喉笛の塔はダミ声で歌う

第47話 学園への帰還

 フォルボス局長が怪訝そうにバクレイユ博士を振りかえる。
「九官……いえ、博士。なぜこんなところに」
「なぜ! もちろん私のかわいい小鳥を迎えにきたのだよ」
 博士が手を振って合図をすると、複数の人間が室内になだれこんできた。
 呆然とするオースターの横をすりぬけ、今や完全に開かれた大扉をくぐり、暗がりの中へと飛びこんでいく。
「待て……っ」
 オースターがあげた声は無視された。いっしょに大扉をくぐろうとするが、すぐさまラジェに抱きかかえられて止められる。
 大扉の先は通路になっていた。通路の先の闇を、彼らがつけていたヘッドランプの明かりが上下する。靴音が遠のいていき、やがて奥のほうで水音がした。
「離してくれ、ラジェ」
 オースターはラジェの腕のなかでもがきながら、祈る思いで暗闇を見つめる。
 やがて「208番、確認しました!」と声があがった。
 オースターはトマが見つかったことにほっとした。同時に、トマが奪われてしまう恐怖に身をこわばらせる。
「連れてきなさい」
 博士が叫びかえし、くるりとオースターに向きなおった。
「殿下。皆さんが血相を変えて探してますよ? はやく学園に戻って、安心させてあげなさい。……おやおや、ずいぶんひどい恰好だ。そのざんばら髪はどうしました!?」
 場違いな笑い声をあげる博士に、オースターは唇をわななかせた。

「博士――どうしてここに」

「いやあ、それがねえ……」
 博士は深々とため息をついた。
「私がホロロ族の長に『208番を連れてこい』と命じたのは、殿下も聞いていたでしょう? 楽しみに待っていたのに、いつまで経っても戻ってこない。はてさてと思っているうちに、大公殿下が……あ、前のね。前の大公殿下が死んだって報告が入ってねえ。半年ぐらいはもつかと思ったが、まさかこんなに急とは、さすがの私もびっくり!」
 あいかわらず不遜な物言いだ。笑い含みですらある。
「仕方ないから、〈喉笛の塔〉監視所に戻って、所員たちに当面の指示を出したところで、ようやく長から208番に関する報告が入った。地下の町のどこにもいない、ってね」
 そう言って、バクレイユ博士はフォルボス局長に目をやった。
「どうやら、どこかの誰かがフォルボス君に命じて、208番を独房に入れるよう仕向けたらしい。が、独房にはいなかった。どうも大公死去にともなう混乱のなか、誰かの手筈で独房から脱けだしたらしい。では、行き先はどこか。小鳥の行方を知ってそうなのは、フォルボス君ぐらいだ。――申し訳ないけど、ずっと監視させてもらってたよ。見つかってよかった」
 フォルボス局長は、博士の視線を受けて不愉快そうに眉をひそめた。
 対照的に博士は愉快そうに笑い、唐突にオースターを振りかえった。
「それにしても、いったいどこの愚か者がフォルボス君にこんな困った命令を下したのか。なにかご存知ですかな、殿下?」
 笑っているのに、冷ややかな眼。まるで利用価値をなくした道具でも見るようだ。
 黙っていると、バクレイユ博士はオースターを抱えたまま立ちつくしているラジェに目をやった。
「ぼんやりしてないで、さっさと彼を連れて帰りなさい。今日はずいぶん殿下に振りまわされた……。ある程度までなら楽しいが、度を越してくると面倒になる」
 ラジェはすぐさま行動に移した。オースターを抱えていた腕に力をこめ、この場から引きはなそうとする。
「待って、トマは僕が連れていく、熱があるんだ、このままじゃ死んでしまう!」
「――ご容赦を」
 耳元でラジェが囁いた。
 首根に衝撃を受けた。目の中に火花が散った。視界がゆらぐ。ぼやけた視界のなか、大扉の向こうからぐったりと気を失ったトマを肩に担いだ誰かが姿を現すのが見える。
 まるで合わせ鏡みたいだ。オースターの体もまた、ラジェによって軽々と肩に担ぎあげられ――その認識を最後に、オースターは意識を失った。



