていたのですか。なぜそこまでして――僕の役目は、アラングリモ家の存続と、公爵位への復位だけだったのではないのですか?」
「存続ですって? アラングリモなど滅びてしまえ!」
母が叫んだ。
「できそこないの石女《うまずめ》? 子どもを生めぬ女は、女として価値がない? よくも……アラングリモの悪魔どもめ! 見ておれ、おまえたちが悪しざまに罵ったわたくしが、アラングリモを大公家にしてやるのだ。大公の母となったわたくしに縋るおまえたちを、わたくしは一族の系譜から蹴り落してやるのだ!」
ああ、そうだったのか――。
春の乗馬大会で、ルピィを落馬させたのは、母だったのだ。
母が、ラジェが、オースターこそが、彼から片足を奪ったのだ。
あのときから、すべてが変わった。
鏡を合わせたように心を交わしあった友は、オースターを軽蔑するようになった。
『ルピィ様に触るな、卑怯者め……!』
落馬したルピィに駆け寄ろうとしたオースターに、ルピィの従者が放った罵声。
卑怯者はどちらだ、とオースターは憤った。
正々堂々戦ったすえに勝ったオースターを卑怯者呼ばわりし、陳腐ないやがらせを仕掛けてくるとは、どちらが本物の卑怯者だとすら思った。
オースターは太股の脇で拳を握りしめた。
「……打ち所が悪ければ、ルピィは死んでいたかもしれません」
「死んでもよかった。ラジェが臆病風に吹かれ、体の一部を壊すだけでも十分だとしつこく言うから。……あの子はいつもそうだった。なにを命じても、逆らってばかり。毒を盛れと命じても、ドファールの従者が隙を見せないのだと言ってのらりくらりと。下僕の分際で! ラジェ、見なさい、わたくしが正しかった。わたくしが正しかった!」
ラジェが口早に不手際を詫びながら、その場にひれ伏す。乳母がすぐさま息子のそばに駆け寄り、ふたりでその場に平伏した。
「死んでもよかった? 毒を盛れ?」
声が震えた。
今、はじめて母に対して猛烈な怒りがこみあげていた。
「それのなにが正しいと言うのですか。卑怯な行いによって大公の座を手に入れて、それのなにが正しいとおっしゃるのですか……!」
母が嫌悪もあらわにオースターを振りかえった。
「なんです、潔癖な物言いだこと。誰のおかげで、皇太子の座につけたと思っているのです」
「祖先の名に恥じぬよう、誇りたかくあれ――父上は毎晩、弟にそう言い聞かせていた。弟は幼いながらに、必死に父の教えを守っていました。その弟になりかわれと……『オースター』になれと命じたのは、母上ではありませんか!」
「声をあげないでちょうだい、みっともない。誰かに聞かれたらどうするの? どうしてそんなことさえわからないの、おまえは」
オースターは顔を歪め、その場にひざまずいて頭を垂れた。
「僕は……私は、自分がつきつづけてきた嘘をすべて明らかにし、みんなを欺いてきた罪を償うつもりでいます」
「なにを愚かな……!」
「母上もともに罪を償っていただきます。アラングリモ家の幕を、私とともに下ろしてください」
「冗談ではない! おまえは大公になるのです。もうこの手に掴みかけているのですよ、オースター!」
オースターは顔をあげた。
「世間を欺き、友を裏切って、私は『オースター』になった。この上、卑怯者にはなりたくありません」
ソファの背もたれを支えによろめき立ちあがる。
「……待って。どこへ行くつもり、オースター」
きびすを返したオースターの背中に、母が声をかけてくる。
先ほどまでの激情とは異なり、幼子のような頼りない口調に胸が締めつけられた。
「母上、もう自由になってください。あなたを無価値だと罵った父上は死んだのです。いつまでも亡者に取り憑かれている必要はない」
母の反応は見なかった。
ひれ伏したままの乳母とラジェの横を通りすぎて、扉を開き、暗い廊下に出た。
廊下に出た途端、重たい疲労感に足がもつれ、オースターは倒れるようにして冷たい石壁によりかかった。
(まだ、だめだ。まだ、やらなくちゃいけないことがあるんだから)
オースターは天井を見あげ、ふたたび壁を支えに歩きだした。
そのとき、背後で貴賓室の扉がふたたび開く音がした。
「オースター様……」
振りかえるオースターのもとに歩み寄ってきたのは、ラジェだった。
あいかわらず陰気な顔だ。だが、不思議なことに、ラジェの表情はどこか憑き物が落ちたかのように穏やかに見えた。
もう長いこと人間性を失ったような冷たい顔をしていたのに。たった今、彼の長年の努力をすべてふいにしたというのに。
ふたりは言葉もなく、向かいあったまま立ちつくした。
ふと、ラジェが腕に抱えたままのコートを両手に広げた。ふわり、と傷ついた猫の子を労わるかのような優しい手つきで、オースターの肩にかけてくれる。