 次に意識を取りもどしたとき、オースターは激しく揺れる馬車の座席に寝転がっていた。
 我にかえって、身を起こす。
 いや、起こそうとした。実際には頭を持ちあげることすらできなかった。
 体が重たい。舗装されていない道を走っているのか、車輪が石かなにかに乗りあげるたび、革張りの座席の上で体が跳ね、痛みで息が詰まる。
 それでもオースターはどうにか上半身を起こした。
 窓ににじり寄ってカーテンを開ける。外は暗く、馬車の前照灯によって照らしだされたぬかるんだ地面が見えるだけだ。
(夜なんだ……)
 闇を裂く前照灯の光のなかを、白い縦線が幾筋も走る。まだ雨が降っているのだ。
 オースターは壁を手のひらで叩いた。御者台にいるのはラジェだろうが、返事はなかった。オースターは疲れきった体を背もたれに預けた。
(考えるんだ)
 目を閉じ、かたわらに丸まって落ちていた毛布を苦労して肩にかける。
(トマは連れていかれた。行き先は〈喉笛の塔〉、そうでなければ監視所だろう。そして僕が向かっているのは、多分、クラリーズ学園)
 手の指に力をこめてみる。震えるばかりで、力はほとんど入らない。疲労が激しく、体力の限界を超えてしまったことがわかる。
(あの場で僕にできることはなにもなかった。悔いてもしかたない。今からできることを探すんだ)
 トマを奪いかえす。
 そのために、自分にできることは――。
 オースターは泣きたい気分で目を開き、天井をあおいだ。
 大公よりも強い権力を握る、バクレイユ博士。大公の死は彼にとっては些末事で、オースターが新たな大公に就くこともまた、南風が東風に変わった程度の変化でしかない。仮にオースターが大公の権力を振りかざしたとしても、博士は鼻で笑うだけだろう。
(僕にできることは――もうなにもない)
 博士に軽視され、元老院にはなんのつてもなく、並みいる名家ともドファール家ほどの繋がりは持たず、後ろ盾のひとつも持たないオースターには。
(“僕”には――)
 オースターは右の手首に巻かれた飾り紐を指で撫でた。
(もう僕を守ってくれなくていい。かわりに、あとほんのすこしだけ勇気をちょうだい)
 祈りを捧げ、オースターは窓の外に目をやった。
 暗闇に慣れた目に、雨雲の切れ間が見える。
 細い切れ間からは、悲しいほど清らかに瞬く星の海が覗いていた。


 馬車はクラリーズ学園の寮の裏手にある車止めで停まった。正面玄関にも車止めはあるが、おそらく人目を避けるために裏に回ったのだろう。
 外から扉が開き、ラジェが沈鬱な顔を見せる。
「手荒な真似をしました。お許しください」
 消え入りそうな声で詫びて、雨傘を差しかけてくる。
 オースターは気合いをこめて座席から立ちあがり、足をステップに乗せた。大丈夫、まだ動ける。
 だが、ぬかるんだ地面に足をつけた途端、膝から力が抜けた。
 倒れかけたオースターを、ラジェがすかさず支え、体に学園指定の臙脂色のコートを羽織らせてくれた。
「大きなお怪我はないようでしたが……」
 怪我の有無はすでに確認済みのようだ。暗殺されかかったのだから当然か。
「疲れてるだけだ。無茶苦茶なことをしたから」
 コートのフードを頭からかぶらされる。
 ラジェは固い表情のまま、アキに平手打ちされた頬にそっと触れた。 
「戴冠式さえ終われば……大公になりさえすれば、大公の近衛隊があなたを守ってくれる。そうなれば、ドファール家もきっとあきらめるでしょう。ですが、それまでは私ひとりだ。どうか、無茶はこれきりに」 
「……そうだね」
「まずは湯浴みとお召しかえを。奥様がお見えになっています。頬の腫れは、白粉でごまかしましょう」
 オースターは目を瞠り、しかしすぐにうなずいた。
 なぜと問うまでもなかった。大公が死んだからだ。母は忠義を示して喪に服すよりも、自分の息子が大公の座につくことを――己の勝利を祝うために喜々としてクラリーズ学園に駆けつけることを、選んだのだ。
「貴賓室でお待ちです。今日ばかりは学園側も面会を許可しましたよ。大公の母には学園も逆らえないのでしょう」
「そう……」
「ドファールの当主も来ていました。名目上は、大公逝去を伝える元老院からの使者ということでしたが、実際は、オースター様の暗殺成功を確信し、ルピィ・ドファールが大公になる瞬間を味わうために来たのでしょう。オースター様がお戻りになることは先触れで学園に知らせておきましたから、今ごろは怒り心頭で自分の巣に戻ったことでしょうが」
 ラジェはその後も、大公が亡くなられたあとの騒ぎを饒舌に語りつづけた。
 嬉しそうではなかった。まるで不安を押し隠そうとしているかのようだ。ラジェはオースターの体が男になりきれていないことを知っている。先行きには不安しかないはずだ。
 だがそれを、今までのように主君として「心配しなくても大丈夫だよ」と宥めることはしなかった。
 寮の裏手に並ぶ窓には明かりがともっていた。今が何時かわからないが、多分かなり遅い時刻だ。いつもなら、寮生は寝ていなければいけない時間だろう。だが、今宵の窓辺は明るく、いくつもの灯火が窓から窓へとあわただしく移動していくのが見える。寮内の緊張と動揺が外まで伝わってくるようだった。
 ようやく裏口の扉の前にたどりついた。
 ラジェが開けるより早く、中から扉が押し開かれた。

「オースター!」
「戻ったのかい、オースター! ……わあっ、押すなって!」

 雪崩を起こしたようにあふれ出てきたのは、十人は軽く超える数の同級生たちだった。
「先触れの使者が来てたから、そろそろ来るはずだって思ってたんだよお。みんなは正面玄関に迎えにいったけど、君のことだからきっと裏口から来るって予想してたんだ」
 サンドイッチみたいに積み重なって倒れた同級生の一番上で、オルグが嬉しそうに笑う。
「オルグ……おまえ、よりによって一番上に……はやくどけ!」
 一番下になっていたジプシールがうめき声をあげる。オルグや同級生たちは、互いを助けおこしながら立ちあがった。
 最後に起こされたジプシールが、わざとらしく咳払いをしてからほほえむ。
「無事でよかったよ、オースター。大公殿下が逝去されてすぐ、おまえがどこにもいないことがわかってな。〈喉笛の塔〉監視所に行ったはずなのに、一緒に行ったはずの学者先生様は、『オースターは具合を悪くして途中で帰った』と言うばかり。どれだけ気を揉んだことか……」
 ジプシールの眼差しに、一瞬、疑り深い光が宿る。もしかしたら姿を消した理由が、「〈喉笛〉を盗む」計画と関係しているのではと疑っているのかもしれない。
「さっきまでルピィの父親がいたんだよ。笑いを必死に隠しているって感じでさ」
「オルグ、余計なことを言うな」
「えーっ、ジプシールだってさっきまで、ルピィがまたなにかしたんじゃないかって心配してたじゃないか。……って、オースター。君ってばなんがずっごいぐざい……」
 オルグが鼻をつまんで顔をしかめる。
「オースター様、まずはお着替えを」
 ラジェが促すように腕を引いた。

「オースター!」

 そのとき、同級生たちを押しのけ、コルティスが駆け寄ってきた。
 オースターもラジェの手を振りはらって、コルティスに近づく。
「ルピィは?」
 オースターが小声で問うと、コルティスは首を横に振って、オースターの手になにかを握らせた。
「渡せなかったんだ。会いに行く直前に、大公殿下逝去の知らせが入って」
〈喉笛の塔〉監視所の裏庭で渡したはずの〈フラジア北方戦略戦線研究所〉からの電信だ。オースターは素早くコートのポケットに隠す。
「ありがとう、コルティス」
「ううん、なにもできなくて……」
「いいんだ。コルティスにはどれだけ助けられたかわからない」
 オースターはコルティスの手を両手で握った。
「本当にありがとう。今までずっと」
 コルティスのあたたかな手が、オースターの力の入らない手をそっと握りかえす。
「やだな、改まって。なにもできなかったことが、ますます恥ずかしくなるよ」
 オースターはかぶりを振る。
「……オースター?」
 コルティスは戸惑ったように顔を曇らせた。
「ごめんなさい、コルティス」
 オースターは囁いた。コルティスにだけ聞こえるように。
 ふたたびラジェに背中を押される。オースターはコルティスから手を離した。
 ジプシールが心得た様子で、興奮冷めやらぬ同級生たちを並ばせ、花道をつくらせる。オースターは顔を誇らしげに輝かせるクラリーズ学園の友人たちと、不安げに言葉をなくしているコルティスのあいだを通りぬけ、学内に入った。
 誰かが背後で「オースター大公殿下、万歳」と言った。
 すかさずジプシールが「不謹慎だぞ」とたしなめる声が聞こえた。


 オースターは壁を支えにしながら、暗い廊下を歩きだす。扉を閉めるためにそばを離れていたラジェが、すぐに戻ってきて腕を引く。
「オースター様、まずは湯浴みを。こちらです」
「母上にはあとで会いにいく。先に行くところがあるんだ」
「奥様に会われる以上に急ぎの用事など――」
「ラジェ、ここまででいい。後は私が」
 廊下の暗がりに立っていた母付きの侍女が、低い声で言った。
 ラジェの母親であり、オースターの乳母であり、アラングリモ家の「秘密」を共有する数少ない人間のひとりだ。
 乳母はオースターに近づき、全身をくまなく検分した。フードを持ちあげ、ざんばらになった髪を確認する。それから腫れた頬を、コートの襟から覗く首の血汚れや、ぬかるみを歩いたにしても汚れ方がひどいズボンの裾と靴とに注目した。
「学長には話をつけてあります。教員宿舎の浴室と空き部屋を借りてありますから、すぐに湯をお使いください」
 仔細は問わなかった。髪のことも、怪我のことにも触れない。だが、有無を言わさぬ口調だった。きっとそれが母の意向なのだろう。
 オースターは小さく息を吐いて、貴賓室へと歩きだした。
「オースター様、先に浴室へ。こちらです」
 乳母の固い口調には答えず歩きつづける。
 オースターの様子がおかしいことに気づいたのか、乳母とラジェとが警戒した様子で視線を交わすのが見えた。
「そのお姿のままでは奥様が気分を害されますよ」
 乳母の口調はまるで、「母が気分を害する」と言えばオースターが怯むと確信しているかのようだった。
 だが、オースターは怯むことなく貴賓室の前に立ち、両扉を押しあけた。

 質素ながらに整えられた貴賓室の奥のソファには、母が品よく腰かけていた。
 大公の死を悼んでいることを装うために、漆黒のドレスをまとって。
 病的に白い肌、悲しいほどにこけた頬。それでいてオースターを振りかえった顔には露骨すぎる歓喜が宿っていた。

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