「優しいね。今日はお説教はなし?」
冗談めかして言うと、ラジェは顔を苦しげにゆがめた。
「ごめん、ラジェ。勝手なことをして。でも、考えを変える気はないよ」
「……わかっています」
淡々と答え、ラジェは冷えきったオースターの肩をコート越しに撫でる。
「さぞお疲れでしょう。どうか今夜はもうお休みください」
場違いなほど日常じみた台詞に、オースターは悲しいぐらいにほっとした。
――そうだった。いつしか心が遠ざかってしまっていたけれど、ラジェは誰よりも近くでオースターを支えてくれていた大切な乳兄妹だった。
「本当は、気づいていたんだ。君がいつの頃からか、そうやって陰気な顔をするようになったこと」
オースターはラジェの体温が残るコートの襟を胸元で掻き合わせた。
「昔はもっと陽気だったでしょう? 一緒にアラングリモの森にある湖で船遊びをしたよね。船が揺れて湖に落ちたって、君は楽しそうに笑っていた。犬のアリーシャが死んだときは、僕よりも悲しそうに泣いていた。……僕の気づかないところで、どれだけ君は苦しんだろう」
オースターは、ラジェに向かって深々と頭を下げた。
「ラジェがいなかったら、きっと母上はもっと残酷な形でルピィを傷つけていた。それどころか、とっくの昔に殺してしまっていたかもしれない。本当なら母上を諫めるのは子供である僕の役目だったはずなのに。……僕がもっとはやくに母上と話ができていたなら。その勇気を持てていたなら、ここまでひどいことにはならずに済んだんだ。ごめんなさい、ラジェ」
「……おやめください」
今にも消え入りそうな声で懇願するラジェ。オースターはかぶりを振った。
「今まで僕のきれいな世界を守ってくれていたのは君だった。誰よりもそばにいてくれた君の苦しみに気づかなかった僕を許してほしい」
「苦しみなど、そのようなことは決して」
ラジェは深くうなだれる。
「私はアラングリモ家が好きでした。アラングリモの下僕の家に生まれた己を誇りに思っていました。オースター様が無事に爵位を継がれるまでは、私がこの家を……オースター様と奥様を守るのだ。そのためなら、この手をどれほど汚してもかまわないと、本気でそう思っていたのです。マニー家に生まれた者の義務としてではなく、それが私の幼いころからの夢だったのです。なのに、どうしても奥様のご命令に従うことができなかった。ルピィ・ドファールを殺せと再三命じられながら、私はそれらをすべてうやむやにしてきたのです」
「それは、どうして?」
「オースター様が……」
ラジェは一瞬、言葉を探すようにし、やがて意を決して口を開いた。
「ルピィ・ドファールの押し花です、オースター様。オースター様のお心がどちらに向いているのかを知りながら、そのお相手を葬ることだけは決してできませんでした。
私にとってアラングリモ家の皆様をお守りすることは無上の喜びです。ですが、オースター様は違う。ご自分の意思とは無関係に、男として生きることを強いられていらっしゃる。そのオースター様がたったひとつ大切にしてこられた宝物を……秘めた想いを踏みにじることだけは……どうしても――」
オースターは言葉をなくして、ラジェを見つめる。
「ですが、奥様の苦しみもまた私にはつらかった。そうして、一方で奥様の味方のふりをし、一方でオースター様の理解者のふりをした。このような半端者のまま、おそばに仕えていたこと、どうか……」
お許しください。
その声は、さやさやと降りつづける雨音にすら隠れてしまうほどかすかだった。
「ラジェ。今もアラングリモ家に忠義を尽くしたいと思ってくれているなら、最後にひとつだけ、僕のひどいわがままを聞いてくれる?」
ラジェが縋るように顔をあげる。
「できるなら、ラジェと乳母《サエラ》は罪に問われることがないようにしたかったけど……きっとそうはいかない。だから」
オースターは長年の辛苦のせいで生え際の後退してしまったラジェの額に、こつんと自分の額を押しあてた。
「一緒に、罪を背負ってくれますか。乳兄様《にいさま》」
瞳をのぞきこむと、ラジェは悔いに潤んだ目に強い決意を宿らせた。
「地獄の底までもお供します」
オースターは小さく笑った。
「本当、物言いが大げさなんだから、ラジェは」
「下僕の性分です」
「いいけどさ。……僕は急ぎの用があるから、ラジェは母上のそばにいてさしあげて。どうやら母上はラジェをとても頼りにしているみたいだから」
「はい……。ですが、オースター様はどちらに? まさか――」
オースターは和らげていた表情を引き締めた。
「うん。会いに行ってくるよ。ルピィ・ドファールに。話をしなくちゃいけないし、それに――彼の助けを借りたいんだ」